歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す












5. 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から描かれた場所を探す。



5.1 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から左側の断崖絶壁を外す。


歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」を再度掲載します。

右側の大山の断崖絶壁の上に鳥居があり、参詣者が一人います。断崖絶壁とはほとんど垂直に切り立った、大変険しい崖を指しますが、広重の絵はそのような崖です。鳥居があるので大山の参詣道と繫がっていることになります。

その左に、同じような断崖絶壁がありその間に峡谷を形成してます。左の断崖絶壁は、大山と向かい合う高さが同じような山の一部か、大山の二つの尾根によってえぐられた凹部が形成された場合、その左側の尾根になります。
しかし、大山の登山道から、このような景観を見ることはありません。登山道だけでなく大山のどこからも、このような景観を見ることはできないと思います。

ここで、大山にはこのような場所はありません、と諦めては先に進めません。広重が「来迎谷」の地名に合わせて左の断崖絶壁を書き加え、峡谷の構図に変えたと考えます。作品の題名になる地点から見える景観に、その地点からは絶対に見ることができない景観を書き加えて作品を完成させるのは、広重の得意とするところです。
「不二三十六景 甲斐犬目峠」で、描いた地点からは見えない桂川を描いています。

右側の断崖絶壁を取り除くと富士山と丹沢山地だけになり大山から描いたたという作品にならないので、鳥居のある断崖絶壁は残します。



右側の断崖絶壁を取り除いた画面を表示する前に、 「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ地点から描いたと思われる「大山道中張交図絵  「石尊山来迎谷」を眺めます。
張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたもので、その中に「石尊山来迎ヶ谷」があります。大山に「石尊大権現」を祀ってあり、「大山参り」はここに参詣するのが目的になりますので、石尊山にしたようです。1858年制作になっているので、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の5年後の作品で、参拝客が多く描かれ、観光用の案内図のようです。そのため、 「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ構図をとっていますが、視点を鳥居の上にして、参詣客が鳥居のあるとことまで登ってくる参詣道が描かれています。 「不二三十六景 相模大山来迎谷」では、どのようにして鳥居に行くのかわかりませんでしたが、鳥居下の崖の斜面が参詣道であることがわかりました。また、鳥居の前で参詣者が富士山を眺めているようですので、ここから富士山が見えていたと考えます。


歌川広重 大山道中張交図絵 「石尊山来迎ヶ谷」 

大山道中張交図絵  「石尊山来迎ヶ谷」 



歌川広重 大山道中張交図絵


大山道中張交図絵 「良弁之滝」 「田村 渡船」 「大山前不動 朝霧」 「石尊山来迎ヶ谷」 「子安 土産挽物」

張交図(はりまぜず)とは、1枚の中に複数箇所の名所(風景、名産、物語等)を並べたもの
 



「不二三十六景 相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を取り除いて、丹沢山地と思われる山並みを追加し、鳥居下に参詣道を描いた図を作りました。



左の崖を削除した歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」




更に、富士山を実際に見えている形状に直すため、縦方向だけを60%に縮小しました。鳥居下の参詣道も少しなだらかになり、これなら登ってこれそうです。山の斜面もなだらかになり鳥居上の参詣道を登るとすぐに山頂の石尊宮に到着する雰囲気になりました。この画像で、「来迎谷」を描いた場所を探します。

しかし、現在の登山道で、このように鳥居が見えて富士山が見えるところはありません。
富士山と谷が見えるところは探したので、その場所で鳥居と急坂の参詣道が見えるところを探します。



左の崖削除、縦60縮小歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」





5.2 鳥居の見える登山道を探す-二十七丁目御中道


「谷」探しで掲示した画像を再掲します。現在の登山道で鳥居のあるところは27丁目「御中道」です。急な坂道の上に鳥居があります。



鳥居のある27丁目「御中道」



鳥居の上に27丁目「御中道」の石柱があります。鳥居の左側に山頂裏に行く細い道があります。この道が江戸時代のご中道と思います。
右側は柵があり道がありません。



鳥居の上に27丁目「御中道」の石柱




大山27丁目「御中道」鳥居の上からのgoogleマップのストリートビューの映像です
登りの登山道は尾根の中央が掘られた形状になっています。掘られていなければ尾根の一番高いところになります。その登りの道はかなり岩が多い急坂です。高齢者には、最後のひと踏ん張りと思い登る坂道です。 「石尊山来迎ヶ谷」で描かれた登る参詣者と鳥居で迎える参詣者の気持ちがわかります。また、鳥居の下は階段になっていますが、御中道の中心地ですのでもう少し広い平坦地になっていたと思います。



大山27丁目「御中道」鳥居の上からのgoogleマップのストリートビューの映像



明治・大正時代のご中道と鳥居を絵葉書で見ます。
  
 大山絵葉書御中道参照

現在の二十七丁目御中道と同じところに、同じ鳥居があります。鳥居の下が写っていないので、上り道の凹部の状態、樹木の伐採の状況はわかりません。
ご中道はかなり広い道もあり、樹木の伐採はかなり行われていたようです。そのご中道から富士山が見えています。また、親不知と呼ばれるところには高さ5m以上の大岩もありました

■『大山本宮鳥居前 Before The Entrance To The Main Shrine. (Oyama, Sagami.)』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月

現在の鳥居は明治三十四年東京「銅器職」講中寄進の鳥居ですので同じ鳥居のようです。この鳥居の左側が御中道の出発地点です。

大山本宮鳥居前の絵葉書


相州大山 阿夫利神社 本社』
出版年撮影日等:明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月

相州大山阿夫利神社本社の絵葉書



『相刕大山名所 頂上御中道』
出版年:昭和8(1933)年~ 昭和20(1945)年
、この場所は鳥居付近の南部の御中道と考えます。


相刕大山名所頂上御中道の絵葉書




5.3 鳥居の見える登山道を探す-江戸時代の二十七丁目御中道


現在、明治、大正時代にあった鳥居と御中道が江戸時代にあったか否かを調べます。

鳥居と御中道のある山内図御中道を再掲します。


■文政7年(1824)~天保12年(1841年) 新編相模風土記稿)

不動堂から山頂の石尊社まで二十八町あり、その間に鳥居が四基あると書いています。御中道の文字はありませんが、山頂を囲む道があり鳥居一基は山頂とご中道の間にあります。




■弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖

参詣道を登り、「大鳥居」に来るとその左右に「中道」があり、鳥居の上には、石尊宮があるという図です。ご中道と鳥居を、大山の名所として描いています。
現在、明治、大正時代に、27丁目ご中道にあった鳥居が江戸時代にも同じ場所にありました。御中道全体の下側は、岩が露出しているように描いています。火災を防ぐため又は観光ためか、樹木の伐採が行われていたかもしれません。

この作品の出版は、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の出版の1~5年前です。広重はこの図を参考にして「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いたかもしれません。
しかしながら、鳥居下の状態がかなり違います。大きな岩石がせり出して、断崖絶壁を形成し、その上に参詣者が十数人登り、富士山方向を眺めているように見えます。現在、鳥居周辺にこんな大きな岩石はありません。明治大正時代にの絵葉書にあったご中道東南面にあった親不知の岩石を鳥居下に持ってきたかもしれません。
又は富士山展望の場所として誇張して描いたかもしれません。
「相模州大住郡雨降大山全圖」は歌川国芳の浮世絵の作品で、観光案内を目的に作られたと思いますが、残念ながら、この大きな岩石周辺に「来迎谷」の記載がありません。
下に示す江戸時代の同じころの浮世絵、絵図に「来迎谷」の記載があるのに、この山内図に記載がないのが気になりますが、その理由はわかりません。

「らい光たに」の記載がある、絵図(地図)として作られた 「相刕大山繪圖」は嘉永5年頃(1852年)
「来迎谷」の記載がある、五雲亭 歌川貞秀の「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」は安政5年(1858年) 
歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は嘉永5年頃(1852年)
歌川広重「大山道中張交図絵 石尊山来迎ヶ谷」安政5年(1858年) 


来迎谷探索から外れますが、この山内図の変わったところは、(1)参詣道に丁目の記載がありますが、前不動の上を二十六丁として大鳥居下を五十丁にしているところ(2)不動堂の記載がないところです。
文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模風土記稿に、「坂本村から前不動が二十二町、前不動から男坂経由で不動堂が十八町、不動堂から石尊社が二十八町」とあります。すべてを足すと六十八町になりますので、五十町がどこから出てきたかわかりません。
大山の山内図で不動堂を描いていないのは、この山内図だけです。大山詣りの中心部である不動堂を描かないで、茶屋と思われる小屋を多く描いています。実際にこんなにはなかったと思いますが、各丁に一軒以上の茶屋を描いています。また、明治時代の絵葉書に出てくる「えんむすび」も四十丁付近に描いています。

浅学のため四十八丁目前後の記載等が読み取れないのが残念です。

 四十八丁目前後の記載



歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖の拡大図


歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖


歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖


作品名:相模州大住郡雨降大山全圖
作者:歌川国芳
種別:浮世絵
時代:江戸時代
位置:全景 
出版者、版元、発行所等: (不明)
出版年、撮影日等:弘化4(1847)年~嘉永5(1852)年
大きさ36.5×75cm
ページ:3枚組
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供
解説: 大山全景・参詣道と多くの講中・遠景に江の島


『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』| 神奈川デジタルアーカイブ
より引用



5.4 カシバードで、26丁目来迎谷から27丁目御中道の鳥居を眺める。

27丁目御中道に鳥居の形を書き込み、それを登山道の26丁目来迎谷からカシバードで眺めます。
26丁目来迎谷石柱の明確な位置がわかりませんので、二十五丁目ヤビツ分道と二十七丁目ご中道の中央付近としました。26丁目来迎谷から27丁目御中道までの距離は、約100m、標高差は約30mです。


 

歌川広重「相模大山来迎谷」の鳥居
 




27丁目御中道に鳥居の形を書き込み、それを登山道から眺めます。
鳥居は、立体的ではなく地面に書き込んだことになります。




 

現在の登山道の27丁目御中道にある鳥居



「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は2m。レンズは1㎜で画角173度。

鳥居の右側と登山道は見えており撮影されます。しかし、カシバード撮影の画像は、なぜか近距離のところがうまく撮影できませんので斜面が直線状に写ります。また同じ場所に書き込んだ登山道は二つに分かれます。


「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居 「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影

「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は2m(人間の目の高さ)。レンズは1㎜で画角173度


「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度。
対地高度は15mにすると、登山道は同じところに描かれ、画面が安定します。



「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影 「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシバードで撮影。対地高度15m

「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居をカシミールで撮影。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度




歌川広重「相模大山来迎谷」のように鳥居と富士山が見える方向を撮影します。対地高度は15m。レンズは1㎜で画角173度。

「相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を除いた構図に似てきました。

 「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居と富士山をカシバードで撮影

 


右の断崖絶壁が画面下に落ちるように、下の画面を除きます。断崖絶壁の上に鳥居があり、その左側に山並みがあり、その上に富士山がいる。「相模大山来迎谷」の左側の断崖絶壁を除いた構図と同じです。次にこの景観から、広重がどのようにして「相模大山来迎谷」を制作したかを推察します。



「26丁目来迎谷」から「27丁目ご中道」の鳥居と富士山をカシバードで撮影した画像



右側の断崖絶壁の部分の横幅を縮小します。険しい崖の参詣道ができました。

横幅60%縮小




浮世絵は分担作業ですので、こんなに複雑な丹沢山地をそのまま描くと、彫り師から文句が出ます。単純化した構図で、使用する色も少なくすることが、商品として量産化する浮世絵では大事です。また富士山が主役ですから富士山を大きく描き、丹沢山地は下側に山並みとして単純化します。



富士山を大きくした画像




これらの作業により、下図の左側の断崖絶壁を除き高さだけを60%に縮小した「相模大山来迎谷」とほぼ同じ構図になりました。


左側の崖がない「相模大山来迎谷」



版元の佐野屋喜兵衛は大山の名所「来迎谷」からの富士山を描くように依頼しました。しかし、「来迎谷」と富士山が見えるところに、両側から崖が迫る谷は見えません。もし、富士山が大山と丹沢山地の間から見えると両側から崖が迫る谷の間からの富士山になります。


  
両側から崖が迫る谷の間からの富士山

前掲した大山と丹沢山地のカシバード画像の横幅を30%程に縮小して富士山を加える


そこで、広重は、大胆にも、富士山の前にある丹沢の山を90度回転し、大山の左側に置き見事な大渓谷を創りました。

題名に地名が入った作品に、そこからは絶対見られない景色を描くことは、現在では驚きで、読者から文句が殺到すると思いますが、北斎、広重の時代では多くあります。読者の見たいと思う景色を描き、それを見て現地に来た人は、実際の景色はこのようなものかと、広重の遊び心と粋を楽しんでいたように思います。



「相模大山来迎谷」の制作過程



次に「不二三十六景」シリーズの横中判(29.3×19.0センチ)錦絵の大きさに合わせて、横幅だけを60%縮小します。 横幅を60%縮小した富士山は「不二三十六景」の中でも最も縮小がされた富士山です。谷間の富士山ですので険しい富士山にしたようです。北斎の「富嶽三十六景」の江戸からの富士山では平均が60%で最も大きい収縮率は「江都駿河町三井見世略圖」の47%です。右側の崖の部分は二回目の縮小ですので、横幅は15%程になっています。この縮小により、実際の景色が浮世絵的な景色に変わります。



「相模大山来迎谷」の制作過程



富士山の形を整えます。宝永山と小御岳の凸部を削ってなだらかな富士山にします。宝永山の凸部を削ると大山からの富士山でなくなりますが、この時代では、なだらかで秀麗な富士山のほうが人気があります。山頂は平坦四峰にして、右側に吉田大沢を描き、実際の富士山に合わせます。鳥居下は樹木のない崖の部分を描き渓谷の険しさを強調します。




「相模大山来迎谷」の制作過程



山頂の石尊社に行く大鳥居を描き、神域の雰囲気を高めます。その鳥居の前で、参詣者が大渓谷と富士山を眺めています。険しい大渓谷からの富士山を表すため、鳥居下の参詣道と御中道は、ここでは描きません。富士山の周りに白い雲を浮かべ、「不二三十六景」と「相模大山来迎谷」を記入して完成です。



「相模大山来迎谷」


以上の検討から、「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの景観をもとにして描かれたと推察します





5.5 カシバードで二十丁目富士見台から27丁目御中道の鳥居を眺める。


対地高度2mでは、富士見台からは、27丁目の鳥居は見えません。対地高度15mにすると、27丁目の鳥居が見えてきます。しかし、27丁目の鳥居は富士見台からは400m離れており、その間に富士見台からヤビツ峠分道までの尾根が前景となり、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図にはなりません

そこで、21丁目付近に仮の鳥居を書き込んだカシバード画像を見ると、26丁目来迎谷から27丁目の鳥居を眺めた画像に似てきました。対地高度2mの画像の左側に断崖絶壁を加えると「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図にはなりそうです。

しかし、実際のgoogleストリートビューの画像では、21丁目へ上る坂道が緩やかで、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の断崖絶壁の雰囲気が出ていません。
また、21丁目付近に鳥居があったという資料がなく、この辺に鳥居を設置する理由もなさそうです。

これより、二十丁目富士見台が「不二三十六景 相模大山来迎谷」を描いた場所である可能性は低いと考える。




二十丁目富士見台から 二十丁目富士見台からのカシバード画像

二十丁目富士見台からのカシバード画像。対地高度15m。レンズは1㎜で画角173度。地図の二十一丁目付近に仮の鳥居を書き込む。



二十丁目富士見台から  二十丁目富士見台からのカシバード画像

二十丁目富士見台からのカシバード画像。対地高度2m。レンズは1㎜で画角173度。地図の二十一丁目付近に仮の鳥居を書き込む。


大山二十丁目富士見台のgoogleストリートビュー

大山二十丁目富士見台のgoogleストリートビュー画像画面中央の大きな木の右側が登りの登山道。画面左側に富士山。(上のカシバード画像と同じ視点)





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