歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す











3. 大山の「来迎谷」を、地図、絵図、山内図、絵葉書、石柱などから探す。


3.1 大山の「来迎谷」を、地図、山内図、風土記などから探す。



各時代の大山の「来迎谷」に関する資料(風土記、山内図、地図など)から以下のことがわかりました。

   (各時代の大山の「来迎谷」に関する資料(風土記、山内図、地図参照)



(1)平成の登山用地図「山と高原地図28 丹沢」昭文社2014年版には、大山周辺に「来迎谷」の記載はありません。

(2)明治、大正、昭和の大山の山内図には「来迎谷」の記載はありません」

(3)江戸時代

 ・嘉永5年頃(1852)年の「相刕大山繪圖」に「らい光たに」、安政5(1858)年の「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」に「来迎谷」の記載がありました。
 ・寛政9年(1797年) の「東海道名所図会巻五」、文政7年(1824)~天保12年(1841年)の「新編相模風土記稿」 ~嘉永5(1852)年の  「相模州大住郡雨降大山全圖」には、「来迎谷」の記載はありません」

歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」(嘉永5(1852)年刊)が描かれる前に、「来迎谷」の漢字で記載された資料はありません。そのため、広重が大山に来た時には、山内、寺院に「来迎谷」の表示板があったと考えます。

また、「東海道名所図会巻五」、新編相模風土記稿」などの公の史料には記載がないので、大山の寺院が観光用に宣伝している名所の名称かもしれません。   


上記の江戸時代と明治時代の大山の絵図、山内図を次に示します。



嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖」

山頂には「石尊宮」、「大天狗」、「小天狗」の建屋があり、その頂上に行く道は、「不動明王(現在の阿夫利神社下社)」にある「石尊入口」からの「ふじ道」です。その「ふじ道」の途中に鳥居があり、その上に「らい光たに」があります。相刕は相州、「刕」は「州」の異字体。

     ふじ道は、「ふじ道」と読みます。 らい光たには、「らい光たに」。  


・「不」の漢字は「不」のほかに「婦」があります。その場合そのくずし字は

 不  婦


・「に」の漢字は「仁」のほかに「爾 、尓」があります。その場合そのくずし字は

 仁  爾 、尓

  日本古典籍くずし字データセット変体仮名を調べる 五十音順一覧2より引用


「ふじ道」の「道」の漢字が現在と異なる。「目」のところが「用」になっている。異体字、旧字で調べてもこの漢字は出てきませんでしたが、「道」だと思います。
江戸時代の人は「ひらがな」を読み取るために相当勉強する必要があったみたいです。現代一般人は「くずし字データセット」がないと読み取れません。


広重の作品名は「来迎谷」ですが、『相刕大山繪圖』の記載は「らい光たに」、漢字で書くと「来光谷」か。
「来光」は「来迎」と同じ意味でつかわれていたようなので、「らい光たに=来光谷」と「来迎谷」は同じと考えます。

  「来光」の世界大百科事典 第2版の解説
今では山頂の日の出の意味に使われているが,もともとは御来迎(ごらいごう)と書いて,山頂近くの雲に自分の影がうつされると,色の付いた光の輪を背負った仏の像に見えることをいったものという。

 

この図からは、「らい光たに(来迎谷)は、現在の阿夫利神社下社から山頂までの登山道にあります。」としか言えません。


文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡に「是ヨリ本社迄山路二十八町、其間鳥居四基建」とあり、その鳥居四基は下図のように蓑毛からの参詣道との合流点の上にあります。蓑毛からの道の合流点は、現在の十六丁目「本坂追分」です。

そのため、「らい光たに(来迎谷)」は、「十六丁目本坂追分」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。

また、明治11年8月 『相模國大山圖』では、阿夫利神社拝殿(この図では不動明王)の、入口からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になっています。江戸時代のふじ道も、「十六丁目「本坂追分」から始まるとしたら、「らい光たに(来迎谷)」は、十六丁目「本坂追分と「二十八丁目」の山頂の間にあることになります。



相刕大山繪圖の拡大図

相刕大山繪圖

「相刕大山繪圖」


作品名:相刕大山繪圖
作者:佐藤坊開板(墨刷)
種別:古地図
時代:江戸時代
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:嘉永5年頃(1852)年
大きさ:58×36cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供

解説:江戸時代の壮大な塔頭の全容様子を伝える


神奈川県立図書館デジタルアーカイブ:相刕大山繪圖より引用



文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡  文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡


二つの道の合流点は現在の「本坂追分 十六丁目」で、その上に道に風土記に記載された四基の鳥居がある。
この山内図には、「来迎谷」の記載はありません。


文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡

文政7年(1824)~天保12年(1841年)新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座 図217/565 文226/565 -国立国会図書館デジタルコレクション
から引用





安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」


各時代の山内図で、「来迎谷」の記載がある図はこの一枚だけです。安政5年9月には「安政の大獄」があり、動乱の幕末が始まる時期です。歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は1952年刊行ですので、そのあとに出た山内図です。

大山山頂への参詣道は「本堂 不動宮」からの道と、蓑毛からの道が描かれており、出発点に「六月二十八日ヨリ七月十七日迄」と書いてあります。その二つの道が山頂雨降神社の下で合流しており、「来迎谷」の記載が、その合流点の左上にあります。二つの参拝道の合流点は十六丁目「本坂追分」と思いますが、そこから頂上への道が描かれていません。

この図で、「来迎谷」がどこを指すのか不明です。他の記載文字は建屋や道や滝で、絵で描かれているのでわかりますが、「来迎谷」は谷が描かれていないため、記載文字の中央か、下か、右か、左かがわかりません。文字のあるところが一番可能性が高いと推察します。

そこでこの図から、「来迎谷」は「本坂追分十六丁目」と「二十八丁目」の山頂の間にあると推察します。
嘉永5年頃(1852)年 『相刕大山繪圖』の「らい光たに」と同じ推察です。

江戸時代の山内図二枚では、「来迎谷」の場所は「本坂追分十六丁目」から二十八丁目の間ですので、 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」の作品解説にあった「富士見台二十丁目」、「ヤビツ峠分道二十五丁目の上」、「山頂付近」はすべて含まれます。

両図において、大山寺不動堂の上にある名所の記載は「来迎谷」だけです。「来迎谷」は、大山寺、雨降神社(石尊宮)と良弁滝などと共に、江戸時代に流行した大山詣りで、人気の名所だったと思います。

山頂建屋は「雨降神社」で、山頂にある岩石を石尊大権現として祀ってあるため、石尊宮とも言われていたようです。

大山の「不動宮」が正面にあり、富士山が大山の右側に描かれていますが、正しい位置は大山の左側になります。 『相刕大山繪圖』は大山を東南から見ているので、大山の西南西にある富士山は、大山の左側になります。富士山の位置をこのようにかってに変更している山内図ですので「来迎谷」の位置の信頼度は低いです。、






「来迎谷」 - Image Annotatorより引用


安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」



『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』


作品名:『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)』
作者:五雲亭 歌川貞秀
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景 
出版者、版元、発行所等:〔不明〕
出版年、撮影日等:安政5(1858)年
大きさ:36×74cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説:大山全景・参詣道と富士・江の島の俯瞰図

相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景(3枚組)| 神奈川デジタルアーカイブより引用






五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 安政5(1858)年の解説

大山の入口から山頂石尊社までの大山寺境内地のみならず、富士山・高尾山・江ノ島・伊豆半島まで描いています。大山を中心に据え、大山から見えるところまでを画面に入れています。

さて、大山の入口、現在いうところの三の鳥居の前には懸樋(かけひ)で水を引いた唐金の水盤があり、滝のように水が流れ落ちていたようです。  良弁滝・大滝・新滝(愛宕滝)を過ぎ、男坂・女坂(さいの河原道とあります)の合流部には仁王門があり、本堂・不動堂が描かれています。まさに川柳にある「大山のヘソのあたりに不動堂」です。 「石そん宮のまへに大ひなる箱あり 真中ニ太刀納ル又とりかへる」とあり、不動堂の裏手に納め太刀を納め、交換するための箱があったようです。不動堂に向かって左手には旧暦6月28日に開扉される木戸があります。

さらに左手の山の稜線には蓑毛方面からの登拝に関係した木戸があり、山頂・石尊社(この絵では雨降神社)に至る道が2筋であったことがわかります。 神仏分離で記録類が散逸してしまった大山では、このような資料から復元を進める必要があります。
気になる点を一つ。安政元年の年末から翌年正月にかけて大山は大火に見舞われ、町並はもとより、不動堂まで焼失しました。この絵はそれ以前の姿を描いたものと思います。

大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の説明文を引用





■明治11年8月 『相模國大山圖』

明治11年の山内図には、江戸時代にあった「来迎谷」がありません。

山頂の建屋も(小天狗、石尊宮、大天狗)から(前社、阿夫利神社、奥社)に変わり、中腹の建屋は不動明王から阿夫利神社〇殿に変わった。
これは、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき不動明王を本地仏とする石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されたためです。その後、不動明王像は現在地に移動して、大正4年に大山寺は復活した。

現在では、下社からの登山道には名所として八丁目の「夫婦杉」、十四丁目の「ぼたん岩」、十五丁目の「天狗の鼻突き岩」、二十丁目の「富士見台」がありますが、江戸時代には、大山寺から上の名所として唯一記載があったのは「来迎谷」です。しかし、「来迎」とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。明治維新の廃仏毀釈により、阿弥陀仏由来の名所も消されたと考えます。その後現在まで、大山の案内図、地図などで「来迎谷」の記載はありません

阿夫利神社拝殿横からの道は「本坂」、それが蓑毛からの道と合流した後は、「富士道」になています。蓑毛からの道の合流点は、現在の「本坂追分十六丁目」です。その上に鳥居があります。

山頂下には、御中道が描かれており、その下側に「刈廻し」とあります。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、または「お中道廻し」と呼んでいたようです。

この図で「来迎谷」の記載があれば、おおよその場所が特定できるのですが、その記載がないのが残念です。





相模國大山圖


『相模國大山圖』


作品名:『相模國大山圖』
作者:吉川帆澄  吉川善藏(墨刷)(大山町)
種別:古地図
時代:明治
位置:全景
 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:明治11(1878)年8月
大きさ:64.5×48.5cm
ページ:1枚
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 安政大火と神仏分離後の明治の大山


『相模國大山圖』| 神奈川県立図書館デジタルアーカイブより引用


「相州大山のまちづくり」12ページから引用





3.2 大山の「来迎谷」を、絵葉書から探す。


明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「来光谷」の記載があります。


  『縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり未婚の男女其戀ふ者の名を記したる紙を小指と栂指にて其樹に結付け其首尾よく結ばるを以て願叶へりとす』

大山「来光谷」の絵葉書


   

絵葉書-縁結の樹・来光谷 | 神奈川デジタルアーカイブ


この絵葉書は、頂上に至る二十丁目に「来光谷」があるといっています。

そこで、明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月ころの二十丁目と現在の現在の「富士見台 二十丁目」の石柱がある二十丁目は同じ地点か否かが問題となります。

寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五の石尊大権現社の項に次の記載があります。

  「石尊大権現社、本堂奥不動より険路二十八町にあり、女人結界也勿論常に諸人の参詣を禁ず 毎歳六月二十七日より七月十七まで参詣を免す 江戸及び近国近郷群参する事夥し道中筋大に賑わう 常は本堂の傍らなる中門を閉登山なし」
東海道名所図会、下冊、巻五 76/139より引用


また、先に見た 文政7年(1824)~天保12年(1841年)新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 226/565にも「是ヨリ本社迄山路二十八町、其間鳥居四基建」とあります。

そこで、広重の「不二三十六景 相模大山 来迎谷」が描かれた1852年頃は、不動宮(現在の阿夫利神社下社)から山頂までは現在と同じように二十八町で区切られていたようです。

 
昭和二年発行の小林順三「霊岳大山登拝のしおり」 の名所史跡の項で次の記載があり、昭和二年にも、下社から山頂までは二十八町です。

  「欺くて下社に達し愈々本坂にかかる。其登口に神門あり、平素閉門し春夏大祭の二期開いて頂上登拝を許す。之れより更に廿八町にして本社に達す。(中略)奥社より、左折右往して山嶺を一周せる道あり、之を御刈廻又は御中道と云ひ、奇景悉く寸眸の裡に集る。此道の東南面に親不知の険あり。」
名勝史蹟 大山道と街並み - 知る | 丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブより引用

これらから、上記絵葉書が発行された明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月の頃も下社から山頂までは二十八町であったと思います。


次に登山道の石柱で検討します。下記のサイトの石柱の記述を見ると(1)天保十年(1839年)の「三町目」が、現在の石柱「四丁目」の前にある。(2)明治7年の「町目」の石柱は、現在の「丁目」の石柱とほぼ同じところにある。
 *町と丁は、江戸時代には長さを表した単位で、同じ意味。1町は約109m。一里は36町。
これから、天保十年(1839年)および明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月頃の「二十丁目」は、現在の「富士見台 二十丁目」と同じところにあったと考えます。
  「天保十年(1839年)六月 神田三河町四丁目陸天長蔵 取締御師相原但馬」に立てられた石柱「三町目」が現在の石柱「四丁目」の前にある。
明治7年(1874年)3月建立の「十一町目」の石柱が、現在の「十一丁目」の石柱のそばにある。
旧「十三町目」の石柱が、現在の「十二丁目」と「十三町目」の石柱の間にある。
現在の十六丁目「本坂追分」のそばに、「三十六丁目」の石柱があったが、これは蓑毛からのものだろうか。
2016大山(3) - 山と鉄より引用

以上から、上記の絵葉書の記載が正しいとすれば、現在の「富士見台 二十丁目」は明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月の「二十丁目來光谷」であり、歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」の可能性が高いです。

しかし、この絵葉書以外の明治時代以降の山内図、紀行文などの史料に、「来光谷」の記載がないため、「富士見台 二十丁目」が、歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」と確定できません。

また、このころの絵葉書の地名の記述は正確さにかけるため、上記絵葉書の信頼性は疑問が残ります。
例えば、「大山からの富士山」の絵葉書は3枚ありますが、3枚とも大山からの富士山ではありません。「大山山頂からの富士山」が4枚ありますが、山頂付近からの富士山は一枚だけで、富士見台からが2枚、ヤビツ峠分道付近が一枚です。縁結びと富士山展望に関する絵葉書がこのような状態ですので、「二十丁目來光谷」の記載も全面的には信用できません。



 明治大正時代に発行された「大山からの富士山」の絵葉書の撮影場所参照)

現在では「縁結の樹」の詳しい位置は不明ですが、縁結びの樹の絵葉書と「えんむすび」の記載がある山内図があります。

 (二十丁目來光谷の傍にある縁結びの樹の絵葉書と山内図参照)



3.3 大山の「来迎谷」を、石柱から探す。


現在、阿夫利神社下社からの山頂までの登山道は、一丁目から二十八丁目に区切られて、各丁目に石柱が置いてあります。

二十六丁目に「大山口登山道 来迎谷 二十六丁目」の石柱があります。昭和四十一年(1966年)七月吉日に設置されたようです。

明治になって山内図から消えた「来迎谷」がほぼ百年ぶりに石柱で復活しました。国定公園ですので神奈川県が管理しており、そこが作成した石柱です。この二十六丁目を「来迎谷」とする確かな史料か根拠があったと思います。しかし、その史料は今のところ不明です。江戸時代の前掲した山内図から類推して、ここを「来迎谷」にしようといい、石柱を立てたかもしれません。そのため、「来迎谷 二十六丁目」が歌川広重が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた「来迎谷」と確定できません。

見どころがない場所は単に「登山道三丁目」と記載されます。最後の山頂も、「大山口登山道 二十七丁目」です。
名所の記載があるのは「夫婦杉 八丁目」、「ぼたん岩 十四丁目」、「天狗の鼻突き岩 十五丁目」、「本坂追分 十六丁目」、 「富士見台 二十丁目」、「ヤビツ峠分道 二十五丁目」、 「来迎谷 二十六丁目」、「 御中道 二十七丁目」 

二十丁目は、「来迎谷」ではなく「富士見台」となっています。

大山の石柱の写真は上記2016大山(3) - 山と鉄にすべてあります。


   本坂追分十六丁目の石柱  富士見台二十丁目の石柱    来迎谷二十六丁目の石柱   御中道二十七丁目の石柱 
   本坂追分
十六丁目
 富士見台
二十丁目
 来迎谷
二十六丁目
 
御中道
二十七丁目
 

      
大山登山道の地図


二十五丁目ヤビツ峠分道から二十七丁目御中道までは約200m、標高差約63mです。その中央あたりに二十六丁目来迎谷があります。



山岳展望用ソフト「カシミール3D」のカシバードで作った大山地図

山岳展望用ソフト「カシミール3D」のカシバードで風景画像作成



大山の地図




大山の「来迎谷」を、地図、絵図、山内図、絵葉書、石柱などから探し、次の三点がわかりましたが、②と③のいずれが正しいかは不明です。


①江戸時代の大山の山内図に、「らい光たに」、「来迎谷」は「本坂追分十六丁目」と「二十八丁目」山頂の間に記載されている。明治時代の山内図には「来迎谷」は無い。

②明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月の絵葉書に「二十丁目來光谷
の記載がある。

③現在の登山道に神奈川県が昭和四十一年(1966年)七月吉日に設置した「来迎谷 二十六丁目 」の石柱がある。