御 坂 峠 は ど こ に あ る



1 正規な地名の
  御坂峠はどこにある
 2 地図、登山案内書、Webサイトで
御坂峠はどこにある
 3 「富士見三景」の
  御坂峠はどこにあ







(3)「富士山の自然界 石原初太郎著 東京宝文館 大正十四年発行」

石原初太郎の「御坂峠」に関する著書は2冊あり、「富士山の自然界」は大正十四年に発行された一般読者向けの新書版です。
「御坂峠」の記載内容は「富士の地理と地質」とほぼ同じですが、三谷憲正氏は『「富嶽百景」論』で、「富嶽百景」は以下に示すように「富士山の自然界」に依拠していると書いてます。



ところで、この『-自然界』は、冒頭部だけに使われているのではない。それは「富嶽百景」の次の所においてである。

この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当たつてゐて、北面富士の代表望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あんまり好かなかつた。(太字引用者、以下同じ)
.
一方『-自然界』(「富士山の形態二山頂の形」一五三頁)では次の如くである。

御坂峠は北面富士の代表望台で、(...)o此の御坂峠は甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当るので古来甲州富士見三景の一に算へられ劃人口に膾炙する所であるけれども(...)o

太線部に注意するならぼ、ほぼ同文がそのまま用いられていることに気づく。


佛教大学三谷憲正『「富嶽百景」論』 より引用

傍点、傍線部を太字に変更してます







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以上のように、石原初太郎の著作を二つも掲示しているのは、太宰治の嫁さんである美知子夫人の父親であるからです。石原初太郎は太宰治の岳父です。
太宰治は「富嶽百景」の中で書かれているように、昭和十三年(1938)の御坂峠滞留中に、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。翌年1月8日、29歳で井伏の自宅で結婚式を挙げ、甲府市御崎町に移り住みました。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居し、精神的にも安定し『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表しました。昭和二十三年(1948)六月十三日山崎富栄と玉川上水に入水し、死亡。


石原初太郎は東京帝国大学理科大学地質学科で地質学を専攻し,卒業後、農商務省東京鉱山監督署、同省鉱山局、盛岡鉱山監督署に勤務し、1899年(明治32年)に教育界へ転じ、、その後1921年(大正10年)に退官、山梨県の招聘に応じて帰郷し山梨県嘱託となり、富士山麓の景勝開発事業に従事するとともに山梨県下一帯の地質及び動植物の調査研究を行いました。

「富嶽百景」で美知子の父親として登場しないのは、1931年(昭和6年)、60歳で死去したためです。

以下の美知子夫人著の会話で、太宰治も岳父の石原初太郎の著書の文章を、ほとんど同じような文章で「富嶽百景」に使っていたことを認めている。


 美知子夫人の手記を、「太宰治集」の井伏氏の解説から、次に引用する。
・・・・・・・
「富嶽百景」の書きはじめ「富士の頂角云々」は、私の父石原初太郎の著書から、そのまま、盗用してあるので驚きました。太宰は、「おやじなら文句は言えまい」と言っておりました。

その後に続く御坂峠に関する文章も同様と判断します。


これまで述べたように、太宰治は岳父の著書「富士山の自然界」を読み、その中の御坂峠に関する①鎌倉往還(鎌倉街道)③能因法師に関する文章をほとんど同じように「富嶽百景」で用いている。そこで、①鎌倉往還、③能因法師は時代が異なるため、最初から逗留している天下茶屋の御坂峠ではなく、西の御坂峠であることはわかっていたと思う。また、②富士見三景に関しては。書籍の写真または発行年をみて、これも西の御坂峠のこととわかったと思う。


再度太宰治の「富嶽百景」の「御坂峠」に関する部分を見ます。

「私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、・・・・」


太宰治は、何故このような事実と異なる「鎌倉往還」と「富士三景」を平然と書いたのか。この「富嶽百景」の小説の構成のためと思います。
この富士山の紹介の後に、富士山を軽蔑する文章が続きます。

「・・・・私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた」

この小説の始まりの部分で、私(太宰治)が軽蔑する富士山は、鎌倉時代から世の中の人に眺められて、富士三景と称賛された富士山であると言いたいために事実と異なる御坂峠の富士山を描いています。昭和六年にできあがりまだ7年しかたっておらず、世の中の人にあまり知られていない峠からの富士山ではいけなかったためと思います。ここで太宰治が軽蔑する富士山は、日本文化、日本美の頂点を意味します。その富士山を軽蔑する太宰治が過ごした数か月のことを、書いた小説ですので、お読みくださいと言っているようです。



 昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
 甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。
 御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。
 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。


「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」
 私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。



仙游: 仙境に遊ぶこと。俗を離れて悠々と遊ぶこと。


甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は御坂(みさか)峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道(なかみち)往還は右左口(うばぐち)峠を越え精進(しようじ),本栖(もとす)の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。







 


青空文庫「富嶽百景」太宰治 より引用









富嶽百景

太宰治


 富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢きやしやである。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、鷲わしにさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。



















試に画家の筆に成る富士山を吟味するに、其頂角が実際を表はすものは殆んどない、凡て鋭に過ぐるのである。例へば広重の富士は八十五度位、文晁のは八十四度位で、秋里籠島の名所図会中の図は各地の画家のスケツチに依るものであるが何れも八十四、五度で、大概の図は此の位に角度に描かるるのである。けれども陸軍の実測図により東西及南北に断面図を作つて見ると、東西縦断は頂角が百廿四度となり、南北は百十七度である。故に南又は北から見るときは東又は西から見るときよりは幾分鈍であるべきで、之を平均するときは百廿度卅分で、八面から撮つた写真の頂角を測ると丁度此の角度を示す。
(石原初太郎『富士山の自然界』大正14年・宝文閣)










   



この場面で出てくるこの御坂峠に関する歴史的事項を記載しているが、間違いです。
①この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて
②ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つ
③むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つた



富士山の展望が美しいとして御坂峠、花水坂、西行峠(坂)が「甲斐の富士見三景」と呼ばれている。
しかし、この御坂峠が西の御坂峠か東の御坂峠か不明である。WEBでは、東の御坂峠の天下茶屋付近から見る富士山が見事で、富士見三景はここの御坂峠であるという記載が多い。
太宰治の「富嶽百景」(1939年)でも以下のように「風呂場のペンキ画だ」のところに、天下茶屋の御坂峠が富士見三景として描いている。

「井伏氏は、仕事をしておられた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当っていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。」




東の御坂峠が、御坂峠と呼ばれるようになったのが、御坂トンネルができた1931年以降とすると、鎌倉往還の道は西の御坂峠であり、「この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当っていて、」は間違いである。

つぎに、その後に続く「北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうである」は正しいか否か。「むかしから」とあるので1931年より前であるようだが、はっきりしない。WEBで調べたかぎりでは、いつの頃から「富士見三景」と呼ばれていたのか不明である。
一番古いところでは紀行文を多く書いた大町桂月が「富士見三景めぐり」(1918年、桂月全集掲載)を書いている。全集掲載が1918年とすると、東の御坂トンネル開通前であり、富士見三景の御坂峠は西の御坂峠であると思われ、「富嶽百景」の記載は間違っていると思われる。

また、御坂峠からの富士山は葛飾北斎の「富嶽三十六景・甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)」、歌川広重の「冨士三十六景・甲斐御坂越」で一般に知られていた。江戸時代であるからこれら作品の御坂峠は西の御坂峠と思われる。
これらのことから、「甲斐の富士見三景」といわれ始めた頃の御坂峠は西の御坂峠と推察する。
現在、西の御坂峠は、車では行けず、登山道の通過点として存在するため、東の御坂峠が天下茶屋と絡めて「甲斐の富士見三景」として紹介されることが多く、そのうち、定着すると思われる。


3.西の御坂峠からの富士山はどのように見えるのか。

西の御坂峠の表示板がある頂上では樹木のためか富士山は見えなかった。頂上横に御坂天神の祠がありその背後にトイレがありますがそこから次のような富士山が見えました。河口湖も見えてます。樹木がなければよい構図の富士山です。(御坂天神の祠からも見えたかもしれないが、記憶と写真がない)





また、三つ峠入口から30分程登ったあたりから頂上手前まで、いたるところで樹木の間から富士山が見えます。次の写真は御坂峠頂上手前15分ほどのところからの富士山です。樹木がなければ、歌川広重の「冨士三十六景・甲斐御坂越」に近い景観です。













タイトル
岡田紅陽の富士百影作品集. 昭和7年10月 第4輯
出版者
審美書院
出版年月日
昭和7
富士百景 11/31






















試に画家の筆に成る富士山を吟味するに、其頂角が実際を表はすものは殆んどない、凡て鋭に過ぐるのである。例へば広重の富士は八十五度位、文晁のは八十四度位で、秋里籠島の名所図会中の図は各地の画家のスケツチに依るものであるが何れも八十四、五度で、大概の図は此の位に角度に描かるるのである。けれども陸軍の実測図により東西及南北に断面図を作つて見ると、東西縦断は頂角が百廿四度となり、南北は百十七度である。故に南又は北から見るときは東又は西から見るときよりは幾分鈍であるべきで、之を平均するときは百廿度卅分で、八面から撮つた写真の頂角を測ると丁度此の角度を示す。
(石原初太郎『富士山の自然界』大正14年・宝文閣)



*「甲斐の富士見三景」について確かな資料が有りましたら教えていただきたい。








富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁ぶんちょうの富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角えいかくである。いただきが、細く、高く、華奢きゃしゃである。北斎ほくさいにいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔てっとうのような富士をさえ描えがいている。けれども、実際の富士は、鈍角どんかくも鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜しゅうばつの、すらと高い山ではない。たとえば私が、印度かどこかの国から、突然とつぜん、鷲わしにさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆きょうたんしないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧あこがれているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗ぞくな宣伝を、一さい知らず、素朴そぼくな、純粋じゅんすいの、うつろな心に、果して、どれだけ訴うったえうるか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾すそのひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。



 昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
 甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。

 御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。

 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。


「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」
 私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。



仙游: 仙境に遊ぶこと。俗を離れて悠々と遊ぶこと。


甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は御坂(みさか)峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道(なかみち)往還は右左口(うばぐち)峠を越え精進(しようじ),本栖(もとす)の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。



試に画家の筆に成る富士山を吟味するに、其頂角が実際を表はすものは殆んどない、凡て鋭に過ぐるのである。例へば広重の富士は八十五度位、文晁のは八十四度位で、秋里籠島の名所図会中の図は各地の画家のスケツチに依るものであるが何れも八十四、五度で、大概の図は此の位に角度に描かるるのである。けれども陸軍の実測図により東西及南北に断面図を作つて見ると、東西縦断は頂角が百廿四度となり、南北は百十七度である。故に南又は北から見るときは東又は西から見るときよりは幾分鈍であるべきで、之を平均するときは百廿度卅分で、八面から撮つた写真の頂角を測ると丁度此の角度を示す。
(石原初太郎『富士山の自然界』大正14年・宝文閣)





富士山の自然界 著作者兼発行者 山形県 右代表 石原初太郎 東京実文館  大正十四年六月二十日発行




富士山の自然界 著作者兼発行者 山形県 右代表 石原初太郎 東京実文館  大正十四年六月二十日発行



富士山の自然界 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

「富嶽百景」論  三谷憲正


富士の地理と地質