大野山の「柚子胡椒」に胡椒が入っていない

2 トウガラシは何処から来たか



まず、トウガラシの日本伝来について調べました



以下の資料を参照して記述します。

唐辛子 - Wikipedia

高橋, 保「アジアを中心としたトウガラシの生産と伝播の史的考察」『アジア発展研究(国際大学の紀要)』、国際大学、1994年11月1日。

榎戸瞳「江戸時代の唐辛子 : 日本の食文化における外食食材の受容 (PDF) 」 『国際日本学論叢』第7巻、法政大学大学院 国際日本学インスティテュート専攻委員会、2010年3月18日、 6-7頁。


国際日本文化研究センター | 古事類苑画像検索システム「蕃椒」
古事類苑(こじるいえん)は、明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)である。1896年(明治29年)-1914年(大正3年)に刊行された。古代から1867年(慶応3年)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂しており、日本史研究の基礎資料とされている。日本最大にして唯一の「官撰百科事典」。蕃椒に課する文献が記載されています。
 *原文は10 トウガラシ伝来、名称の文献


緑色のものは青唐辛子、熟した赤いものは赤唐辛子



緑から赤へと熟していく唐辛子の果実 緑色のものは青唐辛子、熟した赤いものは赤唐辛子

唐辛子 - Wikipediaから引用




唐辛子の日本伝来は意外と複雑で、まだ確立されていませんが、次の三説があります。



(1) 1542年、ポルトガル人が豊後の国(現在の大分県周辺)に来舶した際、大名の大友宗麟に南瓜の種とともに唐辛子の種子を献上したという説。

①1829年刊の佐藤信淵・滝本誠一編「草木六部耕種法第十七」


『蕃椒(トウガラシ):蕃椒は最初は南亜墨利加(南アメリカ)州の東海浜なる伯亜兒国(ブラシリア)より生じたるものにして、天文十一年(1542年)に波繭杜瓦爾(ポルトガル)人の持ち来る所なり、其事は上の南瓜の條に詳かなり、故に西洋人はこれを「ブラシリペイブル」と名付ける、「ペイブル」は辛き実の意味で、「胡椒」を番人は「ペイブル」と呼ぶ也』

南瓜の種子と共に
「南瓜(ボウフラ)天文年中西洋人初めて豊後国に来航し...国主大友宗鱗に献じ」

草木六部耕種法 20巻. [9] 28/62- 国立国会図書館デジタルコレクション  よりi引用


トウガラシ伝来の年代は、この説が一番古い。南蛮胡椒と呼ばれていたのはこのためである。「蕃椒」という唐辛子の別称は、「南蛮から来た胡椒」という意味であり、ポルトガルとの 深い関係が伺える

。この時点では南蛮から来た辛子ではなく、西洋人が言う「ペイブル」=「胡椒」です。後で何故「辛子」になったかを検討します。


佐藤信淵・滝本誠一編 草木六部耕種法 20巻. [9] 蕃椒(トウガラシ)  1829年(文政12年)


佐藤信淵・滝本誠一編 草木六部耕種法 20巻. [9] </b>蕃椒(トウガラシ)

草木六部耕種法 20巻. [9] 28/62- 国立国会図書館デジタルコレクション   よりi引用


 草木六部耕種法 20巻. [9] 南瓜(ボウフラ、カンボチャ) 

 草木六部耕種法 20巻. [9] 南瓜(ボウフラ、カンボチャ)

草木六部耕種法 20巻. [9] 19/62- 国立国会図書館デジタルコレクションよりi引用



これらに関して、高橋, 保「アジアを中心としたトウガラシの生産と伝播の史的考察」では次の様に記述している。



 高橋, 保「アジアを中心としたトウガラシの生産と伝播の史的考察」
・トウガラシの種献上は1552年

ポル トガル人宣教師パルタザール ・ガゴ (BalthasarGago)がインドのゴアからマラッカを経て1552年に来 日した際、豊後 (大分)の国守大友義鎮 (宗麟)に トウガラシ (南蛮胡概)の種 を献上 したとする。


・ヨーロッパでの唐辛子の名称は「・・・・胡椒」

新大陸からヨーロッパにもたらされた トウガラシは、1542年にレオン-ル ト・フックスによって「カリカット・コショウ」と呼ばれ、1572年にマテオーレは、イタリアでは 「インド・コショウ」と呼んでいた、と紹介 している。1578年にはダルシャンが 「インド・コショウ」あるいは 「ブラジル ・コショウ」と呼んでいた。また、イギリスでは16世紀末に 「ギニア・コショウ」と呼ばれていたらしい。ヨーロッパにおけるこれらの称呼の存在は、トウガラシの名称がその伝来経由地に因んで名付けられていたことを示 しているようである


・ポルトガル関連でのトウガラシの記述。

この後の時期のポル トガル人宣教師ルイス・フロイスは、日本からの1577年 8月10日付けの手紙で、 日本の貴人が珍重する品々を挙げ、その一つ として 「酢漬けの トウガラシ」を挙げてお り、フロイスは、来 日する同僚司祭 にこれらの品々を持参することを勧めている。
 





(2)1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮から持ち帰ったという説。

1698年の貝原益軒「花譜」から1734年の菊岡沾凉 述「本朝世事談綺」まで5資料に、朝鮮からの伝来という記述がある。
 *以下の史料原文は10 トウガラシ伝来、名称の文献参照


①1698年刊の貝原益軒著「花譜」

貝原益軒は、「朝鮮から来たのでこうらい胡椒」」と「西國にて南蛮胡椒と稱す」 とも書いています。


貝原益軒「花譜」  1698年(元禄11年)

「蕃椒(たうがらし):文禄年中秀吉公の朝鮮を討ち給ひし時。彼地より種子を持来て、はしめて日本に植る故に、こうらい胡椒ともいふ。又、西國にて南蛮胡椒と稱す」 
*文禄(1592-1596年)


   「蕃椒(たうがらし)
 

1664年35歳の時、福岡藩に帰藩し、150石の知行を得、藩内で朱子学の講など。


1714年の「菜譜」では「番椒(タウガラシ) (菜譜 3巻36/94 - 国立国会図書館

貝原益軒「花譜」(1698年 元禄11年刊) 6/26-早稲田大学 よりi引用



②1709年刊の貝原益軒著「大和本草

巻五で番椒(タウカラシ)で、何故か附録で番椒(カウライゴセウ)、朝鮮からの伝来を主張したいためか。


貝原益軒「大和本草」  1709年(宝永6年) 

「番椒(タウカラシ):昔は日本にこれなく、秀吉公朝鮮を討ちし時、かの国より種子を取りに来る、故に俗に高麗胡椒といふ」

巻五で番椒(タウカラシ)   附録で蕃椒カウライゴセウ)

 
番椒(タウカラシ) 蕃椒カウライゴセウ)

巻五         附録

大和本草 16巻付録2巻諸品図2巻. 巻5-6 15/82- 国立国会図書館よりi引用


大和本草 16巻付録2巻諸品図2巻. 附録巻1-2 11/47- 国立国会図書館よりi引用



③1723年刊の『対州編年略』(1723年) *対州は対馬のこと



『対州編年略』 1723年(享和8年)

「慶長10(1605)年此朝鮮より蕃椒渡る。」

「慶長十年、此比自朝鮮蕃椒渡」」
    
国際日本文化研究センター | 古事類苑画像検索システム「蕃椒」
閲覧できる原本無し



④1734年刊の菊岡沾凉 述 「本朝世事談綺 」

朝鮮からの伝来、蛮国からの伝来の二説を記載してます。



菊岡沾凉 述「本朝世事談綺」 1734年(享保十九年)刊

「番椒 (たうがらし)」 

「秀吉朝鮮征伐の時、はじめて取来ると云、又慶長十年たばことおなじく蛮国よりわたるともあり、南蛮胡椒と云、中華には番椒と云、番は南蛮の事也」



番椒 (たうがらし)
    



本朝世事談綺、巻之2-5 5/31 -早稲田大学
より引用


1775年刊の越谷吾山 編輯『物類称呼』(題簽書名:諸国方言物類称呼)

番椒(たうがらし)の、各地での呼び方を記述しています


越谷吾山 編輯『物類称呼』(題簽書名:諸国方言物類称呼)1775年刊

『番椒 (たうがらし) 京にて「かうらいごせう」と云ふ。太閤秀吉朝鮮を伐給う 時、種取来 る。故に此名有

西國及び奥の仙臺にて「こせう」という、東国にて眞の胡椒をゑのみ「こせう」という、出羽にて「とこぼし」といふ、但し奥羽のうちにても「なんばん」と称する所もあり、上總及参遠にて「なんばん」といふ、越前にて「まずものこなし」といふ、是は江戸にて番匠の隠語にかけやといふもおなじなり。


番椒 (たうがらし)
    

越谷吾山は武蔵国越谷 (現埼玉県越谷市) の俳人

『物類称呼』(1775年刊)三 7/25-早稲田大学5
よりi引用


朝鮮からの伝来説を5史料示しましたが、、朝鮮ではトウガラシは日本から伝わったとされている。

1614年、イ・スグァンが記し、当時の百科辞書の要素を持っていた『芝峰類説』には「南蛮椒には大毒がある。倭国からはじめて来たので俗に倭芥子(にほんからし)というが、近ごろこれを植えているのを見かける。

朝鮮の食文化に詳しい鄭大聲は「ポルトガル人たちの手で16世紀半ばに日本の九州に伝わり、そこでしばらくあって16世紀末ごろ朝鮮半島に伝わり、そこから日本の本州に再流入したとみるのが妥当」としている。

高橋, 保「アジアを中心としたトウガラシの生産と伝播の史的考察」『アジア発展研究(国際大学の紀要)』よりi引用





(3)慶長年間(1596 ~1614年)南蛮人によってタバコと同時に渡来したという説 。

1697年刊の人見必大著『本朝食鑑』 トウガラシ伝来に関する最初の文献です。

1697年「畨椒」の振り仮名に(トウカラシ)を付けました。江戸幕府の医官。

 人見必大の『本朝食鑑』 1697年(元禄10年)年 トウガラシ伝来に関する最初の文献です。

『本朝食鑑』、菓部、味菓類「畨椒 登宇加良志(トウカラシ)と訓む。」
「我が国で畨椒を使 うようになってから、百年に過ぎない。煙草 と相先後 して、いずれも番人によって伝播され、海西から移栽 して、今は全国にある。」

  
登宇加良志(トウカラシ)  畨椒 

延宝1(1673)年、禄300石を継ぎ幕府の医官。

本朝食鑑. [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション)39/193よりi引用




②1712年刊の寺島良安編纂「和漢三才図会 日本の類書(百科事典)

「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)は、寺島良安により江戸時代中期1727年に編纂された日本の類書(百科事典)。

寺島良安編纂『和漢三才図会』  1712年(正徳2年) 

「畨椒(たうがらし)


畨は南畨の意味。俗に南蛮胡椴 という。今は唐芥子という。 畨椒は南蛮に産する。慶長年中(1569~1615)にこれと煙草と が同時に日本にもたらされた」


*「畨」は「番」の異体字。その他の異体字「 鄱 蹯 蕃 潘 䮳 䆺 」。
 

 「畨椒(たうがらし)

編集者の寺島良安は大坂の医師寺島良安で大坂杏林堂(きょうりんどう)より刊行

「和漢三才図会」-早稲田大学24/44より引用



③1733年の天野信景著「鹽尻」 随筆.


天野信景著「鹽尻 」 随筆 1733年(安永2年)
「番椒(トウガラシ):我国是を食する事百年に過す。
淡婆姑(タバコ)と相前後す倶に蛮人より傳へ種して今世に広く食う」
番椒(トウガラシ)
 
天野信景(1661-1733年は)江戸中期の国学者。名古屋(尾張)藩士

塩尻 : 随筆. 下 328/443 - 国立国会図書館デジタルコレクションよりi引用



④1804年刊の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」

ここでは「南蛮胡椒」と「高麗胡椒」の伝来、別名二つが出てきます。「九州にて胡椒」がでてきます。


曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」 薩摩府学出版1804年(文化元年)  

「唐芥(タウカラシ) 即番椒也、芥菜(カラシ)に依て命ぜし名なり、里言にマズモノコナシなども呼べり、南蛮胡椒・或説に原その種を蕃国より漢國に傳ける故にかくいえり、我東北圀にてはただ南蕃とのみいひ、九州にて胡椒とのみいふ、胡椒は即蕃地よりいづる蔓艸の実して味辛し、故に此者の辛よりその名を借用るなり、高麗胡椒・或日豊太閤朝鮮を征れし時に、此種を携しより、この名ありといえり」

図には、番椒(タウガラシ)


「蕃名 ブラジリーン ペープル又レスシース」

「此種の皇国に入しは文禄の比ほひ、煙草と共に将来ると云」(文禄:安土桃山時代の1592年から1596年)

番椒 唐芥(タウカラシ)
 

薩摩藩主島津重豪(しげひで)(1745―1833)が数多くの書物編纂事業の一環としてつくらせたもの

成形図説巻之二十五 20、24、25/29 -早稲田大学  よりi引用



「トウガラシ」伝来説のまとめ



(1)1542年又は1552年にポルトガル人が豊後の国(現在の大分県周辺)に来舶した際、大名の大友宗麟に南瓜の種とともに新種の調味料、種子を献上した。このこの種は西洋人が言う「ペイブル」=「胡椒」です。南蛮胡椒と呼ばれていたのはこのためである。「蕃椒」という唐辛子の別称は、「南蛮胡椒」の略。
佐藤信淵・滝本誠一編「草木六部耕種法第十七」(1829年)

(2)1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮から持ち帰った、そのため「高麗胡椒」。
貝原益軒「大和本草」(1709年)等。

(3)慶長年間(1596 ~1614年)南蛮人によってタバコと同時に渡来した、そのため「南蛮胡椒」という。現在、江戸では、番椒、唐芥子という。
人見必大著『本朝食鑑』(1697年)、寺島良安編纂『和漢三才図会』(1712年)等。




上記三説を、トウガラシ伝来を文献の年代順に並べると次の様になる。

(1)1697年刊の人見必大著『本朝食鑑』、1712年刊の寺島良安編纂『和漢三才図会』等。
   慶長年間(1596 ~1614年)、南蛮人によってタバコと同時に渡来した、そのため「南蛮胡椒」という。現在、江戸では、番椒、唐芥子という。

(2)1709年刊の貝原益軒著「大和本草」等。
   1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮から持ち帰った、そのため「高麗胡椒」。

(3)1829年刊の佐藤信淵・滝本誠一編「草木六部耕種法第十七」
   1542年又は1552年にポルトガル人が豊後の国(現在の大分県周辺)に来舶した際、大名の大友宗麟に南瓜の種とともに新種の調味料種子を献上した。


以上のトウガラシ伝来の事実はそれぞれ実際に有ったものと思われる。
しかし、朝鮮、南蛮から伝来した記録が伝来からほぼ100年後に刊行、、ポルトガルから1542年に伝来した最初の記録がそれから250年ほど後の1697年に刊行されているのが意外です。一般人への普及が遅かったのか、草本に関する書物がなかったのかは不明。