歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す








1.丹沢山地大山に登る。



大山は、神奈川県北西部に広がる丹沢山地の東部にある標高1252mの山です。大山は別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされています。江戸時代の中ごろから、大山御師の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行い、各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれて、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなりました。現在でも大山周辺にその面影が残っています。

丹沢山地の中では、富士山からの距離が46kmと最も長いが、富士山は、ニノ塔、三ノ塔、塔ノ岳を前景にして、大きく裾野を拡げた美しい姿を見せてくれます。
富士山展望場所は、(1)二十丁目富士見台(2)二十五丁目ヤビツ峠分道から2分程のところ(3)大山頂上裏側です。


大山戸富士山の地図



2018年1月27日に、その大山に登りました。最も登る山ですので20数回目ぐらいです。伊勢原駅から大山の麓の「大山ケーブル」バス停までは路線バスで行き、ケーブルには乗らず、女坂経由で阿夫利神社下社に登ります。






そこから、阿夫利神社下社の左側にある登山口から大山山頂目指して登ります。このコ-スには、道のりを示す石柱があり登山口は「大山口登山道 一丁目」で、大山山頂の鳥居が「大山口登山道二十八丁目」です。







登山道にある名所の八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」を眺めて登り、十六丁目の「本坂追分」にある蓑毛からの合流点の広場で休憩。


ここに「本坂追分 十六丁目」の石柱があります。「昭和四十七年七月吉日」に立てられた新しい石柱です。

また、ここには「追分の碑」が建っています。「この碑は、一七一六年に初建され総高三米六十八センチメートルもあり、江戸期の大山信仰の深さをしめしている。この石は麓から強力たちが担ぎあげた。」と説明版にあります。
大山の江戸時代には、頂上の雨降神社内に「石尊大権現」を祀る石尊宮があり、そこに参詣することが「大山参り」と呼ばれていました。







            




この十六丁目追分の碑あたりから、樹木の間に富士山が見えます。ここで富士見台、山頂での富士山の見え方が予測します。









2. 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」



二十丁目の富士見台に到着。2013.1.18には、中央の展望地点まで行けました。



大山20丁目の富士見台からの富士山の写真



そのあと展望地点の崩落があり、今回2018.1.27には、「この先危険滑落注意」と張り紙があり、綱が張ってあります。この画面の右側に行き撮影します。







 富士見台の右側から、枝葉を避けて撮影した富士山。三ノ塔、ニノ塔、大野山、高松山などの丹沢山地に囲まれた富士山は、左のすそ野を愛鷹山と箱根山の間に伸ばします。












この富士見台に、次のような説明板があります。

「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

大山観光青年専業者研究会は、昭和63年ころ結成されたので、この説明板は、そのあと設置されたことになります。








大山来迎谷を描いた浮世絵は、歌川広重(1792-1858年) 「不二三十六景 相模大山来迎谷」があります。
「不二三十六景」は嘉永5(1852)年に出版されています。明治元年が1868年ですので、江戸時代末期で黒船が来る1年前です。
『不二三十六景』(1852)は、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれていると言われています。
そのほか、富士山を描いた広重の作品は、「富士三十六景」(1859)。「富士見百図」(1859)があります。

作品を次に示します。

両側から山が迫った峡谷の真ん中の奥に、山並みがあり、その上に富士山がいます。右側は急峻な崖の上に、鳥居があり、参詣者が一人描かれています。

「不二三十六景 相模大山来迎谷」という題名ですので、相模大山の来迎谷というところから眺めた富士山か、来迎谷と富士山を描いていることになります
しかし、富士見台からの景観とはかなり異なっています。富士見台からの景観では、右側に傾斜が付いた尾根が見られますが、左側には傾斜が付いた尾根が見られません。谷という景観ではありません。







歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」


  作品名::『不二三十六景 相模大山 来迎谷』
作者:歌川広重(初代)
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:嘉永5(1852)年   
大きさ:18.5×25.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説: 山頂手前の谷から西方の富士

不二三十六景 相模大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用






インタ-ネットにある「不二三十六景 相模大山来迎谷」の解説を示します。

  ■歌川広重「不二三十六景  相模大山来迎谷(さがみおおやまらいごうだに)」

江戸時代に富士と並んで信仰が盛んであった大山。本図は大山の山頂付近からの富士の眺望である。絶壁のように切り立った峡谷からの富士を真正面に見据えるが、これは極端に誇張したもので、実景では緩やかな山の向こうに富士を遠望する。山頂の石尊社まで参拝が許される6月27日から7月17日の夏の景であろう。山岳信仰の大山から霊峰富士を遥拝するというふたつの信仰を具現する図ということができる。

※大山(神奈川県伊勢原市)
…大山は丹沢山地の東部にそびえ、古代以来、山岳信仰の霊場となり、不動明王を本尊とする雨降山大山寺及び石尊社(大山阿夫利(あふり)神社)の境内であった。古くから雨乞や海上安全、豊漁祈願の信者が集まり、江戸時代には関東一円に大山講が組織された。本図は、蓑毛と坂本からの登山道が交わる山頂付近の来迎谷から富士を望む。鳥居は山頂に鎮座する石尊社と考えられる。明治元年(1868)、大山寺は山号を廃止されて阿夫利神社の境内となり、坂本の来迎院に移転し統合された。


  山梨県立博物館-博物館資料のなかの『富士山』-歌川広重 「不二三十六景相模大山来迎谷」
の解説文を引用

  


■歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」

広重が富士山をメーンテーマに制作した揃物《不二三十六景》の中の一枚です。中判横型の画面各図に、富士山の見える36ヶ所の景色を収めたシリーズです。
両側にそばだつ険しい懸崖は、丹沢山地の南東部に位置する大山の来迎谷です。江戸時代、ここは富士山と並び山岳信仰の対象とされてきました。右上には雨や海を司る神を祭った阿夫利神社の鳥居が見えます。本図は大山山頂付近からの景色を描いたものですが、作者である広重自身が目にしたであろう実景に、心象風景を重ね合わせた作品だといえます。岩壁の急峻さはことさらに強調されており、大山の厳かさを印象付けているようです。その谷間からは晩夏の青い空と、白雲をまとった雄大な富士の霊峰を望むことができ、大山と富士という2つの崇高な霊山の競演が、広重の手によってドラマチックに演出されています。

  中山道広重美術館 :: 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」の解説文を引用




■広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」  弘化4年~嘉永5年(1847~1852)

江戸時代の大山山内図からの推定ですが、大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷と呼ばれていたようです。

西の富士方向に日が沈みかかると、その光はまさに阿弥陀如来のご来迎という感じがします。

絵にあるように両側から谷がせまり、中心に富士が見えるという地点は、残念ながら未確認です。よく晴れ風が強い日には、冨士見台や山頂の西側から富士山がよく見えます。


  「大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の解説文を引用



■歌川 広重

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。

1833年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。


歌川 広重-ウィキペディア」より引用






作品解説から、「来迎谷」の場所を表にまとめました。「来迎谷」の場所はそれぞれ異なり、いずれの場所も、明確な根拠がありません。

そこで、「不二三十六景 相模大山 来迎谷」が描かれた場所である「来迎谷」の探索を行いました。



 表 歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」を描いた場所来迎谷の場所。

 出典 「来迎谷」を描いた場所来迎谷の場所 根拠 
大山観光青年専業者研究会の説明文 十六丁目富士見台が来迎谷 記載なし
山梨県立博物館の作品解説 大山の山頂付近
蓑毛と坂本からの登山道が交わる山頂付近の来迎谷
作品の鳥居が山頂に鎮座する石尊社の鳥居と推察
中山道広重美術館 の解説 大山山頂付近からの景色  記載なし
「大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の説明文 大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道(二十六丁目ヤビツ峠分道)のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷  江戸時代の大山山内図からの推定






3. 大山の「来迎谷」を、地図、絵図、山内図、絵葉書、石柱などから探す。




3.1 大山の「来迎谷」を、地図、絵図、浮世絵から探す。



(1)平成の登山用地図「山と高原地図28 丹沢」昭文社2014年版には、大山周辺に「来迎谷」の記載はありません。

(2)明治、大正、昭和の山内図には「来迎谷」の記載はありません」

(3)江戸時代の大山の絵図、山内図に「らい光たに」、「来迎谷」の記載がありました。


江戸時代の大山の絵図、山内図を次に示します。

■江戸時代 嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖」

大山の山頂近くに「らい光たに」の記載があります。

は、「らい光たに」。    は、「ふじ道」と読みます。


  日本古典籍くずし字データセットより引用

・「に」の漢字は「仁」のほかに「爾 、尓」があります。その場合そのくずし字は

  


・「不」の漢字は「不」のほかに「婦」があります。その場合そのくずし字は

  

  変体仮名を調べる 五十音順一覧2より引用


「ふじ道」の「道」の漢字が現在と異なる。「目」のところが「用」になっている。異体字、旧字で調べてもこの漢字は出てきませんでしたが、「道」だと思います。
江戸時代の人は「ひらがな」を読み取るために相当勉強する必要があったみたいです。現代一般人は「くずし字データセット」がないと読み取れません。


広重の作品名は「来迎谷」ですが、『相刕大山繪圖』の記載は「らい光たに」、漢字で書くと「来光谷」か。
「来光」は「来迎」と同じ意味でつかわれていたようなので、「らい光たに=来光谷」と「来迎谷」は同じと考えます。

  「来光」の世界大百科事典 第2版の解説
今では山頂の日の出の意味に使われているが,もともとは御来迎(ごらいごう)と書いて,山頂近くの雲に自分の影がうつされると,色の付いた光の輪を背負った仏の像に見えることをいったものという。

  「来光」の世界大百科事典 第2版の解説より引用

今では山頂の日の出の意味に使われているが,もともとは御来迎(ごらいごう)と書いて,山頂近くの雲に自分の影がうつされると,色の付いた光の輪を背負った仏の像に見えることをいったものという。

  
山頂には「石尊宮」、「大天狗」、「小天狗」の建屋があり、その頂上に行く道は、「不動明王(現在の阿夫利神社下社)」にある「石尊入口」からの「ふじ道」です。その「ふじ道」の途中に鳥居があり、その上に「らい光たに」があります。

この図からの結論は、「らい光たに(来迎谷)」は、現在の阿夫利神社下社からの登山道の山頂に近いところににあります。


文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡に「是ヨリ本社迄山路二十八町、其間鳥居四基建」とあり、その鳥居四基は蓑毛からの参詣道との合流点の上にあります。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。
そのため、「らい光たに(来迎谷)」は、「十六丁目本坂追分」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。


また、明治11年8月 『相模國大山圖』では、阿夫利神社拝殿(この図では不動明王)の、入口からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。江戸時代のふじ道も、「十六丁目「本坂追分」から始まるとしたら、「らい光たに(来迎谷)」は、十六丁目「本坂追分と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。







「相刕大山繪圖」


作品名:相刕大山繪圖
作者:佐藤坊開板(墨刷)
種別:古地図
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:嘉永5年頃(1852)年
大きさ:58×36cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説:江戸時代の壮大な塔頭の全容様子を伝える

神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >『相刕大山繪圖』より引用





  


この山内図には、「来迎谷」の記載はありません。


文政7年(1824)~天保12年(1841年)新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 226p-国立国会図書館デジタルコレクション
から引用





■安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」



各時代の山内図で、「来迎谷」の記載がある図はこの一枚だけです。安政5年9月には「安政の大獄」があり、動乱の幕末が始まる時期です。歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は1952年刊行ですので、そのあとに出た山内図です。

大山山頂への参詣道は「本堂 不動宮」からの道と、蓑毛からの道が描かれており、出発点に「六月二十八日ヨリ七月十七日迄」と書いてあります。その二つの道が山頂雨降神社の下で合流しており、「来迎谷」の記載が、その合流点の左上にあります。二つの参拝道の合流点は十六丁目「本坂追分」と思いますが、そこから頂上への道が描かれていません。
この図で、「来迎谷」がどこを指すのか不明です。他の記載文字は建屋や道や滝で、絵で描かれているのでわかりますが、「来迎谷」は谷が描かれていないため、記載文字の中央か、下か、右か、左かがわかりません。文字の中央、文字のあるところが一番可能性が高いと推察します。

そこでこの図から、「来迎谷」は、十六丁目「本坂追分」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。
嘉永5年頃(1852)年 『相刕大山繪圖』と同じ推察です。
江戸時代の山内図二枚では、「来迎谷」の場所は十六丁目「本坂追分」から二十八丁目の間ですので、解説にあった二十丁目富士見台、二十五丁目ヤビツ峠分道の上、山頂付近はすべて含まれます。

両図において、大山寺不動堂の上にある名所の記載は「来迎谷」だけです。「来迎谷」は、大山寺、雨降神社(石尊宮)と良弁滝などと共に、江戸時代に流行した大山詣りで、人気の名所だったと思います。

山頂建屋は「雨降神社」で、山頂にある岩石を石尊大権現として祀ってあるため、石尊宮とも言われていたようです。

大山の「不動宮」が正面にあり、富士山が大山の右側に描かれていますが、正しい位置は大山の右側になります。 『相刕大山繪圖』は大山を東南から見ているので、大山の西南西にある富士山は、大山の右側になります。











『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』


作品名:『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』
作者:五雲亭 歌川貞秀
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:安政5(1858)年
大きさ:36×74cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説:大山全景・参詣道と富士・江の島の俯瞰図

神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 > 相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)」より引用





大山の入口から山頂石尊社までの大山寺境内地のみならず、富士山・高尾山・江ノ島・伊豆半島まで描いています。大山を中心に据え、大山から見えるところまでを画面に入れています。

さて、大山の入口、現在いうところの三の鳥居の前には懸樋(かけひ)で水を引いた唐金の水盤があり、滝のように水が流れ落ちていたようです。  良弁滝・大滝・新滝(愛宕滝)を過ぎ、男坂・女坂(さいの河原道とあります)の合流部には仁王門があり、本堂・不動堂が描かれています。まさに川柳にある「大山のヘソのあたりに不動堂」です。 「石そん宮のまへに大ひなる箱あり 真中ニ太刀納ル又とりかへる」とあり、不動堂の裏手に納め太刀を納め、交換するための箱があったようです。不動堂に向かって左手には旧暦6月28日に開扉される木戸があります。

さらに左手の山の稜線には蓑毛方面からの登拝に関係した木戸があり、山頂・石尊社(この絵では雨降神社)に至る道が2筋であったことがわかります。 神仏分離で記録類が散逸してしまった大山では、このような資料から復元を進める必要があります。
気になる点を一つ。安政元年の年末から翌年正月にかけて大山は大火に見舞われ、町並はもとより、不動堂まで焼失しました。この絵はそれ以前の姿を描いたものと思います。

大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の説明文を引用





■明治11年8月 『相模國大山圖』

明治11年の山内図には、江戸時代にあった「来迎谷」がありません。

山頂の建屋も(小天狗、石尊宮、大天狗)から(前社、阿夫利神社、奥社)に変わり、中腹の建屋は不動明王から阿夫利神社〇殿に変わった。
これは、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されたためです。その後、不動明王像は現在地に移動して、大正4年に大山寺は復活した。

現在では、下社からの登山道には名所として八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」、二十丁目の「富士見台」がありますが、江戸時代には、大山寺から上の名所として唯一記載があったのは「来迎谷」です。しかし、「来迎」とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。明治維新の廃仏毀釈により、阿弥陀仏由来の名所も消されたと考えます。その後現在まで、大山案内地図で「来迎谷」の記載はありません

阿夫利神社拝殿横からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。その上に鳥居があります。

山頂下には、御中道が描かれており、その下側に「刈廻し」とあります。
なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、または「お中道廻し」と呼んでいた

この図で「来迎谷」の記載があれば、おおよその場所が特定できるのですが、その記載がないのが残念です。








『相模國大山圖』


作品名:『相模國大山圖』
作者:吉川帆澄  吉川善藏(墨刷)(大山町)
種別:古地図
時代:明治
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:明治11(1878)年8月
大きさ:64.5×48.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 安政大火と神仏分離後の明治の大山


「神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >  『相模國大山圖』)」より引用


「相州大山のまちづくり」12ページから引用







3.2 大山の「来迎谷」を、絵葉書から探す。


■明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「来光谷」の記載があります。


  『縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり未婚の男女其戀ふ者の名を記したる紙を小指と栂指にて其樹に結付け其首尾よく結ばるを以て願叶へりとす』





 
神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 種類から大山の資料を探す > 絵葉書より引用



この絵葉書は、頂上に至る二十丁目に「来光谷」があるといっています。

そこで、明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月ころの二十丁目と現在の現在の「富士見台 二十丁目」の石柱がある二十丁目は同じ地点か否かが問題となります。

寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五の石尊大権現社の項に次の記載があります。

  「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」
東海道名所図会、下冊、巻五 76/139pより引用


また、先に見た 文政7年(1824)~天保12年(1841年)新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 226pにも「是ヨリ本社迄山路二十八町、其間鳥居四基建」とあります。

そこで、「来迎谷」が描かれた1852年ころは、不動宮(現在の阿夫利神社下社)から山頂までは現在と同じように二十八町で区切られていたようです。

 
昭和二年発行の小林順三「霊岳大山登拝のしおり」 の名所史跡の項で次の記載があり、昭和二年にも、下社から山頂までは二十八町です。

  「欺くて下社下社に達し愈々本坂にかかる。其登口に神門あり、平素閉門し春夏大祭の二期開いて頂上登拝を許す。之れよりさらに廿八町にして本社に達す。(中略)奥社より、左折右往して山嶺を一周せる道あり、之を御刈廻又は御中道と云ひ、奇景悉く寸眸の裡に集る。此道の東南面に親不知の険あり。」
名勝史蹟 大山道と街並み - 知る | 丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブより引用

これらから、明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月の頃も下社から山頂までは二十八町であったと思います。

次に登山道の石柱で検討します。下記のサイトの石柱の記述を見ると(1)天保十年(1839年)の「三町目」が、現在の石柱「四丁目」の前にある。(2)明治7年の「町目」の石柱は、現在の「丁目」の石柱とほぼ同じところにある。
 *町と丁は、江戸時代には長さを表した単位で、同じ意味。1町は約109m。一里は36町。
これから、天保十年(1839年)および明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月頃の「二十丁目」は、現在の「富士見台 二十丁目」と同じところにあったと考えます。
  「天保十年(1839年)六月 神田三河町四丁目陸天長蔵 取締御師相原但馬」に立てられた石柱「三町目」が現在の石柱「四丁目」の前にある。
明治7年(1874年)3月建立の「十一町目」の石柱が、現在の「十一丁目」の石柱のそばにある。
旧「十三町目」の石柱が、現在の「十二丁目」と「十三町目」の石柱の間にある。
現在の十六丁目「本坂追分」のそばに、「三十六丁目」の石柱があったが、これは蓑毛からのものだろうか。
2016大山(3) - 山と鉄より引用

以上から、上記の絵葉書の記載が正しいとすれば、現在の「富士見台 二十丁目」は天保十年(1839年)および明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月の「二十丁目來光谷」であり、歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」の可能性が高いです。

しかし、この絵葉書以外の明治時代以降の山内図、紀行文などの史料に、「来光谷」の記載がないため、「富士見台 二十丁目」が、歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」と確定できません。

また、このころの絵葉書の地名の記述は正確さにかけるため、上記絵葉書の信頼性は疑問が残ります。
例えば、「大山からの富士山」3枚ありますが、3枚とも大山からの富士山ではありません。「大山山頂からの富士山」が4枚ありますが、山頂付近からの富士山は一枚だけで、富士見台からが2枚、ヤビツ峠分道付近が一枚です。富士山展望に関する絵葉書がこのような状態ですので、「二十丁目來光谷」の記載も全面的には信用できません。(明治大正時代に発行された「大山からの富士山」の絵葉書)

二十丁目來光谷の傍にある縁結びの樹の絵葉書と山内図はここを参照

頂上に至る二十丁目來光谷の傍にある縁結びの樹は明治時代には観光名所であったのか、他の絵葉書もあります。












2



『相刕大山名所 縁結 相刕大山名所 天下一阿夫利神社御拜殿』


7 相州大山名所 縁結の樹
縁結の樹は江戸時代からあるもので、国芳の浮世絵にも描かれ、昭和2年小田急線開通時に刊行された「阿夫利神社参詣便覧」にも掲載されていますが、現在では「縁結の樹」の詳しい位置は不明です。
相模大山の絵はがき 大山山内 | 伊勢原市より引用







国芳の浮世絵は、次の「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖
とおもいます。

前不動の階段上が二十六丁で中道下が五十丁とした参詣道にある茶屋と参詣客を描いています。その間にある大山寺不動宮、山頂にある石尊社などの記載がありません。変わった山内図です。

「えんむすび」の文字が三十九丁目と四十丁目の間の岩場の上にあります。岩場を登って縁が結ばれるとかで、木の枝に上を結ぶという雰囲気はありません。初めの由来は異なっても、明治ののころには「縁結びの樹」になったと思われます。しかし、大正、、昭和、平成と時が進んで、「縁結の樹」は大山観光名所からなくなりました。そのため、現在の二十丁目にあったかは不明です。
前出の、現在の「十六丁目」にあった「三十六丁目」の古い石柱が、この絵の「三十六丁目」だとしたら、この三十九丁目は現在の二十丁目あたりにはなります。




    


・「え」の漢字は「衣」のほかに「要」があります。そのくずし字は

 


「ん」は「む」。「む」の漢字は「武」のほかに「尤」があります。そのくずし字は

 


「す」の漢字は「寸」のほかに「春」があります。そのくずし字は

 


「ひ」の漢字は「比」。そのくずし字は














歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖




作品名:相模州大住郡雨降大山全圖
作者:歌川国芳
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年
大きさ36.5×75cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 大山全景・参詣道と多くの講中・遠景に江の島


神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム>相州大山トップ>全景>『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』より引用






「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖」で「えんむすび」のほか次の点に注目しました。

江戸時代の弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年には図のように50丁目の参詣道があったのか。
「天保十年(1839年)六月 神田三河町四丁目陸天長蔵 取締御師相原但馬」に立てられた石柱「三町目」が、現在の石柱「四丁目」の前にあるが、この 「相模州大住郡雨降大山全圖」で、三丁目は「前不動」のかなり下になる。どちらの「丁目」が使われていたか。

寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五によれば、雨降山大山寺の項に、「......石尊大権現社、本堂奥不動(大山寺)より険路二十八町にあり、......祭神大山祇神、神体は巌石にして......」との記述がある。同様に新編相模国風土記稿に、「石尊社 當山の本宮にして山頂にあり、【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、祭神鳥石楠船尊、神躰秘して開扉せず」とある。
江戸時代 歴史と文化 - 知る | 丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブより引用




各丁目ごとに茶屋らしき建物があり、参詣者列が途切れなく続いている。「大山詣り」として、江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われるほど人気がありました。江戸時代に、山頂の「石尊社」に登れるのは、(旧暦 6月27日~7月17日:現在の7月27日~8月17日)でしたので、その時期に15万人が参詣したら、一日5000人ほどの参詣者がいたことになります。
2007年の下社から大山山頂に登る推定登山者数は年間6万人ですので江戸時代の大山参りの多さは驚きです。




3.2 大山の「来迎谷」を、石柱から探す。


現在、阿夫利神社下社からの山頂までの登山道は、一丁目から二十八は丁目に区切られて、各丁目に石柱が置いてあります。

二十六丁目に「大山口登山道 来迎谷 二十六丁目」の石柱があります。昭和四十一年(1966年)七月吉日に設置されたようです。

明治になって山内図から消えた「来迎谷」がほぼ百年ぶりに石柱で復活しました。国定公園ですので神奈川県が管理しており、そこが作成した石柱です。この二十六丁目を「来迎谷」とする確かな史料か根拠があったと思います。しかし、その史料は今のところ不明です。江戸時代の前掲した山内図から類推して、ここを「来迎谷」にしようといい、石柱を立てたかもしれません。そのため、「来迎谷 二十六丁目」が歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」と確定できません。

見どころがない場所は単に「登山道三丁目」と記載されます。最後の山頂も「「登山道二十八丁目」です。
名所の記載があるのは「夫婦杉 八丁目」、「ぼたん岩 十四丁目」、「天狗の鼻突き岩 十五丁目」、「本坂追分 十六丁目」、 「富士見台 二十丁目」、「ヤビツ峠分道 二十五丁目」、 「来迎谷 二十六丁目」、「 御中道 二十七丁目」 。

二十丁目は、「来迎谷」ではなく「富士見台」となっています。



             
   本坂追分
十六丁目
 富士見台
二十丁目
 来迎谷
二十六丁目
 
御中道
二十七丁目
 

      


二十五丁目ヤビツ峠分道から二十七丁目御中道までは約200m、標高差約63mです。その中央あたりに二十六丁目来迎谷があります。




山岳展望用ソフト「カシミール3D」のカシバードで風景画像作成










4. 大山の「来迎谷」を、その名前から探す。




4.1 大山で「来迎」するところを探す。



来迎とは、、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ること。その様子を描いた図様は来迎図という。( ウィキペディア)
その来迎図に、阿弥陀如来が山を越えて来迎する様を強調した「山越来迎図がある。






京都市 永観堂禅林寺の「山越阿弥陀図」
 
山の向こう(極楽浄土)から姿を現したところを表現したもの。

一幅 絹本着色 縦138.0 横118.0 平安時代末期~鎌倉時代 12~13世紀
国宝 山越阿弥陀図 / 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センターより引用





大山の「来迎谷」の名前は、阿弥陀如来が丹沢の山を越えて、富士山に重なり合うようにして現れるため「来迎谷」としたと考えます。

昼間の富士山です。





阿弥陀仏は日暮れとともにその姿を現します。丹沢山地の二ノ塔、三ノ塔の上の富士山と重なるようにして現れます。










富士山を阿弥陀仏としてみていたから、「来迎谷」は富士山が見えるところと考えます。




4.2 大山で「谷」を探す。


次に、大山で「谷」を探します。
谷というと、山や丘、尾根、山脈に挟まれた、周囲より標高の低い箇所が細長く溝状に伸びた地形ですので、 広重の「不二三十六景 相模大山来迎谷」のように両側から崖がせまるところを連想します。このような谷が見えるところは、大山の登山道にありません。

大山の明治大正時代の絵葉書に「谿」が出てきます。
この絵葉書は、明治~大正時代の御中道を歩く参詣者の写真です。その説明文に「其處は千仭の谿に沿ひ壯絶の大景以て心膽を練り晧然の氣養をふべ」とあります。ご中道は「千仭の谿」に沿う道です。




「谿」は「谷」の中でも河川の浸食によりできた河谷を指すようです,

谷で一番多いのは河川侵食谷であり、谷は狭義には河川の浸食によりできた河谷(かこく)のことをいう。谷を流れる川のことを渓流といい、そのような谷は渓や谿とも表記され、渓谷(けいこく)ともいう。
(ウィキペディアより)
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絵葉書に現れた「千仭の谿」は、次の図に示すように ニノ塔-三ノ塔-塔ノ岳-丹沢山の丹沢山地と大山が造る大きな谿です。その中央に藤熊川が流れています。
大山の御中道から富士山を眺める場合、この大きな谿(谷)を挟んで眺めることになります。谷の一部にいて谷を挟んで富士山を眺める。「来迎谷」の名前にふさわしいところです。


   

大山の頂上裏側にある御中道からの富士山 
   



丹沢山地と大山が造る大きな谿







大山の御中道から谷を挟んで富士山を眺めることになります。





 


大山の御中道からの富士山











現在の大山頂上の裏側の展望地からの富士山。この右側が電波塔。表示はありませんが、この道は明治、江戸時代の御中道と思います。





現在、登山道の鳥居がある27丁目御中道の横でも、カシバード画像では、谷を挟んで富士山が見られます。。


 








 「御中道 27丁目」の石柱と鳥居から少し横のところから現在は、樹木が多く谷は見れません

   



現在の大山頂上の裏側の展望地が「来迎谷」の名前にふさわしい場所であることがわかりましたが、江戸時代にはすでに御中道の名前がついています。そこで、ご中道を除き、江戸時代の参詣道で「来迎谷」にふさわしい道を探します。

直接丹沢山地に面した二十五丁目ヤビツ峠分道から二十七丁目御中道の登山道においては、現在富士山を見れるころはありません。ヤビツ峠分道横の展望地から富士山が見られます。まずそこからの富士山を見てから、二十五丁目ヤビツ峠分道から二十七丁目御中道の登山道を検討します。





大山の「25丁目ヤビツ峠分道」横の展望地からは、谷を挟んで富士山が見られます。「来迎谷」といってもよい場所です。しかし、江戸時代にはヤビツ峠からの道はなかったので、「来迎谷」の候補から除外されます。


大山「25丁目ヤビツ峠分道」横の展望地からの富士山 
    

  




大山27丁目「御中道」から25丁目「ヤビツ峠分道」までの登山道からの富士山展望を下に示します。

この間の登山道は尾根の中央にあるが、掘割状にえぐられた凹部の下にあります。その両側は樹木でおおわれているため視界はほとんどありません。しかし、江戸時代には、尾根の中央の高いところに参詣道があり樹木も少ないところがあったとして、カシミールで富士山方向の景観を作成しました。

 26丁目「迎合谷」石柱があるところの付近では、丹沢山地と大山が造る谷が見え、丹沢山地の上に富士山が見られ、「来迎谷」にふさわしい場所です。
大山27丁目「御中道」から25丁目「ヤビツ峠分道」までの登山道ではこのようにみえて、「来迎谷」の条件を満足すると思います。



大山27丁目「御中道」から25丁目「ヤビツ峠分道」までの登山道と富士山展望(登山道の写真画像はgoogle mapで作成)
 27丁目「御中道」鳥居の上から下の階段と右の道(昔のご中道)




富士山は右側

鳥居下の登山道は尾根の中央にあるが掘割状にえぐられた形になっています。
 
27丁目「御中道」

の鳥居を下から眺める






富士山は左側。
掘割状にえぐられた凹部の下になり樹木が多く両側の視界はない

凹部の左側の高いところから、樹木がなければ、は富士山が見えそうです


26丁目「来迎谷」

から

27丁目「御中道」への道




富士山は左側。
掘割状にえぐられた凹部の下になり樹木が多く両側の視界はない

凹部の左側の高いところから、樹木がなければ、は富士山が見えそうです
 
26丁目「来迎谷」石柱

があるところの道





富士山は左側。
尾根の一番高いところはもう少し左側で樹木が多く視界はない。


凹部の左側の高いところから、樹木がなければ、は富士山が見えそうです
 
 26丁目「迎合谷」付近



 


カシバードで作成。対地高度2m




カシバードで作成。対地高度25m。
カシバードでは近距離(画面下部)の画像作成が難しい。ヤビツ峠分道横の展望地では、対地高度25mの画像のほうが実際の景観と一致。


谷があり富士山が見える「来迎谷」にふさわしい場所です。
25丁目ヤビツ峠分道から27丁目御中道の尾根道はほとんどこのように見えそうです。

25丁目「ヤビツ峠分道」

から

26丁目「迎合谷」への道2






富士山は左側。
樹木がなければ見えそうです。
 


   
 25丁目「ヤビツ峠分道」

から

26丁目「迎合谷」への道1

 



 25丁目「ヤビツ峠分道」




樹木の枝の奥に丹沢山地があり、その上に富士山が見えます。富士山が見えます


このあたりの枝を伐採すれば「ヤビツ峠分道」横と同じ景観が出てくると思います。
 
25丁目「ヤビツ峠分道」

 





ヤビツ峠分道から阿夫利神社下社に下る道にある20丁目「富士見台」からの富士山を検討。
20丁目「富士見台」からは右側に崖状の尾根が見えるが対面に丹沢山地がなく、崖が平野に伸びていくことになり、谷の雰囲気がほとんどない。
そのため。「来迎谷」の候補としては、27丁目「御中道」から25丁目「ヤビツ峠分道」までの登山道より劣る。
現在、ここからは富士山がしっかり見えて、富士見台の名称がついているが、江戸時代に富士山が見えていたという記述は見つからない。


大山20丁目「富士見台」からの富士山 
   





大山20丁目「富士見台」からの富士山 
   



大山の「来迎谷」を、富士山と谷が見えるところとして、登山道からその候補地を探した。「来迎」の阿弥陀仏は富士山で、谷は丹沢山地と大山が造る谷です。二十五丁目ヤビツ峠分道から二十七丁目ご中道で、富士山と谷が見えます。その道の中央に二十六丁目「来迎谷」の石柱があります。






5. 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から描かれた場所を探す。



5.1 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から左側の断崖絶壁を外す。


歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」を再度掲載します。

右側の大山の断崖絶壁の上に鳥居があり、参詣者が一人います。断崖絶壁とはほとんど垂直に切り立った、大変険しい崖を指しますが、広重の絵はそのような崖です。鳥居があるので大山の参詣道と繫がっていることになります。

その左に、同じような断崖絶壁がありその間に峡谷を形成してます。左の断崖絶壁は、大山と向かい合う高さが同じような山の一部か、大山に二つの尾根によって、えぐられた凹部が形成された場合、その左側の尾根になります。
しかし、大山の登山道から、このような景観を見ることはありません。登山道だけでなく大山のどこからも、このような景観を見ることはできないと思います。

ここで、大山にはこのような場所はありません、と諦めては先に進めません。広重が「来迎谷」の地名に合わせて左の断崖絶壁を書き加え、峡谷の構図に変えたと考えます。作品の題名になる地点から見える景観に、その地点からは絶対に見ることができない景観を書き加えて作品を完成させるのは、広重の得意とするところです。
不二三十六景 「甲斐犬目峠」で描いた地点からは見えない桂川を描いています。

右側の断崖絶壁を取り除くと富士山と丹沢山地だけになり大山から描いたたという作品にならないので、鳥居のある断崖絶壁は残します。




次に、 「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ地点から描いたと思われる「大山道中張交図絵  「石尊山来迎ヶ谷」を眺めます。張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたものでその中に 「石尊山来迎ヶ谷」があります。大山に「石尊大権現」を祀ってあり、「大山参り」はここに参詣するのが目的になりますので、石尊山にしたようです。1858年制作になっているので、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の5年後の作品で、参拝客が多く描かれ、観光用の案内図のようです。そのため、 「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ構図をとっていますが、視点を鳥居の上にして、参詣客が鳥居のあるとことまで登ってくる参詣道が描かれています。 「不二三十六景 相模大山来迎谷」では、どのようにして鳥居に行くのかわかりませんでしたが、鳥居下の崖の斜面が参詣道であることがわかりました。




大山道中張交図絵  「石尊山来迎ヶ谷」 






大山道中張交図絵 「良弁之滝」 「田村 渡船」 「大山前不動 朝霧」 「石尊山来迎ヶ谷」 「子安 土産挽物」

張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたもの
 



「不二三十六景 相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を取り除いて、丹沢山地と思われる山並みを追加し、鳥居下に参詣道を描いた図を作りました。







更に、富士山の形状を実際に見える形状に直すため、縦長さだけを60%に縮小しました。鳥居下の参詣道も少しなだらかになり、これなら登ってこれそうです。山の斜面もなだらかになり鳥居上の参詣道を登るとすぐに山頂の石尊宮に到着する雰囲気になりました。この画像で、「来迎谷」を描いた場所を探します。

しかし、現在の登山道で、このように鳥居が見えて富士山が見えるところはありません。
富士山と谷が見えるところは探したので、鳥居と急坂の参詣道を探します。








5.2 鳥居の見える登山道を探す-二十七丁目ご中道


「谷」探しの、画像を再掲します。現在の登山道で鳥居のあるところは27丁目「御中道」です。急な坂道の上に鳥居があります。






鳥居の上に27丁目「御中道」の石柱があります。鳥居の左側に山頂裏に行く細い道があります。この道が江戸時代のご中道と思います。
右側は柵があり道がありません。その痕跡もほとんどありません。







大山27丁目「御中道」鳥居の上からのgoogleマップのストリートビューの映像です
登りの登山道は尾根の中央が掘られた形状でになっています。掘られていなければ尾根の一番高いところになります。その登りの道はかなり岩が多い急坂です。高齢者には、最後のひと踏ん張りと思い登る坂道です。 「石尊山来迎ヶ谷」で描かれた登る参詣者と鳥居で迎える参詣者の気持ちがわかります。また、鳥居の下は階段になっていますがご、中道の中心地ですのでもう少し広い平坦地になっていたと思います。






明治・大正時代のご中道と鳥居を絵葉書で見ます。

現在の二十七丁目御中道と同じところに、同じ鳥居があります。鳥居の下が写っていないので、上り道の凹部の状態、樹木の伐採の状況はわかりません。
ご中道はかなり広い道もあり、樹木の伐採はかなり行われていたようです。そのご中道から富士山が見えています。また、親不知と呼ばれるところには高さ5m以上の大岩もありました

■『大山本宮鳥居前 Before The Entrance To The Main Shrine. (Oyama, Sagami.)』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月

現在の鳥居は明治三十四年東京「銅器職」講中寄進の鳥居ですので同じ鳥居のようです。この鳥居の左側が御中道の出発地点です。




相州大山 阿夫利神社 本社』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月





『相刕大山名所 頂上御中道』
出版年撮影日等:〔不明〕






『相刕大山御中道廻 View of Oyama』
出版年撮影日等:〔不明〕





『相模大山名勝 お苅廻し VIEW OF OYAMA SAGAMI』
出版年撮影日等:〔不明〕





『相模大山 雲上に聳ゆる御中道の夕景』
出版年撮影日等:〔不明〕





    『相刕大山親不知 View of Oyama』

出版年撮影日等:〔不明〕
説(聞き取り):
・この場所は、「お刈廻し」(おかりまわし)にあった「親知らず」である。大きな石があり、道が狭く急で危険な場所であったからこの名が付いたのではないか。
・なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた。
・昭和30年~40年頃までは使われていたが、今は整備されておらず歩くことはできない。
・そもそもこの道は、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていた。





『小林順三氏による「霊岳大山登拝のしおり」(昭和二年六月三十日発行)』

欺くて下社に達し愈々本坂 にかかる。其登口に神門あり、平素閉門し春夏大祭の二期開いて頂上登拝を許す。之れより更に廿八町にして本社に達す。本坂一丁目に老杉對立す高さ十五丈許 り、宛然華表の如く之を鳥居杉といふ。廿四丁より間道を左折すること一二丁にして清泉あり、御神水として供奠す。漸く頂上に達すれば當山特殊の雨降山あ り、常に雨露の點滴するを見る。幹高二丈五尺 周囲九尺許、樹齢四百年を超ゆ、誠に珍奇の靈木なり。和名ブナと称し(又はソバノキ)温帯地方に産す。古昔 の石尊大權現は本社にして,大天狗小天狗(奥社前社)雲表に鎮座す。

奥社より、左折右往して山巓を一周せる道あり、之を御刈廻又は御中道と云ひ、奇景悉く 寸眸の裡に集る。此道の東南面に親不知の險あり。


名勝史蹟 大山道と街並み - 知る | 丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブ

 





5.3 鳥居の見える登山道を探す-江戸時代の二十七丁目ご中道


現在、明治、大正時代にあった鳥居と御中道が江戸時代にあったか否かを調べます。

鳥居と御中道のある山内図御中道を再掲します。


■文政7年(1824)~天保12年(1841年) 新編相模風土記稿)

不動堂から山頂の石尊社まで二十八町あり、その間に鳥居が四基あると書いています。御中道の文字はありませんが、山頂を囲む道があり鳥居一基は山頂とご中道の間にあります。




■弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖

参詣道を登り、「大鳥居」に来るとその左右に「中道」があり、鳥居の上には、石尊宮があるという図です。ご中道と鳥居が、大山の名所として描いています。
現在、明治、大正時代に、27丁目ご中道にあった鳥居が江戸時代にも同じ場所にありました。御中道全体の下側は、岩が露出しているように描いています。火災を防ぐため又は観光ためか、樹木の伐採が行われていたかもしれません。

この作品の出版は、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の出版の1~5年前です。広重はこの図を参考にして「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いたかもしれません。
しかしながら、鳥居下の状態がかなり違います。大きな岩石がせり出して、断崖絶壁を形成し、その上に参詣者が十数人登り、富士山方向を眺めているように見えます。現在、鳥居周辺にこんな大きな岩石はありません。明治大正時代にの絵葉書にあったご中道東南面にあった親不知の岩石を鳥居下に持ってきたかもしれません。
「相模州大住郡雨降大山全圖」は歌川国芳の浮世絵の作品で、観光案内を目的に作られたと思いますが、残念ながら、この大きな岩石周辺に「来迎谷」の記載がありません。
下に示す江戸時代の同じころの浮世絵、絵図に「来迎谷」の記載があるのに、この山内図に記載がないのが気になりますが、その理由はわかりません。

「らい光たに」の記載がある、絵図(地図)として作られた 「相刕大山繪圖」は嘉永5年頃(1852年)
「来迎谷」の記載がある、五雲亭 歌川貞秀の「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」は安政5年(1858年) 
歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は嘉永5年頃(1852年)
歌川広重「大山道中張交図絵 石尊山来迎ヶ谷」安政5年(1858年) 


来迎谷探索から外れますが、この山内図の変わったところは、(1)参詣道に丁目の記載がありますが、前不動の上を二十六丁として大鳥居下を五十丁にしているところ(2)不動堂の記載がないところです。
文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模風土記稿に、「坂本村から前不動が二十二町、前不動から男坂経由で不動堂が十八町、不動堂から石尊社が二十八町」とあります。すべてを足すと六十八町になりますので、五十町がどこから出てきたかわかりません。
大山の山内図で不動堂を描いていないのは、この山内図だけです。大山詣りの中心部である不動堂を描かないで、茶屋と思われる小屋を多く描いています。実際にこんなにはなかったと思いますが、各丁に一軒以上の茶屋を描いています。また、明治時代の絵葉書に出てくる「えんむすび」も四十丁付近に描いています。

浅学のため四十八丁目前後の記載等が読み取れないのが残念です。

 







歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖




作品名:相模州大住郡雨降大山全圖
作者:歌川国芳
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年
大きさ36.5×75cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 大山全景・参詣道と多くの講中・遠景に江の島


神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム>相州大山トップ>全景>『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』より引用



5.4 カシバードで、26丁目来迎谷から27丁目御中道の鳥居を眺める。

27丁目御中道に鳥居の形を書き込み、それを登山道の26丁目来迎谷からカシバードで眺めます。
26丁目来迎谷石柱の明確な位置がわかりませんので、二十五丁目ヤビツ分道と二十七丁目ご中道の中央付近としました。26丁目来迎谷から27丁目御中道までの距離は、約100m、標高差は約30mです。


 
歌川広重「相模大山来迎谷」
の鳥居
 

27丁目御中道に鳥居の形を書き込み、それを登山道から眺めます。
鳥居は、立体的ではなく地面に書き込んだことになります。
 

現在の登山道の27丁目御中道
にある鳥居



「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は2m。レンズは1㎜で画角173度。

鳥居の右側と登山道は見えており撮影されます。しかし、カシバード撮影の画像は、なぜか近距離のところがうまく撮影できませんので斜面が直線状に写ります。また同じ場所に書き込んだ登山道は二つに分かれます。


 

「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は2m(人間の目の高さ)。レンズは1㎜で画角173度


「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度

 

「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシミールで撮影。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度




歌川広重「相模大山来迎谷」のように鳥居と富士山が見える方向を撮影します。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度。

「相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を除いた構図に似てきました。

 

 


右の断崖絶壁が画面下に落ちるように、下の画面を除きます。断崖絶壁の上に鳥居があり、その左側に山並みがあり、その上に富士山がいる。「相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を除いた構図と同じです。次にこの景観から、広重がどのようにして「相模大山来迎谷」を制作したかを推察します。






右側の断崖絶壁の分の横幅を縮小します。険しい崖の参詣道ができました。





浮世絵は分担作業ですので、こんなに複雑な丹沢山地をそのまま描くと、彫り師から文句が出ます。単純化した構図で、使用する色も少なくすることが、商品として量産化する浮世絵では大事です。また富士山が主役ですから富士山を大きく描き、丹沢山地は下側に山並みとして単純化します。

これらの作業により、左側の断崖絶壁を除き高さだけを60%に縮小した「相模大山来迎谷」とほぼ同じ構図になりました。









版元の佐野屋喜兵衛は大山の名所「来迎谷」からの富士山を描くように依頼しました。しかし、「来迎谷」と富士山が見えるところに、両側から崖が迫る谷は見えません。もし、富士山が大山と丹沢山地の間から見えると両側から崖が迫る谷の間からの富士山になります。


  


前掲した大山と丹沢山地のカシバード画像の横幅を30%程に縮小して富士山を加える


そこで、広重は、大胆にも、富士山の前にある丹沢の山を90度回転し、大山の左側に置き見事な大渓谷を創りました。

題名に地名が入った作品に、そこからは絶対見られない景色を描くことは、現在では驚きで、読者から文句が殺到すると思いますが、北斎、広重の時代では多くあります。読者の見たいと思う景色を描き、それを見て現地に来た人は、実際の景色はこのようなものかと、広重の遊びと粋を楽しんでいたように思います。






次に「不二三十六景」シリーズの横中判(29.3×19.0センチ)錦絵の大きさに合わせて、横幅だけを60%縮小します。 横幅を60%縮小した富士山は「不二三十六景」の中でも最も縮小がされた富士山です。谷間の富士山ですので険しい富士山にしたようです。北斎の「富嶽三十六景」の江戸からの富士山では平均が60%でコットも大きい収縮率は「江都駿河町三井見世略圖」の47%です。この縮小により、実際の景色が浮世絵的な景色に変わります。






富士山の形を整えます。宝永山と小御岳の凸部を削ってなだらかな富士山にします。宝永山の凸部を削ると大山からの富士山でなくなりますが、この時代では、なだらかで秀麗な富士山のほうが人気があります。山頂は平四峰にして、右側に吉田大沢を描き、実際の富士山に合わせます。鳥居下は樹木のない崖の部分を描き渓谷の険しさを強調します。







山頂の石尊社に行く大鳥居を描き、神域の雰囲気を高めます。その鳥居の前で、参詣者が大渓谷と富士山を眺めています。険しい大渓谷からの富士山を表すため、鳥居下の参詣道と御中道は、ここでは描きません。富士山の周りに白い雲を浮かべ、「不二三十六景」と「相模大山来迎谷」を記入して完成です。





以上の検討から、「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの景観をもとにして描かれたと推察します





5.5 カシバードで二十丁目富士見台から27丁目御中道の鳥居を眺める。


対地高度2mでは、富士見台からは、27丁目の鳥居は見えません。対地高度15mにすると、27丁目の鳥居が見えてきます。しかし、27丁目の鳥居は富士見台からは400m離れており、その間に富士見台からヤビツ峠分道までの尾根が前景となり、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図にはなりません

そこで、21丁目付近に仮の鳥居を書き込んだカシバード画像を見ると、26丁目来迎谷から27丁目の鳥居を眺めた画像に似てきました。対地高度2mの画像の左側に断崖絶壁を加えると「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図にはなりそうです。

しかし、実際のgoogleストリートビューの画像では、21丁目へ上る坂道が緩やかで、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の断崖絶壁の雰囲気が出ていません。
また、21丁目付近に鳥居があったという資料がなく、この辺に鳥居を設置する理由もなさそうです。

これより、二十丁目富士見台が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた場所である可能性は低いと考える。




 

二十丁目富士見台からのカシバード画像。対地高度2m。レンズは1㎜で画角173度。地図の二十一丁目付近に仮の鳥居を書き込む。



  

二十丁目富士見台からのカシバード画像。対地高度2m。レンズは1㎜で画角173度。地図の二十一丁目付近に仮の鳥居を書き込む。




大山二十丁目富士見台のgoogleストリートビュー画面中央の大きな木の右側が登りの登山道。画面左側に富士山。(上のカシバード画像と同じ視点)





6 まとめ

大山の阿夫利神社下社からの登山道にある20丁目富士見台に、次のような説明板があります。

「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

大山の来迎谷を描いた浮世絵を、歌川広重が描き嘉永5(1852)年に刊行された「不二三十六景 相模大山来迎谷」とすると、富士見台からの景観とはかなり異なっています。
両側から山が迫った峡谷の真ん中の奥に、山並みがあり、その上に富士山がいます。右側は急峻な崖の上に、鳥居があり、参詣者が一人描かれています。富士見台からの景観では、右側に傾斜が付いた尾根が見られますが、左側には傾斜が付いた尾根が見られません。谷という景観ではありません。

「不二三十六景 相模大山来迎谷」の作品解説でも、「来迎谷」の場所はそれぞれ異なり、いずれの場所も、明確な根拠がありません。

そこで、歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探索しました。


     
20丁目富士見台からの富士山    歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」 



(1)江戸時代の山内図に「らい光たに」、「来迎谷」の記載があり、その場所は両方とも十六丁目本坂追分から山頂の間と推察されます。

明治から現在までの山内図、地図などの資料には「来迎谷」の記載がありません。 明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする大山の石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されましたが、阿弥陀仏由来の名所「来迎谷」もこの時に消されたと考えます。


     
嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖に「らい光たに」   安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」に「来迎谷」



(2)「来迎谷」の場所を、二十丁目とする絵葉書と二十七丁目とする石柱があります。
しかし、両者ともその場所を特定するものは絵葉書と石柱だけであり、その特定する根拠も不明であるため、どちらが正しいかの断定はできません。

明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「二十丁目来光谷」の記載があります。
『縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり未婚の男女其戀ふ者の名を記したる紙を小指と栂指にて其樹に結付け其首尾よく結ばるを以て願叶へりとす』
江戸時代から現在まで、阿夫利神社下社から山頂までの登山道は28丁で、古い石柱からも、この二十丁目来光谷は現在の二十丁目富士見台と推察される。

②昭和41年設置の丁目記載の石柱に「来迎谷 二十六丁目」の石柱があります。
絵葉書で「来光谷」になっていた二十丁目は「富士見台」になっています。その石柱の場所を特定する根拠があると思いますが不明です。


     
明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書   昭和41年設置の丁目記載の石柱




(3)「来迎谷」の名前にふさわしい場所を登山道(江戸時代の参詣道)から探します。

阿弥陀如来が山を越えて来迎する様を描いた「山越来迎図から、阿弥陀仏が来迎するところは富士山で、その付近に谷がある場所が「来迎谷」であり、谷は丹沢山地と大山が形成する谷と考えました。


     
阿弥陀仏が丹沢山地の上に富士山
夕暮れとともに阿弥陀仏が富士山に来迎する
  丹沢山地と大山が大渓谷を形成
大山から大渓谷を挟んで富士山を眺める



富士山と谷が見られる登山道としては、山頂裏の展望場所がありますが、江戸時代には御中道の名前がついていますので除外します。ヤビツ峠分道から御中道までの登山道は尾根道ですが、現在は堀道になり樹木が多いため、富士山を見ることはできません。しかし、樹木がなければ、尾根の上から富士山を見ることができ、丹沢山地と大山が形成する谷も見ることができます。江戸時代にこの尾根道に富士山と谷が見られる場所があり、「来迎谷」と呼ばれていたと推察します。この尾根道の中央に「二十六丁目 来迎谷」の石柱があります。
「二十丁目 富士見台」からは丹沢山地と大山が形成する谷を見ることができません。


     
大山山頂裏の展望地からの富士山
大山と丹沢山地の間に大渓谷がありその奥に富士山がいます
  「二十六丁目来迎谷」からの富士山
カシバード画像 左の山頂裏からの実景とほぼ同じ



(4)歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から描いた場所を探す

両側から断崖絶壁が迫る大渓谷の中央に富士山がいる 「不二三十六景 相模大山来迎谷」の景観は、大山の登山道から見ることはできません。広重が勝手に想像して描いた景観ですと、諦めては先に進めません。広重が「来迎谷」の地名に合わせて左の断崖絶壁を書き加え、渓谷の構図に変えたと考えて、右の断崖絶壁を除きます。右側の断崖絶壁を除くと富士山と丹沢山地だけになり大山から描いたという作品にならないので、鳥居のある断崖絶壁は残します。「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ地点から描いたと思われる広重作「大山道中張交図絵 石尊山来迎ヶ谷」に鳥居下に参詣道があるので、それを加えます。富士山の形を実際の形に合わせるため、縦方向を60%に縮小します。




右の断崖絶壁を除き、鳥居下に参詣道、参詣者を加え、縦方向を60%に縮小した「不二三十六景 相模大山来迎谷」

現在の「二十七丁目御中道」に鳥居があります。急坂の登山道の上にあります。
カシバード画像により、 「二十六丁目来迎谷」から、二十七丁目の鳥居と大渓谷と富士山を眺めることができます。





「二十七丁目御中道」に鳥居    「二十六丁目来迎谷」からの富士山。カシバード画像。



鳥居下の尾根の下部を除き、急坂のところを部分的に横に縮小します。断崖絶壁の雰囲気が出てきました。





富士山が主役ですので、富士山部分を拡大して大山の横に置き、構図を簡略化します。 これで、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図に近づきました。





版元の佐野屋喜兵衛は大山の名所「来迎谷」からの富士山を描くように依頼しました。しかし、「来迎谷」と富士山が見えるところに、両側から崖が迫る谷は見えません。広重は、大胆にも、富士山の前にある丹沢の山を90度回転し、大山の左側に置き見事な大渓谷を創りました。
次に「不二三十六景」シリーズの横中判(29.3×19.0センチ)錦絵の大きさに合わせて、横幅だけを60%縮小します。

富士山の形を整えます。宝永山と小御岳の凸部を削ってなだらかな富士山にします。鳥居下は樹木のない崖の部分を描き渓谷の険しさを強調します。
山頂の石尊社に行く大鳥居を描き、神域の雰囲気を高めます。富士山の周りに白い雲を浮かべ、「不二三十六景」と「相模大山来迎谷」を記入して完成です。


     
大山山頂裏の展望地からの富士山
大山と丹沢山地の間に大渓谷がありその奥に富士山がいます
  「二十六丁目来迎谷」からの富士山
カシバード画像 左の山頂裏からの実景とほぼ同じ

以上の検討から、「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの景観をもとにして描かれたと推察します














(5)明治11年8月 『相模國大山圖』

江戸時代にあった「来迎谷」がありません。


山頂の建屋も(小天狗、石尊宮、大天狗)から(前社、阿夫利神社、奥社)に変わり、中腹の建屋は不動明王から阿夫利神社〇殿に変わった。
これは、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されたためです。その後、不動明王像は現在地に移動して、大正4年に大山寺は復活した。

現在では、下社からの登山道には名所として八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」、二十丁目の「富士見台」がありますが、江戸時代には、大山寺から上の名所として唯一記載があったのは「来迎谷」です。しかし、「来迎」とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。明治維新の廃仏毀釈により、阿弥陀仏由来の名所も消されたと考えます。その後現在まで、大山案内地図で「来迎谷」の記載はありません

阿夫利神社拝殿横からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。その上に鳥居があります。

山頂下には、お中道が描かれており、その下側に「刈廻し」とあります。
なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた






解説(聞き取り):
・この場所は、「お刈廻し」(おかりまわし)にあった「親知らず」である。大きな石があり、道が狭く急で危険な場所であったからこの名が付いたのではないか。
・なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた。
・昭和30年~40年頃までは使われていたが、今は整備されておらず歩くことはできない。
・そもそもこの道は、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていた。














『相模國大山圖』


作品名:『相模國大山圖』
作者:吉川帆澄  吉川善藏(墨刷)(大山町)
種別:古地図
時代:明治
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:明治11(1878)年8月
大きさ:64.5×48.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 安政大火と神仏分離後の明治の大山


「神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >  『相模國大山圖』)」より引用



『相■大山名勝 頂上銅鳥居 Sagami Oyama』
出版年撮影日等:〔不明〕
解説(聞き取り): 山頂の鳥居で、左側に見える道がお刈り回しのスタート地点である。




明治三十四年東京「銅器職」講中寄進の鳥居をくぐるとすぐに、江戸町火消し「九組」が建てた石鳥居が見えてくる。この鳥居を過ぎると大山山頂(1252m)である。



『大山本宮鳥居前 Before The Entrance To The Main Shrine. (Oyama, Sagami.)』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月





相州大山 阿夫利神社 本社』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月





『相刕大山名所 頂上御中道』
出版年撮影日等:〔不明〕



『相刕大山御中道廻 View of Oyama』
出版年撮影日等:〔不明〕





『相模大山名勝 お苅廻し VIEW OF OYAMA SAGAMI』
出版年撮影日等:〔不明〕




『相刕大山親不知 View of Oyama』
出版年撮影日等:〔不明〕
説(聞き取り):
・この場所は、「お刈廻し」(おかりまわし)にあった「親知らず」である。大きな石があり、道が狭く急で危険な場所であったからこの名が付いたのではないか。
・なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた。
・昭和30年~40年頃までは使われていたが、今は整備されておらず歩くことはできない。
・そもそもこの道は、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていた。







『相模大山 雲上に聳ゆる御中道の夕景』
出版年撮影日等:〔不明〕








 






 






 






  









 






 


京都市 永観堂禅林寺 一幅 絹本着色 縦138.0 横118.0 平安時代末期~鎌倉時代 12~13世紀
国宝 山越阿弥陀図 / 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センターより引用



大山の登山道で富士山が見えるところで、、このような谷があるところはありません。富士山が見えないところでも、このような谷のような景観はないと思います。



冨士見展望地からの富士山。






二十五丁目ヤビツ峠分岐横の富士山展望地からの富士山。







二十七丁目鳥居から左の山道に入ったところの富士山展望地からの富士山。





大山山頂北側の富士山展望地からの富士山。



 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」のような景観が見られる地形はどのようなところかを、カシミール画像を用いて調べました。大山周辺ではなく、三坂山地でそれらしき場所がありました。

三坂峠から河口湖に降りる谷あいの登山道からの景観です。その画像の横幅だけを50%に縮小して、左右、下部をカットすると「不二三十六景 相模大山 来迎谷」に似た画像が得られます。横幅を縮小するのは浮世絵で富士山を描く際に使われる手法です。







カシミール画像を作成した地点。丸印。





上記地点からのカシミール画像①







カシミール画像①の横幅を60%にした画像





カシミール画像①の横幅を50%にして横、下を除去した画像





地図から「来迎谷」を探す


   出版年  作品名  「来迎谷」
の記載
山頂の建築物等  中腹の建物等  山麓の建物  その他
1 文政7年(1824)
~天保12年(1841年)  
新編相模風土記稿   無し 石尊社、大天狗社、小天狗社 徳一社不動、
 前不動  
2  弘化4(1847)年
~嘉永5(1852)年
相模州大住郡雨降大山全圖  無し  無し  読み取れない 前不動の上が二十六丁、山頂下が五十丁。
五十丁に鳥居があり中道があり、その横に大岩があり富士山展望台になっている
各丁に一軒以上の建屋がある 
3 嘉永5年頃(1852)年 相刕大山繪圖 らい光たに  石尊宮、大天狗、小天狗 〇〇大権現
不動明王 
 前不動尊  「らい光たに」はふじ道の鳥居の上
4 安政5(1858)年 相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景 来迎谷  雨降神社石〇〇〇〇 本堂・不動堂  仁王門 「 来迎谷」は山頂と富士道の間か
本坂の道に小屋多し
5 明治11年8月 相模國大山圖 無し  阿夫利神社、奥社、前社 阿夫利神社〇殿 不動明王 本坂を登り冨士道に出ると鳥居がある
6 大正8年

相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景 無し 本社 、奥社、前社雨降木 阿夫利神社拝殿 不動明王 富士道に鳥居
7  昭和6年から19年
大山ケーブルカーの会社が発行したパンフレット 無し  本社 、雨降木 阿夫利神社下社  不動尊 富士山と大山の間の山は丹沢山
8 平成28年 こま参道入り口の伊勢原ハイキングコース案内図  無し  大山阿夫利神社本社  大山阿夫利神社下社  大山寺 ヤビツ峠分岐(25丁目)、富士見台の記載
               





寛政9年(1797年) 東海道名所図会巻五


寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五によれば、石尊大権現社の項に、「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」
.「.祭神大山祇神、神体は巌石にして......」との記述がある。









東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]の5の64 早稲田大学図書館より引用




https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763969

(1)文政7年(1824)~天保12年(1841年) 新編相模風土記稿)


「大山入口から二十二町で前不動堂(現在の追分)、そこから男坂を十八町登ると不動堂(現在の阿夫利神社下社)、そこから二十八町で頂上の石尊社(現在の阿夫利神社本社)」とあります。阿夫利神社下社から頂上までは現在と同じ二十八丁です。


新編相模風土記稿

山頂に石尊、石尊社、風雨神社、大天狗社、小天狗社、中腹に徳一社不動、楼門、仁王門、山麓に前不動、八大坊上寺、八大坊下寺、西岸寺。











新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 212-217p国立国会図書館デジタルコレクションから引用



新編相模風土記稿


寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五によれば、石尊大権現社の項に、「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」
......祭神大山祇神、神体は巌石にして......」との記述がある。
同様に新編相模国風土記稿に、「石尊社 當山の本宮にして山頂にあり、【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、祭神鳥石楠船尊、神躰秘して開扉せず」とある。




「相州大山のまちづくり」10ページから引用




(2)弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年 「相模州大住郡雨降大山全圖」

歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」出版年:嘉永5(1852)年と同じ時期の大山図ですが、「来迎谷」の記載なし。


題名が「相模州大住郡雨降大山全圖」とあり、山頂には雨降神社があり、中腹には大山寺がある図です。
大山は古代からのの山岳信仰に基づく延喜式神名帳式内社である阿夫利神社があったが、中世に神仏習合が盛んになると修験道に基づいて大山頂部の岩石を不動明王を本地とする石尊権現として祀る石尊社があった。雨降神社内に石尊社があったか。そのため、図によって、「石尊宮」と「雨降神社」が併用されていたのか。
大山寺は不動明王像を本尊として、天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当(住職)の良弁により大山中腹に建立された。


前不動の上が二十六丁で五十丁の上に「中道」がある。その間の各丁に一軒以上の小屋があり、びっしりと参拝客が描かれている。
不思議なことに、大きな建築物である「不動明王」がない。山頂に石尊社らしき建物があるが、その記載がない。この図の目的は、参拝道の小屋と参拝者を描くことのようです。
山頂下の鳥居と中道がしっかり描かれています

鳥居の横に、大きな岩があり展望台になっており、十名以上の人が登っており、富士山方向を眺めています。

現在の中道と鳥居は次のようになっています。急坂の上に鳥居があり。鳥居の上の階段に「ご中道 二十七丁目」と書かれた石柱があります。その階段を上ると二十八丁目の山頂に着きます。鳥居の右側には道がありませんが、左側に道(中道)があり、電波塔に着きます。その道から富士山が見えます。

鳥居の横に、大きな岩があり展望台になっており、十名以上の人が登っており、富士山方向を眺めています。
現在の中道は、写真のようにこのような大岩はありません。また鳥居下の急坂の道の両側は樹木でおおわれています。
しかし、昔は「お刈廻し」と言って山頂下の草木をぐるッと刈り上げていました。この後に出てくる明治11年8月 『相模國大山圖』に「お刈廻し」の記載があります。これが江戸時代にもあったとすると、鳥居下の急坂部は、樹木がなく、岩場のようになっていたかもしれません。樹木がないと富士山が見えますので、それを強調して描いたかもしれません。

『相模國大山圖』が、歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」より早く発行していた場合、広重はこの作品を参考にした可能性はあります。






2017年の27丁目の鳥居、鳥居の上の階段に「ご中道 二十七丁目」と書かれた石柱





2017年の27丁目の鳥居横の山道からの富士山








相模大山の絵はがき 大山山内 | 伊勢原市より引用













歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖




作品名:相模州大住郡雨降大山全圖
作者:歌川国芳
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年
大きさ36.5×75cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 大山全景・参詣道と多くの講中・遠景に江の島


神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム>相州大山トップ>全景>『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』より引用




(3)嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖」


大山の山頂近くに「らい光たに」の記載があります。

は、「らい光たに」。は、「ふじ道」と読みます。


日本古典籍くずし字データセット

・「に」の漢字は「仁」のほかに「爾 、尓」があります。。その場合そのくずしじ字は

  


・「不」の漢字は「不」のほかに「婦」があります。その場合そのくずしじ字は

  

変体仮名を調べる 五十音順一覧2より引用

冨士道の「道」の漢字が現在と異なる。異体字、旧字で調べてもこの漢字は出てきませんでしたが、「道」だと思います。


広重の作品名は「来迎谷」ですが、『相刕大山繪圖』の記載は「らい光たに」、漢字で書くと「来光谷」か。
「来光」は「来迎」と同じ意味でつかわれていたようなので、「来迎谷」、「来光谷」が同じように使われていたと思います。

「来光」の世界大百科事典 第2版の解説
今では山頂の日の出の意味に使われているが,もともとは御来迎(ごらいごう)と書いて,山頂近くの雲に自分の影がうつされると,色の付いた光の輪を背負った仏の像に見えることをいったものという。

山頂には「石尊宮」、「大天狗」、「小天狗」の建屋があり、その頂上に行く冨士道の途中に鳥居があり、その上に「らい光たに」があります。
この後に出てくる(5)明治11年8月 『相模國大山圖』では、阿夫利神社拝殿((3)では不動明王)の、入口からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。
蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。


そこでこの地図では、「らい光たに(来迎谷)」は、十六丁目「本坂追分と「二十八丁目」の山頂の間にあります。









「相刕大山繪圖」


作品名:相刕大山繪圖
作者:佐藤坊開板(墨刷)
種別:古地図
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:嘉永5年頃(1852)年
大きさ:58×36cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説:江戸時代の壮大な塔頭の全容様子を伝える

神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >『相刕大山繪圖』より引用




(4)安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」



「来迎谷」の記載がある図はこの一枚だけです。大山山頂への参拝道は「本堂 不動宮」からの道と、蓑毛からの道があり、出発点に「六月二十八日ヨリ七月十七日迄」と書いてあります。その二つの道が頂上下で合流しており、「来迎谷」はその合流点の左上にあります。二つの参拝道の合流点は十六丁目「本坂追分」と思いますが、そこから頂上への道が描かれていません。

そこでこの図で、「来迎谷」は、十六丁目「本坂追分と「二十八丁目」の山頂の間にあります。
(3)嘉永5年頃(1852)年 『相刕大山繪圖』と同じ推察です。


ここで、山頂にあるのは、雨降神社ですが「石そん宮のまへに大ひなる箱あり 真中ニ太刀納ル又とりかへる」と石尊社に関する記載があります。











『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』


作品名:『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』
作者:五雲亭 歌川貞秀
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:安政5(1858)年
大きさ:36×74cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説:大山全景・参詣道と富士・江の島の俯瞰図

神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 > 相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)」より引用





大山の入口から山頂石尊社までの大山寺境内地のみならず、富士山・高尾山・江ノ島・伊豆半島まで描いています。大山を中心に据え、大山から見えるところまでを画面に入れています。

さて、大山の入口、現在いうところの三の鳥居の前には懸樋(かけひ)で水を引いた唐金の水盤があり、滝のように水が流れ落ちていたようです。  良弁滝・大滝・新滝(愛宕滝)を過ぎ、男坂・女坂(さいの河原道とあります)の合流部には仁王門があり、本堂・不動堂が描かれています。まさに川柳にある「大山のヘソのあたりに不動堂」です。 「石そん宮のまへに大ひなる箱あり 真中ニ太刀納ル又とりかへる」とあり、不動堂の裏手に納め太刀を納め、交換するための箱があったようです。不動堂に向かって左手には旧暦6月28日に開扉される木戸があります。

さらに左手の山の稜線には蓑毛方面からの登拝に関係した木戸があり、山頂・石尊社(この絵では雨降神社)に至る道が2筋であったことがわかります。 神仏分離で記録類が散逸してしまった大山では、このような資料から復元を進める必要があります。
気になる点を一つ。安政元年(1854年)の年末から翌年正月にかけて大山は大火に見舞われ、町並はもとより、不動堂まで焼失しました。この絵はそれ以前の姿を描いたものと思います。


大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の説明文を引用










(5)明治11年8月 『相模國大山圖』

江戸時代にあった「来迎谷」がありません。


山頂の建屋も(小天狗、石尊宮、大天狗)から(前社、阿夫利神社、奥社)に変わり、中腹の建屋は不動明王から阿夫利神社〇殿に変わった。
これは、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されたためです。その後、不動明王像は現在地に移動して、大正4年に大山寺は復活した。

現在では、下社からの登山道には名所として八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」、二十丁目の「富士見台」がありますが、江戸時代には、大山寺から上の名所として唯一記載があったのは「来迎谷」です。しかし、「来迎」とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。明治維新の廃仏毀釈により、阿弥陀仏由来の名所も消されたと考えます。その後現在まで、大山案内地図で「来迎谷」の記載はありません

阿夫利神社拝殿横からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。その上に鳥居があります。

山頂下には、お中道が描かれており、その下側に「刈廻し」とあります。
なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた






解説(聞き取り):
・この場所は、「お刈廻し」(おかりまわし)にあった「親知らず」である。大きな石があり、道が狭く急で危険な場所であったからこの名が付いたのではないか。
・なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた。
・昭和30年~40年頃までは使われていたが、今は整備されておらず歩くことはできない。
・そもそもこの道は、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていた。














『相模國大山圖』


作品名:『相模國大山圖』
作者:吉川帆澄  吉川善藏(墨刷)(大山町)
種別:古地図
時代:明治
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:明治11(1878)年8月
大きさ:64.5×48.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 安政大火と神仏分離後の明治の大山


「神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >  『相模國大山圖』)」より引用


「神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 >  『官許相模國大山圖』)」
では作者:小林適山 横川豊治郎 、出版者、版元、発行所等:吉川帆澄  吉川善藏


「相州大山のまちづくり」12ページから引用











(6)大正8年 『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』









『相模國大山全圖』

作品名:『相模國大山全圖』
作者:原牧三(大山町)
種別:古地図
時代:大正
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:大正8(1919)年4月
大きさ:41×31cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説: 関東大震災前の大山の様子がわかる 

神奈川県郷土資料アーカイブ・ホーム > 相州大山トップ > 全景 > 『相模國大山全圖』」より引用







(7)昭和6年から19年まで運行された大山ケーブルカーの会社が発行したパンフレット









(7)平成28年こま参道入り口の伊勢原ハイキングコース案内図
















歌川広重(初代)(直筆の複製版画) 「相州大山 来迎谷」

相州大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用



  
作品名::『相州大山 来迎谷』
作者:歌川広重(初代)(直筆の複製版画) 
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:
その他
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:複製は昭和初期
大きさ:23×36cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供



大山を描いた浮世絵は、歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」があります。両側から山が迫った峡谷の真ん中に富士山が描かれています。峡谷がかなり誇張されており、大山で実際には見られない構図になっています。




歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」

不二三十六景 相模大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用




作品名::『不二三十六景 相模大山 来迎谷』
作者:歌川広重(初代)
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:嘉永5(1852)年
大きさ:18.5×25.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供



広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」
   弘化4年~嘉永5年(1847~1852)

江戸時代の大山山内図からの推定ですが、大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷と呼ばれていたようです。

西の富士方向に日が沈みかかると、その光はまさに阿弥陀如来のご来迎という感じがします。

絵にあるように両側から谷がせまり、中心に富士が見えるという地点は、残念ながら未確認です。よく晴れ風が強い日には、冨士見台や山頂の西側から富士山がよく見えます。









歌川広重 「富士十二景の内、相模大山来迎谷」

富士十二景の内、相模大山来迎谷-東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ」より引用






  
カテゴリ-:/浮世絵
浮世絵種別:その他の浮世絵
画題等:富士十二景の内、相模大山来迎谷
      フジ ジュウニケイ ノ ウチ サガミ オオヤマ ライゴウダニ
絵師・落款 :歌川広重∥画
出版年 :大正 14年   1925年
版種://
分類 :参考資料/日本地誌/関東(江ノ島、利根川、函根)//


書誌注記 :;;;;;;;;;;;|//////////////|/
件名 :歌川広重(ウタガワ ヒロシゲ)
文庫名 :東京誌料
請求記号 :941-C25/東C941-C025
製作者 :東京都立図書館











歌川広重 「富士十二景の内、江ノ島岩屋」


  
カテゴリ-:/浮世絵
浮世絵種別:その他の浮世絵
画題等:富士十二景の内、江ノ島岩屋
      フジ ジュウニケイ ノ ウチ エノシマ イワヤ
絵師・落款 :歌川広重∥画
出版年 :大正 14年   1925年
版種://
分類 :参考資料/日本地誌/関東(江ノ島、利根川、函根)//


書誌注記 :;;;;;;;;;;;|//////////////|/
件名 :歌川広重(ウタガワ ヒロシゲ)
文庫名 :東京誌料
請求記号 :941-C26/東C941-C026
製作者 :東京都立図書館












上総天神山海岸(かずさてんじんやまかいがん)
「compila: Trinta e seis vistas do monte Fuji (Hiroshige, 1852)」より引用
天神山は、上総国海良(かいら)村を指す。当地は湊川の河口南岸に位置し、北岸の湊浦とともに江戸湾(東京湾)の湊であった。海上の島影は対岸の三浦半島の観音崎(横須賀市)か。













張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたもの
Utagawa Hiroshige I (Japanese, 1797?1858)
Publisher: Ibaya Senzaburo (Dansendo) (Japanese)
Japanese
Edo period
1858 (Ansei 5), 6th month

■8:53 富士急















■8:53 富士急








石碑の正面には「奉獻 石尊大權現 大天狗 小天狗 御寶寺」と彫られ、神仏分離以前の祭神を物語る貴重な史跡です。




■8:53 富士急


日本古典籍くずし字データセット


















「相州大山のまちづくり」10ページから引用



■8:53 富士急



































■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急













■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■8:53 富士急







■9:00 天下茶屋行きのバス発車。満員。大半は三ツ峠登山口で降りて、終点までは20名ほど。


■9:39 天下茶屋到着。木の柱には「御坂峠 天下茶屋」。トンネルは御坂隧道。5月の木々の緑が鮮やか。





■9:42 天下茶屋前の道路からの富士山






■9:43 天下茶屋前の道路からの富士山。
富士山の景観としては、数少ない「菱形富士」として有名です。富士山の三角形と、山間にある河口湖の三角形が造る菱形です。この下側の三角形は「逆さ富士」、「隠し富士」とも言われます。

 











■9:58 石碑からの富士山。






■10:06 石楠花





■10:18 尾根に上がったところの表示板。左が旧御坂峠右が清八山。






■10:18 御坂山に向けて新緑に囲まれた道を進みます。






■10:26 樹木の間から富士山と河口湖が見えます。ここもなかなか良い富士山展望地です。











■10:45 時折、樹木の間から富士山






■10:58 天下茶屋から一時間ほどで御坂山山頂に到着。山頂は樹木に囲まれて展望がありません。








■11:51 ツクバキンモンソウ(筑波金紋草)







『相刕 大山ヨリ富士ヲ望ム View of Oyama』




『相刕大山 大山ヨリ富士ヲ望ム』





『大山名勝 大山頂上ヨリ富岳大觀 View of Oyama』




『大山名勝 富士遠望』




『頂上ヨリ富士山ヲ望ム』(相刕大山名所シリーズ)
解説(聞き取り): 山頂からの眺望で、丹沢方面越しに、遠く富士山が見える。この頃の山は木々が殆ど伐採されていた。




『頂上ヨリ富士山ヲ望ム』(相刕大山シリーズ)





『相模大山 頂上ヨリ富士ヲ望ム』






















■12:49 御坂黒岳の富士山展望台か




■13:49 今回は新道峠には行かないので、展望台から山頂に戻らないで久保田一




■14:26 1554ピークの富士山展望地Bから、左の天上山がに富士山に向かってせり出している感じです。








■14:26 1554ピークの富士山展望地からの





■14:41 樹木の間から富士




■14:55 とても急な道を下ります。さすがに長く続く下り坂に


■15:21 新緑とミツバツツジが美しい。展望地からの富士山




■15:36 「至 広瀬」の表示板。下り道の多くの場所に出てきます。久保田一竹記念館があるところの地名が「広瀬」か。


「至 広瀬」の表示板




■15:41 舗装道路に出ました。


舗装道路




■15:41 左が久保田一竹美術館。久保田一竹は、独自の技法による染色芸術「一竹辻が花」を完成しました。一竹のライフワーク「光響」の連作をはじめ、富士をテーマにした作品群が展示されています。バス停はこの先です。


左が久保田一竹美術館




■15:47 久保田一竹美術館からレトロバスで河口湖へ。

■16:29 河口湖駅到着。順調に進むと25分ほどで着くのですが、道が混雑しており、乗客が外人が多いためその対応に時間がかかり、42分かかりました。休日の河口湖のバスは時間通りに走りません。以前、本栖湖近くで、2時間遅れのバスに乗ったこともあります。


END