こんなところに富士山  


    


1 天下石への
下り道

2 大月の
稚児落とし

3 平塚の
高麗山付近

 4 明神ヶ岳へ
進む道
 









2 大月の稚児落し


大月市の岩殿山から天神山に行き、そこから少し歩くと大岩壁が見えてきます。大岩壁の高いところが稚児落し。

戦国時代、武田勝頼から離反した岩殿城主の小山田信茂が、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。その後、織田軍に追われた小山田一族は岩壁付近に隠れていたが、信茂の側室千鳥姫の赤子・万生丸が声高に泣いたため、小山田家の家臣木幡太郎が、織田軍に見つけられると小山田信重の2男賢一郎の命危ないと感じ、千鳥姫から赤子を奪い、この岩壁から万生丸を投げ落としたという伝説が「稚児落し」の由来です。
千鳥姫の稚児落し伝承【小山田信茂の側室】岩殿山城 -武将辞典参照)

この壮大な岸壁を撮ろうとしたら、岸壁の左奥の高川山後ろに富士山が見えました。こんなところに富士山がいます




稚児落し


大岩壁の高いところが稚児落し 2016.1.25 11:35






岸壁の左奥の高川山後ろに富士山 


















登山コースのはじめに登る岩殿山からは富士山の絶景が見られます。


岩殿山からの富士みちと富士山


岩殿山からの富士みちと富士山  2016.1.25 9:23



岩殿山丸山公園からの桜と富士みちと富士山


岩殿山丸山公園からの桜と富士みちと富士山。大和の国の春の絶景です。 20111.4.12 8:35








蛇足の補足  



岩殿山中腹にある「岩殿山ふれあいの館」で説明されている「落城の道」の内容は上記した「稚児落とし」伝承と内容が少し異なります。

1582年3月、武田勝頼は築城して間もない新府城を焼き払い、岩殿城に向かって敗走していた。岩殿城城主の小山田信茂は織田方の命令で甲斐善光寺に出頭する事態だった。岩殿城は北条勢によって攻撃されており、小山田氏の残された婦女子は、平時より整備されていた「落城の道」を通り脱出することになった。

堅手門から大手門、築坂峠、兜岩、呼ばわり谷の大岩壁(稚児落しの前の呼び名か?)へと来た時に、夫人が背にしていた子供が泣き出し、泣き止まないどころか他の子供も泣き出し、敵に発見されてしまった。夫人はやむを得ず、子供らを岩壁上から落とし、雁が腹摺り山(大菩薩山塊のひとつ)方面へ落ち延びた。子供らに最後水を飲ませたところを「水くれ堂」、子供らを落とした150mの岩壁を稚児落しと呼ぶようになった。

雁が腹摺り山に向かった夫人は峠で従者の小幡と別れ、受け取ったつづらを持ち、小和田郷の東光寺へと急いだ。この峠は村人からつづら峠と呼ばれている。東光寺は小山田氏縁の寺で、夫人はこの寺の床下で自刃したという。

稚児落しで捨てられた子供は、浅利郷の名家の子として成人したといい、後年、残された稚児鎧により物語が伝承されていった。当時は武田家を滅ぼした織田・徳川を恐れて語られなかったが、この稚児は後に天神社に祀られた


岩殿城!小山田氏の名城。稚児落しの悲話~DELLパソ兄さん より引用