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明治・大正・昭和時代の大山のご中道と鳥居を絵葉書で見る





1.現在の二十七丁目御中道の鳥居と御中道

現在の大山山頂付近の地図です。江戸時代から昭和初期まであった御中道は鳥居の西側が封鎖されて侵入禁止になっています。登山道という道も見当たりません。鳥居の西側に細い道が在りそこを進むと山頂裏側の展望地に着きます。これが残っている御中道と思います。展望地からトイレを経て関東平野を展望する細長い広場がありますが、これも元の御中道と思われます。


大山山頂部地図



現在の登山道の二十七丁目「御中道」に鳥居があります。坂道の上に鳥居があります。



二十七丁目「御中道」に鳥居



鳥居の上に27丁目「御中道」の石柱があります。鳥居の左側に山頂裏に行く細い道があります。この道が江戸時代の御中道と思います。
右側は柵があり道がありません。


鳥居の上に27丁目「御中道」の石柱
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大山27丁目「御中道」鳥居の上からのgoogleマップのストリートビューの画像です
登りの登山道は尾根の中央が掘られた形状でになっています。掘られていなければ尾根の一番高いところになります。



大山27丁目「御中道」鳥居の上からの画像




大山山頂裏の富士山展望地です。鳥居の左の細い道を進むと、この展望地に着きます。江戸時代からあった御中道と思います。
この右横に電波塔があります。


大山山頂裏の富士山展望地



山頂裏の展望台・電波塔からトイレの横を通り細長い展望地に着きます。相模湾、関東平野を眺める休憩広場になっています。ここも元の御中道と思います。


相模湾、関東平野を眺める休憩広場



相模湾、関東平野を眺める休憩広場





2.明治・大正・昭和時代の御中道にある鳥居を絵葉書で見ます。



今回掲載した絵葉書は大山・絵葉書:神奈川県デジタルアーカイブより引用しました。
そこには発行年の記載はありません。そこで、絵葉書の表側の形式から、推察した発行年を記載してます。


発行年
通信欄  ハガキの表記 
明治40(1907)年~大正7(1918)年  絵葉書の表面の下部3分の1 きかは便郵
大正7(1918)年~昭和8(1933)年   絵葉書の表面の下部2分の1  きかは便郵
昭和8(1933)年~ 昭和20(1945)年  絵葉書の表面の下部2分の1 きがは便郵
戦前の文字表記の殆どが右から左流れでした。戦後は現在と同じように左から右流れ、「郵便はがき」に変わります。
【番外編】古い葉書を読み解く; YOKOHAMA xy通信より


■大山本宮鳥居前 Before The Entrance To The Main Shrine. (Oyama, Sagami.)  出版年::明治40(1907)年~大正7(1918)年

現在の二十七丁目御中道と同じところに、鳥居があります。現在の鳥居は明治三十四年東京「銅器職」講中寄進の鳥居ですので同じ鳥居のようです。この鳥居の左側が御中道の出発地点です。鳥居の下が写っていないので、上り道の凹部の状態、樹木の伐採の状況はわかりません。



絵葉書:大山本宮鳥居前



■相州大山 阿夫利神社 本社  出版年:明治40(1907)年~大正7(1918)年







■相大山名勝 頂上銅鳥居 Sagami Oyama』
出版年:大正7(1918)年~昭和8(1933)年 
解説(聞き取り): 山頂の鳥居で、左側に見える道がお刈り回しのスタート地点である。







3.明治・大正時・昭和代の御中道を絵葉書で見ます。


御中道は広い道もあり、樹木の伐採はかなり行われています。この御中道が、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていたようです。

鎖場になっている御中道の上に大きな岩が十数個ある場所が最も絵葉書に採用されています。また、親不知と呼ばれるところには高さ5m以上の大岩もありました。これらは、現在残っている御中道では見かけないため、封鎖になっている東南部の御中道と思います。

御中道から、富士山が見えていますが、御中道からの富士山としては一枚しかありません。富士山が見える御中道としての宣伝はそれほどしていなかったようです。
(「山頂からの富士山」の題名で、御中道からの富士山の絵葉書は大正7(1918)年 ~昭和8(1933)年に二枚あります。



(1)出版年:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月

鎖場になっている御中道の上に大きな岩が十数個あるこの場所の絵葉書が三枚。


■大山御中道  (Gchudo. Oyama,sagami.)




■御中道

『御中道、頂上の鳥居より左右に岐れ山頂を一周する歩道を云ふ歩は從て寄勝絶景身邊に集り
處々鐵鎖を設けて往來に便す其處は千仭の谿に沿ひ壯絶の大景以て心膽を練り晧然の氣養をふべし』






■相州大山 御刈廻 社務所発行









(2)出版年:大正7(1918)年~昭和8(1933)年 




■相州大山名勝 御中道廻り GTYUDO-MEGURI OF OYAMA

カラー版です。白黒印刷したものに手作業で彩色した絵葉書を手彩色の絵葉書といいますが、これが手彩色とすると素晴らしい技術です。






■相州大山名所 落人廻り

上と同じ写真で白黒です。同じ写真で題名が「相州大山名勝 御中道廻り」から「相州大山名所 落人廻り」に変わります。





■相模大山 頂上御中道廻り 社務所発行







■大山名所 御中道廻 View of Oyama

上と同じ写真。社務所管理の写真を使わせてもらうのか。





■相模大山名勝 お苅廻し VIEW OF OYAMA SAGAMI』

ここまでの五枚は、明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月と同じ鎖場の御中道。






■相刕大山親不知 View of Oyama

東南面の御中道ですので、鳥居の右側で、現在廃道になっているところにあったようです。


   絵葉書:相刕大山親不知 『相刕大山親不知 View of Oyama』


説(聞き取り):

・この場所は、「お刈廻し」(おかりまわし)にあった「親知らず」である。大きな石があり、道が狭く急で危険な場所であったからこの名が付いたのではないか。
・なお大山山頂の周囲には、富士山のお鉢巡りのように狭い山道が整備されていた。この道を「お刈廻し」(おかりまわし)、「お中道廻し」と呼んでいた。
・昭和30年~40年頃までは使われていたが、今は整備されておらず歩くことはできない。
・そもそもこの道は、火災を防ぐ防火帯の役割を持っていた。




『小林順三氏による「霊岳大山登拝のしおり」(昭和二年六月三十日発行)』

欺くて下社に達し愈々本坂 にかかる。其登口に神門あり、平素閉門し春夏大祭の二期開いて頂上登拝を許す。之れより更に廿八町にして本社に達す。本坂一丁目に老杉對立す高さ十五丈許 り、宛然華表の如く之を鳥居杉といふ。廿四丁より間道を左折すること一二丁にして清泉あり、御神水として供奠す。漸く頂上に達すれば當山特殊の雨降山あ り、常に雨露の點滴するを見る。幹高二丈五尺 周囲九尺許、樹齢四百年を超ゆ、誠に珍奇の靈木なり。和名ブナと称し(又はソバノキ)温帯地方に産す。古昔 の石尊大權現は本社にして,大天狗小天狗(奥社前社)雲表に鎮座す。

奥社より、左折右往して山巓を一周せる道あり、之を御刈廻又は御中道と云ひ、奇景悉く 寸眸の裡に集る。此道の東南面に親不知の險あり。





■相刕大山御中道廻


絵葉書:相刕大山御中道廻



■(相模大山) 阿夫利神社頂上御中道廻り (社務所発行) 

こちらと次も鎖場になっています。


絵葉書:阿夫利神社頂上御中道廻り


■相刕大山御中道廻 View of Oyama』


絵葉書:相刕大山御中道廻



■大山名所 御中道めぐり 


絵葉書:大山名所 御中道めぐり




■(相模大山) 雲上に聳ゆる御中道の夕景 (社務所発行)

4枚目に乗せた現在の山頂裏の展望地付近と思います。

絵葉書:(相模大山) 雲上に聳ゆる御中道の夕景







(3)出版年:昭和8(1933)年~ 昭和20(1945)年

この年代で新たに出てきた同じ場所の三枚の絵葉書。方位石と表示石が新たに設置されたのか。大島が見えるので鳥居周辺と思いますが、現在はないと思います。




■相刕大山名所 頂上より大島を望む

相模湾の奥に大島、それが右側に見えるので、撮影場所は南側の御中道か。

絵葉書:相刕大山名所 頂上より大島を望む




■大山名所 頂上御中道

上の方位石と表示石を下側から撮影した写真と思います。
現在の山頂裏にある展望地かと思いましたが、そこからは大島が見えません。
そこで、この場所は鳥居付近の南部の御中道と考えます。


絵葉書:大山名所 頂上御中道




■相刕大山名所 頂上御中道

上の写真のネガを反転して現像している。上が正規の写真になります。
大山山頂からの富士山の絵葉書でも、ネガを反転した写真がありました。


絵葉書:相刕大山名所 頂上御中道





(4)大山登山の履物

大山の登山道は岩場も多く、しっかりした登山靴を履いて登ります。スニーカ-などでは登りません。

しかし、明治から昭和初期までの絵葉書を見ると、その履物に驚きました。

地下足袋が多く見られました。画像が鮮明でないため、一枚しか載せませんでしたが、地下足袋と思われる人が数名いました。現在でも。登山用の地下足袋が売られているので、結構登山には適した履物かもしれません。
素足に草履が一番多いようです。少年も、青年も、老年も素足に草履です。かかとと甲を固定しない草履で、岩場の多い大山を登っていたようです。
素足に下駄の強者もいます。靴らしき物を履いている人もいました。






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  地下足袋

地下足袋
素足-草履

素足-草履


 素足-草履

素足-草履



靴、素足-草履 素足-草履 素足-下駄

靴   素足-草履
素足-草履 (ボタン岩の絵葉書) 素足-下駄




■歌川豊国(三代)『石尊大権現嶮路登山ノ圖(2枚組)』   出版年:万延元(1860)年

江戸時代は素足に草鞋。かかとと甲を縄紐で固定した草鞋です。足の指がしっかり岩をつかんでいます。


歌川豊国(三代)『石尊大権現嶮路登山ノ圖(2枚組)』

石尊大権現嶮路登山ノ圖(2枚組):神奈川県立図書館デジタルアーカイブより引用



4.江戸時代の鳥居と御中道




■弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖」

参詣道を登り、「大鳥居」に来るとその左右に「中道」があり、鳥居の上には、石尊宮があるという図です。
この作品の出版は、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の出版の1~5年前です。



<font size="+0"><font size="+0">歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖</font></font>


神奈川県立図書館デジタルアーカイブ-『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』より引用





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