1.記載されている富士山の撮影場所は正しくありません 大山からの富士山の絵葉書の裏面です。白黒の富士山の写真が印刷されて、次のような記載があります。 「(相模大山) 頂上ヨリ富士山ヲ望ム (社務所発行)」 しかし、大山頂上からはこのように富士山は見えません。 絵葉書のように富士山が見えるのは、二十丁目富士見台からです。丹沢山地のニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点の左側に富士山の裾野があります。丹沢山地のニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点に赤線を入れてますが、写真撮影の場所を特定する基準として表1にまとめました。
「社務所発行」とありますが、これが「大山阿夫利社務所」としたら、大山を最も精通しているところが間違った記載をしていることになります。 この絵葉書が発行された昭和8(1933)年~ 昭和20(1945)年に、「富士見台」の名称がないためこのようないい加減な記載にしたのか、発行元がいい加減なのかは不明です。 さらに、大山からの富士山でない写真を載せて「相刕 大山ヨリ富士ヲ望ム」と記載している絵葉書があります。 富士山に宝永山の凸部がない、前景の山が丹沢山地のニノ塔、三ノ塔でないので、この写真は大山で撮影された写真ではない。 各山からの富士山をかなり調べましたが、どこで写した写真か不明です。高尾山からの富士山に似ているが違います。 。 ![]() 絵葉書①「 相刕 大山ヨリ富士山ヲ望ム」 絵葉書「大山名所 富士遠望」も大山からの富士山ではありません。 赤石岳、聖岳付近からの富士山に似ていますが違います。そのため、どこで写した写真か不明です。 大山からの富士山とこれほど異なる富士山の写真を「大山からの富士山」として絵葉書にしています。絵葉書の正確性に対して、厳しくない時代だったのでしょうか。 観光名所の宣伝ポスターである 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」が堂々と、実際にない景色を描くように、昭和の戦前の絵葉書は実際には見られない富士山を印刷しています。江戸から昭和に続く観光ポスターの悪しき社会的慣習があるように思ってしまいます。 ![]() 絵葉書③「大山名所 富士遠望」 富士山を撮影した場所の記載がある絵葉書11枚のうち、記載と合っているのは3枚、異なっているのは6枚、曖昧なのが2枚です。 (1)「大山」と記載して、特定の場所の記載がない絵葉書5枚。そのうち3枚は大山で撮影した富士山ではない。他二枚は二十丁目富士見台からの富士山。 「大山ヨリ富士山」と記載すると、通常は大山山頂からと考えるがこの二枚は違います。 (2)「山上より」、 「頂上ヨリ」が5枚。頂上近くの二十七丁目御中道付近が2枚。頂上でなく、二十丁目富士見台が2枚、二十丁目富士見台と二十六丁目ヤビツ峠分道の間が1枚 (3)「 御中道」が1枚。これはご中道からの富士山 これより、大正7(1918)年~昭和20(1945)年 の絵葉書の信頼性は、かなり低いということになります 絵葉書の発行年を記載しましたが、絵葉書には発行年の記載はありません。しかし、絵葉書の表側の形式から、推察した発行年を記載してます。 下記サイトの記載を参考にして、推察して表2に記載しました。 「ハガキの宛名欄は 郵便制度が施行された時点で宛名以外のメッセージを書くことができませんでした。 現在のように、ハガキ面の一部を通信欄に使える様になったのは1907年(明治40年)絵葉書の表面の下部3分の1以内に、通信文の記載を認める法律ができます。 現在のように、宛名面の半分が通信欄となったのは1918年(大正7年)からです。戦後は原則は2分の1ですが、さらに緩やかにな ります。 戦前の文字表記の殆どが右から左流れでした。ハガキの表記「郵便はがき」も最初は「きかは便郵」→「きがは便郵」と変わり 戦後は現在と同じように左から右流れ「郵便はがき」に変わります。 1933年(昭和8年)から「きがは便郵」となり戦後から「郵便はがき」となります。」 【番外編】古い葉書を読み解く; YOKOHAMA xy通信より引用 絵葉書三枚の表側
表1 登山道からの富士山と撮影場所の基準となるニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点
表2 「大山からの富士山」の絵葉書。記載された撮影場所と実際の撮影場所。
①『相刕 大山ヨリ富士ヲ望ム View of Oyama』 (「刕」は「州」の異字体です。) 富士山に宝永山の凸部がない、前景の山が丹沢山地のニノ塔、三ノ塔でないので、この写真は大山で撮影された写真ではない。 各山からの富士山をかなり調べましたが、どこで写した写真か不明です。高尾山からの富士山に似ているが違います。 同じ写真を、丸状の枠にした絵葉書もあります。 ![]() ![]() ②『相刕大山 大山ヨリ富士ヲ望ム』 ①と同じ写真を横方向に反転して現像している。どちらが正規の写真かは不明。 ![]() ③『大山名勝 富士遠望』 富士山に宝永山の凸部がない、前景の山が丹沢山地のニノ塔、三ノ塔でないので、この写真は大山で撮影された写真ではない。 各山からの富士山をかなり調べましたが、どこで写した写真か不明です。 赤石岳、聖岳付近に似たような山並みがあるが写真とは異なります。 ![]() ④『大山名勝 大山ヨリ富士遠望』 この写真では、富士山の形が見えないため何処から撮影したかわかりません。 手前の尾根の樹木の形が、⑨と同じですので、二十丁目富士見台としました。 ![]() ⑤相刕大山 大山ヨリ富士山ヲ望ム 富士山の右側に、ニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点があるので、二十丁目富士見台からの富士山です。手前の尾根の樹木が大きく、丹沢山地を隠しています。 ![]() ⑥相模大山 山上より丹澤アルプスと富士の遠景 富士山の山頂の左側に、ニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点があるので、元御中道からの富士山です。二十七丁目御中道の鳥居と山頂裏の展望地の間からの富士山と思います。 ![]() ⑦相刕大山名所 頂上ヨリ富士山ヲ望ム 二十七丁目御中道の鳥居からの富士山より、鳥居下の登山道からの富士山が、絵葉書とよく一致します。 地図上の二十七丁目御中道の石柱・鳥居の位置は、当方が勝手に記入しているため正確ではありません。登山下と言っているところが、鳥居に位置かもしれません。 そのため、絵葉書の撮影場所は二十七丁目御中道石柱の鳥居付近としました。 昭和8(1933)年 ~ 昭和20(1945)年の頃、鳥居付近の樹木はかなり伐採されていたようです。 ![]() ![]() ![]() ⑧大山名勝 大山頂上ヨリ富岳大觀 View of Oyama』 ニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点から判断すると、次の二個所がこうほちですが。どちらも問題点があり断定できません。 (1)二十五丁目ヤビツ峠分道と二十丁目冨士見台の間 (2)二十五丁目ヤビツ峠分道からヤビツ峠方面に下ったところ ![]() ![]() (1)ニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点から判断すると、次のように二十五丁目ヤビツ峠分道と二十丁目冨士見台の間のようです。 しかし、このカシバード画像は対地高度10mの画像で、対地高度2mでは尾根が邪魔をして富士山が見えません。 このあたりの登山道に凸上のところがあったかもしれません。 ![]() ![]() (2)二十五丁目ヤビツ峠分道からヤビツ峠方面に下ったところにも、ニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点が一致するところがあります。 しかし、絵葉書の手前の尾根の部分がありませんのでここが撮影場所とは言えません。 ![]() ⑨相模大山 頂上ヨリ富士山ヲ望ム(社所発行) 「頂上ヨリ富士山ヲ望ム」とありますが、大山頂上からはこのように富士山は見えません。丹沢山地のニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点の左側に富士山の裾野があるので、この富士山は二十丁目富士見台からの富士山です。 「社務所発行」とありますが、これが「大山阿夫利社務所」としたら、大山を最も精通しているところが間違った記載をしていることになります。 この絵葉書が発行された昭和8(1933)年~ 昭和20(1945)年に、「富士見台」の名称がないためこのようないい加減な記載にしたのか、発行元がいい加減なのかは不明です。 ![]() ⑩『頂上ヨリ見タル冨士 下社ヨリ見タル大山町』 丹沢山地のニノ塔と三ノ塔の山稜の重なり合う地点の左側に富士山の裾野があるので、この富士山は二十丁目富士見台からの富士山です。 ![]() ![]() ⑪相模大山 雲上に聳ゆる御中道の夕景 現在の山頂裏側の展望地付近と思います。御中道の樹木はかなり伐採されています。 ![]() END |