(1)明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「来光谷」の記載があります。
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絵葉書-縁結の樹・来光谷 | 神奈川デジタルアーカイブより引用 この絵葉書は、頂上に至る二十丁目に「来光谷」があるといっています。 明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月ころの二十丁目と現在の現在の「富士見台 二十丁目」の石柱がある二十丁目は同じ地点と思います。 この絵葉書の記述が正しいとすると、「来迎谷」は「富士見台 二十丁目」にあったことになります。 (2)頂上に至る二十丁目來光谷の傍にある縁結びの樹は明治時代には観光名所であったのか、他の絵葉書もあります。 絵葉書 | 神奈川デジタルアーカイブから引用 ![]() 相州大山名所 縁結 (発行日不明) ![]() 相州大山名所 縁結の樹 (発行日不明) ![]() 相刕大山名所 縁結 相刕大山名所 天下一阿夫利神社御拜殿の右側部分 (発行日不明) 2.山内図にある「えんむすび」 縁結の樹は江戸時代からあるもので、国芳の浮世絵にも描かれ、昭和2年小田急線開通時に刊行された「阿夫利神社参詣便覧」にも掲載されていますが、現在では「縁結の樹」の詳しい位置は不明です。 相模大山の絵はがき 大山山内 | 伊勢原市より引用 「観光案内『大山阿夫利神社参拝便覧』1枚 金子常光 鳥瞰図 昭和2年刊 神奈川県戦前 古書 古地図 郷土資料」の地図で見ると、「えん結」は16丁目上に有るので、二十丁目の可能性が高い。この頃は御中道がはっきり記載されています。 国芳の浮世絵は、次の「歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖」とおもいます。 前不動の階段上が二十六丁で中道の下が五十丁とした参詣道にある茶屋と参詣客を描いています。その間にある大山寺不動宮、山頂にある石尊社などの記載がありません。他の山内図とは、異なる、一風変わった山内図です。 「えんむすび」の文字が三十九丁目と四十丁目の間の岩場の上にあります。岩場を登って縁が結ばれるとかで、木の枝に上を結ぶという雰囲気はありません。初めの由来は異なっても、明治のころには「縁結びの樹」になったと思われます。 前出の、現在の「十六丁目」にあった「三十六丁目」の古い石柱が、この絵の「三十六丁目」だとしたら、この三十九丁目は現在の二十丁目あたりにはなります。 ![]() ![]() ・「え」の漢字は「衣」のほかに「要」があります。そのくずし字は ![]() ・「ん」は「む」。「む」の漢字は「武」のほかに「尤」があります。そのくずし字は ![]() 「す」の漢字は「寸」のほかに「春」があります。そのくずし字は ![]() ・「ひ」の漢字は「比」。そのくずし字は ![]() ![]() ![]() 歌川国芳作 相模州大住郡雨降大山全圖
『相模州大住郡雨降大山全圖(3枚組)』-神奈川県デジタルアーカイブより引用 |