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各時代の大山の「来迎谷」に関する資料と歌川広重の作品を表に示します。
(1)寛政9年(1797年) 東海道名所図会巻五 「来迎谷」に関する記述なし。 石尊大権現社の項に、次の記述あり。 「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」 .「.祭神大山祇神、神体は巌石にして......」 大山の山内図 (2)文政7年(1824)~天保12年(1841年) 新編相模風土記稿 「来迎谷」に関する記述なし。 「大山入口から二十二町で前不動堂(現在の追分)、そこから男坂を十八町登ると不動堂(現在の阿夫利神社下社)、そこから二十八町で頂上の石尊社(現在の阿夫利神社本社)」とあります。阿夫利神社下社から頂上までは現在と同じ二十八丁です。 山頂に石尊、石尊社、風雨神社、大天狗社、小天狗社、中腹に徳一社不動、楼門、仁王門、山麓に前不動、八大坊上寺、八大坊下寺、西岸寺。 不動堂から山頂の石尊社まで二十八町あり、その間に鳥居が四基あると書いています。御中道の文字はありませんが、山頂を囲む道があり鳥居一基は山頂とご中道の間にあります。 ![]() ![]() 新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 212-217/565 -国立国会図書館デジタルコレクションから引用 ![]() 新編相模風土記稿 寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五によれば、石尊大権現社の項に、「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」 ......祭神大山祇神、神体は巌石にして......」との記述がある。 同様に新編相模国風土記稿に、「石尊社 當山の本宮にして山頂にあり、【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、祭神鳥石楠船尊、神躰秘して開扉せず」とある。 「相州大山のまちづくり」10ページから引用 (3)弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年 「相模州大住郡雨降大山全圖」 歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」出版年:嘉永5(1852)年と同じ時期の大山の山内図ですが、「来迎谷」の記載なし。 題名が「相模州大住郡雨降大山全圖」とあり、山頂には雨降神社があり、中腹には大山寺がある図です。 大山は古代からの山岳信仰に基づく延喜式神名帳式内社である阿夫利神社があったが、中世に神仏習合が盛んになると修験道に基づいて大山頂部の岩石を不動明王を本地とする石尊権現として祀る石尊社があった。雨降神社内に石尊社があったか。そのため、図によって、「石尊宮」と「雨降神社」が併用されていたのか。 大山寺は不動明王像を本尊として、天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当(住職)の良弁により大山中腹に建立された。 この山内図の丁目の表示は、他と異なります。前不動の上が二十六丁で五十丁の上に「中道」がある。その間の各丁に一軒以上の小屋があり、びっしりと参拝客が描かれている。 不思議なことに、大きな建築物である「不動明王」がない。山頂に石尊社らしき建物があるが、その記載がない。この図の目的は、参拝道の小屋と参拝者を描くことのようです。 山頂下の鳥居と中道がしっかり描かれています。 鳥居の横に、大きな岩があり展望台になっており、十名以上の人が登っており、富士山方向を眺めています。 現在の中道と鳥居は次のようになっています。急坂の上に鳥居があり。鳥居の上の階段に「ご中道 二十七丁目」と書かれた石柱があります。その階段を上ると二十八丁目の山頂に着きます。鳥居の右側には道がありませんが、左側に道(中道)があり、電波塔に着きます。その道から富士山が見えます。 鳥居の横に、大きな岩があり展望台になっており、十名以上の人が登っており、富士山方向を眺めています。 現在の鳥居付近には、写真のようにこのような大岩はありません。また鳥居下の急坂の道の両側は樹木でおおわれています。 しかし、昔は「お刈廻し」と言って山頂下の草木をぐるッと刈り上げていました。この後に出てくる明治11年8月 『相模國大山圖』に「お刈廻し」の記載があります。これが江戸時代にもあったとすると、鳥居下の急坂部は、樹木がなく、岩場のようになっていたかもしれません。樹木がないと富士山が見えますので、それを強調して描いたかもしれません。 『相模國大山圖』が、歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」より早く発行していた場合、広重はこの作品を参考にした可能性はあります。 ![]() 2017年の27丁目の鳥居、鳥居の上の階段に「御中道 二十七丁目」と書かれた石柱 ![]() ![]() ![]() 歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖
明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり」の記載があります。 『縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり未婚の男女其戀ふ者の名を記したる紙を小指と栂指にて其樹に結付け其首尾よく結ばるを以て願叶へりとす』 この「縁結の樹」関連する「えんむすび」の記載が三十九丁目の横にあります。 ・「え」の漢字は「衣」のほかに「要」があります。そのくずし字は ![]() ・「ん」は「む」。「む」の漢字は「武」のほかに「尤」があります。そのくずし字は ![]() 「す」の漢字は「寸」のほかに「春」があります。そのくずし字は ![]() ・「ひ」の漢字は「比」。そのくずし字は ![]() 浅学のため四十八丁目前後の記載等が読み取れないのが残念です。 ![]() (4)嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖」 大山の山頂近くに「ふじ道」にある鳥居の上の道に、「らい光たに」の記載があります。 は、「ふじ道」と読みます。 は、「らい光たに」。・「ふ」の漢字は「不」のほかに「婦」があります。その場合そのくずし字は ![]() 冨士道の「道」の漢字が現在と異なる。異体字、旧字で調べてもこの漢字は出てきませんでしたが、「道」だと思います。 ・「に」の漢字は「仁」のほかに「爾 、尓」があります。その場合そのくずし字は ![]() 日本古典籍くずし字データセットより引用。 変体仮名を調べる 五十音順一覧2より引用 広重の作品名は「来迎谷」ですが、『相刕大山繪圖』の記載は「らい光たに」、漢字で書くと「来光谷」か。 「来光」は「来迎」と同じ意味でつかわれていたようなので、「来迎谷」と「来光谷」は、同じように使われていたと思います。 「来光」の世界大百科事典 第2版の解説 今では山頂の日の出の意味に使われているが,もともとは御来迎(ごらいごう)と書いて,山頂近くの雲に自分の影がうつされると,色の付いた光の輪を背負った仏の像に見えることをいったものという。 山頂には「石尊宮」、「大天狗」、「小天狗」の建屋があり、その頂上に行くふじ道の途中に鳥居があり、その上に「らい光たに」があります。 文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡に「是ヨリ本社迄山路二十八町、其間鳥居四基建」とあり、その鳥居四基は蓑毛からの参詣道との合流点の上にあります。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。 そのため、「らい光たに(来迎谷)」は、「十六丁目本坂追分」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。 この後に出てくる明治11年8月 『相模國大山圖』では、阿夫利神社拝殿((3)では不動明王)の、入口からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。 蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。 ![]() ![]() 「相刕大山繪圖」
神奈川県立図書館デジタルアーカイブ:相刕大山繪圖より引用 「不二三十六景」は嘉永5(1852)年に出版されています。明治元年が1868年ですので、江戸時代末期で黒船が来る1年前です。 『不二三十六景』(1852)は、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれていると言われています。 そのほか、富士山を描いた広重の作品は、「富士三十六景」(1859)。「富士見百図」(1859)があります。 ![]() 歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」
歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」 | 神奈川デジタルアーカイブ」より引用 (5)安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」 各時代の山内図で、「来迎谷」の記載がある図はこの一枚だけです。安政5年9月には「安政の大獄」があり、動乱の幕末が始まる時期です。歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は1952年刊行ですので、そのあとに出た山内図です。 大山山頂への参詣道は「本堂 不動宮」からの道と、蓑毛からの道が描かれており、出発点に「六月二十八日ヨリ七月十七日迄」と書いてあります。その二つの道が山頂雨降神社の下で合流しており、「来迎谷」の記載が、その合流点の左上にあります。二つの参拝道の合流点は十六丁目「本坂追分」と思いますが、そこから頂上への道が描かれていません。 この図で、「来迎谷」がどこを指すのか不明です。他の記載文字は建屋や道や滝で、絵で描かれているのでわかりますが、「来迎谷」は谷が描かれていないため、記載文字の中央か、下か、右か、左かがわかりません。文字の中央、文字のあるところが一番可能性が高いと推察します。 そこでこの図から、「来迎谷」は、十六丁目「本坂追分」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。 嘉永5年頃(1852)年 『相刕大山繪圖』と同じ推察です。 両図において、大山寺不動堂の上にある名所の記載は「来迎谷」だけです。「来迎谷」は、大山寺、雨降神社(石尊宮)と良弁滝などと共に、江戸時代に流行した大山詣りで、人気の名所だったと思います。 山頂建屋は「雨降神社」で、山頂にある岩石を石尊大権現として祀ってあるため、石尊宮とも言われていたようです。 大山の「不動宮」が正面にあり、富士山が大山の右側に描かれていますが、正しい位置は大山の右側になります。 『相刕大山繪圖』は大山を東南から見ているので、大山の西南西にある富士山は、大山の右側になります。 ![]() ![]() 『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』
相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)| 神奈川デジタルアーカイブより引用
● 安政5(1858)年 歌川広重「大山道中張交図絵 石尊山来迎谷」 大山道中張交図絵 「石尊山来迎谷」を眺めます。張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたもので、その中に 「石尊山来迎ヶ谷」があります。大山に「石尊大権現」を祀ってあり、「大山参り」はここに参詣するのが目的になりますので、石尊山にしたようです。1858年制作になっているので、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の5年後の作品で、参拝客が多く描かれ、観光用の案内図のようです。そのため、 「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ構図をとっていますが、視点を鳥居の上にして、参詣客が鳥居のあるとことまで登ってくる参詣道が描かれています。 「不二三十六景 相模大山来迎谷」では、どのようにして鳥居に行くのかわかりませんでしたが、鳥居下の崖の斜面が参詣道であることがわかりました。 ![]() 「大山道中張交図絵」の「石尊山来迎ヶ谷」 ![]() 大山道中張交図絵 「良弁之滝」 「田村 渡船」 「大山前不動 朝霧」 「石尊山来迎ヶ谷」 「子安 土産挽物」
(6)明治11(1878)年8月 『相模國大山圖』 江戸時代の山内図にあった「来迎谷」がありません。 山頂の建屋も(小天狗、石尊宮、大天狗)から(前社、阿夫利神社、奥社)に変わり、中腹の建屋は不動明王から阿夫利神社〇殿に変わった。 これは、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されたためです。その後、不動明王像は現在地に移動して、大正4年に大山寺は復活した。 現在では、下社からの登山道には名所として八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」、二十丁目の「富士見台」がありますが、江戸時代には、大山寺から上の名所として唯一記載があったのは「来迎谷」です。しかし、「来迎」とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。明治維新の廃仏毀釈により、阿弥陀仏由来の名所も消されたと考えます。その後現在まで、大山案内図および地図で「来迎谷」の記載はありません 阿夫利神社拝殿横からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。その上に鳥居があります。 山頂下には、御中道が描かれており、その下側に「刈廻し」とあります。 大山山頂下のこの道は「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいたようです。 ![]() ![]() 『相模國大山圖』
神奈川県デジタルアーカイブ> 『相模國大山圖』より引用 ![]() 「相州大山のまちづくり」12ページから引用 (7)大正8(1919)年 『相模國大山全圖』 解説に「関東大震災前の大山の様子がわかる」とあります。御中道があります。 ![]() ![]() 『相模國大山全圖』
「神奈川県デジタルアーカイブ > 『相模國大山全圖』」より引用 (8)昭和6(1931)年から19(1944)年まで運行された大山ケーブルカーの会社が発行したパンフレット。 御中道があります。 大山、丹沢山、富士山の位置が正確です。 (9)平成28(2016)年こま参道入り口の伊勢原ハイキングコース案内図 「富士見台」が出てきました。 ![]() END |