歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある




歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。
(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのかを探ります。



1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 2 犬目峠はどこにある 3 まとめ、蛇足の補足





   「富士三十六景 甲斐犬目峠」
 「富士見百図 甲斐犬目峠」
「不二三十六景 甲斐犬目峠」  「富士三十六景 甲斐犬目峠」 「富士見百図 甲斐犬目峠」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年) 1859年(安政6年) 
 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠
|静岡県立美術館|
より引用
甲斐犬目峠  - 国立国会図書館
デジタルコレクション
より引用
 
歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」
ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス
から引用
 







3 まとめ


3-1 犬目峠はどこにある



犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。

犬目峠の二つの候補地

現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料から、二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。

野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。

犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。
犬目峠候補地②は、犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。

   
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 旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿   旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の標高図 


犬目峠の記述がある史料検討

江戸時代の「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が、「犬目峠」は候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。

「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

以上の検討から、「犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところの君恋温泉付近」」にあったと推察します。
44歳の広重は一人で座頭ころがしがある坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山に感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。


① 歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年)
「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

②-1 荻生 徂徠の「峡中紀行」(1706年宝永7年),
「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・
狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」

②-2 荻生 徂徠の「風流使者記」(1706年宝永7年),
漢文で詳細は不明ですが、「野田尻驛→狗目驛→狗目嶺→恋塚→鳥澤驛」を歩いたようで、狗目峠は狗目驛と恋塚の間にあります。「峡中紀行」と同じです。

②-3 吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)
「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」

②-4 大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 )
「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」


犬目峠と推定した君恋温泉付近からの富士山と房総の海

君恋温泉からは坤位(ヒツジサルノカタ )に富士山が聳えています。カシバード画像では、三ッ峠山から陣馬山までの予想を超える大展望に驚きました。君恋温泉から90㎞離れた房総の海も見えています。北斎も広重も眺めた犬目峠からの景色です。

  犬目峠があったと思われる君恋温泉からの富士山 君恋温泉からの房総の海
  犬目峠があったと思われる君恋温泉からの富士山 君恋温泉からの房総の海



3-2 歌川広重の「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか


「旅中 心おほへ」のスケッチと「犬目峠春景図」

1841年甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際に、座頭ころばしのある道坂道を「犬目峠」と思い、そこからから富士山を写生。

1848年頃ころ、天童藩主織田氏の申し出を受けて肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」制作。
「犬目峠春景図」には、富士山下の鹿留山、杓子岳まで実景とほぼ同様に描いています。

    「旅中 心おほへ」の「座頭転がしのある峠道からの富士山」


1841年(天保12年)「旅中 心おほへ」の「座頭転がしのある峠道からの富士山」
    肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」 

1848年(嘉永元年)頃ころ、
肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」




「不二三十六景 甲斐犬目峠」の試作と葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

初めての富士山連作「不二三十六景」に犬目峠を描くためほぼ10年前の1841年に描いた甲州日記の写生から犬目峠と富士山の構図で一枚試作。
しかし、その図を横に反転して眺めると、葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」とほぼ同じであることに気が付く。この構図を不採用とする。(筆者がかってに推察)

  「不二三十六景」の犬目峠試作の横方向反転

 「不二三十六景」の犬目峠試作の横方向反転



葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

1831年(天保2年)頃から1833年(同4年)頃
葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」



「不二三十六景 甲斐犬目峠」の制作

1859年、①感銘を受けた鳥沢の桂川渓流②甲州街道からの富士山③犬目峠、これら三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を制作。
しかし、桂川は犬目峠があったと思われる場所から見えず、実際には見ることはできない景色を描いています。

  三つの景色の合成

①犬目峠と思った峠のスケッチ②感銘を受けた鳥沢の桂川渓流
③甲州街道からの富士山を合成
      「富士三十六景 甲斐犬目峠」 

1859年(安政6年)「富士三十六景 甲斐犬目峠」



「富嶽三十六景 甲斐犬目峠」の制作

「不二三十六景 甲斐犬目峠」の構図が気に入り、7年後に縦長の構図にして、肉筆画 「猿橋冬景図」「犬目峠春景図」も参照して「富嶽三十六景 甲斐犬目峠」制作。

   歌川広重の「不二三十六景 甲斐犬目峠」

「不二三十六景 甲斐犬目峠」を縦長にして、

肉筆画「猿橋冬景図」「犬目峠春景図」も参照
   「富士三十六景 甲斐犬目峠」

1859年(安政6年)「富士三十六景 甲斐犬目峠」


「富士見百図 甲斐犬目峠」;の制作

写生をもとにして描く趣旨の「富士見百図」の要請に応じて、座頭ころばし付近からの実景の基づき「甲斐犬目峠」制作。 峠の向きは左側に変更。

   座頭ころばし付近からの実景の基づき制作

座頭ころばし付近からの実景の基づき制作中

      「富士見百図 甲斐犬目峠」

1859年(安政6年)・「富士見百図 甲斐犬目峠」
広重は1858年(安政5年)9月6日61歳で没)


 「犬目峠春景図」と三枚の「甲斐犬目峠」の富士山下の山並みは、実際の山並みとほぼ同じように描いています。十数年前の旅の記憶だけで描いたとしたら驚きです。「旅中 心おほへ」の写生図のほかに詳細な「写生図」があったと思っています。

しかし、4枚の犬目峠の作品は実際には見ることができない広重作った架空の景観を描いています。




 


      蛇足の補足 その1

 

君恋温泉

現在、君恋温泉は閉館となっています。恋塚、君恋、犬目など魅力ある地名関連の施設の一つが消えるのは残念です。



魅力ある地名「恋塚」「君恋」の由来


歩いた甲州街道には「恋塚一里塚」、「君恋」の地名の由来に関する表示板がないので、ネットで調べると君恋温泉で入浴した方の次のような記載がありました。


「因みに、宿にあった説明書きを要約すると、以下のとおり。この近辺に「恋塚」という集落と「君越(きみごう)」と呼ばれる場所があり、どちらも日本武尊がこの地を通過した故事に由来している。日本武尊が相模から上総へ軍船で渡った折、荒れ狂う波を鎮めるため、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が、自ら海神のいけにえとなり海へ身を投じた。日本武尊は、その妃への思いに胸ふさぎながらこのあたりを越えて行ったことから「君越」の地名が付けられた。やがて見えてくる扇山は、日本武尊が仰ぎ見たことから「仰ぎ山」、のち、扇形にも見えるので「扇山」に変わったのだとか。日本武尊はこの山の麓に愛する弟橘姫の霊を祀る塚を立て、これが「恋塚」の名の由来となった・・・とのこと。
これから推して「君恋」は「君越」と「恋塚」の合体か、もしくは、君越(きみごう)⇒きみ(を)こう⇒君恋になったのかぁ。」




250年前に北斎、広重が歩いた犬目峠はどこかに消えてしまったが、2000年前に日本武尊が歩いた恋塚は立派に残っています。


    




      蛇足の補足 その2





日本武尊と、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)の話からついた地名。


神奈川県秦野市にある吾妻山(あずまやま)は日本武尊(やまとたけるのみこと)が妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)を偲び、「あずま・はや」と詠まれた場所と表示板に書いてあります。

「あずま・はや」の意味、「はや」は詠嘆の意を表す語とすると「ああ、我妻よ」。

「あずま・はや」と詠んだ候補地はこの吾妻山以外にもあり、次の二箇所が有力です。
弟橘媛を忘れられない日本武尊は、『日本書紀』では碓日の嶺、『古事記』によれば足柄の坂本で、「吾妻はや」と嘆いた。(ウィキペディア)

さらにこの「あずま」には、次の説もあります。「東(あずま)」は「吾妻(あずま)」です。
日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる「地名起源説話」である」(ウィキペディア)



吾妻山の起源の表示板



神奈川県二宮町にも吾妻山があり、菜の花と河津桜で有名な山です。






      蛇足の補足 その3






岡潔の「日本的情緒」にでてくる橘媛命


岡潔(おか きよし/1901年4月19日-1978年3月1日)は、多変数解析函数論(複素多変数の複素数値関数を扱う理論)において大きな業績を残した数学者、大学教授。ハルトークスの逆問題(レヴィの問題)を約20年の歳月をかけて解決し、その過程で”不定域イデアル”という概念を考案。これがフランスの数学者達によって現代数学における重要な概念”層”の定義につながっていく。

蛇足の説明の吾妻山を書いていた時、この岡潔の随筆を読んでいたら「橘媛命」が出てきた。これはめったにない奇遇ということでその一文を引用する。

「新しく来た人たちはこのくにのことをよく知らないから、一度説明しておきたい。このくにで善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである。たとえば橘媛命(たちばなひめのみこと)が、ちゅうちょなく荒海に飛びこまれたことや菟道稚郎子命(うじのわきいらつのみこ)がさっさとと自殺してしまわれたのや、楠正行たちが四条畷の花と散り去ったのがそれであって、私たちはこういった先人たちの行為をこのうえなく美しいとみているのである。」

 岡潔「春宵十話」光文社文庫の「日本的情緒」より引用


 推薦:岡潔と小林秀雄の対談集「人間の建設」新潮社文庫 (世界的天才数学者とあの小林秀雄による史上最強の雑談)







      蛇足の補足 その4






日本武尊が関係する御坂峠



御坂峠(みさかとうげ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠。鎌倉往還御坂路のルート上にある御坂山と黒岳の間にある峠です。

御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するとされる。 日本武尊が歩いたところにはその地名が残ります。


 
この峠でも、北斎と広重は富士山を描いています。

北斎の富士山は夏と冬の富士山が同居するこれまで見たことがない風景画です。

広重は御坂峠を下りていくときに見える富士山を描いています。






 

歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」

 葛飾北斎『冨嶽三十六景 甲州三坂水面』
富嶽三十六景 - Wikipediaより引用

 歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」
歌川広重 - Wikipedia








      蛇足の補足 その5





日本武尊が関係する三国山甘草水


日本武尊は富士山展望の山では、御坂峠、扇山の犬目峠と三国山甘草水で登場します。三国峠の山頂で尊鉾で地面を叩くと水が湧き出てきました。地面を叩き水が出てくる技は、日本武尊が最初で、その後は空海に継承されたようです。

ここで「尊大に喜び峡野尊(さののみこと)の賜なりとのたまひ」とありますが、突然出てきた「峡野尊」とは誰か。
峡野尊は初代天皇である神武天皇の幼名です。日本武尊は第十四天皇である景行天皇の息子ですので、峡野尊は日本武尊の十四代前のご先祖様です。
そのため、何故かわからないが、下流を「武尊川」ではなく「佐野川」にしたようです。主語が無いが、日本武尊が名づけたか。
ここで、なぜ湧き水を「甘草水」と名づけたかがわからない。その説明がほしかった。

辞書には「甘草:根や茎の基部が漢方薬で甘草と呼ばれ重用されるマメ科の多年草」とあるが、湧き水との関連、日本武尊との関係は不明。



「甘草水」の説明板



 甘草水の入り口付近からの富士山。紅葉の枝葉の中からのぞく趣のある富士山です。











      蛇足の補足 その6





坤(ヒツジサル)について

大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 )
「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位(ヒツヂサルノカタ)には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」

干支は、年、月、日、時間、方位などを示すためにも使われ、それらの吉凶を表わすようにもなりました。
例えば、方位は北から東回り(時計回り)に子、丑、寅…と12等分します。すると北東、東南、南西、西北が表現できないため、中国では易の八卦(はっけ)に基づいた坎(かん)、艮(ごん)、震(しん)、巽(そん)、離(り)、坤(こん)、兌(だ)、乾(けん)を用いて表現していました。日本では、北東(艮)は十二方位の丑と寅の中間なので丑寅(うしとら)、同じように、東南(巽)は辰巳(たつみ)、南西(坤)は未申(ひつじさる)、西北(乾)は戌亥(いぬい)とも呼んでいました。 
 


 



 文、画像とも 干支②方位神(ほういじん) | 日本の暦より引用









      蛇足の補足 その7






一擲乾坤(いってきけんこん)とは (上の坤の続き)

 「乾坤一擲」とも言います。思い切って、伸(の)るか反(そ)るかの大勝負にでること。「乾」は『易経(えききょう)』の卦(け)の一つで、天を意味し、数のうえでは偶数を言います。「坤」は地を意味し、奇数を表します。「擲」は投げ打つという意味です。「一擲乾坤」で一か八かの大勝負に出て、賭けのサイを振るというような意味で使われます。すべてを運に任せて、思い切って事を起こすことです。

「一擲乾坤」の出典は、唐の韓愈(かんゆ)の『鴻溝(こうこう)を過ぐ』の詩です。
『誰か君王に勧めて、馬首を回(めぐ)らし、眞に一擲を成して乾坤を賭(と)せん。(誰が君主に勧めて馬をひき返させ、あと一回の大勝負に天地を賭したのだろうか)』。
 楚の項羽と漢の劉邦が秦滅亡後天下を分けての戦いの最後半、鴻溝という河を境に天下を二分して、兵を引き上げようと約束しました。互いに故郷へ向けて帰るその時、いま討たないと後顧(こうこ)に憂いを残します、という家臣の進言で、劉邦は引き返して項羽を攻めました。そうして天下は劉邦のものになり漢王朝が成立しました。

 【 一擲乾坤 】 いってきけんこん|今日の四字熟語・故事成語|福島みんなのNEWS







      蛇足の補足 その8



 


東京都八王子にも犬目町があります

 文化・文政期(1804年から1829年)の地誌、新編武蔵風土記稿に犬目村の記載がある古い地名です。
郷土史家の奥村春夫氏によると、公園の周囲の「犬目」という地名は、「井の目」、つまり水がわき出す筋目(地面が割れて筋となったところ)という意味があるようです。

八王子市さんぽ「犬目丘陵ハイキング・熊野神社から甲神社」 | mixiユーザー(id:7184021)の日記





      蛇足の補足 その9





V
  甲州街道の「犬目」の由来は不明です。

狗目嶺から房総の海が見える。犬の目だと房総の海がはっきりと見えるので、「犬目峠」かと思いましたが、違います。
犬は嗅覚と同じように、高い視力を持っているとおもいましたが、犬は近視と言われています。その理由は、水晶体の厚さが人間の約4mmなのに対して犬は約8mmと2倍厚く、近くのものにはピントを合わせやすいものの、遠くにあるものにはピントを合わせづらいからです。人間の平均的な視力を1.0とした場合、犬の視力はだいたい0.3くらいだろうと言われています。
(「犬は目が悪い」は本当?犬の動体視力や目に関する疑問を解説 [犬] All About)







      蛇足の補足 その10




 
  歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年 


大山は、神奈川県北西部に広がる丹沢山地の東部にある標高1252mの山です。江戸時代の中ごろから、大山御師の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行い、各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれて、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなりました。

この大山の二十丁目富士見台に、次のような説明板があります。
「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

上記の浮世絵は歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」です。しかし、この「相模大山 来迎谷」の景色は、富士見台だけではなく大山のどこからも見ることはできません。また、来迎谷の地名は江戸時代の山内図にはあるが、現在の地図などには記載されておらず、その位置が不明です。

そこで「来迎谷」探索を行い、「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの画面右側の鳥居の景観と丹沢山地の崖状の山並みを合成して描いたと推論しました。
歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す


「広重は不二三十六景 甲斐犬目」でも、複数の景色を合成して、実際には見ることができない景色を描いています」と紹介するために、「不二三十六景 甲斐犬目」を手がけたら、・・・・・・・・・大変な作業になってしまいました。



>歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年 

   歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年
   「不二三十六景 相模大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用



大山の二十丁目富士見台からの富士山

   大山の二十丁目富士見台からの富士山 2018.1.27 10:56







      蛇足の補足 その11







広重の甲州日記はグルメ観光記


*広重の「甲州日記」は風景の描写より、宿の状況、食い物の描写が多く、また、面白いので抜粋して掲示します。


「三日・・・のた尻の駅にて泊る。ここにて江戸者三人に別れる。小松屋といえるにとまる。広いばかりにてきたなき事おびただし。
     へのやうな茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなき野田尻の宿  」

*しかし「へのような茶」とは、どんな茶でしょう。野田尻の「尻」に「屁」を掛けたのでしょうか。また、四日目の宿、若松屋の汚さの表現がすごい。罵倒文の見本になりそうな文です。


[此所を出て、黒野田宿、扇屋へ行く、断る故、若松屋といえるに泊、此家古今きたなし、前の小松屋に倍して、むさいこといわん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地蟲座敷をはひて、疊あれども、ほこり埋み、蜘の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一ッ、湯呑形の茶碗のみ、家に過ぎたり、」


*さらに、三日、四日の旅先の食い物の記述が詳細を極める。よくぞ食ったね、よくぞ書いたねと思う。グルメ観光案内記のようです。

「三日
小仏峠にて休。ここにて信州いなべ郡の者 を供につれて、峠の茶屋に休。中喰一ぜんめし。平、きざみこんぶ、あぶらげにふきなり。甚だまずし。・・・
小原の宿より、よせの宿、入口茶屋に休。あゆのすしをのぞむ。三人手つだいて、出来上り出す。甚高直(タカネ)、其代りまずし。・・・
其先の茶屋にて大まんじゅう、塩あんを喰い、関野の宿を越て境川に至る。・・・
ここに茶屋三軒あり。上の方よろし。中の茶屋に休。少々くうふくにあり、四人食事する。あゆの煮付、さくら飯、又うどん一ぜん喰、酒一杯のむ。壱合廿四文なり。・・・
其夜の膳献立、皿(【塩あじ半切】)、汁(菜)、平(【氷とうふいも菜】)、飯・・

「四日
この茶屋、当三月一日見世ひらきしよし。女夫共江戸新橋者、仕立屋職人なりとのはなし。居候一人これも江戸者なり。だんご、にしめ、桂川白酒、ふじのあま酒、すみざけ、みりんなどうる。(食べてはいない)・・・
さる橋向う茶屋にて中喰。やまめ焼びたし、菜びたしなり・・・
初狩宿はずれに茶屋あり。団子四本喰う。・・・
粉麦の焼餅をちそうになる。・・・・
黒野田泊。料理献立。皿(【めざし四ッ、いわし】)、汁、平(【わらび、牛蒡、とうふ、いも】)、飯。皿(【牛蒡ささがき生ゆかけ】)、汁、平(【とうふ、赤はら干物】)、飯。・・・」


*宿、食い物の記述に比べ、犬目峠、富士山、座頭転がしの記述は簡潔そのもので、どのような形状か、感激したところはどこかの記載はないのが残念です。

「四日 晴天。野田尻を立て犬目にかかる。この坂道富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休む」

*武家出身、几帳面な浮世絵からくるイメージと異なり、広重は結構面白い人物のようです。犬目峠ではないという結論は出ていませんが、広重は座頭ころがし峠を犬目峠と早合点しそうな人物と思っています。







      蛇足の補足 その12







「嶺」と「峠」について


 




「嶺」は、辞書では「峠」との関係が出てきませんが、「峠」のほうから「嶺」との関連が出てきます。


「嶺」
音読み:リョウ、レイ。訓読み:みね
意味:みね。山の一番高い所。山頂。連なったみね。山なみ。山脈。
 漢字辞典オンラインより引用


「峠」
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点。
「峠」という文字は室町時代に日本で会意で形成された国字(和製漢字)である
なお、中国語では、「嶺」(簡体字は岭)という字で峠の地形を表す事が多い。例えば、万里の長城のある「八達嶺」や、映画『あゝ野麦峠』の中国公開時の題名『啊!野麥岭』などがある。また、「山口」と表記する例もある。
 峠 - Wikipediaより引用



「峠」という字は室山時代に作られた日本の国字で、本来の漢字は「峠」は「嶺」です。
江戸中期の書〔同文通考・国字〕に「峠(トウゲ)」:嶺なり。嶺は高山の踰(こえ)て過ぐべきものなり」とあるので、嶺は峠と同じように使われていたようです。


「峠」と「嶺」に関する資料


「嶺」が「峠」である浮世絵として歌川広重の「東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺」がある。


東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺

東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺 保永堂版

由井 薩埵嶺 保永堂版東海道五十三次 (浮世絵) - Wikipediaより引用 

薩埵嶺の読み方は現在「さったれい」又は「さったみね」ですが、嶺を「とうげと」と読んでいた例もある。「狗目嶺」が実際にどのように読まれていたかは不明。





中山介山 「峠」という字

「峠」という字は日本の国字である。日本にも神代から独得の日本文字があったということだが、それは史的確証が無い、人文史上日本の文字は、支那から伝えられたものであって、普通それを漢字と云っているが、日本で創製した文字もある、片仮名や平仮名はそれであって、寧ろ国字といえば、この仮名文字こそ国字であるが、普通に国字といえば、仮名を称せずして、日本製の漢字を謂うのである。

 この日本製の漢字が、新たに造られたというのは天武天皇の十一年に(昭和十年より千二百四十三年以前)境部の連石積に命じて新字一部四十四巻を造らしめられたというのが日本書紀に記されていることを典拠としなければならぬ。右の新国字の数と種とは、今正確に分類出来ないけれども、新井白石の同文通巻によれば「峠」の如きも、にその時代に造らしめられた国字の一つに相違ない。

 本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。

  按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処、嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。<br>

 これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く、領とか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパスとかサミットとかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
 和語の「たうげ」は「たむけ」だという説がある、人が旅して、越し方と行く末の中道に立って、そうして、越し方をなつかしみ、行く末を祈る為に、手向をする、祈願をする、回向をする――といったような縹渺たる旅情である。

 中里介山 「峠」という字-青空文庫 より抜粋



「峠」に対応する漢字は「嶺」

【峠】
『運歩色葉集』・『異體字辨』・『漢字の研究』(我國にて制作したる漢字)に「タウゲ」、『合類節用集』に「タウゲ 字未詳或ハ倒下ト曰」、『同文通考』に「トウゲ 嶺也嶺ハ高山之踰テ而過ク可キ者也」、『和字正俗通』に「トウケ」また対応する漢字として「嶺」、『倭字攷』に「タウケ 嶺 ○和爾雅 和漢名数 音訓國字格(中略)从山从上下、皇國會意之字」とある。『和爾雅』には、「倭俗ノ制字」として「タウゲ 嶺ノ字ヲ用宜」とある。韓国の漢字規格にもあるが、『漢韓最新理想玉篇』は日本字とする。『中華字海』にもあるが典拠がなく、新しい文字か日本の国字を輸入したものか。国字であると考えられる
 日本語を読むための漢字辞典 和製漢字の小辞典 一画~四画より引用



「嶺」が「とうげ」と読まれていた例

顔振峠(かあぶりとうげ)とは、奥武蔵の東部、埼玉県飯能市と越生町にある峠である。
・・・『武蔵野話』(1815)には「越生領黒山村に嶺(とうげ)あり。北方より向うは高麗郡長沢村なり。この嶺をカアブリ嶺といふ。按ずるにこの嶺は秩父山の入口にて嶺のはじまりなり、終の嶺を足が窪嶺といふその頭に有ゆゑ冠嶺(かぶりとうげ)といふ。方言にてカアブリと唱る故に本字を失うとおもはる」と記されている。
 顔振峠 - Wikipediaより引用

八科峠 (京都市伏見区)  
江戸時代、1686年、儒医・黒川道祐は、峠を「矢嶋峠(やじま-とうげ)」と記している。豊臣秀吉が伏見城に居城した頃、矢嶋氏の館舎がこの峠付近に在り、称されるようになったという。(『雍州府志』)
 1721年、儒学者・貝原益軒は、峠を「矢島嶺(やじま-とうげ)」と記している。(『京城勝覧』)
 八科峠-京都風光(京都寺社案内)より引用

三国嶺(たふげ)を知る人は松を画しを笑わふべし。
北越雪譜:05 北越雪譜二編凡例 (新字旧仮名) 1841年(天保12年)山東京山(著)
 “嶺”のいろいろな読み方と例文|ふりがな文庫より引用


「峠」、「嶺」が山名であるが、「-toge」と読まれている。

山 峰 名 の 語 尾 語 と そ の 意 味 山 の 名 の 語 尾 語 の 主 な もの と し て,中野 理 學 士 は 前 掲 の 論 交 に 於 い て,山,嶽,岳,森,峰,嶺,丸,牟 禮,辻,岡 を 擧 げ られ た.筆 者 が 個 數 の 多 い もの か ら順 に 列 擧 す る と次 の 様 に な る.
山(-yama, -san, -zan),嶽,岳(-take, -dake),森(-mori),峯,峰,嶺,宇 根(-mine, -ne, -mune, -une),塚(-tuka53例 … … 以 下 例 の 文 字 を省く)岡,丘(-oka 52),仙,山(-Sen, -zen 37),臺,台,平(-dai,tai 29),富 士(-fuji 24),峠,嶺(-toge, toki 22),辻(-tuji 14),城(-zyo 12),丸(-maru 11),頭(-tUmu,-atam 11),鼻(-hana 8),壇,段(-dan 5),

朝鮮では 「嶺 」は峠 を意味 し,山 には この漢字 を用い ない

 鏡 味 完 二「日本の山峰の語尾名 とその地理學的意義」地 理 學 評 論 第25卷第1號昭 和27年 (1952) 1月-J-STAGEより引用
   
   
   






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甲州街道と旧甲州街道

  甲州街道は、古甲州道をもとにして、江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。

本来の甲州街道は現在の甲州街道(国道20号)と同一の部分もあるが、バイパスの完成などにより、並行する別の道となっている所がある。この場合、旧来の道を「旧甲州街道」、新しい道を「新甲州街道」や「新道」とも呼ぶ。

上野原市街地を抜けた甲州街道は、今では桂川の河岸段丘を急坂で下り左に折れ、鶴川から桂川沿いに進んでいる。かつての甲州街道は本町交差点の先にある国道20号・山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線の分岐点の左手にある脇道に入り、さらに右に曲がって鶴川を渡り急峻な山間部を通って鳥沢に至る、現在の山梨県道30号大月上野原線のルートに相当する。一部は中央道の工事に際し埋没してしまったが、急峻な地形が仇となって整備を免れたところも多く、現在も往時の面影を残すものも多い。

甲州街道-ウィキペディア
 




       





 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある 完










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