歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある




歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。
(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのかを探ります。



1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 2 犬目峠はどこにある 3 まとめ、蛇足の補足





   「富士三十六景 甲斐犬目峠」
 「富士見百図 甲斐犬目峠」
「不二三十六景 甲斐犬目峠」  「富士三十六景 甲斐犬目峠」 「富士見百図 甲斐犬目峠」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年) 1859年(安政6年) 
 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠
|静岡県立美術館|
より引用
甲斐犬目峠  - 国立国会図書館
デジタルコレクション
より引用
 
歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」
ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス
から引用
 







2 犬目峠はどこにある、歌川広重の「甲斐犬目峠」はどこで描かれたか


2-1  犬目峠の候補地


(1)甲州街道史跡案内図に犬目峠は有りません。

2015.11.21の扇山登山のついでに、前から気になっていた葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」、歌川広重「不二三十六景 犬目峠」の富士山を眺めることにした。殆ど下調べはせず、犬目バス停に行けば、犬目峠はわかるだろうと思っていた。9::00に犬目バス停に降りて青い空の下の甲州街道を歩いた。

下鳥沢宿に向けて甲州街道を進みむと、道の傍らに大きな上野原町教育委員会制作の「甲州街道史跡案内図」が有りました。

上野原原宿-鶴川宿-野田尻宿-犬目宿-(恋塚一里塚)までの、甲州街道周辺の史跡、名所が記載されてます。

甲州街道史跡案内図


犬目宿の左側にある寶勝寺付近の案内図
>


近づいて犬目宿付近をじっくり眺めましたが、犬目峠は有りません。


甲州街道史跡案内図の拡大図



この案内図の手前で入った 寶勝寺の慈母観音のよこにある説明板に『葛飾北斎「富嶽三十六景」歌川広重「不二三十六計景」の富士山はこの辺りから描いたと言われております。・・・・』とあります。道の案内板は上野原町教育委員会制作ですので、この地図にないということは、犬目峠がどこかが現在はっきりしないということです。

せめて、「犬目峠はこの辺にと言われていますが、はっきりした場所は特定されていません」と一言書いてもらいたいと思いました。

その日は、甲州街道を歩き富士山の眺めの良いとことを見つけて、そこからの富士展望に満足して扇山に登りました、


(2)犬目峠の候補地の地図と標高図


犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。そこで、素人の当方が犬目峠はどこかと探すことにしました。

現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料などから、旧甲州街道の二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。

野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。

犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。
犬目峠候補地②は犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。

地図に記入した地名は「・・・宿」以外、現在の地名です。この区間に、犬目峠はもちろん「〇〇峠」の地名はありません。




旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の地図

旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿



上図の赤線の旧甲州街道をカシミールで標高を求める

上図の赤線の旧甲州街道をカシミールで標高を求める



(2)野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の間の地名を記載している旅日誌、甲斐の史料

旅日誌、甲斐の史料の検討内容が煩雑であり、手順に沿った説明が難しいため、初めに検討結果を下表に示します。これに基づき各旅日誌、甲斐志料が 、犬目候補地①②をどのように記述しているかを述べ、相補地を推察します。


犬目峠が出てくる資料

①野田宿と犬目宿の間の犬目峠候補地①

 歌川広重の「甲州日記」 1841年(天保12年)


②犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地 

・荻生 徂徠「峡中紀行」、  「風流使者記」1706年(宝永7年

・吉田兼信の「甲駿道中之記」 1820年(文政13年)

・大森善庵・快庵「甲斐叢記」 1851年(嘉永4年)


「峡中紀行」、 「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、犬目宿と鳥沢宿の間の候補地②にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。
「犬目峠」が野田宿と犬目宿の間の候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

歌川広重が「甲州日記」に犬目峠は野田宿と犬目宿の間にあると書いたのは間違いのようです。

以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところにあったと推察します。その検討の詳細と、候補地②の具体的な場所の推定を行います。


 
 時代  史料・絵画 犬目峠候補②
現在の場所:君恋温泉 
犬目峠候補①
現在の場所:矢坪坂の頂
1706年
宝永7年
 荻生 徂徠
「峡中紀行」
 狗目嶺
(犬目峠)
 記載なし
    荻生 徂徠
「風流使者記」
 狗目嶺
(犬目峠)
 記載なし
1809年
文化6年
渋江長伯
「官游紀勝」 
記載なし 座頭ころかし
座頭ころかし峠
>
1814年
文化11年
松平定能
甲斐国志
記載なし  箭壺坂のなかに
座頭轉(コロガシ)
1830年
文政13年 
吉田兼信
「甲駿道中之記」、
 犬目峠 俗に座頭ころかし峠
といふ矢坪峠 
1831-3年
天保2-4
葛飾北斎
「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


1841年
天保12年
歌川広重
「甲州日記」
 記載なし 座頭ころかし
犬目峠
1841年
天保12年
歌川広重
「旅中 心おほへ」
 記載なし 座頭ころかし
(犬目峠)
1848年
嘉永元年
歌川広重
「犬目峠春景図」
 
 
1851年
明治26年
大森善庵・快庵
「甲斐叢記」
 狗目嶺
(犬目峠)
箭壺坂一名
座頭轉(コロガシ)
1852年
嘉永5年
歌川広重  
「不二三十六景 甲斐犬目峠」

 
1859年
安政6年
歌川広重
「冨士三十六景 甲斐犬目峠」


1859年
安政6年
歌川広重
「冨士見百図 甲斐犬目峠」
 
 
1875年
明治8年
都留郡犬目村・大野村が
合併して大目村となる
 
 
2017年
平成29年
上野原市境域委員会
史跡案内板 甲州街道案内板
記載なし
 
矢坪坂
座頭ころがし
2017年
平成29年
甲州街道往来図 犬目峠 座頭ころがし





2-2 犬目峠候補地①野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂の史料



(1)歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

歌川広重の「甲州日記」( 浮世絵と風景画  著者:小島烏水  出版者:前川文栄閣 出版年月日:1914年・大正3年)を再び掲載。

「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」


しかし、甲斐志料集成. 1  著者:甲斐志料刊行会 編出版者:甲斐志料刊行会 出版年月日:昭和7至10年」にある「浮世絵ト風景画 著者:小島烏水」の「広重甲州道中記」では、「犬目峠」ではなく「犬目」になっています。

「四日 晴天。野田尻を立て犬目にかかる。この坂道富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休む」

前川文栄閣出版の「犬目峠」の場合、「野田尻宿から犬目峠の道に着き、その坂道を富士山を見て登った。」ことになります。
甲斐志料刊行会の「犬目」の場合、犬目峠の記載がある「犬目峠の宿」の意味が不明のため、犬目峠がどこにあるかはっきりしない。」

「犬目峠」か「犬目」か
①「此坂道」の「此」があるので「犬目」より「犬目峠」が妥当、②前川文栄閣出版が甲斐志料刊行会より早い、③原本である『 浮世絵文献資料館・世絵師歌川列伝「歌川広重伝」の「天保十年二丑とし、卯月日々の記」』も「犬目峠」の記載であることから、「犬目峠」を採用します。

そのため、歌川広重の「甲州日記」では、「犬目峠」は野田尻宿と犬目宿の間にあり、そこに座頭ころばしの道」もあると記載しています。

しかし、「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、上掲した旅の写生帖「旅中 心おほへ」のしがらきの茶屋らしき図の後に峠の図があるので、峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。








歌川広重「甲州日記」-浮世絵と風景画 著者 小島烏水 著出版者 前川文栄閣出版年月日大正3

浮世絵と風景画 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用


 
「甲州日記」は、歌川広重の旅日記。1841年(天保12年)に甲府城下町における甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際の旅日記。
表題が「天保十二丑とし卯月、日々の記、一立斎」(以下「日々の記」)と記された前半部と、「旅中 心おほへ(心覚え)」(以下「心おほへ」)と記された後半部の二部から成り、「日々の記」は『甲府行日記』、「心おほへ」は『甲州日記写生帳』とも呼ばれる。
「日々の記」は1894年(明治27年)頃に飯島虚心が執筆した『浮世絵師歌川列伝』(刊行は玉林晴朗校訂により、1941年に畝傍書房。中公文庫で1993年再刊)や、1912年(明治45年)に『近世文藝叢書〈12巻〉』に収録され、1914年(大正3年)には近藤烏水『浮世絵ト風景画』、1930年に内田実『広重』など、数々の資料集や研究書において翻刻や紹介が成されている。





「広重甲州道中記」


「広重甲州道中記」-甲斐志料集成. 1 小島烏水 著「浮世絵ト風景画」 の「広重甲州道中記」 出版年月日:昭和7至10年


甲斐志料集成. 1 145/312 - 国立国会図書館デジタルコレクション




(2)江戸時代中期-後期の医師、本草家であった渋江長伯の「官游紀勝」 (1809年 文化6年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

「座頭ころばし」と「座頭ころがし峠」の図があります。それに関する文章もありますが、浅学のため読み取りができません。
座頭ころばしがあり、そこには座頭ころばし峠という峠もあるようです。その場所は現在の座頭転がし付近と推察します。富士山はいませんが、広重の「旅中 心おほへ」の峠の写生図と似た景色です。

「座頭ころかし峠」はあるが「犬目峠」に関する記載はありません。また、座頭ころばし峠を越て犬目宿、鳥沢宿へ進んだのに富士山の図がありません・


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし」

渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし」




渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」図の次の頁

渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」図の次の頁


上の三点:「官游紀勝」-筑波大学附属図書館Tulipsより引用




(3)松平定能編集の「甲斐国志」(1814年 文化11年) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉

恋塚、犬目駅の湯殿屋敷の後に、次の記述があります

「一 箭壷坂 大野村 犬目・野田尻驛、両ノ間坂上村落アリヘビキ新田ト云坂下ハ即箭壷村ナリ此間甚ク險路ニシテ往来に難ヤメリ中ニモ路厳下二屈曲シテ谷深キ所ヲ座頭轉(コロバシ)ト云」


「犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、坂の上にへびき新田、坂下には箭壷村がある。この間は険路で、中でも路厳下に屈曲して谷深きところを座頭轉(ころばし)と云う」

犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、座頭ころばしと言われている瞼路があると記載。
しかし、〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉の間に「恋塚」の記載はあるが「犬目峠」の記載はありません。


甲斐國志 巻之五十古蹟部第十六之下二四七


甲斐國志 巻之五十古蹟部第十六之下二四七

甲斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。
甲斐国(山梨県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。

甲斐志料集成 5 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用




(4)吉田兼信の「甲駿道中之記」(1820年 文政13年) 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

野田尻驛を過ぎると、「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」があると書いてます。

「大椚、野田尻なと云驛過、この邊は甲斐の郡内とて厳岩峨々として峯は雲に連、桃櫻の満花春雨のふり降景色いはん方なし、昇り下りて一ツの峠有、俗に座頭ころかし峠といふ由、矢坪峠なり、山上に破れし草庵有、しはし休む、この邊にて雨はやみけれとも、足下に雲まといて四方見えす、この邊桃殊に多し」

資料は後で掲載



(5)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉

「大野村にある箭壷坂は座頭轉(コロガシ)とも呼ばれ、その坂上に蛇木新田という村落があり、坂下には箭壷村がある」と書いています。

資料は後で掲載



(6)上野原市の史跡案内図・文(2017年 平成29年)

大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂、その坂に座頭ころがしがあります。この二つの名称は江戸時代からつづいています。

現在、この坂に「犬目峠」や「座頭ころばし峠」や「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」の峠の名称は残っていません。



矢坪坂の古戦場跡の案内板と設置場所。 前掲の地図で「急坂登り口」から少し上の矢坪付近、「座頭ころばし」に行くには右側の山道に進みます。


矢坪坂の古戦場跡の案内板と設置場所。 前掲の地図で「急坂登り口」から少し上の矢坪付近、「座頭ころがし」に行くには右側の山道に進みます。
この道は実際に歩いていません。google mapで作成。案内板は上野原市の観光案内から引用。




(7)犬目峠候補①の矢坪坂の頂に関する記載のまとめ。


野田尻宿と犬目宿の間に峠と思われる登り下りの坂は、一つしかなく、現在は矢坪坂と呼ばれその中に座頭ころばしがあります。この矢坪坂を「犬目峠」と記載しているのは広重の「甲州日記」(1841年)だけです。

「甲州日記」の20-30年ほど前、渋江長伯の「官游紀勝」(1809年)では、「座頭ころかし」、「座頭ころかし峠」
松平定能の「甲斐国志」(1814年)では「座頭轉」、「箭壺坂」
吉田兼信の「甲駿道中之記」1830年)では「俗に座頭ころかし峠といふ矢坪峠」と記載されています。


広重は、甲州日記に書いているように、江戸者三人に別れ、一人で座頭ころがしがある坂を歩いています。44歳の広重がこの急坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山を感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。

また、広重は犬目峠候補地②の犬目宿と下鳥沢の間は馬に乗っており、歩いていないため観察が不十分になっていると思います。
「犬目より上鳥澤まで、帰り馬一里十二町乗り、鳥澤まにて下り、・・・」
* 帰り馬:荷や客を送り届けた帰り掛けの馬。普通より安い。
 一里十二町:一里は36町で3.927㎞(明治時代)とすると5.342㎞。犬目宿から下鳥澤宿まで約4.5㎞。

11月の江戸に帰りる時も、この鳥沢宿-犬目宿-野田尻宿を歩いたようですが。その時も犬目峠の確認はしていないようです。
犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地②に「犬目峠」の石柱、「ここが北斎の描いた富嶽三十六景の犬目峠です」の表示板はなかったようです。
しかし、「甲州日誌」に「犬目峠」を記載しているのに、10年ほど前に爆発的に売れた北斎の「富嶽三十六景の犬目峠」の記載がないのも不思議です。
しがらき茶屋の「だんご、にしめ、桂川白酒、・・・」と食い物の記載があるが「北斎」の記載がないのが不満です。


(8)矢坪坂からの富士山

筆者は野田尻宿と犬目宿の間は歩いていません。
野田尻宿と犬目宿の景色を豊富に掲載した「JR藤野駅から関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢の各宿経由、JR鳥沢駅まで」で富士山がどのように見えたかを調べた。上野原宿-鶴川宿間で富士山の山頂部が一部見えている。野田宿を過ぎたあたりで富士山の山頂部が一部がまた見えていた。しかし、その後矢坪坂、座頭ころがしでは富士山の掲載はなく、山道からは見えなかったと思われる。犬目宿に入り「犬目の兵助の墓」から富士山の山頂部が見えていました。


そこで、現在では高い建物、樹木のため、街道から見えていた富士山が見えなくなったと考えて、カシバードで野田尻宿と犬目宿の間の旧甲州街道からの景色を作成しました。その結果、以下に示すように、峠の頂から、樹木が邪魔をしなければ九鬼山の上にいる富士山全体が見えることを確認しました。

広重が座頭ころがしのある峠道で眺めた富士山です。



 

野田宿から犬目宿までの地図


野田宿から犬目宿までの標高図
  
 
峠道の角度





「旅中 心おほへ」の「犬目峠の写生と思われる図」

「旅中 心おほへ」の「峠の写生
カシバード画像とは異なります。



「富士見百図 甲斐犬目峠」

「富士見百図 甲斐犬目峠」
扇山の尾根が見えて
⑤の 峠の頂付近からの富士山と似ている。


①野田宿から急坂登り口の間で富士山山頂部が見えています。

野田宿から急坂登り口の間で富士山山頂部
 ②急坂登り口でも富士山山頂部が見えています。

急坂登り口でも富士山山頂部
 ③矢坪坂を上るあたりから扇山の東尾根に隠れて、富士山が見えなくなります。
富士山は見えない
④座頭ころばし付近(?)から富士山が見えてきます。

座頭ころばし付近(?)から富士山
 ⑤峠の頂付近からは犬目地区で見える富士山、九鬼山の上の富士山が見えています。
樹木がなければ見える場所です。

峠の頂付近からは犬目地区で見える富士山
 ⑥犬目宿に降りたところでは、峠の頂とほぼ同じ富士山が見えています。
犬目宿に降りたところでは、峠の頂とほぼ同じ富士山






2-3 犬目峠候補地② 犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近の史料




(1)荻生 徂徠の「峡中紀行」と「風流使者記」(1706年宝永7年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉


「峡中紀行」

広重の「甲州日記」(1841年)の135年前の荻生 徂徠「峡中紀行」に、以下の記述があります。(原文は漢文、下に掲示)


「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・

狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」


これは「野田尻駅、・・・犬目宿を過ぎて、・・・・犬目峠を越えると、別名恋塚という新田あり、・・・・そして鳥沢駅に着いた」ということで、犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあることになります。垈尻は野田尻、恋塚は現在の恋塚一里塚付近で、犬目宿から下鳥沢宿に下るところにあります。

「狗目」、「狗目嶺」は「犬目」、「犬目峠」の古い時期の書き方と思います。垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田等の地名の漢字は時代で異なります


狗は犬と同じ「いぬ」で、犬に比べて小さいいぬを「狗」とよぶ。「狗」 読み:「コウ」「ク」「いぬ」  意味:いぬ。こいぬ。卑しいもののたとえ。
(犬に比べて小さいいぬが狗)
「狗」の漢字‐読み方・意味・部首・画数-漢字辞典より引用


「峡中紀行」には、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂・座頭ころがしについての記載はありません。


「峡中紀行」は漢文で、筆者は読み取ることはできません。しかし、「かさぶた日録」で「きのさん」が解読を行っていました。それを参考にさせてもらいました。
 
 

荻生徂徠著の「峡中紀行 上」の解読


鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、袋尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。長岑(みね)阪に陟(のぼ)り、阪の右古塁跡あり。機山の時、加藤丹後なる者築く所、塁前一小池あり。土人誇りて称す。峡中八湖の一にして、水旱にも涸溢せずとや。これ陥井、僅かに蛙容れるもの、豈(あに)湖と云わんやかな。塁もまた甚だ高からず。

※ 機山(きざん)- 武田信玄の道号。
※ 加藤丹後(かとうたんご)- 加藤景忠。戦国時代の武将。甲斐国都留郡上野原の国衆。甲斐武田氏の家臣。都留郡上野原城主。
※ 水旱(すいかん)- 洪水と日照り。
※ 涸溢(こいつ)- 涸れたり溢れたり。
※ 陥井(かんせい)- 陥穽。動物などを落ち込ませる、おとしあな。

*「袋尻」、漢文では「垈尻」。「垈尻」は現在の「野田尻」。八坪は箭壷、矢坪。蛇城新田は蛇木新田、ヘビキ新田、新田。狗目は犬目。(筆者注)
*江戸時代に「宿」を「駅」と称することもあった。(筆者注)



狗目嶺(峠)を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。日暮れ僕従疲るゝ事甚しく、民家遠し。炬火(たいまつ)の前導無し。轎夫の脚、巌稜を探りて、以って進む。時に或は虚を蹈みて躓く。轎、輙(すなわ)ち、その肩上に跳(はね)て已まず。杌隍、墜んと欲するもの、数(しばしば)なり。

※ 嬪(ひん)- 婦人の美称。ひめ。
※ 媚嫵(びぶ)- 愛らしい。
※ 轎夫(きょうふ)- 駕籠かき。
※ 杌隍(げつこう)-不安。

*「きのさん」と同じく、狗目嶺は犬目峠と推定。(筆者注)
 峠」という字は室山時代に作られた日本の国字で、は「峠」の本来の漢字は「嶺」です。
江戸中期の書〔同文通考・国字〕に「峠(トウゲ)」:嶺なり。嶺は高山の踰(こえ)て過ぐべきものなり」とあるので、嶺は峠と同じように使われていたようです。
*踰(こ)え-越え。(筆者注)

峡中紀行 上 9 九月八日 (相峡)界河を越す、 10 九月八日 猿橋に宿す」-かさぶた日録より引用 
 


 甲斐志料集成. 1 峡中紀行上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成. 1 峡中紀行上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成. 1 峡中紀行上185/312 p321- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



   
荻生 徂徠(おぎゅう そらい)

寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。
元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢保明(やなぎさわ やすあきら)に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。
吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に、徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。


峡中
釜無川流域を西限に甲府盆地の西半分に位置する地域。北側は奥秩父山塊が連なるが、南側はほぼ平地である。四方を山に囲まれているためフェーン現象の影響を受けやすい。この一帯は「甲府広域市町村圏」となっており、位置的だけでなく経済的にも「峡(甲斐)の中央」である。
「峡中」の地域呼称は江戸時代から見られ、荻生徂徠『峡中紀行』など本来は国中地方の内部呼称ではなく、甲斐国全域を指す地域呼称として用いられていた。


   

荻生徂徠の「風流使者記」

荻生徂の紀行文は「峡中紀行」と「風流使者記」があります。同じ旅の紀行文ですが、どちらが先に書かれたかは不明です。
漢文で詳細は不明ですが、「野田尻驛→狗目驛→狗目嶺→恋塚→鳥澤驛」を歩いたようで、狗目峠は狗目驛と恋塚の間にあります。「峡中紀行」と同じです。





甲斐志料1 「風流使者記」上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用




『風流使者記』と『峡中紀行』

 しかし、ここでちょっと、内容のよく似た『風流使者記』と『峡中紀行』の両者について、すこしおことわりをしなければならない。というのは、この両書は、著作年代が明らかでないため、その前後関係や本質について、従来、諸説が行なわれていたことである。

 この両着を注された(昭和田十六年雄山閣刊、その後、河出書房新社、『荻生徂徠全集』第五巻に収録された)河村義昌氏(都留文科大学教授)の論考はご記述が詳しく、旅行の肝要な目的である主君柳沢吉保の碑文やその解説をのせている『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』に先立つものであり、『峡中紀行』は、『風流使者記』を世に問うため、(公式の出張報告を)校訂、推敲したもの(いわばダイジェスト版)とする見方である。河村氏はさらに、旅を終え、主君から「千里山川十日行 峡中事々任娯情 明暗為客総無悪 惹湯風流使者名」の一絶をおくられ、風流使者の名を得たにかかわらず、『峡中紀行』にはこのなかの二句しかのせていないことからも、このことがいえると詳説している。

 官用とはいいながら、同僚の田中省吾と詩作の旅をつづけ、茂郷(徂徠)百五十三首、省吾百四十七首、合わせて三百首にのぼる漢詩をのせてある『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』より血の通った紀行であることはいうまでもない。

甲斐の詩歌と道中記-漢詩文から狂歌まで | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ


(2)吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1830年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉(再掲)

「甲駿道中之記」は、土浦藩主土屋家の家臣吉田兼信が文政13(1830)年武田勝頼、土屋惣蔵の二百遠忌に景徳院に詣で身延・静岡を経て土浦へ帰着するまでの紀行日記です。

「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」

犬目峠に関する情報は「犬目峠は犬目驛と鳥沢驛の間にあり、その嶺の上から富士山が見える」だけですが、「犬目峠」の文字で記載している、唯一の史料です。

矢坪坂のところは「俗に座頭ころかし峠という矢坪峠」があると書いています。


野田尻驛を過ぎると、「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」があると書いてます。

「大椚、野田尻なと云驛過、この邊は甲斐の郡内とて厳岩峨々として峯は雲に連、桃櫻の満花春雨のふり降景色いはん方なし、昇り下りて一ツの峠有、俗に座頭ころかし峠といふ由、矢坪峠なり、山上に破れし草庵有、しはし休む、この邊にて雨はやみけれとも、足下に雲まといて四方見えす、この邊桃殊に多し」

吉田兼信の「甲駿道中之記」

吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1830年)

甲斐叢書 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用






(3)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉 (再掲)

「恋塚」と「箭壺坂」の間に「狗目嶺」の記述があります。」

「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」

この文の前の「恋塚」で、荻生 徂徠の「峡中紀行」(1705年)の「狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。」を引用しているので、大森善庵・快庵は「狗目嶺」は犬目宿と恋塚の間にあることを認識して書いてます。

そのため、「犬目驛にある狗目嶺(犬目峠)は一郡の内で一番高いところだ。房総の海まで見え、西南の方向には富士山が聳えて大空を衝き、その眺望素晴らしい。」ということで、犬目峠は犬目地方で一番高いところで犬目宿と恋塚の間にあることになります。
「狗目驛」が「犬目驛」に変わっていますが、「狗目嶺」はそのままです。何故でしょう。


「大野村にある箭壷坂は座頭轉(コロガシ)とも呼ばれ、その坂上に蛇木新田という村落があり、坂下には箭壷村がある」と書いています。


甲斐叢記は甲斐一国の地誌で甲斐名所図会でもあります。信頼度の高い資料と考えます。


  甲斐叢記

甲斐一国の地誌。甲斐名所図会ともいう。内容は、甲斐を九筋の道路にわけて、道路毎に山川・村落・神祠・仏閣・名所・古跡についてまとめたもの。本書は10巻から成り、前輯5冊は嘉永4年(1851)に刊行されたが、著者の大森善庵・快庵が続けて没したため、後輯5冊は明治24年(1891)から同26年にかけて刊行された。 
 

 甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路

甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路

     甲斐志料集成 2 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



  犬目村変遷

1875年(明治8年)1月 - 都留郡犬目村・大野村が合併して大目村となる。
1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法の施行により、大目村が北都留郡の所属となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、大目村が単独で自治体を形成。
1955年(昭和30年)4月1日 - (旧)上野原町・棡原村・西原村・島田村・大鶴村・巌村・甲東村と合併して上野原町が発足。同日大目村廃止。
 



(4)史料からの推察。

「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿(恋塚)の間の最も高いところにあったと推察します。



(5)犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところは君恋温泉付近、ここが犬目峠

旧甲州街道の犬目宿と鳥沢宿の間の標高図(下図)を見ると、宝勝寺と恋塚一里塚の間に登り下りの坂があり、恋塚一里塚から少し登りがありますが、そのあとは下鳥沢宿まで下り坂です。
そのため、峠と呼べる場所は、宝勝寺と恋塚一里塚の間の頂になります。ここは犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点になります。

犬目宿から、舗装された旧甲州街道1㎞ほど行くと、右側に登る道が在ります。この舗装されてない細い道が旧甲州街道ですここまでの道は、地図で調べると角度約6度のとても緩い坂道ですので、峠道を歩いている気持ちにはなれません。実際に歩いたときは舗装道路の県道30号を進んで反対側から峠の頂にある君恋温泉に着きました。その順路で、 google mapで作成した画像で説明します。





 君恋温泉付近の地図



君恋温泉付近の地図



君恋温泉付近の標高図

峠道の角度
①犬目峠から、下鳥沢方面へ進む。宝勝寺を経て1㎞ほどで、舗装道路の右側に、上に登る細い道が在る。この細い道が旧甲州街道で、ここを登ると峠の頂にある君恋温泉に着く。今回は舗装道路を進む。

 ここを登ると峠の頂にある君恋温泉に着く
②ここから県道30号となり、右側の20mほど上に君恋温泉があります。カシミールで調べるとこの県道からは富士山が見えます。しかし、実際には樹木のために富士山は見えません。
下の画像は google mapで作成しましたが、写っている道を旧甲州街道又は県道30号と表示してくれる。

右側の20mほど上に君恋温泉
③君恋温泉は右側の道を登ります
 
④登り道を進むと、君恋温泉の看板があります、君恋温泉は民宿で看板がなければ普通の民家のようで見逃してしまいます。この辺りが犬目宿での最高地点なります。富士山も見え絶景の地です。吉田兼信が「甲駿道中之記」に書いた「犬目峠」はこの地点と思います
 君恋温泉の看板と富士山


犬目宿と鳥沢宿の間の最も標高が高く、富士山が見えることから、君恋温泉付近が犬目峠と推察しました。

大森善庵・快庵の「甲斐叢記」の記述。

「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」。

  坤位(ヒツジサルノカタ ):南西方向  霄漢(しょうかん):おおぞら。高い天。虚空。雲漢   奇絶(きぜつ):きわめて珍しいこと。すばらしいこと。


その君恋温泉からの富士山です。ここからの富士山は、宝勝寺境内、下鳥沢方面へ行く撮影地点からの富士山とほぼ同じで、九鬼山と高畑山の尾根の上にいる富士山です。犬目地区では元も高い地点なので、宝永山の凸部がはっきり見えます。

広重は馬に乗ってここを通っています。坂の傾斜もゆるく、馬の上で富士山を眺めながら進んでいるので、峠を越えているとは気が付かなかったようです。しかし、ここでも富士山の記述がないのが不満です。またこの時代「ここが犬目峠」の立て札もなかったように思います。



犬目峠と思われる君恋温泉からの富士山

犬目峠と思われる君恋温泉からの富士山






「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山







歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」 富士山と下の山並みは上図とほぼ同じ。

歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用




大森善庵・快庵の「甲斐叢記」の犬目峠の記述と歌に、房総の海まで見えるとあります。

   此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、  

   路高くのほるもしるし山越しにほのほの見ゆる阿波の安房の海原 磯部正冬

君恋温泉付近では、樹木が多く房総の海までは見えません。


君恋温泉付近では、樹木が多く房総の海までは見えません


君恋温泉付近からの富士山と周辺の山



君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところに、富士山絶景地地があります。富士山下の山並みは左側に伸び、丹沢山地の大室山まで見えていました。しかし、まだ房総の海は見えません。


富士山絶景地地からの富士山


君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところの富士山絶景地からの富士山と周辺の山



そこで、君恋温泉からの景観をカシバードで作成しました。樹木がなければ、君恋温泉で三ッ峠山から陣馬山まで眺めることができます。予想を超える大展望に驚きました。まわりの樹木を伐採するか、展望台を作れば、君恋温泉は見事な富士山展望地になりそうです。石老山の左側に房総の海が見えそうなのでその方向を拡大していきます。

細長い線状の房総の海が見えました。千葉県市原市の出光興産の製油所がある付近です。君恋温泉から90㎞離れた房総の海です。
江戸時代に磯部正冬はこの君恋温泉付近の犬目峠から房総の海を眺めました。大森善庵・快庵も眺めたか。かなり視力が良かったようです。





カシバードで作成した君恋温泉からの景観

カシバードで作成した君恋温泉からの景観


左部拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海


中央部拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海


さらに拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海











「坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。」

君恋温泉と富士山の間に桂川がありそうですがカシバードで対地高度2mでは見えません。そこで、君恋温泉の上空300mから富士山方面を眺めました。旧甲州街道で、君恋温泉から恋塚一里塚-下鳥沢宿まで下りていき、下鳥沢宿から猿橋の間で甲州日記に記述した桂川の絶景が見られます。

「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」(広重 甲州日記)



君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川

君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川が見えてきました。



広重「不二三十六景 甲斐犬目峠」の①富士山-②桂川-③犬目峠の位置関係は実際の景観と一致します。
この構図で実際に眺めた景色を入れていくと、「不二三十六景 甲斐犬目峠」になります。
当方の推察。①君恋温泉からの富士山②鳥沢-猿橋間の桂川渓流③犬目峠(座頭ころばしの峠道)

「不二三十六景 甲斐犬目峠」は甲州街道で読者が見たいと思う三大景観を一つにまとめあげた傑作です。



君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川と犬目峠



君恋温泉の300m上空からの富士山



2-4 現地の案内図、インターネットなどで「犬目峠」は何処にあるか


(1)現地案内板に「犬目峠」はない

甲州街道に設置されている「甲州街道史跡案内図 平成5年3月 上野原町教育委員会」です。街道の各区間にあり、これは犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図です。この案内図には「犬目峠」はありません。北斎と広重が描いた「犬目峠」で富士山を眺めようとおもって、この街道に来た人はこの地図を見て呆然とします。
宝勝寺境内に「北斎と広重はこの辺りで犬目峠からの富士山を描いた」という説明文があるのに街道筋には「犬目峠」に行く手掛かりがない。

「犬目峠」は史跡の定義から外れるためかと思ったが、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の「長峰の句碑」の記載があるので、それとも違うようである。
「史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。」

芭蕉の句碑があるのに、北斎、広重の画碑がないのはどうしてか。北斎はアメリカの雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした人物である。しかし、その評価は現在の評価であり、江戸時代には浮世絵の巨匠であっても、量産の観光用の風景画を作る作業グループの一人の絵師としか見られていなかったためか。富嶽三十六景の「犬目峠」の地名が200年ほどで消えるのが不思議です。

野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の街道で、「犬目峠」は最高の名所と思いますので、現地の案内板に何らかの説明があるべきとおもった。
「北斎、広重が描いた犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿にあるといわれていますが、現在その場所が特定されていません」
このような説明があれば、私も納得して扇山登山に出発したのですが、もやもやとした気持ちを晴らすため甲州街道を進み、恋塚一里塚を越えたところにある富士山展望地まで歩きました。そのため扇山山頂到着は、11:40になり少し霞んだ富士山を眺めました。(扇山の山歩き

「座頭ころがし」は野田尻宿と犬目宿の間にあります。





甲州街道史跡案内図の拡大図

犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図


インターネットで犬目峠の場所を探すと北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」の犬目峠の場所が示されるのが多く、(1)野田尻宿と犬目宿の間(2)犬目宿と下鳥沢宿の間が出てきます。しかし、そこを犬目峠とした根拠の記述はありません。



(2)野田尻宿と犬目宿の間に犬目峠


■日記によると、広重は犬目宿の手前で富士山を見ている。「のだ尻を立(っ)て、犬目峠にかかる。此坂道ふじを見て行(く)。座頭ころばしという道あり」とある。座頭ころばしは野田尻宿と犬目宿の間にある地名で、現代は矢坪坂と言っている。
 赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年


■甲州犬目峠 冨嶽三十六景 葛飾北斎
犬目峠は、甲州街道の犬目宿と野田尻宿の間に位置する峠で、桂川に沿ったこの場にまで来ると、西南の方向に雄大な富士山容を望むことができたという。
 「甲州犬目峠」(冨嶽三十六景) 葛飾北斎|東京伝統木版画工芸協同組合


■折り重なる山々の向こうに富士の姿
 山梨県上野原市。旧甲州街道の宿場町のひとつ。上野原宿から野田尻宿を経て西へ、犬目峠を越えると犬目宿に至る。郡内地域の宿の中で最も標高が高い。 
 江戸からこの道をたどった富士講信者たちの歓声が今にも聞こえてきそうなほど峠から望む富士山の姿は素晴らしい。折り重なる山々の向こうに富士をのぞむことができる。浮世絵師・葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」には、急坂を登る旅人と富士山が描かれ、甲斐の山々の険しさを強調した名作として知られる。
 折り重なる山々の向こうに富士の姿 ; 富士山NET|ふじさんネット|富士山情報 まるごとおまかせ(山梨日々新聞社)


■甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)犬目峠は甲州街道の野田尻宿と犬目宿の間にあり、『甲州叢記』によると房総の海まで見えるほど極めて高いところにあったといいます。
 葛飾北斎 冨嶽三十六景 著者: クールジャパン研究部

*『甲州叢記』は「甲斐叢記」。「甲斐叢記」に「犬目峠」が記載されていることを知る。「甲斐叢記」で「峡中紀行」に犬目峠の記載があることを知る。
 しかし、二資料とも、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間ではなく、犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載。(筆者注)


■この北斎ミニギャラリーでは、現在開設準備中の「すみだ 北斎美術館」に収蔵する「冨嶽三十六景」シリーズの作品をご紹介しています。「冨嶽三十六景 甲州犬目峠」
犬目峠は現在の山梨県上野原市内に位置し、旧甲州街道の宿場町である野田尻宿と犬目宿(どちらも上野原市内)の間にあたります。犬目峠は標高が高く、遮るものがないために富士山がよく見えますが、北斎がどこからこの絵を描いたのかは分かっていません。
 すみだ区報 |文化・スポーツ


(犬目宿付近)

●関東富士見百景 犬目地区内 遠見

犬目地区は、旧甲州街道の犬目宿として栄え、葛飾北斎の富士三十六景のひとつに甲州街道犬目峠が描かれています。犬目地区遠見(とうみ)は地名の通り、富士山を遠く四方を見渡すことができ、天気良ければ、左右に裾野を引いた雄大な富士山が年間を通じて望めます。南の方向には、丹沢連邦が見え、展望が良い場所です。




*北斎の「犬目峠」が犬目地区で描かれたとしか書いていませんが、犬目地区の遠見で描いたと誤解されます。遠見は、地元で北斎が「犬目峠」を描いた場所と言われているようです。(筆者注)




(2)犬目宿と下鳥沢宿の間に犬目峠


■富嶽三十六景 甲州犬目峠
甲州街道沿いの犬目峠(上野原市)の風景が描かれている。犬目峠は犬目宿(上野原市)と鳥沢宿(大月市)の中間に位置する峠で、『甲駿道中之記』に拠れば絶景の地であったと記されている。現在では周辺の道が廃れてしまっているため、正確な場所は不詳。1830-34年(天保元-5年)頃作。
 葛飾北斎と甲斐国 - Wikipedia-出典は日野原健司編「北斎 富嶽三十六景」 岩波書店 2019年刊
*『甲駿道中之記』に「犬目峠」の記載があるこを知る。(筆者注)


■葛飾北斎 富嶽三十六景 甲州犬目峠
甲州街道の野田尻(山梨県上野原市)から少し行くと犬目という宿がありました。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠を描いたといわれています
 
甲州犬目峠|葛飾北斎|富嶽三十六景|浮世絵のアダチ版画オンラインストア


葛飾北斎 冨嶽三十六景:甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)
犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。
 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館



■現在の山梨県上野原市あたりには犬目宿という甲州街道の宿場街がありました。そこから次の下鳥沢宿へ向かう途中にあったのが犬目峠です。
 「富嶽三十六景」 葛飾北斎。 江戸歴史ライブラリー編集部.



■「犬目峠」の場所を、特定している甲州街道図が一枚あります。

山梨県のホームページ/ダウンロード/ウォーキングマップ表-7・8甲州街道往来図(上野原市域)(PDF:4,731KB)です。
編集・製作は山梨県埋蔵文化材センターで、印刷されたパンフレットもあるようです。




「犬目峠」を特定している甲州街道図



各名所に番号を当ててあります。

(25)矢坪坂の古戦場の後の(27)座頭ころばし;細く急な坂道があります。座頭ころばしの位置は江戸時代から現在まで、野田尻宿と犬目宿の間のこの矢坪坂の中にあります。

(31)犬目峠は(30)白馬不動尊と(32)恋塚一里塚の間にあります。県道30号の道の上に(31)犬目峠があるので、君恋温泉の辺りを示していると思います。犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点で、当サイトの犬目峠候補地②と同じ場所です。



「広重の甲州道中記 その①」に甲州日記からの引用が記載されていますが、原文と異なり、変化、簡略化された文になっています。その②、③、④では原文が引用されています。
下に示す原文をそのまま出すと、犬目峠が座頭ころがしのところになってしまうため、変化、簡略化した引用になったと邪推してしまいます。。
「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

それなら、「広重の甲州道中記」ではなく、吉田兼信の「甲駿道中之記」にして、以下の文を載せたほうが良いと思います。

「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」


君恋温泉付近を犬目峠にした貴重な甲州街道往来図ですので、差し出がましい意見を述べてしまいました。



「犬目峠」を特定している甲州街道図の拡大図





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