岩殿山中腹にある「岩殿山ふれあいの館」で説明されている「落城の道」の内容は上記した「稚児落とし」伝承と内容が少し異なります。
1582年3月、武田勝頼は築城して間もない新府城を焼き払い、岩殿城に向かって敗走していた。岩殿城城主の小山田信茂は織田方の命令で甲斐善光寺に出頭する事態だった。岩殿城は北条勢によって攻撃されており、小山田氏の残された婦女子は、平時より整備されていた「落城の道」を通り脱出することになった。
堅手門から大手門、築坂峠、兜岩、呼ばわり谷の大岩壁(稚児落しの前の呼び名か?)へと来た時に、夫人が背にしていた子供が泣き出し、泣き止まないどころか他の子供も泣き出し、敵に発見されてしまった。夫人はやむを得ず、子供らを岩壁上から落とし、雁が腹摺り山(大菩薩山塊のひとつ)方面へ落ち延びた。子供らに最後水を飲ませたところを「水くれ堂」、子供らを落とした150mの岩壁を稚児落しと呼ぶようになった。
雁が腹摺り山に向かった夫人は峠で従者の小幡と別れ、受け取ったつづらを持ち、小和田郷の東光寺へと急いだ。この峠は村人からつづら峠と呼ばれている。東光寺は小山田氏縁の寺で、夫人はこの寺の床下で自刃したという。
稚児落しで捨てられた子供は、浅利郷の名家の子として成人したといい、後年、残された稚児鎧により物語が伝承されていった。当時は武田家を滅ぼした織田・徳川を恐れて語られなかったが、この稚児は後に天神社に祀られた
岩殿城!小山田氏の名城。稚児落しの悲話~DELLパソ兄さん より引用
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