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5 トウガラシの名称 1630年-1858年(江戸時代)
(1)1630年-1678年のトウガラシの名称
1542年-1612年頃に伝来し高麗胡椒、南蛮胡椒と呼ばれた香辛料は、1630年刊(自筆稿本1612年)の林羅山著「多識編」で「白芥(多宇可羅志)」と記載されています。
1642年刊1613年初版)の曲直瀬玄朔著「日用食性」に「白芥(タウカラシ)」と記載されています。
1645年刊「毛吹草」で「唐菘(タウカラシ)」になっています。
1666年刊「訓蒙図彙 」、1671年刊「庖厨備用倭名本草」では、「番椒(ばんせう)」が正式名称になり「たうがらし」が別名になっています。
この期間は「白芥(多宇可羅志)」、「白芥(タウカラシ)」、「唐菘(タウガラシ)」と「番椒(ばんせう)」が正式名称を競っていた期間と思います。
これらの名称は、中国の書物を底本としていると推定します。しかし、「タウガラシ」と名付けたのに{唐芥」、「唐芥子」の漢字名称が出てこないのが不思議です。
1542年-1612年頃に伝来して1642年に「多宇可羅志(タウガラシ)」として登場する前の史料に、それに関する記載がありません。高麗胡椒、南蛮胡椒を正式名称とする史料がないのが不思議です。
下記にある江戸時代の1645年以前の本草・名物・物産・博物書を大まかに見ましたが、それらしきものはありません。大まかにしか見ていないので断定はできません。
江戸期の本草・名物・物産・博物書 成立・初版年表-医学情報・医療情報 UMIN
■1630年刊の林羅山著「多識編(たしきへん)」
大まかな調査で出てきた「トウガラシ」を記載した最も古い史料。「白芥」に「多宇可羅志(=タウカラシ)」が付いています。
この「多宇可羅志」の表記は、中国・明の李時珍著「本草網目」1590年刊を底本としたためと推察します。
詳細は「7 トウガラシの名称 白芥・・・番椒」。
林羅山自筆稿本が1612年ですので、そこにも「白芥(多宇可羅志)」が記載されているかもしれません。しかし、ネット上に初版は掲載されていないようです。
1630年に活字で印刷された書物が有りました。
林羅山著「多識編」 1630年(寛永7年)古活字本 |
「白芥(多宇可羅志)」
異名は胡芥子

多識編 5巻 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
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多識編:本草。辞書。林羅山編。明の林兆珂が『詩経』中の動植物を分類して注を施した『多識篇』に倣ったもので、『本草綱目』から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。『羅山林先生文集』の「多識編跋」に、「壬子之歳本草綱目を抜き写して附するに国訓を以てす」とあり、慶長17年(1612)の著述(林羅山自筆稿本)。配列は水部門から蔴苧門までの部門別。版本に寛永7年(1630)古活字版3巻本があり、翌寛永8年に諸漢籍から異名を抜き出し追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、5巻に仕立て直した整版がでる。(岡雅彦)多識編 ・解題/抄録- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
出版:二条通玉屋町(京都)
古活字版:文祿年間(1592-96年)から寛永年間(1642‐44年)頃にかけて、木活字または銅活字を使って印刷、刊行された書物
整版:活字版に対して、ふつうの版木の呼び名。木版・瓦版など、一個の印刷面の版。
同サイトの「国書誌目録」慶長17年(1612年)の著述(林羅山自筆稿本)の所在が記載無しです。
林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年(1657年))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。寛永7年(1630年)、将軍・家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した
多識編-巻三-菜部第二62/147 広島大学・新日本古典籍総合データベースより引用 |
■1633年刊の曲直瀬玄朔著「日用食性」
大まかな調査で出てきた「トウガラシ」を記載した二番目に古い史料。「白芥」に「タウカラシ」の振り仮名が付ています。
この「白芥(タウガラシ)」の表記も、林羅山著「多識編と同様に中国・明の李時珍著「本草網目」1590年刊を底本としたためと推察しています。
詳細は「7 トウガラシの名称 白芥・・・番椒」
初版が1613年ですので、そこにも「白芥(タウガラシ)」が記載されているかもしれません。しかし、ネット上に初版は掲載されていないようです。
曲直瀬玄朔著「日用食性」 1633年(寛永10年) |
「白芥(タウカラシ」
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日用食品を撰び、食性と能毒にわけ、簡潔に記した二巻の書に、梅寿撰の諸疾禁好集を加え、最後に日用灸法を付したもの。短期間に異版も加え十四(1612,1631・33・41・42・55・67・68・73・74・77・79・1701・02)出版された。(改定版では形態、内容も異なるようです)
江戸期の本草・名物・物産・博物書 成立・初版年表
1613年の初版に「白芥(タウカラシ」の記載があるかもしれません。現状ネット上で見られる1633年版を掲載しました。
同サイトの「国書総目録」所収 1には1933年(寛永10年)版しか出てません
出版風月宗知 京都
日用食性 20、28、139/140- 新日本古典籍総合データベースより引用 |

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■1645年刊の俳諧作法書、松江 重頼著「毛吹草」巻第四の諸国名産ノ部-山城・畿内
1645年刊の俳諧作法書「毛吹草」巻第四の諸国名産ノ部-山城・畿内に「稲荷・・・・・・唐菘(タウカラシ)」とあります。
ここでは、「番椒」は使われていません。「からし」に漢字が「菘」で香辛料と関係のない字が使われています。
江戸時代では「菘」が「からし」に関連していたかもしれません。
■1666年刊の図説百科事典<、中村惕斎 編「訓蒙図彙 」
「番椒」に「バンセウ」の振り仮名、俗に「たうがらし」「番椒」は「タウガラシ」の振り仮名はついていません。
この「番椒」は中国の名称を使ったと思われます。中国で最初に「番椒」が出てくるのは、1591年刊の高濂著『遵生八箋』です。この書物で「畨椒」は花に関連した所に記載。「訓蒙図彙とほぼ同じ位置づけです。
中村惕斎 編 訓蒙図彙 20巻. [14] 1666年(寛文6年) 日本最初の図説百科事典「訓蒙図彙
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番椒(バンセウ)
今桉俗云 たうがらし
訓蒙図彙 草花二十の「花草」に記載されています。百科事典の花の項目です。
図は花ではなく実がなった番椒です。
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中村惕斎〈1629-1702年)は江戸時代前期の儒学者、本草学者。京都の呉服屋の子として生まれる。7、8歳で句読を授かり、読書を好み物価や世事にうとく、かつ市中の騒がしさを嫌って家業を顧みなかった。訓蒙図彙を刊行時は京都にいたか。
「訓蒙」は唐の李瀚『蒙求』の序から採り、付録を除く本編の見出しは梁の周興嗣『千字文』に倣う1字の重複も無い4字句で区切られるよう構成されたのが特徴的である。本書刊行後、『○○訓蒙図彙』を標榜する同趣の書を生んだ。『訓蒙図彙』自体でも寛文6年(1666)版以後も増補・注釈版が輩出した。
訓蒙図彙 20巻. [14] 30/38 - 国立国会図書館より引用
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■1671年の向井元升著『庖厨備用倭名本草』
1671年(寛文11年)の『庖厨備用倭名本草』の調飪類に「番椒」が出てきます。
蜀椒(ショクセウ)の横に番椒(バン )とあるので、振りかなは「バンセウ」と思います。
また
「元升日番椒ハ西國俗ニ云フナンバンゴセウナルベシ京関東ニテタウガラシト云フ」の文からも「番椒」の読み方は「バンセウ」と思います。
1671年に京だけでなく関東でもタウガラシトと言っていると書いてます。
南京コセウも番椒であるといってます。現在、植物名辞典で「南京胡椒(ナンキンコショウ):トウガラシの別称」となっています。
著者向井元升は京都の開業医。
何故、近畿地方で南蛮胡椒はトウガラシになったか
1671年刊「庖厨備用倭名本草」で、「番椒」(ばんせう)が正式名称になり「たうがらし」が別名になっていますが、「京関東ニテタウガラシト云フ」と記述しています。1671年には近畿地方だけではなく江戸でも「タウガラシ」になっていたようです。
初めに、近畿地方での名称について考えます。
「トウガラシ」は日本伝来時には「南蛮胡椒」と呼ばれていました。これは、『「西洋人はこれを「ブラシリペイブル」と名付ける、「ペイブル」は辛き実の意味で、「胡椒」を番人は「ペイブル」と呼ぶ也』「草木六部耕種法第十七」(1829年刊)
のためです。
この「南蛮胡椒」は、近畿地方に来て、後部の胡椒が消えて「なんばん」と呼ばれるようになったが、後にとうもろこしの 「ナンバ ン」と同音衝突をおこし、とうもろこしに負けて、名称を変更し「タウガラシ」となり、その名称が現在まで続いている。
ここで、何故「タウガラシ」になったかがわからない。
何故、「南蛮胡椒」が「タウガラシ・唐芥子」に変わったか。それまで日本にあった香辛料から見ると、「胡椒」から「芥子」に変えたことになります。
「芥子」に関する史料は次の一文だけです。どうして「芥子」になったかは書いていません。
「唐芥(トウカラシ) 即番椒也、芥菜に依て命ぜし名なり」「成形図説巻之二十五」(1804年刊)
トウガラシが胡椒より芥子の方が似ている所があるので、わざわざ「南蛮胡椒」から「唐芥子」に変えたのか。
しかし、下表に示すように、唐辛子、胡椒、カラシナ(芥子)の分類の科、属はそれぞれ異なります。その他でも、唐辛子と芥子の共通性は、辛い調味料のほか、殆どありません。
個人的感覚ですが、唐辛子と芥子では香辛料としての辛味の感覚が違います。唐辛子の辛みは口内の「痛感」ですが、それに比べ和辛子は鼻にツーンとぬけるような辛みで、唐辛子より優しい辛みです。胡椒の辛味は、ヒリヒリする辛味で和がらしに比べると唐辛子に近い辛みです。
それでは、元の「南蛮胡椒」で良いと思いますが、その簡略名である「なんばん」が、「とうもろこし=なんばん」に同音衝突争いで負けたので、意地でも南蛮胡椒にはしたくなかったようです。(根拠なしの推察)
では、胡椒の意味をもった中国語の「番椒(ばんせう)」で良いかと考えます。しかし、「番椒(ばんせう)」の名称は、「タウガラシ」とした1630年以前には日本ではなかったようです。「番椒(ばんせう)」が出てくるのは666年刊の「訓蒙図彙 」です。
そのため、その当時の日本にある香辛料から「芥子」が選ばれて、外国の芥子で「たうがらし」になったとしか云えません。
「タウカラシ」と名付けたら、漢字は唐(外国)から来た芥子で「唐芥子」になると思いますが、「白芥」「唐菘」が使われています。
「白芥」については7 トウガラシの名称 白芥・・・番椒で検討します。
名称 |
唐辛子
(とうがらし、唐芥子、蕃椒)
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胡椒
(こしょう)
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高濂 著 「雅尚斎遵生八牋」 万暦19[1591]序
(芥子菜、辛子菜)
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分類
な
ど |
唐辛子は、中南米を原産とする、ナス科トウガラシ属の果実あるいは、それから作られる辛味のある香辛料である。
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インド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている。
コショウは、コショウ科コショウ属に属するつる性植物の1種、またはその果実を原料とする香辛料のことである。 |
日本への伝来は弥生時代ともいわれる。
カラシナ(芥子菜、辛子菜)はアブラナ科アブラナ属の越年草。「芥」でカラシナを意味し、「芥子」はカラシナの種子の意味。
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香辛料 |
トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシには様々な品種があり、ピーマン、シシトウガラシ(シシトウ)、パプリカなど辛味がないかほとんどない甘味種 |
果実には強い芳香と辛みがあり、香辛料としてさまざまな料理に広く利用され、「スパイスの王様」ともよばれる。 |
カラシナの種子から作られる香辛料。和がらし。 |
香辛料成分 |
唐辛子の辛味成分はカプサイシン類
味覚の生理
カプサイシン受容体TRPV1は痛み関連受容体に分類されており、唐辛子の辛味は口内の「痛覚」である。 |
精油が香気 、アルカロイドのピペリンやシャビシンが刺激・辛味成分となる。
アルカロイドであるピペリン やシャビシン、ピペリンの構成要素であるピペリジン などが辛み成分、またピネン 、フェランドレン 、リモネン 、カリオフィレン
、ピペロナール などが香り成分となる[。 |
黄色もしくは黄土色で、独特の刺激臭と辛味を持つ。
からしの種子はそのまま噛んでも辛みをあまり感じませんが、すりつぶして水を加えて練る辛みが出てきます。辛味成分は、アリルイソチオシアネートという物質で、和からしに含まれるシニグリンという物質に、水の存在下で酵素ミロシナーゼが働いてできます。 |
辛み *1 |
>
唐辛子の辛みは口内の「痛感」 |
ヒリヒリする辛味 |
鼻にツーンとぬけるような辛み |
画
像 |
<
乾燥させた唐辛子フレークと、
周囲に生の唐辛子。 |

黒胡椒、白胡椒、青胡椒
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引用 |
唐辛子 - Wikipedia より引用 |
コショウ - Wikipediaより引用 |
からし - Wikipedia
及びS&B エスビー食品より引用 |
*1個人的感覚です
何故、江戸で南蛮胡椒はトウガラシになったか
江戸で南蛮胡椒と呼ばれていた香辛料が、「とうもろこし=なんばん」との同音衝突争いもないのに、「トウガラシ」に変った理由がわかりません。
近畿地方で起こった「なんばん」から「トウガラシ」の名称変更が江戸に伝わったとしか云えません。
そのため、また根拠のない推論を行います。
江戸が文化の中心で、本草学の書籍も江戸で出版されていると思ったのですが、今回掲載した資料のほとんどが京都、大阪に住んでいる人の出版です。長い歴史のある本草学、植物学の本場は京都のようです。そこで、京都刊の本草学の書物で「南蛮胡椒」と言われている香辛料は「トウガラシ」であると書かれ、人伝えでも「これは正式にはトウガラシというのだよ」といわれるうちに「トウガラシ」が正式名称となった。
(2)1678年-1693年のトウガラシの名称
この10年間で、この後表記頻度が高い「トウガラシ」の漢字表記が登場します。」
1678年、新井玄圭著「食物本草大成」で初めて「番椒」を「タウカラシ」と読ませています。これは、「トウガラシ」の中国名「番椒」の振り仮名に日本での呼び名である「タウガラシを付けたようです。
1686年、黒川道祐著『雍州府志』に唐芥子が使われています。「タウガラシ」と呼ばれてから、それに最も適した漢字が、40年後に出てきました。
1686年、井原西鶴「世間胸算用」の「唐がらし」、 一般庶民向けの書物では「唐がらし」か。
1693年、酒堂編「俳諧深川集」の松尾芭蕉の句「青くても有るべきものを唐辛子」、現在最も使われる表記である「唐辛子」が出てきました。
1630年に最初に登場した「白芥」は、1678年にも1678年刊の「本草薬名備考」若耶三胤子編、1680年(延宝8年)刊でもでてきます。この奇妙な「白芥」は幕末の1861年まで出てきます。
■1678年刊の新井玄圭著「食物摘要
他の本草の書物に載っていないためか、本編ではなく附録に記載。この史料で初めて「番椒」を「タウカラシ」と読ませています。「番椒(タウカラシ)」は、本草、植物の書物では江戸時代から昭和の戦前まで主流となります。
■1678年刊の「本草薬名備考」
白芥(タウカラシ)、。「番椒」は出てこない。出版は京都。
■1680年刊の若耶三胤子編「合類節用集」
白芥(タウガラシの記載が同じですので発行年台の異なる3冊を記載。近世節用集の代表格であるこの三冊が、トウガラシを白芥(タウガラシ)と記載しています。槙島 昭武編「合類大節用集」幕末の1861年刊行もあります。
『合類節用集』の特徴はその名の示す通り合類形式(意義分類をいろは分類の上位に置く語の配列
「出典として示されている書の中では最も引用例数の多い『多識編』からの引用例」とあるように。1630年刊の林羅山著「多識編」を参考にしています。
<米谷, 隆史_『合類節用集』の増補態度について : 『多識編』からの引用を中心に
■1686年刊の山城国(現京都府南部)に関する地誌、黒川道祐著『雍州府志』
1686年(貞享三年)刊行の『雍州府志』にも「雑薬ノ部」で「唐芥子 所々に之れ有り 稲荷辺所ろ佳なりとす」と記されている。
江戸初期には、トウガラシが京都伏見稲荷近郊の特産品であったことがうかがえる。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮となっています。
「唐芥子は、中華にいはゆる番椒これなり」とあるので、「唐芥子」は「トウガラシ」と読み、「番椒」は「トウガラシ」ではなく「ばんしょう」と読むと思います。
「タウガラシ」と呼ばれてから、それに最も適した漢字が、40年後に出てきました。
黒川道祐著「雍州府志」 1686年(貞享3年) 山城国(現京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌 |
雑薬ノ部 唐芥子

「唐芥子所々有之稲荷渡所種貸唐芥子中華所翻番板是也」
唐芥子所々にこれあり。稲荷辺に種ゆるところ、佳なりとす。唐芥子は、中華にいはゆる番椒これなり
*「唐芥子」に振り仮名がついていません。246/457で「芥子」に「カラシ」の振り仮名があるので「唐芥子」は「トウガラシ」と思います。
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黒川道祐は安芸国出身の医者であるが、京都で儒学者林羅山に学んで歴史家となった。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。山城国を中国の雍州になぞらえ、地理、沿革、風俗行事、神社、寺院、特産物、古蹟、陵墓などの章に分けて、山城国に所在する8郡それぞれを漢文で記述している。
【雍州府志】 (nijl.ac.jp)国文学研究資料館 250/457よりi引用
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■1686年刊の井原西鶴「世間胸算用」
織田作之助の現代語訳では「唐辛子」となっており、「唐辛子」使用の最初の史料と期待しましたが、1692年刊の『世間胸算用』では「唐がらし」です。
しかし、「唐辛子」の表記も初めてです。
■1693年刊の酒堂編「俳諧深川集」の芭蕉の俳句
現在最も多く使われている表記である「唐辛子」が最初に記載された史料です。詳細は5 白芥から唐辛子へ。
意外と早い時期に登場しました。1683年「番椒(タウカラシ)」、1686年「唐芥子」とほぼ同じです。
しかし、何故か、その後200年後の(明治22年)幸田露伴著編「風流仏」の「唐辛子(とうがらし)」まで出てきません。他の俳句や、庶民用の書物を調べれば出てくるかもしれません。
酒堂編「俳諧深川集」の芭蕉の俳句 1693年(元禄6年) |
唐辛子
青くても有るべきものを唐辛子 芭蕉
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松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖[7]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
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俳諧深川集;元禄5年9月中頃の作。9月6日、膳所の門人洒堂が深川の芭蕉庵を訪ねてきた。これを機会に嵐蘭、岱水の4人で四吟歌仙を巻いた。
俳句の解説
草庵の庭に、秋のこの時期ともなると青かった南蛮が赤く色づいて生えている。その実は、青いままでもよいようなものだが、秋になれば自然と赤くなるのである
青くてもあるべきものを唐辛子-山梨県立大学 |

俳諧/深川集 京寺町二条上ル町(京) 井筒屋刊-北海道大学
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(3)1695年-1868年(明治元年)のトウガラシの名称
この後の史料は、上掲した「唐辛子の日本伝来の史料」も名称のみ記載。これらをまとめた表を各史料の後に載せています。
1678年刊の新井玄圭著「食物摘要」で初めて「番椒」を「タウカラシ」と読ませてから、1829年刊の佐藤信淵・滝本誠一編「草木六部耕種法」まで、ほとんどの本草の書物で、「番椒」を「タウカラシ」と読ませています。
1695年刊の図説百科事典、中村惕斎 編「頭書増補訓蒙図彙」で「番椒」に「ばんせう」と「たうがらし」の振り仮名がついています。
この書物の元になる1666年刊「訓蒙図彙 」では、「番椒」(ばんせう)が正式名称になり「たうがらし」が別名になっています。
そのため上記した1712年刊の『和漢三才図会』のような奇妙な記載になります。番椒は胡椒でありながら、芥子に変っています。
「以前南蛮胡椒(なんばんこしょう)であった番椒(たうがらし)は、今は唐芥子(たうがらし)という。」
『和漢三才図会』で「椒」がある他の漢字は皆「しゃう」と振り仮名がついています。
秦椒(さんしゃう蜀椒(しょくしゃう)、秦椒(さんしゃう)、胡椒(こしゃう)、柚山椒(ゆうさんしゃう)蔓椒(いぬさんしゃう)
「番椒」(タウカラシ)を正式名称としていない草本、辞書関連史料。
・1698年刊の岡本一抱著「広益本草大成」で正式名称に唐我羅志(トウガラシ)を記載して、「今唐我羅志(トウガラシ)と呼ばれている植物は中国の番椒(バンシャ
・1709年刊の貝原益軒著「大和本草」の巻五で番椒(タウカラシ)と記載して、何故か附録で番椒(カウライゴセウ)と記載しています。朝鮮からの伝来を主張したいためか。
・1717年刊の槙島 昭武「和漢音釈書言字考節用集」で「白芥(タウカラシ・コウライコショウ)」としています。
・1804年曾槃,白尾国柱著「成形図説」で本文の正式名称で「唐芥(タウカラシ)」、図では「番椒(タウガラシ)」
料理本では醍醐山人著「料理早指南」で平易「とうがらし」、淺埜髙蔵 輯 著「会席料理細工庖丁」で簡略化して「とがらし」。
1835年刊の曲亭 馬琴(著作堂)著 「近世流行商人狂哥絵図」で、芭蕉の俳句に続き「唐からし」単独で表記されています。
■1695年刊の図説百科事典、中村惕斎 編「頭書増補訓蒙図彙」、上記1666年刊の「訓蒙図彙 」に雑類を加えて21類としている。
番椒(ばんせう),番椒(たうからし)が一画面に書かれています。
1666年刊の「訓蒙図彙 」から29年たち、番椒(たうからし)が出てきました。
中村惕斎 編 「頭書増補訓蒙図彙 」 1695年(元禄8年) 「訓蒙図彙増補版 |
・文
番椒(ばんせう) とうからし
〇番椒(たうからし)
・図
番椒(ばんせう) たうからし
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中村惕斎〈1629-1702年)は江戸時代前期の儒学者、本草学者。京都の呉服屋の子として生まれる。7、8歳で句読を授かり、読書を好み物価や世事にうとく、かつ市中の騒がしさを嫌って家業を顧みなかった。
頭書増補訓蒙圖彙 21巻. [8] 19/27- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用 |
■1697年刊の人見必大著『本朝食鑑』 「番椴 登宇加良志(トウカラシ)と訓む。」
■1697年刊の宮崎安貞著著『農業全書 』
中国の「農政全書」を参考に、著者の体験・見聞により農事・農法を体系的に記述したもの。元福岡藩士の宮崎安貞著
宮崎安貞著著『農業全書 』 1697年(元禄10年) |
「蕃椒(とうがらし)」
「其實赤きあり、紫色なるあり、黄なるあり、天に向ふあり、地に向ふあり、大あり、小あり、長き短き、丸き角なるあり、其品さまざまおほし」
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中国の「農政全書」を参考に、著者の体験・見聞により農事・農法を体系的に記述したもの。元福岡藩士の宮崎安貞著
農業全書 212/491| 日本古典籍データセットより引用 |
■1698年刊の岡本一抱著「広益本草大成」
今唐我羅志(トウガラシ)と呼ばれている植物は中国の番椒(バンシャウ)であると、いっています。
広益本草大成 岡本一抱著 1698年(元禄11年) |
「唐我羅志(トウガラシ)」
「番椒(バンシャウ)」
「以上ノ両説ヲ考ルニ番椒ヲ以テ今ノ唐我羅志トスベキ」
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明・李時珍の「本草綱目」所載の1788種の薬物に46種を加え、その要点を平易な日本語で解説したもの。
原題名は「広益本草大成」、和語本草綱目は版元がつけた外題。出版 洛陽(京都) 。
*旧仮名づかいの「しゃう」、「せう」は「しょう」と読みます。元の発音が違うようです。
広益本草大成. ,巻之1-23 / 岡本一抱 撰 巻十七 64/65-早稲田大学より引用 |
■1698年の貝原益軒著「花譜」「蕃椒(たうがらし)」。別名「こうらい胡椒」「南蛮胡椒」
■1707年刊の森川許六編「風俗文選」
森川許六編「風俗文選」 1707年 (宝永4年刊)。 |
「畨椒(トウガラシ)」
「とうがらしの名を、南蛮がらしといへるは、かれが治世、南蛮にて久しかりしゆえにや、未詳、」
古事類苑の風俗文選参照
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「風俗文選」江戸中期の俳文集。一〇巻五冊。森川許六編。宝永四年(一七〇七)刊。芭蕉・素堂・其角ら蕉門俳人二九人の文章一一六編を収録。芭蕉が確立した俳文の格式にかなうものを、「古文真宝後集」の分類にならって二一の文体に分けて集め、目次・作者列伝を付す。
森川許六編「風俗文選」五巻 6、128/233-国文学研究資料館よりi引用
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■1709年刊の貝原益軒著「大和本草」 巻五で「番椒(タウカラシ)」 附録で「蕃椒カウライゴセウ)」
■1712年刊の 寺島良安編纂『和漢三才図会』」日本の類書(百科事典) 「番椒(たうがらし)」。 別名「南蛮胡椴」「唐芥子」
■1723年の「対州編年略」 「番椒」<(振りかな無し)」
■1733年の天野信景著「鹽尻 」 「番椒 (トウガラシ)」
■1734年刊の 菊岡沾凉 述 「本朝世事談綺 」 「番椒 (たうがらし)」
■1763年刊の平賀源内著「物類品隲」
平賀源内著「物類品隲」 1763(宝暦13)年 |
「番椒 和名タウガラシ)」
貝原先生の朝鮮からの伝来説から、「高麗胡椒」とも言うと記載。
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平賀源内は長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元したことで著名ですが、他に本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家と言われるほど多才である。。
物類品隲:平賀源内(諱は国倫)著。1763年(宝暦13)刊。平賀源内が師の田村元雄とともに1757年以来,5度にわたって開いた薬品会(物産会)の出品物,合計2000余種のうちから主要なもの360種を選んで,産地を示し解説を加えたもの。
物類品隲 6巻. [4] 6/37- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
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■1775年刊の越谷吾山 編輯『物類称呼』 「番椒 (たうがらし)」
■1783年刊の醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」
唐辛(タウカラシ)が初めて出てきた史料。
醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」 1783年(天明3)年 |
「唐辛(タウカラシ)」
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豆腐百珍』(とうふひゃくちん)は、天明2年(1782年)5月に出版された料理本。100種の豆腐料理の調理方法を解説している。
この本が好評を博したため、翌年には『豆腐百珍続篇』、明治に入って『豆腐百珍餘録』などの続編が出版された[1]。またこの本がきっかけとなって江戸や大坂では大根・鯛・甘藷・卵など「百珍物」と呼ばれる追随書が次々と出版され流行を巻き起こした。
醒狂道人何必醇(せいきょうどうじん かひつじゅん)の号で著されているが、料理人の著作ではなく文人が趣味で記したものとされている。その正体は大坂で活躍した篆刻家の曽谷学川だと考える説もある。版元は大坂の春星堂藤原善七郎。豆腐百珍 - Wikipedia

豆腐百珍. 続編 64/67- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
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■1800年刊の 畑 道雲著「燭夜文庫」
1693年に松尾芭蕉が「青くても有るべきものを唐辛子」 で「唐辛子」使った後の100年後に再び「唐辛子が出てきました。俳句と狂歌の関連でしょうか。
畑 道雲著「燭夜文庫」 1800年(寛政12年) |
「唐辛子」
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分野: 狂歌狂文集 出版:大伝馬町(江戸) : 須原屋安兵衛
畑金鶏 はた-きんけい:1767-1809 江戸時代中期-後期の医師,狂歌師。
上野(こうずけ)(群馬県)七日市藩医。狂歌を唐衣橘洲にまなぶ。36歳で職を辞して諸国をめぐり,江戸にすんで狂歌などの文芸に専心。文化6年1月21日死去。43歳。名は秀竜。字(あざな)は道雲(どううん)。狂号は奇々羅(ききら)金鶏など。著作に「金鶏医談」「燭夜(くだかけ)文庫」など。 |

燭夜文庫. [正],続編 / 金鶏先生 戯編 43/69-早稲田大学より引用
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■1801年刊の 醍醐山人著「料理早指南」
料理本は平仮名だけの「とうがらし」
■1804年の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」 「唐芥(トウカラシ) 即番椒也」
■1807年刊の 醍淺埜髙蔵 輯 著「会席料理細工庖丁」
料理本は「とがらし」、「う」が抜けて簡略化。
淺埜髙蔵 輯 著「会席料理細工庖丁」 1807年(文化3年) |
「とがらしすみそ」
「夏 猪口物之部」に
「鱧の皮 わりねき 揚げとうふ とがらしすみそ」
「う」が抜けて簡略化。 |

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江戸後期の料理本。四季毎に、献立を鱠之部・猪口之部・焼物之部・煮物之部・汁之部・取肴之部に分けて紹介している。
初版は文化3年(1807)。本書は嘉永3年(1850)の再版本である。
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会席料理細工庖丁32/90 | 日本古典籍データセットより引用
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■1809年刊の岡林清達 稿「物品識名」
■1811年刊の山本 亡羊著「懐中食性」
山本 亡羊著「懐中食性」 1811年(文化8年) |
「番椒 (とうがらし)」
「疝気を治し、蟲を殺す。多食をすれば瘡を発し、痔疾をおこし、目をく らくす」
*民間薬としての役割 |

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山本 亡羊:儒医のかたわら本草学を小野蘭山にまなび,京都本草学の中心として活躍。
山本 亡羊著「懐中食性」12/49-早稲田大学より引用 |
■1820年刊の石川元混著「日養食鑑」
石川元混著「日養食鑑」 1820年(文政3年) |
「とうがらし(番椒)」
「胸膈を開き宿食を下し胃を開き食を進め邪風を逐いひ汗を発す多く食へ ば瘡 を発す」
*民間薬としての役割
*「いろは順」で掲載の為、平仮名を先に表記 |

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日常口にする食品についての効能・中毒などを食品ごとにまとめたものである。平かなまじりの和文で平易に記しているおり、庶民向けに刊行されたものである。
目次、いろは順
石川元混:本草学者・医学者
日養食鑑 15/88- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用> |
■1829年刊の佐藤信淵・滝本誠一編「草木六部耕種法」 「蕃椒(トウガラシ)」
■1831年刊の丹波頼理 輯 ; 山澄延年 校「本草薬名備考和訓鈔」
てん‐ま【天麻】〘名〙 植物「おにのやがら(鬼矢柄)」の漢名。また、その根を乾燥した生薬の名。漢方で強壮薬とする。(天麻とは - コトバンク)
とあり、トウガラシとはかなり異なったものです。それが「タウガラシ」の漢名になっています。
「天麻(テンマ)-本網十二」は本草網目12巻から引用と思うが、そこに「天麻」の記載無し。
本草綱目. 第9冊(第12巻) 4/61- 国立国会図書館デジタルコレクション
「畨椒(ハンセウ)-花鏡」。 秘伝花鏡. 巻之1-6 / 陳淏子 訂輯 ; 平賀先生 校正に「畨椒 トウガラシ コウライコセウ」があります。
秘伝花鏡. 巻之1-6 / 陳淏子 訂輯 ; 平賀先生 校正55/74-早稲田大学
丹波頼理 輯 ; 山澄延年 校訂「本草薬名備考和訓鈔」 1831年(天保2年) |
草之部
タウカラシ
天麻(テンマ))
穀之部
タウガラシ
畨椒(ハンセウ)
*「天麻-本網十二」は本草網目12巻から引用と思うが、「天麻」の記載無し。 |
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1678年刊の「本草薬名備考」
「菜部 白芥(タウカラシ)」から変えています
1807年初版
浅艸新寺町(江戸) : 和泉屋庄治郎, 天保2[1831]
本草薬名備考和訓鈔. 巻之3 9,12/49早稲田大学より引用
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■1835年刊の曲亭 馬琴(著作堂)著 「近世流行商人狂哥絵図」
たうがらしに番椒は出てきません。
曲亭 馬琴(著作堂)著 「近世流行商人狂哥絵図」 1835年(天保6年) |
七色唐からし売
とん/\/\たうからし
ひりゝとからいは さんしよのこ
すわ/\からいは こしようの粉
けしの粉
胡麻のこ
ちんひの粉
とん/\/\たうがからし
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曲亭 馬琴、号著作堂主人など。江戸。
近世流行商人狂哥絵図 8/41- 国立国会図書館デジタルより引用
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■1852年刊の石塚豊芥子1852年(嘉永5年)刊の石塚豊芥子著 「近世商賈尽狂歌合」
ここではとうがらしは番椒です。
石塚豊芥子著 「近世商賈尽狂歌合」 1852年(嘉永5年) |
七色蕃椒
サア〳〵
チトしやべりましやう
大につかひまするか
四ッ谷内藤さまの名物
八つ房のとうからし
次は黒ごま
黒ごまは精しん気こんをまし
お髪の艶をだす
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石塚豊芥子:江戸後期の雑学者。名は重兵衛,通称鎌倉屋十兵衛。
豊芥子はその号で,別にからし屋,豊亭,集古堂などと号した。江戸の人。
近世商賈尽狂歌合8/44 - 国立国会図書館デジタルより引用
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■1852年刊の 「黙斎先生道學標的講義(外題) 」
■1856年刊の飯沼慾斎著「草木図説」
1868年が明治元年です。
飯沼慾斎著「草木図説」 1856年(安政3年) |
「タウガラシ 番椒」
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日本の植物をリンネの分類法により二四綱目に分け、図示・解説したもの。
飯沼慾斎:
28歳のとき江戸に出て、蘭学(らんがく)を学び、大垣に帰り、蘭方医を開業する。1832年(天保3)隠居して、大垣近郊の長松村(岐阜県大垣市長松町)にある別荘平林荘で、博物学の研究に専念した。
草木図説ARC古典籍ポータルデータベース190/316より引用
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■1858年刊の岡, 安定[他]著「品物名彙」
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