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サイト運営者挨拶  佐藤正昭





富士山と野の花眺めて山歩き」のトップページで姥子山山頂から富士山を眺めていた熟年夫婦、佐藤正昭、佐藤泰子がサイト作成者です。代表して、佐藤正昭が挨拶します。


姥子山山頂から富士山を眺める熟年夫婦


 
御坂黒岳に最初に登ったのは2008年11月14日。60歳で定年退職して一ヶ月も経っていない時です。それまで富士山を見るための山歩きという意識はなく手軽な山をさがして、山歩きを楽しんでいました。
しかし、御坂黒岳展望台で、唐突に富士山のいる大展望が目の前に広がりました。絶句して、息を呑み、ジーーと見事な富士山を見ているうちに胸の中で何かがはじけたようです。その時思った、多くの山から富士山を眺めてみたい。それから、富士山眺めて山歩きが始まりました。私にとっては記念すべき山です。



2008.11.14 12:19 御坂黒岳展望台からの富士山


2008.11.14 12:19 御坂黒岳展望台からの富士山   胸の中で何かがはじけます 





高松山は、神奈川県北西部に広がる丹沢山地の南部にある標高801mの山。箱根の山、相模湾方向の展望が開け、富士山がいる素晴らしい大展望です。

今回の山歩きまでは、カメラを持っていかず、写真撮影は相棒さんが担当していた。富士山展望は一期一会であり、その時の感動は心に刻んでおけばよい、心に刻むのが正しい行ないと思っていた。しかし、60歳代の高齢のためか、心に刻んだはずの感動も山歩きの道筋も、2、3年で跡形もなく消えることが多くなった。感動を定着させるには、再度画像の認識が必要ではないかと思った。しかし、所有のカメラはとても大きく重い一眼レフ、山歩きの快適さを犠牲にはできないと諦めていた。


そんな折、PENTAX Q7が発売された。その時点ではミラーレス一眼レフの世界最小の軽量カメラで、超広角の交換レンズ08がある。山に持っていくカメラとして、自分が想定していた要求にぴったりである。体の前面に装着したケースからすぐに取り出せ、山歩きの邪魔にならない。交換レンズ二本が、鉛筆ケースに入る大きさ。画質も、快晴の天気にめぐまれたこともあり、充分満足できた。この時から、PENTAX Q7で富士山を撮りまくりました。






2013.12.29 10:28 高松山山頂からの富士山がいる大展望 感動を蘇る十分な画質 
拡大画像&山座同定





感動を保存するために、写真整理をしているときに気が付いた。山道を登りながら野の花を眺め、山頂で富士山を眺め、おにぎりを食べ、珈琲を飲みながらじっくり富士山を眺めて、山を下りる。そ日から二週間ほど、体も心も充実感で満たされています。体はおにぎりと珈琲から栄養を貰い、心は野の花と富士山から栄養を貰います。

こんな素晴らしい山歩きを他の人にも体験してもらいたい。特に熟年層の方々に進めたいという気持ちが出てきました。しかし、HPを作る写真は有るが記録がない。ところが、一緒に山歩きをしている相棒さんが緻密な山歩きの記録を付けていました。これほど几帳面な性格の人とは知らなかった。 40年間気が付かなかったのも問題です。

そこで「野の花と富士山眺めて山歩き」のHPを公開する事ことにしました




2014.4.1 10:28 ミツバ岳山頂からの富士山 ミツマタと富士山が見られる貴重な山頂です。 


しかし移り気で凝り性の性格のため、「富士山あれこれ」、「北斎・富嶽三十六景」などの作成にも時間をとられ、富士山展望のページ作成が進みません。予定した北斎が「富嶽三十六景」を出版した、71-74歳も過ぎて、全体の完成にはあと数年かかりそうです。知能、体力が劣化する前に、作成途中ですが76歳でHPを公開することにしました。







山歩きを始めたのは定年前の57歳のころです。体力低下を挽回するために、西丹沢の標高747m(登り613m)の初心者向きの山に登った。しかし、疲労困憊で中腹で下山しようと思うほど体力、脚力は衰えていた。このことに猛省して、大学時代剣道部での練習を思い出し、計画的に体力強化を進めた。朝通勤時に一駅前に降りて歩き、事務室が有る15階まで階段で登る。その間、徐々に標高を挙げて週末に山登りを続けた。58歳の時、丹沢山地の標高1491m(標高差1201m)塔ノ岳にほぼ毎週登り、山と高原地図の登頂時間210分を149分で登れるまでになった。60歳近くでも頑張れば脚力、体力が戻ることを知り、山歩きが楽しくなった。

そのころ、「山歩き記」で相棒さんと書いている三歳下の奥様を登山に誘いこんだ。息子達との2時間ほどのハイキングでもあまり乗り気ではなかった奥様を箱根旧街道のハイキングに連れ出した。これが気に入ったのか仏果山などの低山登山に一緒に登るようになった。その後、天気が良かった日に、無理だったら途中で降りてくれば良いと思いながら、塔ノ岳登山に誘った。すると、驚くことに、200分程で塔ノ岳山頂まで登り、あまり疲れた様子が見えない。山登りに合った体質なのか、これも40年間気が付かなかった





2018.1.14 11:34 塔ノ岳山頂から  富士山のいる大展望. (2018.1.14 11:34) 拡大画像&山座同定



これにより、熟年夫婦の山歩きが始まりました。
その利点は①相棒さんが立派な登山用具を揃えるため、旦那も全シーズンの登山用品一式を揃えることができた。②丹沢山地地だけでなく、御坂山地、静岡の山なども登るようになった。③それらの、登山口までの行き方、登山コースなどの登山計画すべてを相棒さんがやってくれる。④登っているときはどちらも辛い、山頂に着くと富士山を眺めて、二人でイイネと喜ぶため、言い争いをする暇がなく、登山の時は夫婦円満です。

問題点は、最初指導員として相棒さんの後ろから注意を与えて登っていたが、そのうち相棒さんとの距離が大きくなり、振り返ってもっと早く登ってくださいとの指導が来ること。撮影に時間をとられているんだよと偽りの言葉で対応しなければいけないことです。


山歩き記で奥さんのことを何と記載するか迷った。泰子、泰子さん、妻、家内、女房、細君、嫁さん、かみさん、ワイフ、奥さん、奥方、愚妻、荊妻、山妻、御主人と色々有るがこれと決められない。熟年夫婦は水谷豊の「相棒」をかかさず観ている。奥方様は、昼間の暇なときはBS放送で再放送も観る。三回目までは筋を思い出さないから楽しんで見れるという。これで、山歩きでの奥方様の呼び方は「相棒さん」となった。ミステリーファンとしては、初期の「相棒」は謎解き、展開のきれあじがよかったが、長期連載のためか、脚本に質の低下がめだち、観ることをやめた。続けてみるのはNHK朝ドラだけになった。






2014.12.07 9;54 足柄城址石碑からの富士山  

とても良い脚本の2013年1月1日元日スペシャル「アリス」 美しい波留さんが茜役で出ています。
舞台は早蕨村という設定ですが、ドラマのラストで杉下右京が富士山が見える足利城址跡を歩き
ます。






2014から2018年まで体調、体力、脚力とも順調で富士山展望の山を、毎年50回ほど登りました。このころは、富士山展望の山で鮮明な富士山を撮影することが目的になっていました。静岡の浜石岳は3回目に行った2014.3.7も雲のため富士山が山頂しか見れなかったため、二週間後の3.23に再度行くほど熱心でした。
熟年夫婦の山歩きを「熟年夫婦富士山展望の山を歩く- 富士山と野の花眺めて山歩き」に纏めました。







2014.12.07 9;54 足柄城址石碑からの富士山  鮮明な富士山に満足して岩本山にも登る。


また、このころから年賀状は富士山を背景にした熟年夫婦が出てきます。



 

三ツ峠山の山小屋に泊まり、開運山から富士山の朝焼けを見る。

しかし、70歳になると何もしなくても体に異常が起きる。2017.12.27に大山に登った時、腰部に異常を感じ山頂まで行かず中腹歩き帰宅した。その後徐々に腰部に痛みが強くなり、腰を曲げた状態でしか歩けなくなった。病院でMRIをとり、脊柱管狭窄症と診断され、ボルトナットで脊柱管を固定する大手術を行った。手術は成功したが、半年たっても2㎞歩くと神経が走っている腰部、臀部、股関節、表太もも筋、裏太もも筋のどれかが痛くなる。筋肉痛でなく、神経の痛みのため精神的な疲労も伴う。


脊柱管
狭窄症
 
         
 
 リハビリ

不調

成功

 


そのため年賀状は熟年夫婦がいない富士山展望の山になります。





富士山も傷つきます。私も傷つきます。ボルトナットで脊柱管の骨を固定。








このような状態で諦めずに「歩きすぎ―痛み、歩きすぎ―痛み・・・」を繰り返すリハビリ生活を送る。、手術から4年後の新春、これで諦めるかと思った挑戦の時、奇跡的にも痛みが消えた。何故消えたかはわからない。70歳を過ぎるとわからないことが多くなるため深く追求しない。諦めてはいけないということだけはわかった。

痛みが消えたことに喜び、慎重に富士山が見える低山歩きを積み上げていきます。脚力、体力の劣化はが大きいことがわかります。
吾妻山-江の島-湘南平-鎌倉天園-曽我兵陵-弘法山-松田山-蓑毛越-高尾山-十国峠-景信山-石老山-陣馬山-大山籠や道-要害山-ヤビツ峠から大山-大野山-不老山-矢倉岳―小野山-高尾山城山-大山ケーブル-大野山

2023年の記録的猛暑のためここで中断します。猛暑中は朝の3キロほどの散策だけにします。







富士山と菜の花を再び見れた喜びを味わう





しかし、猛暑明けに今年の目標は塔ノ岳と歩きはじめると、不思議なことに痛みが再発してきた。脊柱管狭窄症で生じた左足の痛みだけではなく、右足も神経的痛みを伴う。手術後のMRIでも変化は見られない。これは老化に伴う坐骨神経相と判断し、市販の神経痛改善に聞くビタミン剤を飲みながらまたまたリハビリ生活に入る。現在2024年の猛暑8月ですが不思議なことに痛みが弱まったような気がしないでもない。これからぐ-んと良くなるかがくーんと悪くなるかはわからない。諦めずに続けます。

現在、朝は境川わき道の散策、午前中はHP作成、午後はNET囲碁、晩御飯後は適当、その間大谷翔平の野球観戦、相撲観戦、藤井聡太のっ将棋タイトル戦観戦、囲碁タイトル戦など。勝負事が好きなようです。





花と富士山は心の栄養です。


田宮寅彦の小説「花」で、リンは「花は食べることはできないけれど、口で食べるものだけが食べものではない。心で食べるものがなくなってしまったら、心は生きてゆけなくなってしまう」といいます。
花は心の栄養です。


俵万智の「サラダ記念日」に私の好きな歌があります。
 
 今日までに 私がついた 嘘なんて どうでもいいよと いうような海

万智さんに断りなしに次の様に変えて感動しています

 今日までに 私がついた 嘘なんて どうでもいいよと いうような冨士

ここでの嘘は誤ったと思っている行い、言動と思っています。これらは富士山を眺めていると些細なことに思えてきます、
富士山は心の栄養です。






佐藤正昭(さとうまさあき)

1948年(昭和23年) 北海道幾春別に生まれる。
             小学校の時と時津風部屋から角界への勧誘を受ける
1967年(昭和42年) 富良野高校卒業、「北の国から」の舞台
1971年(昭和46年) 北海度大学理学部化学科&剣道部卒業
1973年(昭和48年) 北海度大学大学院理学部化学科卒業
             日立製作所入社 35年間ほぼ研究所
2008年(平成20年) 日立製作所退社社
2024年(令和6年)  HP制作、山歩き中断、
             囲碁(ネット対局幽玄の間六段、時々七段)
               1974年に結婚。息子2人、孫3人。
                
   
佐藤泰子(さとうやすこ)

1952年(昭和27年)北海道岩見沢市に生まれる


1974年に佐藤正昭と結婚。息子2人、孫3人。

現在も大野山を中心に山歩きをつづけています。




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