歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。
(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのかを探ります。
| 1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 | 2 犬目峠はどこにある | 3 まとめ、蛇足の補足 | |||
1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 (1)犬目峠と桂川と富士山 歌川広重の(うたがわ ひろしげ、1797年・寛政9年-1858年10月12日・安政5年9月6日)の「不二三十六景 甲斐犬目峠」です.。 「不二三十六景」は、広重がはじめて手がけた富士山の連作で、横中判(19.5×26.5㎝)、全36枚揃で1852年(嘉永5年、版元)佐野喜より出版されました。 山梨県立博物館の解説では、「不二三十六景 甲斐犬目峠」は、実際に見えない桂川を描いていることを指摘しています。 そこで、広重が犬目峠で見た風景と、この「不二三十六景 甲斐犬目峠」がどのように異なるかを調べます。 ![]() 歌川広重 「不二三十六景 甲斐犬目峠」 横中判(19.5×26.5㎝) 制作年代:嘉永5(1852)年 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用 歌川広重 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の解説
「甲斐犬目峠」と題名にあるので、その犬目峠からの景色を出せばよいのですが、現在「犬目峠」なる地名は、地図にない。上野原市に犬目があり、街道に犬目宿の史跡はあるが「犬目峠」の表示はない。 この「犬目峠」は葛飾北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」でも描かれており、著名な地名です。しかし、ここが葛飾北斎と歌川広重が描いた「犬目峠」です、という石柱もありません。江戸時代の浮世絵の2大巨匠が描いた場所が現在消えています。 犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿のあいだにあったといわれていますので、犬目峠からは下鳥沢宿から猿橋宿に沿って流れる桂川は見えません。また、桂川の沿った甲州街道からは富士山は見えません。 広重は、実際に見ることのできない「犬目峠と桂川と富士山」の景色を描いています。 ![]() 富士山と扇山、犬目宿(約40㎞) 野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿と桂川の地図 (2)広重の「甲州日記」と「旅中 心おほへ」 広重が1841年に甲州街道を歩いた記録が「甲州日記」として残っています。 『甲州日記』は、歌川広重が1841年(天保12年)に甲府城下町における甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際の旅日記です。表題が「天保十二丑とし卯月、日々の記、一立斎」と記された前半部と、「旅中 心おほへ」と記された後半部の二部から成り、「日々の記」は『甲府行日記』、「心おほへ」は『甲州日記写生帳』とも呼ばれます。 歌川広重の「甲州日記」の犬目峠に関する記述を以下に示します。とても短いです。 「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかゝる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」 野田尻宿と犬目宿の間に、「犬目峠」があることはわかります。しかし、「座頭ころばしの道」が「犬目峠」を登る坂道の中にあるのか、「犬目峠」の頂の後の下り道にあるのかは不明です。 「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、犬目峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。 広重の「甲州日記」には、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間にあると書いてあります。しかし、この後で検討する吉田兼信の「甲駿道中之記」では、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間と記載しています。そのため、現在においては野田尻宿と鳥沢宿の間に犬目峠があったとされていますが、その地点は限定されていません。この、犬目峠の場所については改めて検討します。 広重の「甲州日記」の「旅中 心おほへ」に、犬目峠の写生と思われる図があります。 他の写生図では、「屏風岩」「善光寺」など描いた場所の記載がありますがこの図では描いた場所の記載がありません。「座頭ころばし」の図がありますが、山道の写生ではなく、峠にあった茶屋の様子が描かれています。この茶屋はしがらき茶屋と思われます。この図から、しがらき茶屋は峠の頂にあったと推察されます。 犬目峠の写生と思われる図では峠道が描かれており、その左側に山並みがありその上に富士山がいます。この峠道と富士山の間に桂川の渓流を押し込めば、 「不二三十六景 甲斐犬目峠」になりそうです。 ![]() 歌川広重「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図 ![]() 歌川広重「旅中 心おほへ」の中の表紙と「座頭ころがし」の写生図 Ichiryusai HIROSHIGE (1797-1858) | JapanesePrints-Londonより引用 甲州日記に日記文と写生図に関しては次の研究報告書がありませすが、現在「品切」のため入手できません。 山梨県立博物館 調査・研究報告3 「歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」調査研究報告書 (A4版、97頁、平成20年3月、1000円 現在品切) 図版なしですが、その解説は以下にあります。 歌川広重の歩いた甲斐道 その10 - 鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」 何故、桂川渓流を富士山と峠の間に置いたかは後で検討するとして、まず富士山と周辺の山について検討します。座頭ころがしのある矢坪坂からは樹木が多く富士山は見れません。矢坪坂の頂上付近からのカシバード画像を作成しました。樹木がない場合見える景色です。「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図と異なり九鬼山の尾根が扇山の尾根のため途中で切れており、その扇山の尾根が富士山の前にあります。 ![]() 座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像 (4)犬目付近からの富士山 2015年11月21日の扇山登山の前に、犬目峠で富士山を眺めるため、犬目バス停から鳥沢へ向けて甲州街道を歩きました。犬目バス停から鳥沢に少し進んだところに宝勝寺があり、その境内の慈母観音の説明板に、次のように書いてあります。 『葛飾北斎の「富嶽三十六景」歌川広重の「不二三十六景」の富士山は、この辺りから描いたといわれています。』 「この辺り」を「宝勝寺の境内」ではなく、「野田尻宿と下鳥沢宿の間」と受け止めます。
![]() 君恋温泉の看板前からの富士山 ![]() 君恋温泉からの富士山 富士山は九鬼山と高畑山の尾根の上にいます。富士山の中央下に杓子山と鹿留山の山頂部が見えています。九鬼山の山並みの前に桂川はありません。桂川が見えるのは鳥沢に下った後です。 ![]() 「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山、高畑山、倉岳山、大室山 ![]() 「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山 犬目宿付近の三か所からの富士山と周辺の山並みの景色はほぼ同じで、座頭転がし付近とは異なることがわかりました。 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面下の桂川と峠道を描いた部分を除いて、恋塚一里塚付近の富士山絶景地からの富士山と比べます。 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山は、九鬼山と高畑山の尾根の上にいるように描かれています。富士山中央下の鹿留山、杓子山まで描いているように見えます。実際の景色の横方向だけ少し縮めて、富士山の形を合わせると、さらに似てきます。 歌川広重は甲州街道の犬目宿付近からの富士山を眺め、それをもとに「不二三十六景 甲斐犬目峠」の上部を描いたと思います。 ![]() 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部 ![]() 「:恋塚一里塚」付近の富士山展望地からの富士山 ![]() 上図の横幅を少し縮め、富士山の形状を 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山に合わせた画像 (5)桂川の景色 次に、鳥沢から猿橋の桂川の景色を眺めます。桂川は犬目宿から約4㎞の距離、高さで250m下にある川です。この桂川は、上掲した「甲州日記」で次のように絶賛しています。 「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」 富士山に関しては「この坂道富士を見て行く」としか書いていません。 広重が鳥沢から歩いた道の少し南にある虹吹橋からの桂川です。高畑山に登るときに、眺めた景色です。猿橋に行くと岩が多くなるようですが、鳥沢付近の桂川はこのような景色で、川面から橋までの距離が長く、山中の渓谷の雰囲気を持つ川です。 ![]() 虹吹橋からの桂川 ![]() 虹吹橋からの桂川 (6)「不二三十六景 甲斐犬目峠」の制作過程 広重は、次の三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を完成させたと思います。 ①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋 ②鳥沢からの桂川渓流 ③恋塚一里塚付近からの富士山。 画面に次の三点を並べます。②桂川渓流の写真は川の位置を合わすため横方向反転してます。 ![]() ①、②、③の三つの画像のバランスを調整し、変形、簡略化していき、色彩も簡略化していきます。 これらの簡略化により、印刷用の版木を少なくします。 量産の浮世絵にとって、構図と色彩の簡略化は版元からの基本要求のようです。 ![]() 最後に「不二三十六景」、「甲斐犬目峠」、「広重画」を入れて完成です。 ![]() 広重の「不二三十六景」、「富士三十六景」の富士山は冠雪状態を描かない富士山が多い。そのため景色全体を見て、その季節を判断するのが難しい。 この「不二三十六景 甲斐犬目峠」も甲州の旅は卯月(4月)ですが、樹木が紅葉しているので、秋の季節のようです。秋とすると、まだ山腹全面が冠雪しないので、富士山は白く描かれているが、雪が全くない富士山としてみます。しかし、この絵の樹木が芽吹く前の4月頃の枯れた樹木とすると、冠雪のため山腹全体が白くなった富士山になります。 富士山を眺めて、その冠雪状態で何月頃の富士山かを判断する富士山愛好家として、広重の富士山への不満を一言述べました。 しかし、実際には見ることのできない富士山と桂川渓流の景色を「不二三十六景」で描いたのには驚きます。「不二三十六景」は観光案内パンフレットの役割も持っていたと思いますので、購買者から文句が出なかったかと心配になります。しかし、7年後の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」も、この大胆な富士山と桂川渓流の構図で描いていることから、黒船来航の一年前の嘉永5年は、購買者のおおらかな対応があった時代であることがわかります。 1-2 歌川広重の「富士三十六景 甲斐犬目峠」 (1)犬目峠と桂川と富士山 歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」です。「冨士三十六景」は、竪大判(39×26.5㎝)で37枚揃物、版下絵は1858年(安政6年)4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏で、広重の没後に出版されました。版元は蔦屋吉蔵、富士を描いた連作で風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図が多い。「不二三十六景 甲斐犬目峠」が出版された1852年(嘉永5年)の7年後です。 この作品も「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、甲州街道からの富士山と鳥沢・猿橋から眺めた桂川の合成です。竪大判になったため、桂川の両岸がそそりたち、深い渓谷の上に富士山があります。「甲斐犬目峠」より「甲斐桂川」の題名のほうが似合っている作品になっています。川岸の峠の道で旅人二人が富士山を眺めているが印象的で、実際には見ることができない富士山と桂川の二つの景色を一体化させています。 ![]() 歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」 竪大判(39×26.5㎝) 甲斐犬目峠 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
(2)実景からの制作過程 「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成して「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を作ります。富士山と桂川の実景画像を適当に変形して、富士山を上に桂川を下に置き、その間に雲を入れて二つの画像をつなぎます。日本画の雲は異なった空間を違和感なくつなぐことができます。絵巻物では時間までもつないでしまいます。 ![]() 山並みを整え、峠道を加え、旅人を描き、川幅を広げます。 富士の冠雪を除き、猿橋の渓流のように岸壁を岩で描き、雁の群れを飛ばすと さらに「甲斐犬目」に似てくると思いますが、 ここで題名と署名を入れてほぼ完成とします。 ![]() (3)肉筆画の「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」 広重は版画だけではなく、直接筆で描いた肉筆浮世絵も多数残しています。特に天童藩主織田氏の申し出を受けて1848年(嘉永元年)頃に、制作した200以上の作品は、「天童物」と呼ばれ有名です。 その「天童物」の中に、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」があります。1841年(天保12年)の甲州の旅の写生をもとに描かれたと思います。「不二三十六景 甲斐犬目峠」作年代:1852年(嘉永5年)より前の作品です。 「犬目峠春景図」の富士山の下の山並みは実際の景色にとても似ています。実景では、下の右図のように九鬼山の尾根の上に、鹿留山と杓子山の山頂部がありますが、「犬目峠春景図」でもその色彩を変えた二つの山頂部があり、少し小さくなりますがその形状は実景と似ています。「心おほへ」の写生図ではこの鹿留山と杓子山の山頂部はないので、甲州の旅の7年後に、記憶だけでこれほど山並みを正確に描いているとしたら驚きです。「心おほへ」とは別に「犬目峠」の精密な写生図があったように思います。 掛け軸用に縦長の寸法になっているため、画面下に峠道を書いていますが、犬目宿付近の鳥沢へ行く道は、右側が山、左側は崖になっているところが多く、絵のように両側が山になっている典型的な峠道はないと思います。「犬目峠春景図」の題名に合わせて、峠の頂のように描いたようです。大山の「来迎谷」でも題名に合わせて、実際にない谷を描いています。 「犬目峠春景図」上側の富士山の部分と「猿橋冬景図」下側の桂川渓流部分を画面の置き横方向に景色を拡張していくと「冨士三十六景 甲斐犬目峠」になります。川の形状はほぼ同じです。 ①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成するときに、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」を参考にして、「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を制作したと思います。
1-3 歌川広重の「富士見百図 甲斐犬目峠」 (1)「富士見百図 甲斐犬目峠」 「富士見百図」という絵本に「甲斐犬目峠」があります。三枚目の「甲斐犬目峠」です。「富士見百図」は1859年(安政6年)の、広重没後の刊行です。「百図」となっていますが、実際に描かれたのは20景のみと言われ、広重の死により初編のみの刊行で未完に終わりました。 序文によれば、葛飾北斎の富嶽百景は『(北斎は)絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎の富士は脇役であることが多いと評し、これに対して自分は『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』と、北斎と違ってより写実的な富士を描いたとしています。 ![]() 歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠
広重が犬目峠と思った座頭転がしのある峠道からのカシバード画像を再度示します。前景には扇山の東尾根があります。その奥に九鬼山、高畑山の山並みがありその上に富士山がいます。 この扇山の尾根が前景になる富士山は、犬目宿と下鳥沢の間で眺めた富士山と異なります。この富士山は、「冨士百図 甲斐犬目峠」の富士山です。 ![]() 座頭転がしのある峠道からのカシバード画像 扇山の東尾根を青緑に着色し、九鬼山、高畑山の山並みとの距離間を出します。 犬目峠からの富士山を表すため峠道を加えます。これで、近景・中景・遠景を重ねた広重の得意な構図になります。 ![]() 富士山と九鬼山の山並みを右に移動し、扇山の尾根を高くして、峠道とのバランスを整えて、全体の色調を合わせます。 ![]() 峠道から眺めた、写実的な「甲斐犬目峠」が完成。 峠道を本来の位置に描いた「甲斐犬目峠」では、富士山、九鬼山、扇山の尾根、峠道の5、6本の斜めの線すべてが、 右上から左下に流れていき、その線を受け止めるものがありません。 このような構図もまた面白いと思いますが、広重は満足できなかったようです。 峠道を左右反転して、左側に描きます。 ![]() 「富士見百図 甲斐犬目峠」が完成。 富士山、九鬼山、扇山の尾根の右上から左下の流れる線を犬目峠が受け止めて、安定感がある構図になっています。 その峠道には、旅人がいて、山並みの上にそびえる富士山を眺めています。 富士山が見える山深い峠道の雰囲気が見事に描かれています。 これらの景観は、左右反転した峠道を除けば、カシバード画像の景観とほぼ一致しています。 1841年の甲州の旅から17年後の1858年の作品ですので、記憶だけでこれらの扇山、九鬼山の山並みを描いたとすると驚きです。 この作品にも、元になる写生図があったと思います。 しかし、 ここで描いた「富士見百図 甲斐犬目峠」の構図は、「不二三十六景 甲斐犬目峠」には、使われていません。その理由を探ります。 1-4 .葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」
(1)北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と広重「冨士見百図 甲斐犬目峠」 北斎の富嶽三十六景は、各地から見られる富士山の景観を描いたもので、全46図からなる大判の錦絵。板元は、永寿堂こと西村屋与八。1831年(天保2年)頃から1833年(同4年)頃にかけて刊行され、大好評を得て、 名所絵を役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したといわれています。 「甲州犬目峠」は富嶽三十六景のなかでは、最も標高の高い所から眺める富士山です。富士山を目指す富士講の信者が、江戸から甲州街道の長い山道を歩いて犬目峠にたどり着き、始めて眺める富士山です。長旅の疲れを癒すゆったりとして、おおらかな富士山が描かれています。旅人が見たいと思った富士山が描かれています。 そのため、犬目峠から実際に見える山頂部だけの富士山と異なり、富士山が丸ごと描かれています。北斎は他の作品でも、題名の地点から実際に見える富士山にはこだわりません。その題名や、周りの風景に適した富士山を描きます。その富士山と左から右にあがる峠道の簡潔な構図に、紺、緑、茶、黄の四色だけで彩色されており、画面全体にさわやかさがあります。峠を登り富士山を眺める旅人により、空間的に離れている富士山と犬目峠が画面上で一体化します。 ![]() 葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」 富嶽三十六景 - Wikipediaより引用
赤坂治績氏はこの時期に「不二三十六景」が出版された理由として、二つ上げています。
この二つに加えて、広重が北斎が存命中には富士山の連作は描かないと決めていたように思います。広重は、浮世絵に風景画のジャンルを確立した北斎を尊敬するとともに、最も強力なライバルとしてみていたと思います。そのため、北斎が亡き後その遺志を継ぐという形で、富士山の連作に挑戦したと思います。 「富士見百図」の序文で、 『絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎を非難しているように書いていますが、この絵本は広重没後の同六年の出版ですので、広重の自説でないという説があります。私もこの説に賛成です。「不二三十六景甲斐犬目峠」「富士三十六景甲斐犬目峠」で実際には見ることができない桂川渓流を描き、「冨士見百図 甲斐犬目峠」で峠の位置を変えて描く広重が、『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』というとは思えません。 かえって、「絵本手引草」に書いたように、「画は物の形を本とす。なれば寫真(志やううつし)をなして、これに筆意を加うる時はすなわち画(え)なり」と、北斎のような大胆で自由奔放な構図に憧れていたように思えます。
広重が初めての富士山連作「不二三十六景」で北斎と同じ「犬目峠」を描くとき、「冨士見百図 甲斐犬目峠」に述べたように、実際に犬目峠の道から眺めた景色とスケッチをもとに色々試作したと思います。峠を右側にすると、しまりのない構図になるので実際とは異なるが、峠を左側にすると景色全体が締まった構図になり、北斎の「甲州犬目峠」とは異なる構図になる。この構図でいいかと思い、じっくり眺めて次のことに気が付きました。 広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転します。 横方向に反転した広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」は北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と基本的には同じ構図になっています。 ![]() 広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転 横に並べると同じ構図ということがわかります。 富士山と峠道と富士山を眺める旅人、この三者が同じ位置にあります。北斎の「甲州犬目峠」の富士山と峠の間に山並みを加えた景色になっています。北斎の「犬目峠」は「犬目峠から眺める優雅な富士山」と一言で言い表せる作品ですが、広重の「甲斐犬目峠」は実景に基づき、丁寧に描いたため、中景の山並みが目立ち、富士山も峠道もその印象が薄くなっています。 .
北斎の「富嶽三十六景」は、絶大な好評を得て、かなりの部数が売れたシリーズで、「甲斐犬目峠」はその中でも人気がある作品です。広重は、その北斎に対抗意識があり、北斎と同じ構図を、富士山の最初のシリーズ「不二三十六景」で使うことはできないと思った。 「筆意」の加え方が少なかったと反省し、扇山の尾根の代わりに鳥沢で感銘した桂川渓流の景色を加え「「不二三十六景 甲斐犬目峠」を描いたと推察します。 (2)北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」 葛飾北斎の「富嶽三十六景」は江戸、甲州、駿河から富士山を眺め、各地の多彩な富士山と風景と民衆の営みを描いた作品と思っていた私にとって、「甲州犬目峠」の富士山は大きな驚きでした。何ゆえ北斎は「甲州犬目峠」で、これほど実際と異なる富士山を描いたか。この富士山を見て、どこから眺めた富士山かを当てることができない富士山です。富嶽三十六景は旅案内本の役割があるとしたら、これをみて犬目峠からの実際の富士山を眺めた読者から苦情、罵倒の声ががなかったのか。 そのあと、「富嶽三十六景」の他の作品を調べていき、「北斎は読者の求める富士山を描いた」と推論しました。そのため、「青山圓座枩」では、山中湖から眺めたような大きな富士山を青山まで持ってきました。「甲州犬目峠」では、江戸から長い道のりを歩いてきた富士講信者が求める富士山を描いたと思います。富士山の麓から木花咲耶姫があらわれて、旅人を歓迎してくれそうな優雅な富士山です。 北斎「甲州犬目」の富士山と甲州街道犬目宿付近からの富士山の違い
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広重は、大胆に実際には見えない桂川を持ってきて、富士山はほぼ忠実に描きました。北斎は、峠と富士山の簡略化した構図で富士山を徹底的に実際と異なる富士山で描きました。実際には見られない富士山のいる景色という観点からは、甲乙つけがたしです。浮世絵で風景を見る場合、実際に見えていたものは何かという観点が必要になります。 2 犬目峠はどこにある、歌川広重の「甲斐犬目峠」はどこで描かれたか 2-1 犬目峠の候補地 (1)犬目峠の候補地の地図と標高図 犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料から、二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。 犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。 犬目峠候補地②は犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。 地図に記入した地名は「・・・宿」以外、現在の地名です。この区間に、犬目峠はもちろん「〇〇峠」の地名はありません。 ![]() 旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿 ![]() 上図の赤線の旧甲州街道をカシミールで標高を求める (2)野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の間の地名を記載している旅日誌、甲斐の史料 旅日誌、甲斐の史料の検討内容が煩雑であり、手順に沿った説明が難しいため、初めに検討結果の下表を示します。これに基づき各旅日誌、甲斐志料が 、犬目候補地①②をどのように記述しているかを述べ、相補地を推察します。 犬目峠が出てくる資料 野田宿と犬目宿の間の犬目峠候補地①: 歌川広重の「甲州日記」 1841年(天保12年)。 犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地②: 荻生 徂徠「峡中紀行」、 「風流使者記」1706年( 宝永7年)、吉田兼信の「甲駿道中之記」 1820年(文政13年)、大森善庵・快庵「甲斐叢記」 1851年(嘉永4年) 「峡中紀行」、 「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、犬目宿と鳥沢宿の間の候補地②にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。 「犬目峠」が野田宿と犬目宿の間の候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。 以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところにあったと推察します。その検討の詳細と、候補地②の具体的な場所の推定を行います。
2-2 犬目峠候補地①野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂の史料 (1)歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉 歌川広重の「甲州日記」( 浮世絵と風景画 著者:小島烏水 出版者:前川文栄閣 出版年月日:1914年・大正3年)を再び掲載。 「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」 しかし、甲斐志料集成. 1 著者:甲斐志料刊行会 編出版者:甲斐志料刊行会 出版年月日:昭和7至10年」にある「浮世絵ト風景画 著者:小島烏水」の「広重甲州道中記」では、「犬目峠」ではなく「犬目」になっています。 「四日 晴天。野田尻を立て犬目にかかる。この坂道富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休む」 前川文栄閣出版の「犬目峠」の場合、「野田尻宿から犬目峠の道に着き、その坂道を富士山を見て登った。」ことになります。 甲斐志料刊行会の「犬目」の場合、犬目峠の記載がある「犬目峠の宿」の意味が不明のため、犬目峠がどこにあるかはっきりしない。」 「犬目峠」か「犬目」か ①「此坂道」の「此」があるので「犬目」より「犬目峠」が妥当、②前川文栄閣出版が甲斐志料刊行会より早い、③原本である『 浮世絵文献資料館・世絵師歌川列伝「歌川広重伝」の「天保十年二丑とし、卯月日々の記」』も「犬目峠」の記載であることから、「犬目峠」を採用します。 そのため、歌川広重の「甲州日記」では、「犬目峠」は野田尻宿と犬目宿の間にあり、そこに座頭ころばしの道」もあると記載しています。 しかし、「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、上掲した旅の写生帖「旅中 心おほへ」のしがらきの茶屋らしき図の後に峠の図があるので、峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。 ![]() 歌川広重「甲州日記」-浮世絵と風景画 著者 小島烏水 著出版者 前川文栄閣出版年月日大正3 浮世絵と風景画 226/283 p363 - 国立国会図書館デジタルコレクション
![]() 「広重甲州道中記」-甲斐志料集成. 1 小島烏水 著「浮世絵ト風景画」 の「広重甲州道中記」 出版年月日:昭和7至10年 甲斐志料集成. 1 145/312 - 国立国会図書館デジタルコレクション (2)江戸時代中期-後期の医師、本草家であった渋江長伯の「官游紀勝」 (1809年 文化6年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉 「座頭ころばし」と「座頭ころがし峠」の図があります。それに関する文章もありますが、浅学のため読み取りができません。 座頭ころばしがあり、そこには座頭ころばし峠という峠もあるようです。その場所は現在の座頭転がし付近と推察します。富士山はいませんが、広重の「旅中 心おほへ」の峠の写生図と似た景色です。 「座頭ころかし峠」はあるが「犬目峠」に関する記載はありません。また、座頭ころばし峠を越て犬目宿、鳥沢宿へ進んだのに富士山の図がありません・ ![]() 渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし」 ![]() 渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」 ![]() 渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」図の次の頁 上の三点:「官游紀勝」-筑波大学附属図書館Tulipsより引用 (3)松平定能編集の「甲斐国志」(1814年 文化11年) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉 恋塚、犬目駅の湯殿屋敷の後に、次の記述があります 「一 箭壷坂 大野村 犬目・野田尻驛、両ノ間坂上村落アリヘビキ新田ト云坂下ハ即箭壷村ナリ此間甚ク險路ニシテ往来に難ヤメリ中ニモ路厳下二屈曲シテ谷深キ所ヲ座頭轉(コロバシ)ト云」 「犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、坂の上にへびき新田、坂下には箭壷村がある。この間は険路で、中でも路厳下に屈曲して谷深きところを座頭轉(ころばし)と云う」 犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、座頭ころばしと言われている瞼路があると記載。 しかし、〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉の間に「恋塚」の記載はあるが「犬目峠」の記載はありません。 ![]() 甲斐國志 巻之五十古蹟部第十六之下二四七 甲斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。 甲斐国(山梨県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。 甲斐志料集成. 5-129/353 - 国立国会図書館デジタルコレクション (4)吉田兼信の「甲駿道中之記」(1820年 文政13年) 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉 野田尻驛を過ぎると、「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」があると書いてます。 「大椚、野田尻なと云驛過、この邊は甲斐の郡内とて厳岩峨々として峯は雲に連、桃櫻の満花春雨のふり降景色いはん方なし、昇り下りて一ツの峠有、俗に座頭ころかし峠といふ由、矢坪峠なり、山上に破れし草庵有、しはし休む、この邊にて雨はやみけれとも、足下に雲まといて四方見えす、この邊桃殊に多し」 後でも書きますが、この「甲駿道中之記」で、「犬目峠」は犬目宿を過ぎてから出てきます。富士山が見える絶景の岩山です。 「矢坪、犬目の驛過、犬目峠、けわしき岩山なり、嶺上より富士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥澤の驛なり、・・」 (5)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉 「大野村にある箭壷坂は座頭轉(コロガシ)とも呼ばれ、その坂上に蛇木新田という村落があり、坂下には箭壷村がある」と書いています。 後でも書きますが、この「甲斐叢記」で、「犬目峠」は恋塚を過ぎて犬目驛の間で出てきます。
(6)上野原市の史跡案内図・文(2017年 平成29年) 大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂、その坂に座頭ころがしがあります。この二つの名称は江戸時代からつづいています。 現在、この坂に「犬目峠」や「座頭ころばし峠」や「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」の峠の名称は残っていません。 ![]() 矢坪坂の古戦場跡の案内板と設置場所。 前掲の地図で「急坂登り口」から少し上の矢坪付近、「座頭ころばし」に行くには右側の山道に進みます。 この道は実際に歩いていません。google mapで作成。案内板は上野原市の観光案内から引用。 (7)犬目峠候補①の矢坪坂の頂に関する記載のまとめ。 野田尻宿と犬目宿の間に峠と思われる登り下りの坂は、一つしかなく、現在は矢坪坂と呼ばれその中に座頭ころばしがあります。この矢坪坂を「犬目峠」と記載しているのは広重の「甲州日記」(1841年)だけです。 「甲州日記」の20-30年ほど前、渋江長伯の「官游紀勝」(1809年)では、「座頭ころかし」、「座頭ころかし峠」 松平定能の「甲斐国志」(1814年)では「座頭轉」、「箭壺坂」 吉田兼信の「甲駿道中之記」1820年)では「俗に座頭ころかし峠といふ矢坪峠」と記載されています。 広重は、甲州日記に書いているように、江戸者三人に別れ、一人で座頭ころがしがある坂を歩いています。44歳の広重がこの急坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山を感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。 また、広重は犬目峠候補地②の犬目宿と下鳥沢の間は馬に乗っており、歩いていないため観察が不十分になっていると思います。 「犬目より上鳥澤まで、帰り馬一里十二町乗り、鳥澤まにて下り、・・・」 * 帰り馬:荷や客を送り届けた帰り掛けの馬。普通より安い。 一里十二町:一里は36町で3.927㎞(明治時代)とすると5.342㎞。犬目宿から下鳥澤宿まで約4.5㎞。 11月の江戸に帰りる時も、この鳥沢宿-犬目宿-野田尻宿を歩いたようですが。その時も犬目峠の確認はしていないようです。 犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地②に「犬目峠」の石柱、「ここが北斎の描いた富嶽三十六景の犬目峠です」の表示板はなかったようです。 しかし、「甲州日誌」に「犬目峠」を記載しているのに、10年ほど前に爆発的に売れた北斎の「富嶽三十六景の犬目峠」の記載がないのも不思議です。 しがらき茶屋の「だんご、にしめ、桂川白酒、・・・」と食い物の記載があるが「北斎」の記載がないのが不満です。 (8)矢坪坂からの富士山 筆者は野田尻宿と犬目宿の間は歩いていません。 野田尻宿と犬目宿の景色を豊富に掲載した「JR藤野駅から関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢の各宿経由、JR鳥沢駅まで」で富士山がどのように見えたかを調べた。上野原宿-鶴川宿間で富士山の山頂部が一部見えている。野田宿を過ぎたあたりで富士山の山頂部が一部がまた見えていた。しかし、その後矢坪坂、座頭ころがしでは富士山の掲載はなく、山道からは見えなかったと思われる。犬目宿に入り「犬目の兵助の墓」から富士山の山頂部が見えていました。 そこで、現在では高い建物、樹木のため、街道から見えていた富士山が見えなくなったと考えて、カシバードで野田尻宿と犬目宿の間の旧甲州街道からの景色を作成しました。その結果、以下に示すように、峠の頂から、樹木が邪魔をしなければ九鬼山の上にいる富士山全体が見えることを確認しました。 広重が座頭ころがしのある峠道で眺めた富士山です。
2-3 犬目峠候補地② 犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近の史料 (1)荻生 徂徠の「峡中紀行」と「風流使者記」(1706年宝永7年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉 「峡中紀行」 広重の「甲州日記」(1841年)の135年前の荻生 徂徠「峡中紀行」に、以下の記述があります。(原文は漢文、下に掲示) 「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・ 狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」 これは「野田尻駅、・・・犬目宿を過ぎて、・・・・犬目峠を超えると、別名恋塚という新田あり、・・・・そして鳥沢駅に着いた」ということで、犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあることになります。垈尻は野田尻、恋塚は現在の恋塚一里塚付近で、犬目宿から下鳥沢宿に下るところにあります。 「狗目」、「狗目嶺」は「犬目」、「犬目峠」の古い時期の書き方と思います。垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田等の地名の漢字は時代で異なります 狗は犬と同じ「いぬ」で、犬に比べて小さいいぬを「狗」とよぶ。「狗」 読み:「コウ」「ク」「いぬ」 意味:いぬ。こいぬ。卑しいもののたとえ。 (犬に比べて小さいいぬが狗) 「狗」の漢字‐読み方・意味・部首・画数-漢字辞典より引用 「峡中紀行」には、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂・座頭ころがしについての記載はありません。 「峡中紀行」は漢文で、筆者は読み取ることはできません。しかし、「かさぶた日録」で「きのさん」が解読を行っていました。それを参考にさせてもらいました。
(2)吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉(再掲) 「甲駿道中之記」は、土浦藩主土屋家の家臣吉田兼信が文政13(1820)年武田勝頼、土屋惣蔵の二百遠忌に景徳院に詣で身延・静岡を経て土浦へ帰着するまでの紀行日記です。 「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」 犬目峠に関する情報は「犬目峠は犬目驛と鳥沢驛の間にあり、その嶺の上から富士山が見える」だけですが、「犬目峠」の文字で記載している、唯一の史料です。 矢坪坂のところは「俗に座頭ころかし峠という矢坪峠」があると書いています。 (3)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉 (再掲) 「恋塚」と「箭壺坂」の間に「狗目嶺」の記述があります。」 「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」 この文の前の「恋塚」で、荻生 徂徠の「峡中紀行」(1705年)の「狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。」を引用しているので、大森善庵・快庵は「狗目嶺」は犬目宿と恋塚の間にあることを認識して書いてます。 そのため、「犬目驛にある狗目嶺(犬目峠)は一郡の内で一番高いところだ。房総の海まで見え、西南の方向には富士山が聳えて大空を衝き、その眺望素晴らしい。」ということで、犬目峠は犬目地方で一番高いところで犬目宿と恋塚の間にあることになります。 「狗目驛」が「犬目驛」に変わっていますが、「狗目嶺」はそのままです。何故でしょう。 甲斐叢記は甲斐一国の地誌で甲斐名所図会でもあります。信頼度の高い資料と考えます。
(4)資料からの推察。 「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。 以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿(恋塚)の間の最も高いところにあったと推察します。 (5)犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところは君恋温泉付近、ここが犬目峠 旧甲州街道の犬目宿と鳥沢宿の間の標高図(下図)を見ると、宝勝寺と恋塚一里塚の間に登り下りの坂があり、恋塚一里塚から少し登りがありますが、そのあとは下鳥沢宿まで下り坂です。 そのため、峠と呼べる場所は、宝勝寺と恋塚一里塚の間の頂になります。ここは犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点になります。 犬目宿から、舗装された旧甲州街道1㎞ほど行くと、右側に登る道が在ります。この舗装されてない細い道が旧甲州街道ですここまでの道は、地図で調べると角度約6度のとても緩い坂道ですので、峠道を歩いている気持ちにはなれません。実際に歩いたときは舗装道路の県道30号を進んで反対側から峠の頂にある君恋温泉に着きました。その順路で、 google mapで作成した画像で説明します。
犬目宿と鳥沢宿の間の最も標高が高く、富士山が見えることから、君恋温泉付近が犬目峠と推察しました。 大森善庵・快庵の「甲斐叢記」の記述。 「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」。 坤位(ヒツジサルカタ ):南西方向 霄漢(しょうかん):おおぞら。高い天。虚空。雲漢 奇絶(きぜつ):きわめて珍しいこと。すばらしいこと。 その君恋温泉からの富士山です。ここからの富士山は、宝勝寺境内、下鳥沢方面へ行く撮影地点からの富士山とほぼ同じで、九鬼山と高畑山の尾根の上にいる富士山です。犬目地区では元も高い地点なので、宝永山の凸部がはっきり見えます。広重「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部の富士山は、君恋温泉付近付近から眺めた富士山と思います。 広重は馬に乗ってここを通っています。坂の傾斜もゆるく、馬の上で富士山を眺めながら進んでいるので、峠を越えているとは気が付かなかったようです。しかし、ここでも富士山の記述がないのが不満です。またこの時代「ここが犬目峠」の立て札もなかったように思います。 ![]() 犬目峠と思われる君恋温泉からの富士山 ![]() 「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山 ![]() 歌川広重 「不二三十六景 甲斐犬目峠」 富士山と下の山並みは上図とほぼ同じ。 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用 「甲斐叢記」の犬目峠の記述に、房総の海まで見えるという歌が載っています。 路高くのほるもしるし山越しにほのほの見ゆる阿波の安房の海原 磯部正冬 君恋温泉付近では、樹木が多く房総の海までは見えません。 ![]() 君恋温泉付近からの富士山と周辺の山 君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところに、富士山絶景地地があります。富士山下の山並みは左側に伸び、丹沢山地の大室山まで見えていました。しかし、まだ房総の海は見えません。 ![]() 君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところの富士山絶景地からの富士山と周辺の山 そこで、君恋温泉からの景観をカシバードで作成しました。樹木がなければ、君恋温泉で三ッ峠山から陣馬山まで眺めることができます。予想を超える大展望に驚きました。まわりの樹木を伐採するか、展望台を作れば、君恋温泉は見事な富士山展望地になりそうです。石老山の左側に房総の海が見えそうなのでその方向を拡大していきます。 細長い線状の房総の海が見えました。千葉県市原市の出光興産の製油所がある付近です。君恋温泉から90㎞離れた房総の海です。 江戸時代に磯部正冬はこの君恋温泉付近の犬目峠から房総の海を眺めました。大森善庵・快庵も眺めたか。かなり視力が良かったようです。 ![]() カシバードで作成した君恋温泉からの景観 左部拡大 ![]() 中央部拡大 ![]() さらに拡大 ![]() ![]() 「坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。」 君恋温泉と富士山の間に桂川がありそうですがカシバードで対地高度2mでは見えません。そこで、君恋温泉の上空300mから富士山方面を眺めました。旧甲州街道で、君恋温泉から恋塚一里塚-下鳥沢宿まで下りていき、下鳥沢宿から猿橋の間で甲州日記に記述した桂川の絶景が見られます。 「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」(広重 甲州日記) ![]() 君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川が見えてきました。 この構図で実際に眺めた景色を入れていくと、「不二三十六景 甲斐犬目峠」になります。 当方の推察。①君恋温泉からの富士山②鳥沢-猿橋間の桂川渓流③犬目峠(座頭ころばしの峠道) 「不二三十六景 甲斐犬目峠」は甲州街道で読者が見たいと思う三大景観を一つにまとめあげた傑作です。 ![]() 君恋温泉の300m上空からの富士山
2-4 現地の案内図、インターネットなどで「犬目峠」は何処にあるか (1)現地案内板に「犬目峠」はない 甲州街道に設置されている「甲州街道史跡案内図 平成5年3月 上野原町教育委員会」です。街道の各区間にあり、これは犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図です。この案内図には「犬目峠」はありません。北斎と広重が描いた「犬目峠」で富士山を眺めようとおもって、この街道に来た人はこの地図を見て呆然とします。 宝勝寺境内に「北斎と広重はこの辺りで犬目峠からの富士山を描いた」という説明文があるのに街道筋には「犬目峠」に行く手掛かりがない。 「犬目峠」は史跡の定義から外れるためかと思ったが、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の「長峰の句碑」の記載があるので、それとも違うようである。 「史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。」 芭蕉の句碑があるのに、北斎、広重の画碑がないのはどうしてか。北斎はアメリカの雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした人物である。しかし、その評価は現在の評価であり、江戸時代には浮世絵の巨匠であっても、量産の観光用の風景画を作る作業グループの一人の絵師としか見られていなかったためか。富嶽三十六景の「犬目峠」の地名が200年ほどで消えるのが不思議です。 野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の街道で、「犬目峠」は最高の名所と思いますので、現地の案内板に何らかの説明があるべきとおもった。 「北斎、広重が描いた犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿にあるといわれていますが、現在その場所が特定されていません」 このような説明があれば、私も納得して扇山登山に出発したのですが、もやもやとした気持ちを晴らすため甲州街道を進み、恋塚一里塚を越えたところにある富士山展望地まで歩きました。そのため扇山山頂到着は、11:40になり少し霞んだ富士山を眺めました。(扇山の山歩き) 「座頭ころがし」は野田尻宿と犬目宿の間にあります。 ![]() ![]() 犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図 インターネットで犬目峠の場所を探すと北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」の犬目峠の場所が示されるのが多く、(1)野田尻宿と犬目宿の間(2)犬目宿と下鳥沢宿の間が出てきます。しかし、そこを犬目峠とした根拠の記述はありません。 (2)野田尻宿と犬目宿の間に犬目峠 ■日記によると、広重は犬目宿の手前で富士山を見ている。「のだ尻を立(っ)て、犬目峠にかかる。此坂道ふじを見て行(く)。座頭ころばしという道あり」とある。座頭ころばしは野田尻宿と犬目宿の間にある地名で、現代は矢坪坂と言っている。 赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年 ■甲州犬目峠 冨嶽三十六景 葛飾北斎 犬目峠は、甲州街道の犬目宿と野田尻宿の間に位置する峠で、桂川に沿ったこの場にまで来ると、西南の方向に雄大な富士山容を望むことができたという。 「甲州犬目峠」(冨嶽三十六景) 葛飾北斎|東京伝統木版画工芸協同組合 ■折り重なる山々の向こうに富士の姿 山梨県上野原市。旧甲州街道の宿場町のひとつ。上野原宿から野田尻宿を経て西へ、犬目峠を越えると犬目宿に至る。郡内地域の宿の中で最も標高が高い。 江戸からこの道をたどった富士講信者たちの歓声が今にも聞こえてきそうなほど峠から望む富士山の姿は素晴らしい。折り重なる山々の向こうに富士をのぞむことができる。浮世絵師・葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」には、急坂を登る旅人と富士山が描かれ、甲斐の山々の険しさを強調した名作として知られる。 折り重なる山々の向こうに富士の姿 ; 富士山NET|ふじさんネット|富士山情報 まるごとおまかせ(山梨日々新聞社) ■甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)犬目峠は甲州街道の野田尻宿と犬目宿の間にあり、『甲州叢記』によると房総の海まで見えるほど極めて高いところにあったといいます。 *『甲州叢記』に「犬目峠」が記載されていることを知る。『甲州叢記』で「峡中紀行に犬目峠の記載があることを知る。 しかし、二資料とも、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間ではなく、犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載。(筆者注) 葛飾北斎 冨嶽三十六景 著者: クールジャパン研究部 ■この北斎ミニギャラリーでは、現在開設準備中の「すみだ 北斎美術館」に収蔵する「冨嶽三十六景」シリーズの作品をご紹介しています。「冨嶽三十六景 甲州犬目峠」 犬目峠は現在の山梨県上野原市内に位置し、旧甲州街道の宿場町である野田尻宿と犬目宿(どちらも上野原市内)の間にあたります。犬目峠は標高が高く、遮るものがないために富士山がよく見えますが、北斎がどこからこの絵を描いたのかは分かっていません。 すみだ区報 |文化・スポーツ (犬目宿付近) ●関東富士見百景 犬目地区内 遠見 犬目地区は、旧甲州街道の犬目宿として栄え、葛飾北斎の富士三十六景のひとつに甲州街道犬目峠が描かれています。犬目地区遠見(とうみ)は地名の通り、富士山を遠く四方を見渡すことができ、天気良ければ、左右に裾野を引いた雄大な富士山が年間を通じて望めます。南の方向には、丹沢連邦が見え、展望が良い場所です。 *北斎の「犬目峠」が犬目地区で描かれたとしか書いていませんが、犬目地区の遠見で描いたと誤解されます。遠見は、地元で北斎が「犬目峠」を描いた場所と言われているようです。(筆者注) (2)犬目宿と下鳥沢宿の間に犬目峠 ■富嶽三十六景 甲州犬目峠 甲州街道沿いの犬目峠(上野原市)の風景が描かれている。犬目峠は犬目宿(上野原市)と鳥沢宿(大月市)の中間に位置する峠で、『甲駿道中之記』に拠れば絶景の地であったと記されている。現在では周辺の道が廃れてしまっているため、正確な場所は不詳。1830-34年(天保元-5年)頃作。 *『甲駿道中之記』に「犬目峠」の記載があるこを知る。 葛飾北斎と甲斐国 - Wikipedia ■葛飾北斎 富嶽三十六景 甲州犬目峠 甲州街道の野田尻(山梨県上野原市)から少し行くと犬目という宿がありました。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠を描いたといわれています。 甲州犬目峠|葛飾北斎|富嶽三十六景|浮世絵のアダチ版画オンラインストア ■葛飾北斎 冨嶽三十六景:甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ) 犬目峠(山梨県上野原市) …犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館 ■現在の山梨県上野原市あたりには犬目宿という甲州街道の宿場街がありました。そこから次の下鳥沢宿へ向かう途中にあったのが犬目峠です。 「富嶽三十六景」 葛飾北斎。 江戸歴史ライブラリー編集部. ■「犬目峠」の場所を、特定している甲州街道図が一枚あります。 山梨県のホームページ/ダウンロード/ウォーキングマップの表-7・8甲州街道往来図(上野原市域)(PDF:4,731KB)です。 編集・製作は山梨県埋蔵文化材センターで、印刷されたパンフレットもあるようです。 ![]() 各名所に番号を当ててあります。 (25)矢坪坂の古戦場の後の(27)座頭ころばし;細く急な坂道があります。座頭ころばしの位置は江戸時代から現在まで、野田尻宿と犬目宿の間のこの矢坪坂の中にあります。 (31)犬目峠は(30)白馬不動尊と(32)恋塚一里塚の間にあります。県道30号の道の上に(31)犬目峠があるので、君恋温泉の辺りを示していると思います。犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点で、当サイトの犬目峠候補地②と同じ場所です。 「広重の甲州道中記 その①」に甲州日記からの引用が記載されていますが、原文と異なり、変化、簡略化された文になっています。その②、③、④では原文が引用されています。 下に示す原文をそのまま出すと、犬目峠が座頭ころがしのところになってしまうため、変化、簡略化した引用になったと邪推してしまいます。。 「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」 それなら、「広重の甲州道中記」ではなく、吉田兼信の「甲駿道中之記」にして、以下の文を載せたほうが良いと思います。 「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」 君恋温泉付近を犬目峠にした貴重な甲州街道往来図ですので、差し出がましい意見を述べてしまいました。 ![]() まとめ 1. 犬目峠はどこにある 犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。 現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料から、二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。 犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。 犬目峠候補地②は犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。
犬目峠の記述がある史料検討 「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。 「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。 以上の検討から、「犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところの君恋温泉付近」」にあったと推察します。 44歳の広重は一人で座頭ころがしがある坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山に感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。 ① 歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年) 「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」 ②-1 荻生 徂徠の「峡中紀行」、「風流使者記」(1706年宝永7年), 「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・ 狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」 ②-2 荻生 徂徠の「風流使者記」(1706年宝永7年), 漢文で詳細は不明ですが、「野田尻驛→狗目驛→狗目嶺→恋塚→鳥澤驛」を歩いたようで、狗目峠は狗目驛と恋塚の間にあります。「峡中紀行」と同じです。 ②-3 吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年) 「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」 ②-4 大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」 君恋温泉からは坤位(ヒツジサルノカタ )に富士山が聳えています。カシバード画像では、三ッ峠山から陣馬山までの予想を超える大展望に驚きました。君恋温泉から90㎞離れた房総の海も見えています。北斎も広重も眺めた犬目峠からの景色です。
2.歌川広重の「甲斐犬目峠」はどこで描かれたか 広重の「甲斐犬目峠」の作品は、次のように描かれたと推察します。 1841年甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際に、座頭ころばしのある道坂道を「犬目峠」と思い、そこからから富士山を写生。 1848年頃ころ、天童藩主織田氏の申し出を受けて肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」制作。
初めての富士山連作「不二三十六景」に犬目峠を描くためほぼ10年前の1841年に描いた甲州日記の写生から犬目峠と富士山の構図で一枚試作。 しかし、その図を横に反転して眺めると、葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」とほぼ同じであることに気が付く。この構図を不採用とする。(かってに推察)
1859年、①感銘を受けた鳥沢の桂川渓流②甲州街道からの富士山③犬目峠、これら三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を制作。 しかし、桂川は犬目峠があったと思われる場所から見えず、実際には見ることはできない景色を描いています。
「不二三十六景 甲斐犬目峠」の構図が気に入り、7年後に縦長の構図にして、肉筆画 「猿橋冬景図」「犬目峠春景図」も参照して「富嶽三十六景 甲斐犬目峠」制作。
写生をもとにして描く趣旨の「富士見百図」の要請に応じて、座頭ころばし付近からの実景の基づき「甲斐犬目峠」制作。 峠の向きは左側に変更。。
「犬目峠春景図」と三枚の「甲斐犬目峠」の富士山下の山並みは、実際の山並みとほぼ同じように描いています。十数年前の旅の記憶だけで描いたとしたら驚きです。「旅中 心おほへ」の写生図のほかに詳細な「写生図」があったと思ってしまいます。 |
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蛇足の補足
















