歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある




歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。
(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのかを探ります。



1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 2 犬目峠はどこにある 3 まとめ、蛇足の補足





   「富士三十六景 甲斐犬目峠」
 「富士見百図 甲斐犬目峠」
「不二三十六景 甲斐犬目峠」  「富士三十六景 甲斐犬目峠」 「富士見百図 甲斐犬目峠」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年) 1859年(安政6年) 
 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠
|静岡県立美術館|
より引用
甲斐犬目峠  - 国立国会図書館
デジタルコレクション
より引用
 
歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」
ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス
から引用
 





1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程


1-1 歌川広重の「不二三十六景 甲斐犬目峠」


(1)犬目峠と桂川と富士山

歌川広重の(うたがわ ひろしげ、1797年・寛政9年-1858年10月12日・安政5年9月6日)の「不二三十六景 甲斐犬目峠」です.。
「不二三十六景」は、広重がはじめて手がけた富士山の連作で、横中判(19.5×26.5㎝)、全36枚揃で1852年(嘉永5年、版元)佐野喜より出版されました。

山梨県立博物館の解説では、「不二三十六景 甲斐犬目峠」は、実際に見えない桂川を描いていることを指摘しています。
そこで、広重が犬目峠で見た風景と、この「不二三十六景 甲斐犬目峠」がどのように異なるかを調べます。



歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」作年代:嘉永5(1852)年

歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」 横中判(19.5×26.5㎝) 制作年代:嘉永5(1852)年

歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用


歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」の解説

  本図は、甲州を旅した折に残したスケッチとよく似ているものの、やはり見えないはずの桂川を描きこんでいる。
『甲州日記』の中で、4月の往路で開店したばかりの「しがらき」という茶屋で休憩し、11月の復路でも立ち寄っているが、右手の茶屋はこれを思い出してモチーフに選んだのかもしれない。

 

 歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館
より引用




「甲斐犬目峠」と題名にあるので、その犬目峠からの景色を出せばよいのですが、現在「犬目峠」なる地名は、地図にない。上野原市に犬目があり、街道に犬目宿の史跡はあるが「犬目峠」の表示はない。

この「犬目峠」は葛飾北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」でも描かれており、著名な地名です。しかし、ここが葛飾北斎と歌川広重が描いた「犬目峠」です、という石柱もありません。江戸時代の浮世絵の2大巨匠が描いた場所が現在消えています。

犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿のあいだにあったといわれていますので、犬目峠からは下鳥沢宿から猿橋宿に沿って流れる桂川は見えません。また、桂川の沿った甲州街道からは富士山は見えません。

広重は、実際に見ることのできない「犬目峠と桂川と富士山」の景色を描いています。



犬目と富士山の地図 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の地図

富士山と扇山、犬目宿(約40㎞)              野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿と桂川の地図               




(2)広重の「甲州日記」と「旅中 心おほへ



広重が1841年に甲州街道を歩いた記録が「甲州日記」として残っています。

『甲州日記』は、歌川広重が1841年(天保12年)に甲府城下町における甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際の旅日記です。表題が「天保十二丑とし卯月、日々の記、一立斎」と記された前半部と、「旅中 心おほへ」と記された後半部の二部から成り、「日々の記」は『甲府行日記』、「心おほへ」は『甲州日記写生帳』とも呼ばれます。

歌川広重の「甲州日記」の犬目峠に関する記述を以下に示します。とても短いです。

「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかゝる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

野田尻宿と犬目宿の間に、「犬目峠」があることはわかります。しかし、「座頭ころばしの道」が「犬目峠」を登る坂道の中にあるのか、「犬目峠」の頂の後の下り道にあるのかは不明です。

「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、犬目峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。





左側廿一日は霜月(11月)       右側は卯月(4月)


浮世絵と風景画 著者 小島烏水 著出版者 前川文栄閣出版年月日大正3

浮世絵と風景画 226/283 p363 - 国立国会図書館デジタルコレクション


広重の「甲州日記」には、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間にあると書いてあります。しかし、この後で検討する吉田兼信の「甲駿道中之記」では、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間と記載しています。そのため、現在においては野田尻宿と鳥沢宿の間に犬目峠があったとされていますが、その地点は限定されていません。この、犬目峠の場所については改めて検討します。



広重の「甲州日記」の「旅中 心おほへ」に、犬目峠の写生と思われる図があります。
他の写生図では、「屏風岩」「善光寺」など描いた場所の記載がありますがこの図では描いた場所の記載がありません。「座頭ころばし」の図がありますが、山道の写生ではなく、峠にあった茶屋の様子が描かれています。この茶屋はしがらき茶屋と思われます。この図から、しがらき茶屋は峠の頂にあったと推察されます。

犬目峠の写生と思われる図では峠道が描かれており、その左側に山並みがありその上に富士山がいます。この峠道と富士山の間に桂川の渓流を押し込めば、 「不二三十六景 甲斐犬目峠」になりそうです。



歌川広重「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生


歌川広重「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図



歌川広重「旅中 心おほへ」  歌川広重「旅中 心おほへ」の「座頭ころがし」 

歌川広重「旅中 心おほへ」の中の表紙と「座頭ころがし」の写生図

Ichiryusai HIROSHIGE (1797-1858) | JapanesePrints-Londonより引用

甲州日記に日記文と写生図に関しては次の研究報告書がありませすが、現在「品切」のため入手できません。
山梨県立博物館 調査・研究報告3 「歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」調査研究報告書
(A4版、97頁、平成20年3月、1000円 現在品切)

図版なしですが、その解説は以下にあります。
歌川広重の歩いた甲斐道 その10 - 鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」


何故、桂川渓流を富士山と峠の間に置いたかは後で検討するとして、まず富士山と周辺の山について検討します。座頭ころがしのある矢坪坂からは樹木が多く富士山は見れません。矢坪坂の頂上付近からのカシバード画像を作成しました。樹木がない場合見える景色です。「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図と異なり九鬼山の尾根が扇山の尾根のため途中で切れており、その扇山の尾根が富士山の前にあります。


座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像


座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像



(4)犬目付近からの富士山


2015年11月21日の扇山登山の前に、犬目峠で富士山を眺めるため、犬目バス停から鳥沢へ向けて甲州街道を歩きました。犬目バス停から鳥沢に少し進んだところに宝勝寺があり、その境内の慈母観音の説明板に、次のように書いてあります。

『葛飾北斎の「富嶽三十六景」歌川広重の「不二三十六景」の富士山は、この辺りから描いたといわれています。』

「この辺り」を「宝勝寺の境内」ではなく、「野田尻宿と下鳥沢宿の間」と受け止めます。


  宝勝寺境内の慈母観音 

宝勝寺境内の慈母観音
 慈母観音横からの景色

慈母観音横からの景色
   慈母観音横の説明板

慈母観音横の説明板


宝勝寺と恋塚一里塚の間にある君恋温泉からも富士山が見られます。




君恋温泉からの富士山

君恋温泉の看板前からの富士山



君恋温泉からの富士山

君恋温泉からの富士山


富士山下の山並みが樹木に邪魔されているため、君恋温泉からさらに下鳥沢方面へ進み、「恋塚一里塚」の先で富士山と周辺の山が最もよく見えるところを見つけました。
富士山は九鬼山と高畑山の尾根の上にいます。富士山の中央下に杓子山と鹿留山の山頂部が見えています。九鬼山の山並みの前に桂川はありません。桂川が見えるのは鳥沢に下った後です。



」の先の富士山展望地からの富士山


「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山、高畑山、倉岳山、大室山







「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山



犬目宿付近の三か所からの富士山と周辺の山並みの景色はほぼ同じで、座頭転がし付近とは異なることがわかりました。

「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面下の桂川と峠道を描いた部分を除いて、恋塚一里塚付近の富士山絶景地からの富士山と比べます。

「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山は、九鬼山と高畑山の尾根の上にいるように描かれています。富士山中央下の鹿留山、杓子山まで描いているように見えます。実際の景色の横方向だけ少し縮めて、富士山の形を合わせると、さらに似てきます。
歌川広重は甲州街道の犬目宿付近からの富士山を眺め、それをもとに「不二三十六景 甲斐犬目峠」の上部を描いたと思います。



不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部

不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部


「恋塚一里塚」付近の富士山展望地からの富士山


「:恋塚一里塚」付近の富士山展望地からの富士山


上図の横幅を少し縮めた画像


上図の横幅を少し縮め、富士山の形状を 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山に合わせた画像



(5)桂川の景色


次に、鳥沢から猿橋の桂川の景色を眺めます。桂川は犬目宿から約4㎞の距離、高さで250m下にある川です。この桂川は、上掲した「甲州日記」で次のように絶賛しています。

「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」

富士山に関しては「この坂道富士を見て行く」としか書いていません。


広重が鳥沢から歩いた道の少し南にある虹吹橋からの桂川です。高畑山に登るときに、眺めた景色です。猿橋に行くと岩が多くなるようですが、鳥沢付近の桂川はこのような景色で、川面から橋までの距離が長く、山中の渓谷の雰囲気を持つ川です。



虹吹橋から桂川

虹吹橋からの桂川



虹吹橋から桂川

虹吹橋からの桂川



(6)「不二三十六景 甲斐犬目峠」の制作過程


広重は、次の三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を完成させたと思います。

 ①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋 ②鳥沢からの桂川渓流 ③恋塚一里塚付近からの富士山。

画面に次の三点を並べます。②桂川渓流の写真は川の位置を合わすため横方向反転してます。




①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山。の合成




①、②、③の三つの画像のバランスを調整し、変形、簡略化していき、色彩も簡略化していきます。
これらの簡略化により、印刷用の版木を少なくします。
量産の浮世絵にとって、構図と色彩の簡略化は版元からの基本要求のようです。


①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山。の合成




最後に「不二三十六景」、「甲斐犬目峠」、「広重画」を入れて完成です。


「不二三十六景」の「甲斐犬目峠」



広重の「不二三十六景」、「富士三十六景」の富士山は冠雪状態を描かない富士山が多い。そのため景色全体を見て、その季節を判断するのが難しい。
この「不二三十六景 甲斐犬目峠」も甲州の旅は卯月(4月)ですが、樹木が紅葉しているので、秋の季節のようです。秋とすると、まだ山腹全面が冠雪しないので、富士山は白く描かれているが、雪が全くない富士山としてみます。しかし、この絵の樹木が芽吹く前の4月頃の枯れた樹木とすると、冠雪のため山腹全体が白くなった富士山になります。
富士山を眺めて、その冠雪状態で何月頃の富士山かを判断する富士山愛好家として、広重の富士山への不満を一言述べました。


しかし、実際には見ることのできない富士山と桂川渓流の景色を「不二三十六景」で描いたのには驚きます。「不二三十六景」は観光案内パンフレットの役割も持っていたと思いますので、購買者から文句が出なかったかと心配になります。しかし、7年後の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」も、この大胆な富士山と桂川渓流の構図で描いていることから、黒船来航の一年前の嘉永5年は、購買者のおおらかな対応があった時代であることがわかります。



1-2 歌川広重の「富士三十六景 甲斐犬目峠」


(1)犬目峠と桂川と富士山

歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」です。「冨士三十六景」は、竪大判(39×26.5㎝)で37枚揃物、版下絵は1858年(安政6年)4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏で、広重の没後に出版されました。版元は蔦屋吉蔵、富士を描いた連作で風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図が多い。「不二三十六景 甲斐犬目峠」が出版された1852年(嘉永5年)の7年後です。

この作品も「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、甲州街道からの富士山と鳥沢・猿橋から眺めた桂川の合成です。竪大判になったため、桂川の両岸がそそりたち、深い渓谷の上に富士山があります。「甲斐犬目峠」より「甲斐桂川」の題名のほうが似合っている作品になっています。川岸の峠の道で旅人二人が富士山を眺めているが印象的で、実際には見ることができない富士山と桂川の二つの景色を一体化させています。


歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」

歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」 竪大判(39×26.5㎝)


甲斐犬目峠  - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


  桂川の渓谷を見通すと、たちこめる紫雲の上に富士が聳(そび)え立つ。絶壁の上に続く坂道を登った高台から、旅人たちは秋の渓谷を楽しんでいる。天保12年(1841)に甲州を旅した広重は、『甲州日記』と称される旅日記の中で犬目峠についても記し、スケッチも残している。しかしながら本図の景観は実際とは異なっている。犬目峠あたりは河岸段丘になっており、桂川をかなり遠くに眺め、富士もこの方向に見ることはできない。「不二三十六景 甲斐犬目峠」が実景に近い構図で描かれているのに対し、縦長の構図で奥行きや高さを効果的に表現するため、モチーフを再構成したのであろう。

歌川広重「冨士三十六景 甲斐犬目峠」 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館より引用

 
 






(2)実景からの制作過程

「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成して「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を作ります。富士山と桂川の実景画像を適当に変形して、富士山を上に桂川を下に置き、その間に雲を入れて二つの画像をつなぎます。日本画の雲は異なった空間を違和感なくつなぐことができます。絵巻物では時間までもつないでしまいます。



富士山と桂川





山並みを整え、峠道を加え、旅人を描き、川幅を広げます。

富士の冠雪を除き、猿橋の渓流のように岸壁を岩で描き、雁の群れを飛ばすと
さらに「甲斐犬目」に似てくると思いますが、
ここで題名と署名を入れてほぼ完成とします。





富士山と桂川と峠道




(3)肉筆画の「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」


広重は版画だけではなく、直接筆で描いた肉筆浮世絵も多数残しています。特に天童藩主織田氏の申し出を受けて1848年(嘉永元年)頃に、制作した200以上の作品は、「天童物」と呼ばれ有名です。
その「天童物」の中に、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」があります。1841年(天保12年)の甲州の旅の写生をもとに描かれたと思います。「不二三十六景 甲斐犬目峠」作年代:1852年(嘉永5年)より前の作品です。

「犬目峠春景図」の富士山の下の山並みは実際の景色にとても似ています。実景では、下の右図のように九鬼山の尾根の上に、鹿留山と杓子山の山頂部がありますが、「犬目峠春景図」でもその色彩を変えた二つの山頂部があり、少し小さくなりますがその形状は実景と似ています。「心おほへ」の写生図ではこの鹿留山と杓子山の山頂部はないので、甲州の旅の7年後に、記憶だけでこれほど山並みを正確に描いているとしたら驚きです。「心おほへ」とは別に「犬目峠」の精密な写生図があったように思います。

掛け軸用に縦長の寸法になっているため、画面下に峠道を書いていますが、犬目宿付近の鳥沢へ行く道は、右側が山、左側は崖になっているところが多く、絵のように両側が山になっている典型的な峠道はないと思います。「犬目峠春景図」の題名に合わせて、峠の頂のように描いたようです。大山の「来迎谷」でも題名に合わせて、実際にない谷を描いています。



   歌川広重の肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」  「犬目峠春景図」と横幅を縮小した富士山実景
  歌川広重の肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」

MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART » 展覧会:歌川広重より引用 
「犬目峠春景図」と横幅を縮小した富士山実景 
       


「犬目峠春景図」上側の富士山の部分と「猿橋冬景図」下側の桂川渓流部分を画面の置き横方向に景色を拡張していくと「冨士三十六景 甲斐犬目峠」になります。川の形状はほぼ同じです。

①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成するときに、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」を参考にして、「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を制作したと思います。


   「冨士三十六景甲斐犬目峠」と「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」    ;「冨士三十六景 甲斐犬目峠」
 
 「冨士三十六景甲斐犬目峠」と「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」

 「冨士三十六景 甲斐犬目峠」






1-3 歌川広重の「富士見百図 甲斐犬目峠」



(1)「富士見百図 甲斐犬目峠」

「富士見百図」という絵本に「甲斐犬目峠」があります。三枚目の「甲斐犬目峠」です。「富士見百図」は1859年(安政6年)の、広重没後の刊行です。「百図」となっていますが、実際に描かれたのは20景のみと言われ、広重の死により初編のみの刊行で未完に終わりました。

序文によれば、葛飾北斎の富嶽百景は『(北斎は)絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎の富士は脇役であることが多いと評し、これに対して自分は『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』と、北斎と違ってより写実的な富士を描いたとしています。


歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠


歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠





    富士見百図 序文 
   あるいは人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し。此図は、それと異にして、予がまのあたりに眺望せしを其ままにうつしおきたる草稿を清書せしのみ。小冊の中もせばければ、極密には写しがたく、略せしところまた多けれど、図取は全く写真の風景にして、遠足さわりなき人たち、一時の興に備ふるのみ。筆の拙きはゆるし給へ。



歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-スから図、序文を引用
 
 
歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-スから図、序文を引用
 




広重が犬目峠と思った座頭転がしのある峠道からのカシバード画像を再度示します。前景には扇山の東尾根があります。その奥に九鬼山、高畑山の山並みがありその上に富士山がいます。

この扇山の尾根が前景になる富士山は、犬目宿と下鳥沢の間で眺めた富士山と異なります。この富士山は、「冨士百図 甲斐犬目峠」の富士山です。



座頭転がしのある峠道からのカシバード画像


座頭転がしのある峠道からのカシバード画像



扇山の東尾根を青緑に着色し九鬼山、高畑山の山並みとの距離間を出します。
犬目峠からの富士山を表すため峠道を加えます。これで、近景・中景・遠景を重ねた広重の得意な構図になります。




座頭転がしのある峠道からのカシバード画像に峠道




富士山と九鬼山の山並みを右に移動し、扇山の尾根を高くして、峠道とのバランスを整えて、全体の色調を合わせます。


峠道から眺めた、写実的な「甲斐犬目峠」

峠道から眺めた、写実的な「甲斐犬目峠」が完成。

峠道を本来の位置に描いた「甲斐犬目峠」では、富士山、九鬼山、扇山の尾根、峠道の5、6本の斜めの線すべてが、
右上から左下に流れていき、その線を受け止めるものがありません。
このような構図もまた面白いと思いますが、広重は満足できなかったようです。



峠道を左右反転して、左側に描きます。



「富士見百図 甲斐犬目峠」


「富士見百図 甲斐犬目峠」が完成。



富士山、九鬼山、扇山の尾根の右上から左下の流れる線を犬目峠が受け止めて、安定感がある構図になっています。
その峠道には、旅人がいて、山並みの上にそびえる富士山を眺めています。
富士山が見える山深い峠道の雰囲気が見事に描かれています。

これらの景観は、左右反転した峠道を除けば、カシバード画像の景観とほぼ一致しています。
1841年の甲州の旅から17年後の1858年の作品ですので、記憶だけでこれらの扇山、九鬼山の山並みを描いたとすると驚きです。
この作品にも、元になる写生図があったと思います。



しかし、 ここで描いた「富士見百図 甲斐犬目峠」の構図は、「不二三十六景 甲斐犬目峠」には、使われていません。その理由を探ります。





1-4 .葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」


(1)北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と広重「冨士見百図 甲斐犬目峠」

北斎の富嶽三十六景は、各地から見られる富士山の景観を描いたもので、全46図からなる大判の錦絵。板元は、永寿堂こと西村屋与八。1831年(天保2年)頃から1833年(同4年)頃にかけて刊行され、大好評を得て、 名所絵を役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したといわれています。

「甲州犬目峠」は富嶽三十六景のなかでは、最も標高の高い所から眺める富士山です。富士山を目指す富士講の信者が、江戸から甲州街道の長い山道を歩いて犬目峠にたどり着き、始めて眺める富士山です。長旅の疲れを癒すゆったりとして、おおらかな富士山が描かれています。旅人が見たいと思った富士山が描かれています。

そのため、犬目峠から実際に見える山頂部だけの富士山と異なり、富士山が丸ごと描かれています。北斎は他の作品でも、題名の地点から実際に見える富士山にはこだわりません。その題名や、周りの風景に適した富士山を描きます。その富士山と左から右にあがる峠道の簡潔な構図に、紺、緑、茶、黄の四色だけで彩色されており、画面全体にさわやかさがあります。峠を登り富士山を眺める旅人により、空間的に離れている富士山と犬目峠が画面上で一体化します。



葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

富嶽三十六景 - Wikipediaより引用



  新緑のなだらかな甲州道中の峠道を旅人や馬子が登っていく。摺り残して表現した雲は坂道と富士の間に距離を作り出し、眼下に渓谷があることをうかがわせる。鋭角の富士と峠の斜め線による簡潔な構図によって、明るくのどかな景色が広がっている。

犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。

北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館より引用
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歌川広重の「不二三十六景」は、北斎が1849年(嘉永2年)89歳で亡くなった後、1852年(嘉永5年)に出版されました。「富嶽三十六景」が出版されてから19年後です。
赤坂治績氏はこの時期に「不二三十六景」が出版された理由として、二つ上げています。

  私も大久保氏の「版木が摺りにに堪えられなくなっていた」という説に異論はない。
と同時に、富士山への登山ブームが二度目の頂点を迎えていた、ということを加えたい。

赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年より引用
 

この二つに加えて、広重が北斎が存命中には富士山の連作は描かないと決めていたように思います。広重は、浮世絵に風景画のジャンルを確立した北斎を尊敬するとともに、最も強力なライバルとしてみていたと思います。そのため、北斎が亡き後その遺志を継ぐという形で、富士山の連作に挑戦したと思います。

「富士見百図」の序文で、 『絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎を非難しているように書いていますが、この絵本は広重没後の同六年の出版ですので、広重の自説でないという説があります。私もこの説に賛成です。「不二三十六景甲斐犬目峠」「富士三十六景甲斐犬目峠」で実際には見ることができない桂川渓流を描き、「冨士見百図 甲斐犬目峠」で峠の位置を変えて描く広重が、『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』というとは思えません。

かえって、「絵本手引草」に書いたように、「画は物の形を本とす。なれば寫真(志やううつし)をなして、これに筆意を加うる時はすなわち画(え)なり」と、北斎のような大胆で自由奔放な構図に憧れていたように思えます。


   

広重 「絵本手引草」(1849年?)

ARC古典籍ポータルデータベース サムネイル結果一覧より引用
 


広重が初めての富士山連作「不二三十六景」で北斎と同じ「犬目峠」を描くとき、「冨士見百図 甲斐犬目峠」に述べたように、実際に犬目峠の道から眺めた景色とスケッチをもとに色々試作したと思います。峠を右側にすると、しまりのない構図になるので実際とは異なるが、峠を左側にすると景色全体が締まった構図になり、北斎の「甲州犬目峠」とは異なる構図になる。この構図でいいかと思い、じっくり眺めて次のことに気が付きました。




広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転します。
横方向に反転した広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」は北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と基本的には同じ構図になっています。



広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転

広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転




横に並べると同じ構図ということがわかります。
富士山と峠道と富士山を眺める旅人、この三者が同じ位置にあります。北斎の「甲州犬目峠」の富士山と峠の間に山並みを加えた景色になっています。北斎の「犬目峠」は「犬目峠から眺める優雅な富士山」と一言で言い表せる作品ですが、広重の「甲斐犬目峠」は実景に基づき、丁寧に描いたため、中景の山並みが目立ち、富士山も峠道もその印象が薄くなっています。
.
  葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」     広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転>
 
葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」 
 
広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転 


北斎の「富嶽三十六景」は、絶大な好評を得て、かなりの部数が売れたシリーズで、「甲斐犬目峠」はその中でも人気がある作品です。広重は、その北斎に対抗意識があり、北斎と同じ構図を、富士山の最初のシリーズ「不二三十六景」で使うことはできないと思った。
「筆意」の加え方が少なかったと反省し、扇山の尾根の代わりに鳥沢で感銘した桂川渓流の景色を加え「「不二三十六景 甲斐犬目峠」を描いたと推察します。



(2)北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


葛飾北斎の「富嶽三十六景」は江戸、甲州、駿河から富士山を眺め、各地の多彩な富士山と風景と民衆の営みを描いた作品と思っていた私にとって、「甲州犬目峠」の富士山は大きな驚きでした。何ゆえ北斎は「甲州犬目峠」で、これほど実際と異なる富士山を描いたか。この富士山を見て、どこから眺めた富士山かを当てることができない富士山です。富嶽三十六景は旅案内本の役割があるとしたら、これをみて犬目峠からの実際の富士山を眺めた読者から苦情、罵倒の声ががなかったのか。

そのあと、「富嶽三十六景」の他の作品を調べていき、「北斎は読者の求める富士山を描いた」と推論しました。そのため、「青山圓座枩」では、山中湖から眺めたような大きな富士山を青山まで持ってきました。「甲州犬目峠」では、江戸から長い道のりを歩いてきた富士講信者が求める富士山を描いたと思います。富士山の麓から木花咲耶姫があらわれて、旅人を歓迎してくれそうな優雅な富士山です。


北斎「甲州犬目」の富士山と甲州街道犬目宿付近からの富士山の違い
<

甲州街道犬目宿付近からの富士山  北斎「甲州犬目」の富士山
富士山
甲州街道犬目宿付近からの富士山
 北斎「甲州犬目」の富士山
斜面傾斜角度はほぼ30度  斜面傾斜角度はほぼ45度
山頂部は平坦で右端部に白山岳の突起がある 山頂部は中央部に突起がある古典的な三峰構造>
すそ野の両端は九鬼山の尾根に隠れる
 すそ野は手前の山に隠れず横に広がる
富士山本体は宝永山の中腹まで見え、
中央下に鹿留山・杓子山が見える
富士山本体は中腹よりかなり下まで描かれていおり、
中央下に鹿留山・杓子山は無し
山体の左側に宝永山の段差が見える 宝永山の段差は無い
吉田大沢が中央部右にある 吉田大沢は不明、もしくは中央か
富士山の後ろに山、森はない 富士山の後ろに山か森がある

広重は、大胆に実際には見えない桂川を持ってきて、富士山はほぼ忠実に描きました。北斎は、峠と富士山の簡略化した構図で富士山を徹底的に実際と異なる富士山で描きました。実際には見られない富士山のいる景色という観点からは、甲乙つけがたしです。浮世絵で風景を見る場合、実際に見えていたものは何かという観点が必要になります。








2 犬目峠はどこにある、歌川広重の「甲斐犬目峠」はどこで描かれたか


2-1  犬目峠の候補地



(1)犬目峠の候補地の地図と標高図


犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料から、二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。


野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。

犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。
犬目峠候補地②は犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。

地図に記入した地名は「・・・宿」以外、現在の地名です。この区間に、犬目峠はもちろん「〇〇峠」の地名はありません。




旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の地図

旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿



上図の赤線の旧甲州街道をカシミールで標高を求める

上図の赤線の旧甲州街道をカシミールで標高を求める



(2)野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の間の地名を記載している旅日誌、甲斐の史料

旅日誌、甲斐の史料の検討内容が煩雑であり、手順に沿った説明が難しいため、初めに検討結果の下表を示します。これに基づき各旅日誌、甲斐志料が 、犬目候補地①②をどのように記述しているかを述べ、相補地を推察します。


犬目峠が出てくる資料

野田宿と犬目宿の間の犬目峠候補地①: 歌川広重の「甲州日記」 1841年(天保12年)。

犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地②: 荻生 徂徠「峡中紀行」、  「風流使者記」1706年( 宝永7年)、吉田兼信の「甲駿道中之記」 1820年(文政13年)、大森善庵・快庵「甲斐叢記」 1851年(嘉永4年)

「峡中紀行」、 「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、犬目宿と鳥沢宿の間の候補地②にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。
「犬目峠」が野田宿と犬目宿の間の候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところにあったと推察します。その検討の詳細と、候補地②の具体的な場所の推定を行います。



 
 時代  史料・絵画 犬目峠候補②
現在の場所:君恋温泉 
犬目峠候補①
現在の場所:矢坪坂の頂
1706年
宝永7年
 荻生 徂徠
「峡中紀行」
 狗目嶺
(犬目峠)
 記載なし
    荻生 徂徠
「風流使者記」
 狗目嶺
(犬目峠)
 記載なし
1809年
文化6年
渋江長伯
「官游紀勝」
 
 記載なし 座頭ころかし
座頭ころかし峠
1814年
文化11年
松平定能
甲斐国志
 記載なし  箭壺坂のなかに
座頭轉(コロガシ)
1820年
文政13年
 
吉田兼信
「甲駿道中之記」、
 犬目峠 俗に座頭ころかし峠
といふ矢坪峠
 
1831-3年
天保2-4
葛飾北斎
「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


1841年
天保12年
歌川広重
「甲州日記」
 記載なし 座頭ころかし
犬目峠
1841年
天保12年
歌川広重
「旅中 心おほへ」
 記載なし 座頭ころかし
(犬目峠)
1848年
嘉永元年
 歌川広重
「犬目峠春景図」
 
 
1851年
明治26年
大森善庵・快庵
「甲斐叢記」
 狗目嶺
(犬目峠)
箭壺坂一名
座頭轉(コロガシ)
1852年
嘉永5年
歌川広重  
「不二三十六景 甲斐犬目峠」

 
1859年
安政6年
歌川広重
「冨士三十六景 甲斐犬目峠」


1859年
安政6年
歌川広重
「冨士見百図 甲斐犬目峠」
 
 
1875年
明治8年
都留郡犬目村・大野村が
合併して大目村となる
 
 
2017年
平成29年
上野原市境域委員会
史跡案内板 甲州街道案内板
 記載なし
 
矢坪坂
座頭ころがし
2017年
平成29年
甲州街道往来図 犬目峠 座頭ころがし







2-2 犬目峠候補地①野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂の史料



(1)歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

歌川広重の「甲州日記」( 浮世絵と風景画  著者:小島烏水  出版者:前川文栄閣 出版年月日:1914年・大正3年)を再び掲載。

「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」


しかし、甲斐志料集成. 1  著者:甲斐志料刊行会 編出版者:甲斐志料刊行会 出版年月日:昭和7至10年」にある「浮世絵ト風景画 著者:小島烏水」の「広重甲州道中記」では、「犬目峠」ではなく「犬目」になっています。

「四日 晴天。野田尻を立て犬目にかかる。この坂道富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休む」

前川文栄閣出版の「犬目峠」の場合、「野田尻宿から犬目峠の道に着き、その坂道を富士山を見て登った。」ことになります。
甲斐志料刊行会の「犬目」の場合、犬目峠の記載がある「犬目峠の宿」の意味が不明のため、犬目峠がどこにあるかはっきりしない。」

「犬目峠」か「犬目」か
①「此坂道」の「此」があるので「犬目」より「犬目峠」が妥当、②前川文栄閣出版が甲斐志料刊行会より早い、③原本である『 浮世絵文献資料館・世絵師歌川列伝「歌川広重伝」の「天保十年二丑とし、卯月日々の記」』も「犬目峠」の記載であることから、「犬目峠」を採用します。

そのため、歌川広重の「甲州日記」では、「犬目峠」は野田尻宿と犬目宿の間にあり、そこに座頭ころばしの道」もあると記載しています。

しかし、「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、上掲した旅の写生帖「旅中 心おほへ」のしがらきの茶屋らしき図の後に峠の図があるので、峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。








歌川広重「甲州日記」-浮世絵と風景画 著者 小島烏水 著出版者 前川文栄閣出版年月日大正3

浮世絵と風景画 226/283 p363 - 国立国会図書館デジタルコレクション


 
「甲州日記」は、歌川広重の旅日記。1841年(天保12年)に甲府城下町における甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際の旅日記。
表題が「天保十二丑とし卯月、日々の記、一立斎」(以下「日々の記」)と記された前半部と、「旅中 心おほへ(心覚え)」(以下「心おほへ」)と記された後半部の二部から成り、「日々の記」は『甲府行日記』、「心おほへ」は『甲州日記写生帳』とも呼ばれる。
「日々の記」は1894年(明治27年)頃に飯島虚心が執筆した『浮世絵師歌川列伝』(刊行は玉林晴朗校訂により、1941年に畝傍書房。中公文庫で1993年再刊)や、1912年(明治45年)に『近世文藝叢書〈12巻〉』に収録され、1914年(大正3年)には近藤烏水『浮世絵ト風景画』、1930年に内田実『広重』など、数々の資料集や研究書において翻刻や紹介が成されている。





「広重甲州道中記」


「広重甲州道中記」-甲斐志料集成. 1 小島烏水 著「浮世絵ト風景画」 の「広重甲州道中記」 出版年月日:昭和7至10年


甲斐志料集成. 1 145/312 - 国立国会図書館デジタルコレクション





(2)江戸時代中期-後期の医師、本草家であった渋江長伯の「官游紀勝」 (1809年 文化6年)。〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

「座頭ころばし」と「座頭ころがし峠」の図があります。それに関する文章もありますが、浅学のため読み取りができません。
座頭ころばしがあり、そこには座頭ころばし峠という峠もあるようです。その場所は現在の座頭転がし付近と推察します。富士山はいませんが、広重の「旅中 心おほへ」の峠の写生図と似た景色です。

「座頭ころかし峠」はあるが「犬目峠」に関する記載はありません。また、座頭ころばし峠を越て犬目宿、鳥沢宿へ進んだのに富士山の図がありません・


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし」

渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし」



渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」


渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」図の次の頁

渋江長伯「官游紀勝」文化6(1809)年刊の「座頭ころかし峠」図の次の頁


上の三点:「官游紀勝」-筑波大学附属図書館Tulipsより引用




(3)松平定能編集の「甲斐国志」(1814年 文化11年) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉

恋塚、犬目駅の湯殿屋敷の後に、次の記述があります

「一 箭壷坂 大野村 犬目・野田尻驛、両ノ間坂上村落アリヘビキ新田ト云坂下ハ即箭壷村ナリ此間甚ク險路ニシテ往来に難ヤメリ中ニモ路厳下二屈曲シテ谷深キ所ヲ座頭轉(コロバシ)ト云」


「犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、坂の上にへびき新田、坂下には箭壷村がある。この間は険路で、中でも路厳下に屈曲して谷深きところを座頭轉(ころばし)と云う」

犬目驛と野田尻驛の間に大野村の箭壷坂があり、座頭ころばしと言われている瞼路があると記載。
しかし、〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉の間に「恋塚」の記載はあるが「犬目峠」の記載はありません。


甲斐國志 巻之五十古蹟部第十六之下二四七


甲斐國志 巻之五十古蹟部第十六之下二四七

甲斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。
甲斐国(山梨県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。


甲斐志料集成. 5-129/353 - 国立国会図書館デジタルコレクション








(4)吉田兼信の「甲駿道中之記」(1820年 文政13年) 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉

野田尻驛を過ぎると、「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」があると書いてます。

「大椚、野田尻なと云驛過、この邊は甲斐の郡内とて厳岩峨々として峯は雲に連、桃櫻の満花春雨のふり降景色いはん方なし、昇り下りて一ツの峠有、俗に座頭ころかし峠といふ由、矢坪峠なり、山上に破れし草庵有、しはし休む、この邊にて雨はやみけれとも、足下に雲まといて四方見えす、この邊桃殊に多し」


後でも書きますが、この「甲駿道中之記」で、「犬目峠」は犬目宿を過ぎてから出てきます。富士山が見える絶景の岩山です。

「矢坪、犬目の驛過、犬目峠、けわしき岩山なり、嶺上より富士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥澤の驛なり、・・」

吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)

吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)

甲駿道中之記・甲斐叢書p200- 国立国会図書館デジタルコレクション





(5)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉

「大野村にある箭壷坂は座頭轉(コロガシ)とも呼ばれ、その坂上に蛇木新田という村落があり、坂下には箭壷村がある」と書いています。

後でも書きますが、この「甲斐叢記」で、「犬目峠」は恋塚を過ぎて犬目驛の間で出てきます。

  甲斐叢記

甲斐一国の地誌。甲斐名所図会ともいう。内容は、甲斐を九筋の道路にわけて、道路毎に山川・村落・神祠・仏閣・名所・古跡についてまとめたもの。本書は10巻から成り、前輯5冊は嘉永4年(1851)に刊行されたが、著者の大森善庵・快庵が続けて没したため、後輯5冊は明治24年(1891)から同26年にかけて刊行された
。 
 

 甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路


甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路


甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路 130/284 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用




犬目村変遷

1875年(明治8年)1月 - 都留郡犬目村・大野村が合併して大目村となる。
1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法の施行により、大目村が北都留郡の所属となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、大目村が単独で自治体を形成。
1955年(昭和30年)4月1日 - (旧)上野原町・棡原村・西原村・島田村・大鶴村・巌村・甲東村と合併して上野原町が発足。同日大目村廃止。




(6)上野原市の史跡案内図・文(2017年 平成29年)

大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂、その坂に座頭ころがしがあります。この二つの名称は江戸時代からつづいています。

現在、この坂に「犬目峠」や「座頭ころばし峠」や「俗に座頭ころかし峠という、矢坪峠」の峠の名称は残っていません。



矢坪坂の古戦場跡の案内板と設置場所。 前掲の地図で「急坂登り口」から少し上の矢坪付近、「座頭ころばし」に行くには右側の山道に進みます。


矢坪坂の古戦場跡の案内板と設置場所。 前掲の地図で「急坂登り口」から少し上の矢坪付近、「座頭ころばし」に行くには右側の山道に進みます。
この道は実際に歩いていません。google mapで作成。案内板は上野原市の観光案内から引用。




(7)犬目峠候補①の矢坪坂の頂に関する記載のまとめ。


野田尻宿と犬目宿の間に峠と思われる登り下りの坂は、一つしかなく、現在は矢坪坂と呼ばれその中に座頭ころばしがあります。この矢坪坂を「犬目峠」と記載しているのは広重の「甲州日記」(1841年)だけです。

「甲州日記」の20-30年ほど前、渋江長伯の「官游紀勝」(1809年)では、「座頭ころかし」、「座頭ころかし峠」
松平定能の「甲斐国志」(1814年)では「座頭轉」、「箭壺坂」
吉田兼信の「甲駿道中之記」1820年)では「俗に座頭ころかし峠といふ矢坪峠」と記載されています。


広重は、甲州日記に書いているように、江戸者三人に別れ、一人で座頭ころがしがある坂を歩いています。44歳の広重がこの急坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山を感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。

また、広重は犬目峠候補地②の犬目宿と下鳥沢の間は馬に乗っており、歩いていないため観察が不十分になっていると思います。
「犬目より上鳥澤まで、帰り馬一里十二町乗り、鳥澤まにて下り、・・・」
* 帰り馬:荷や客を送り届けた帰り掛けの馬。普通より安い。
 一里十二町:一里は36町で3.927㎞(明治時代)とすると5.342㎞。犬目宿から下鳥澤宿まで約4.5㎞。

11月の江戸に帰りる時も、この鳥沢宿-犬目宿-野田尻宿を歩いたようですが。その時も犬目峠の確認はしていないようです。
犬目宿と下鳥沢の間の犬目峠候補地②に「犬目峠」の石柱、「ここが北斎の描いた富嶽三十六景の犬目峠です」の表示板はなかったようです。
しかし、「甲州日誌」に「犬目峠」を記載しているのに、10年ほど前に爆発的に売れた北斎の「富嶽三十六景の犬目峠」の記載がないのも不思議です。
しがらき茶屋の「だんご、にしめ、桂川白酒、・・・」と食い物の記載があるが「北斎」の記載がないのが不満です。


(8)矢坪坂からの富士山

筆者は野田尻宿と犬目宿の間は歩いていません。
野田尻宿と犬目宿の景色を豊富に掲載した「JR藤野駅から関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢の各宿経由、JR鳥沢駅まで」で富士山がどのように見えたかを調べた。上野原宿-鶴川宿間で富士山の山頂部が一部見えている。野田宿を過ぎたあたりで富士山の山頂部が一部がまた見えていた。しかし、その後矢坪坂、座頭ころがしでは富士山の掲載はなく、山道からは見えなかったと思われる。犬目宿に入り「犬目の兵助の墓」から富士山の山頂部が見えていました。


そこで、現在では高い建物、樹木のため、街道から見えていた富士山が見えなくなったと考えて、カシバードで野田尻宿と犬目宿の間の旧甲州街道からの景色を作成しました。その結果、以下に示すように、峠の頂から、樹木が邪魔をしなければ九鬼山の上にいる富士山全体が見えることを確認しました。

広重が座頭ころがしのある峠道で眺めた富士山です。



 

野田宿から犬目宿までの地図


野田宿から犬目宿までの標高図
  
 
峠道の角度





「旅中 心おほへ」の「犬目峠の写生と思われる図」

「旅中 心おほへ」の「峠の写生
カシバード画像とは異なります。



「富士見百図 甲斐犬目峠」

「富士見百図 甲斐犬目峠」
扇山の尾根が見えて
⑤の 峠の頂付近からの富士山と似ている。


 ①野田宿から急坂登り口の間で富士山山頂部が見えています。

野田宿から急坂登り口の間で富士山山頂部
 ②急坂登り口でも富士山山頂部が見えています。

急坂登り口でも富士山山頂部
 ③矢坪坂を上るあたりから扇山の東尾根に隠れて、富士山が見えなくなります。
富士山は見えない
 ④座頭ころばし付近(?)から富士山が見えてきます。

座頭ころばし付近(?)から富士山
 ⑤峠の頂付近からは犬目地区で見える富士山、九鬼山の上の富士山が見えています。
樹木がなければ見える場所です。

峠の頂付近からは犬目地区で見える富士山
 ⑥犬目宿に降りたところでは、峠の頂とほぼ同じ富士山が見えています。
犬目宿に降りたところでは、峠の頂とほぼ同じ富士山






2-3 犬目峠候補地② 犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近の史料




(1)荻生 徂徠の「峡中紀行」と「風流使者記」(1706年宝永7年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉


「峡中紀行」

広重の「甲州日記」(1841年)の135年前の荻生 徂徠「峡中紀行」に、以下の記述があります。(原文は漢文、下に掲示)


「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・

狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」


これは「野田尻駅、・・・犬目宿を過ぎて、・・・・犬目峠を超えると、別名恋塚という新田あり、・・・・そして鳥沢駅に着いた」ということで、犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあることになります。垈尻は野田尻、恋塚は現在の恋塚一里塚付近で、犬目宿から下鳥沢宿に下るところにあります。

「狗目」、「狗目嶺」は「犬目」、「犬目峠」の古い時期の書き方と思います。垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田等の地名の漢字は時代で異なります


狗は犬と同じ「いぬ」で、犬に比べて小さいいぬを「狗」とよぶ。「狗」 読み:「コウ」「ク」「いぬ」  意味:いぬ。こいぬ。卑しいもののたとえ。
(犬に比べて小さいいぬが狗)
「狗」の漢字‐読み方・意味・部首・画数-漢字辞典より引用


「峡中紀行」には、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂・座頭ころがしについての記載はありません。


「峡中紀行」は漢文で、筆者は読み取ることはできません。しかし、「かさぶた日録」で「きのさん」が解読を行っていました。それを参考にさせてもらいました。
 
 

荻生徂徠著の「峡中紀行 上」の解読


鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、袋尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。長岑(みね)阪に陟(のぼ)り、阪の右古塁跡あり。機山の時、加藤丹後なる者築く所、塁前一小池あり。土人誇りて称す。峡中八湖の一にして、水旱にも涸溢せずとや。これ陥井、僅かに蛙容れるもの、豈(あに)湖と云わんやかな。塁もまた甚だ高からず。

※ 機山(きざん)- 武田信玄の道号。
※ 加藤丹後(かとうたんご)- 加藤景忠。戦国時代の武将。甲斐国都留郡上野原の国衆。甲斐武田氏の家臣。都留郡上野原城主。
※ 水旱(すいかん)- 洪水と日照り。
※ 涸溢(こいつ)- 涸れたり溢れたり。
※ 陥井(かんせい)- 陥穽。動物などを落ち込ませる、おとしあな。

*「袋尻」、漢文では「垈尻」。「垈尻」は現在の「野田尻」。八坪は箭壷、矢坪。蛇城新田は蛇木新田、ヘビキ新田、新田。狗目は犬目。(筆者注)
*江戸時代に「宿」を「駅」と称することもあった。(筆者注)



狗目嶺(峠)を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。日暮れ僕従疲るゝ事甚しく、民家遠し。炬火(たいまつ)の前導無し。轎夫の脚、巌稜を探りて、以って進む。時に或は虚を蹈みて躓く。轎、輙(すなわ)ち、その肩上に跳(はね)て已まず。杌隍、墜んと欲するもの、数(しばしば)なり。

※ 嬪(ひん)- 婦人の美称。ひめ。
※ 媚嫵(びぶ)- 愛らしい。
※ 轎夫(きょうふ)- 駕籠かき。
※ 杌隍(げつこう)-不安。

*「きのさん」と同じく、狗目嶺は犬目峠と推定。(筆者注)
 峠」という字は室山時代に作られた日本の国字で、は「峠」の本来の漢字は「嶺」です
江戸中期の書〔同文通考・国字〕に「峠(トウゲ)」:嶺なり。嶺は高山の踰(こえ)て過ぐべきものなり」とあるので、嶺は峠と同じように使われていたようです。
*踰(こ)え-越え。(筆者注)

峡中紀行 上 9 九月八日 (相峡)界河を越す、 10 九月八日 猿橋に宿す」-かさぶた日録より引用
 
 


 甲斐志料集成. 1 峡中紀行上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成. 1 峡中紀行上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成. 1 峡中紀行上185/312 p321- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



   
荻生 徂徠(おぎゅう そらい)

寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。
元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢保明(やなぎさわ やすあきら)に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。
吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に、徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。


峡中
釜無川流域を西限に甲府盆地の西半分に位置する地域。北側は奥秩父山塊が連なるが、南側はほぼ平地である。四方を山に囲まれているためフェーン現象の影響を受けやすい。この一帯は「甲府広域市町村圏」となっており、位置的だけでなく経済的にも「峡(甲斐)の中央」である。
「峡中」の地域呼称は江戸時代から見られ、荻生徂徠『峡中紀行』など本来は国中地方の内部呼称ではなく、甲斐国全域を指す地域呼称として用いられていた。


   

荻生徂徠の「風流使者記」

荻生徂の紀行文は「峡中紀行」と「風流使者記」があります。同じ旅の紀行文ですが、どちらが先に書かれたかは不明です。
漢文で詳細は不明ですが、「野田尻驛→狗目驛→狗目嶺→恋塚→鳥澤驛」を歩いたようで、狗目峠は狗目驛と恋塚の間にあります。「峡中紀行」と同じです。





甲斐志料1 「風流使者記」上の「狗目驛」と「狗目嶺」

甲斐志料集成. 1  201/312 p352 風流使者記- 国立国会図書館デジタルコレクション





『風流使者記』と『峡中紀行』

 しかし、ここでちょっと、内容のよく似た『風流使者記』と『峡中紀行』の両者について、すこしおことわりをしなければならない。というのは、この両書は、著作年代が明らかでないため、その前後関係や本質について、従来、諸説が行なわれていたことである。

 この両着を注された(昭和田十六年雄山閣刊、その後、河出書房新社、『荻生徂徠全集』第五巻に収録された)河村義昌氏(都留文科大学教授)の論考はご記述が詳しく、旅行の肝要な目的である主君柳沢吉保の碑文やその解説をのせている『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』に先立つものであり、『峡中紀行』は、『風流使者記』を世に問うため、(公式の出張報告を)校訂、推敲したもの(いわばダイジェスト版)とする見方である。河村氏はさらに、旅を終え、主君から「千里山川十日行 峡中事々任娯情 明暗為客総無悪 惹湯風流使者名」の一絶をおくられ、風流使者の名を得たにかかわらず、『峡中紀行』にはこのなかの二句しかのせていないことからも、このことがいえると詳説している。

 官用とはいいながら、同僚の田中省吾と詩作の旅をつづけ、茂郷(徂徠)百五十三首、省吾百四十七首、合わせて三百首にのぼる漢詩をのせてある『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』より血の通った紀行であることはいうまでもない。

甲斐の詩歌と道中記-漢詩文から狂歌まで | 山梨県歴史文学館 - 楽天ブログ




(2)吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)。 〈 野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿 〉(再掲)

「甲駿道中之記」は、土浦藩主土屋家の家臣吉田兼信が文政13(1820)年武田勝頼、土屋惣蔵の二百遠忌に景徳院に詣で身延・静岡を経て土浦へ帰着するまでの紀行日記です。

「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」

犬目峠に関する情報は「犬目峠は犬目驛と鳥沢驛の間にあり、その嶺の上から富士山が見える」だけですが、「犬目峠」の文字で記載している、唯一の史料です。

矢坪坂のところは「俗に座頭ころかし峠という矢坪峠」があると書いています。



吉田兼信の「甲駿道中之記」

吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)

甲駿道中之記・甲斐叢書 200/268 - 国立国会図書館デジタルコレクション





(3)大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 ) 〈 鳥沢宿→犬目宿→野田尻宿 〉 (再掲)

「恋塚」と「箭壺坂」の間に「狗目嶺」の記述があります。」

「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」

この文の前の「恋塚」で、荻生 徂徠の「峡中紀行」(1705年)の「狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。」を引用しているので、大森善庵・快庵は「狗目嶺」は犬目宿と恋塚の間にあることを認識して書いてます。

そのため、「犬目驛にある狗目嶺(犬目峠)は一郡の内で一番高いところだ。房総の海まで見え、西南の方向には富士山が聳えて大空を衝き、その眺望素晴らしい。」ということで、犬目峠は犬目地方で一番高いところで犬目宿と恋塚の間にあることになります。
「狗目驛」が「犬目驛」に変わっていますが、「狗目嶺」はそのままです。何故でしょう。

甲斐叢記は甲斐一国の地誌で甲斐名所図会でもあります。信頼度の高い資料と考えます。


  甲斐叢記

甲斐一国の地誌。甲斐名所図会ともいう。内容は、甲斐を九筋の道路にわけて、道路毎に山川・村落・神祠・仏閣・名所・古跡についてまとめたもの。本書は10巻から成り、前輯5冊は嘉永4年(1851)に刊行されたが、著者の大森善庵・快庵が続けて没したため、後輯5冊は明治24年(1891)から同26年にかけて刊行された。 
 

 甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路

甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路

甲斐志料集成. 2  甲斐叢記 巻之九道路之七 甲州道中江戸路・谷村路 130/284 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


(4)資料からの推察。

「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

以上の検討から、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿(恋塚)の間の最も高いところにあったと推察します。



(5)犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところは君恋温泉付近、ここが犬目峠

旧甲州街道の犬目宿と鳥沢宿の間の標高図(下図)を見ると、宝勝寺と恋塚一里塚の間に登り下りの坂があり、恋塚一里塚から少し登りがありますが、そのあとは下鳥沢宿まで下り坂です。
そのため、峠と呼べる場所は、宝勝寺と恋塚一里塚の間の頂になります。ここは犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点になります。

犬目宿から、舗装された旧甲州街道1㎞ほど行くと、右側に登る道が在ります。この舗装されてない細い道が旧甲州街道ですここまでの道は、地図で調べると角度約6度のとても緩い坂道ですので、峠道を歩いている気持ちにはなれません。実際に歩いたときは舗装道路の県道30号を進んで反対側から峠の頂にある君恋温泉に着きました。その順路で、 google mapで作成した画像で説明します。





 君恋温泉付近の地図



君恋温泉付近の地図



君恋温泉付近の標高図

峠道の角度
①犬目峠から、下鳥沢方面へ進む。宝勝寺を経て1㎞ほどで、舗装道路の右側に、上に登る細い道が在る。この細い道が旧甲州街道で、ここを登ると峠の頂にある君恋温泉に着く。今回は舗装道路を進む。

 ここを登ると峠の頂にある君恋温泉に着く
②ここから県道30号となり、右側の20mほど上に君恋温泉があります。カシミールで調べるとこの県道からは富士山が見えます。しかし、実際には樹木のために富士山は見えません。
下の画像は google mapで作成しましたが、写っている道を旧甲州街道又は県道30号と表示してくれる。

右側の20mほど上に君恋温泉
③君恋温泉は右側の道を登ります
 
④登り道を進むと、君恋温泉の看板があります、君恋温泉は民宿で看板がなければ普通の民家のようで見逃してしまいます。この辺りが犬目宿での最高地点なります。富士山も見え絶景の地です。吉田兼信が「甲駿道中之記」に書いた「犬目峠」はこの地点と思います
 君恋温泉の看板と富士山


犬目宿と鳥沢宿の間の最も標高が高く、富士山が見えることから、君恋温泉付近が犬目峠と推察しました。

大森善庵・快庵の「甲斐叢記」の記述。

「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」。

  坤位(ヒツジサルカタ ):南西方向  霄漢(しょうかん):おおぞら。高い天。虚空。雲漢   奇絶(きぜつ):きわめて珍しいこと。すばらしいこと。


その君恋温泉からの富士山です。ここからの富士山は、宝勝寺境内、下鳥沢方面へ行く撮影地点からの富士山とほぼ同じで、九鬼山と高畑山の尾根の上にいる富士山です。犬目地区では元も高い地点なので、宝永山の凸部がはっきり見えます。広重「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部の富士山は、君恋温泉付近付近から眺めた富士山と思います。

広重は馬に乗ってここを通っています。坂の傾斜もゆるく、馬の上で富士山を眺めながら進んでいるので、峠を越えているとは気が付かなかったようです。しかし、ここでも富士山の記述がないのが不満です。またこの時代「ここが犬目峠」の立て札もなかったように思います。





犬目峠と思われる君恋温泉からの富士山

犬目峠と思われる君恋温泉からの富士山






恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山







歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」 富士山と下の山並みは上図とほぼ同じ。

歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用




「甲斐叢記」の犬目峠の記述に、房総の海まで見えるという歌が載っています。

   路高くのほるもしるし山越しにほのほの見ゆる阿波の安房の海原 磯部正冬

君恋温泉付近では、樹木が多く房総の海までは見えません。


君恋温泉付近では、樹木が多く房総の海までは見えません


君恋温泉付近からの富士山と周辺の山



君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところに、富士山絶景地地があります。富士山下の山並みは左側に伸び、丹沢山地の大室山まで見えていました。しかし、まだ房総の海は見えません。


富士山絶景地地からの富士山


君恋温泉からもう1㎞ほど下ったところの富士山絶景地からの富士山と周辺の山



そこで、君恋温泉からの景観をカシバードで作成しました。樹木がなければ、君恋温泉で三ッ峠山から陣馬山まで眺めることができます。予想を超える大展望に驚きました。まわりの樹木を伐採するか、展望台を作れば、君恋温泉は見事な富士山展望地になりそうです。石老山の左側に房総の海が見えそうなのでその方向を拡大していきます。

細長い線状の房総の海が見えました。千葉県市原市の出光興産の製油所がある付近です。君恋温泉から90㎞離れた房総の海です。
江戸時代に磯部正冬はこの君恋温泉付近の犬目峠から房総の海を眺めました。大森善庵・快庵も眺めたか。かなり視力が良かったようです。





カシバードで作成した君恋温泉からの景観

カシバードで作成した君恋温泉からの景観


左部拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海


中央部拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海


さらに拡大



カシバードで作成した君恋温泉からの景観、房総の海











「坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。」

君恋温泉と富士山の間に桂川がありそうですがカシバードで対地高度2mでは見えません。そこで、君恋温泉の上空300mから富士山方面を眺めました。旧甲州街道で、君恋温泉から恋塚一里塚-下鳥沢宿まで下りていき、下鳥沢宿から猿橋の間で甲州日記に記述した桂川の絶景が見られます。

「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」(広重 甲州日記)



君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川

君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川が見えてきました。



広重「不二三十六景 甲斐犬目峠」の①富士山-②桂川-③犬目峠の位置関係は実際の景観と一致します。
この構図で実際に眺めた景色を入れていくと、「不二三十六景 甲斐犬目峠」になります。
当方の推察。①君恋温泉からの富士山②鳥沢-猿橋間の桂川渓流③犬目峠(座頭ころばしの峠道)

「不二三十六景 甲斐犬目峠」は甲州街道で読者が見たいと思う三大景観を一つにまとめあげた傑作です。


君恋温泉の300m上空からの富士山、桂川と犬目峠



君恋温泉の300m上空からの富士山




        蛇足の補足
 

君恋温泉

君恋温泉は、閉館となっています。恋塚、君恋、犬目など魅力ある地名の一つが消えるのは残念です。



魅力ある地名「恋塚」「君恋」の由来


歩いた甲州街道には「恋塚一里塚」、「君恋」の地名の由来に関する表示板がないので、ネットで調べると君恋温泉で入浴した方の次のような記載がありました。


「因みに、宿にあった説明書きを要約すると、以下のとおり。この近辺に「恋塚」という集落と「君越(きみごう)」と呼ばれる場所があり、どちらも日本武尊がこの地を通過した故事に由来している。日本武尊が相模から上総へ軍船で渡った折、荒れ狂う波を鎮めるため、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が、自ら海神のいけにえとなり海へ身を投じた。日本武尊は、その妃への思いに胸ふさぎながらこのあたりを越えて行ったことから「君越」の地名が付けられた。やがて見えてくる扇山は、日本武尊が仰ぎ見たことから「仰ぎ山」、のち、扇形にも見えるので「扇山」に変わったのだとか。日本武尊はこの山の麓に愛する弟橘姫の霊を祀る塚を立て、これが「恋塚」の名の由来となった・・・とのこと。
これから推して「君恋」は「君越」と「恋塚」の合体か、もしくは、君越(きみごう)⇒きみ(を)こう⇒君恋になったのかぁ。」




250年前に北斎、広重が歩いた犬目峠はどこかに消えてしまったが、2000年前に日本武尊が歩いた恋塚は立派に残っています。

  

    



日本武尊と、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)の話からついた地名。


神奈川県秦野市にある吾妻山(あずまやま)は日本武尊(やまとたけるのみこと)が妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)を偲び、「あずま・はや」と詠まれた場所と表示板に書いてあります。

「あずま・はや」の意味、「はや」は詠嘆の意を表す語とすると「ああ、我妻よ」。

「あずま・はや」と詠んだ候補地はこの吾妻山以外にもあり、次の二箇所が有力です。
弟橘媛を忘れられない日本武尊は、『日本書紀』では碓日の嶺、『古事記』によれば足柄の坂本で、「吾妻はや」と嘆いた。(ウィキペディア)

さらにこの「あずま」には、次の説もあります。「東(あずま)」は「吾妻(あずま)」です。
日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる「地名起源説話」である」(ウィキペディア)



吾妻山の起源の表示板



岡潔の「日本的情緒」にでてくる橘媛命


岡潔(おか きよし/1901年4月19日-1978年3月1日)は、多変数解析函数論(複素多変数の複素数値関数を扱う理論)において大きな業績を残した数学者、大学教授。ハルトークスの逆問題(レヴィの問題)を約20年の歳月をかけて解決し、その過程で”不定域イデアル”という概念を考案。これがフランスの数学者達によって現代数学における重要な概念”層”の定義につながっていく。

蛇足の説明の吾妻山を書いていた時、この岡潔の随筆を読んでいたら「橘媛命」が出てきた。これはめったにない奇遇ということでその一文を引用する。

「新しく来た人たちはこのくにのことをよく知らないから、一度説明しておきたい。このくにで善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである。たとえば橘媛命(たちばなひめのみこと)が、ちゅうちょなく荒海に飛びこまれたことや菟道稚郎子命(うじのわきいらつのみこ)がさっさとと自殺してしまわれたのや、楠正行たちが四条畷の花と散り去ったのがそれであって、私たちはこういった先人たちの行為をこのうえなく美しいとみているのである。」

 岡潔「春宵十話」光文社文庫の「日本的情緒」より引用





三坂峠

御坂峠(みさかとうげ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠。鎌倉往還御坂路のルート上にある
三坂山と黒岳の間にある峠です。

御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するとされる。 日本武尊が歩いたところにはその地名が残ります。


 
この峠でも、北斎と広重は富士山を描いています。

北斎の富士山は夏と冬の富士山が同居するこれまで見たことがない風景画です。

広重は三坂峠を下りていくときに見える富士山を描いています。






 

歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」

 葛飾北斎『冨嶽三十六景 甲州三坂水面』
富嶽三十六景 - Wikipediaより引用

 歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」
歌川広重 - Wikipedia



三国山甘草水

日本武尊は富士山展望の山では、御坂峠、扇山の犬目峠と三国山甘草水で登場します。三国峠の山頂で尊鉾で地面を叩くと水が湧き出てきました。地面を叩き水が出てくる技は、日本武尊が最初で、その後は空海に継承されたようです。

ここで「尊大に喜び峡野尊(さののみこと)の賜うなりとのたまひ」とありますが、突然出てきた「峡野尊」とは誰か。
峡野尊は初代天皇である神武天皇の幼名です。日本武尊は第十四天皇である景行天皇の息子ですので、峡野尊は日本武尊の十四代前のご先祖様です。
そのため、何故かわからないが、下流を「武尊川」ではなく「佐野川」にしたようです。主語が無いが、日本武尊が名づけたか。
ここで、なぜ湧き水を「甘草水」と名づけたかがわからない。その説明がほしかった。

辞書には「甘草:根や茎の基部が漢方薬で甘草と呼ばれ重用されるマメ科の多年草」とあるが、湧き水との関連、日本武尊との関係は不明。



「甘草水」の説明板



 甘草水の入り口付近からの富士山。紅葉の枝葉の中からのぞく趣のある富士山です。







坤(ヒツジサル)について

干支は、年、月、日、時間、方位などを示すためにも使われ、それらの吉凶を表わすようにもなりました。
例えば、方位は北から東回り(時計回り)に子、丑、寅…と12等分します。すると北東、東南、南西、西北が表現できないため、中国では易の八卦(はっけ)に基づいた坎(かん)、艮(ごん)、震(しん)、巽(そん)、離(り)、坤(こん)、兌(だ)、乾(けん)を用いて表現していました。日本では、北東(艮)は十二方位の丑と寅の中間なので丑寅(うしとら)、同じように、東南(巽)は辰巳(たつみ)、南西(坤)は未申(ひつじさる)、西北(乾)は戌亥(いぬい)とも呼んでいました。 
 

  干支②方位神(ほういじん) | 日本の暦



一擲乾坤とは

 「乾坤一擲」とも言います。思い切って、伸(の)るか反(そ)るかの大勝負にでること。「乾」は『易経(えききょう)』の卦(け)の一つで、天を意味し、数のうえでは偶数を言います。「坤」は地を意味し、奇数を表します。「擲」は投げ打つという意味です。「一擲乾坤」で一か八かの大勝負に出て、賭けのサイを振るというような意味で使われます。すべてを運に任せて、思い切って事を起こすことです。
「一擲乾坤」の出典は、唐の韓愈(かんゆ)の『鴻溝(こうこう)を過ぐ』の詩です。
『誰か君王に勧めて、馬首を回(めぐ)らし、眞に一擲を成して乾坤を賭(と)せん。(誰が君主に勧めて馬をひき返させ、あと一回の大勝負に天地を賭したのだろうか)』。
 楚の項羽と漢の劉邦が秦滅亡後天下を分けての戦いの最後半、鴻溝という河を境に天下を二分して、兵を引き上げようと約束しました。互いに故郷へ向けて帰るその時、いま討たないと後顧(こうこ)に憂いを残します、という家臣の進言で、劉邦は引き返して項羽を攻めました。そうして天下は劉邦のものになり漢王朝が成立しました。

 【 一擲乾坤 】 いってきけんこん|今日の四字熟語・故事成語|福島みんなのNEWS
 
東京都八王子にも犬目町があります

 文化・文政期(1804年から1829年)の地誌、新編武蔵風土記稿に犬目村の記載がある古い地名です。
郷土史家の奥村春夫氏によると、公園の周囲の「犬目」という地名は、「井の目」、つまり水がわき出す筋目(地面が割れて筋となったところ)という意味があるようです。
八王子市さんぽ「犬目丘陵ハイキング・熊野神社から甲神社」 | mixiユーザー(id:7184021)の日記


  甲州街道の「犬目」の由来は不明です。

この峠から房総の海が見える。犬の目だと、さらに房総の海がはっきりと見えるので「犬目峠」かと思いましたが、違います。
犬は嗅覚と同じように、高い視力を持っているとおもいましたが、犬は近視と言われています。その理由は、水晶体の厚さが人間の約4mmなのに対して犬は約8mmと2倍厚く、近くのものにはピントを合わせやすいものの、遠くにあるものにはピントを合わせづらいからです。人間の平均的な視力を1.0とした場合、犬の視力はだいたい0.3くらいだろうと言われています。
(「犬は目が悪い」は本当?犬の動体視力や目に関する疑問を解説 [犬] All About)


 
  歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年 

大山は、神奈川県北西部に広がる丹沢山地の東部にある標高1252mの山です。江戸時代の中ごろから、大山御師の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行い、各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれて、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなりました。

この大山の二十丁目富士見台に、次のような説明板があります。
「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

上記の浮世絵は歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」です。しかし、この「相模大山 来迎谷」の景色は、富士見台だけではなく大山のどこからも見ることはできません。また、来迎谷の地名は江戸時代の山内図にはあるが、現在の地図などには記載されておらず、その位置が不明です。

そこで「来迎谷」探索を行い、「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの画面右側の鳥居の景観と丹沢山地の崖状の山並みを合成して描いたと推論しました。
歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す

「広重は不二三十六景 甲斐犬目」でも、複数の景色を合成して、実際には見ることができない景色を描いています」と紹介するために、「不二三十六景 甲斐犬目」を手がけたら大変な作業になってしまいました。



>歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年 

   歌川広重「不二三十六景 相模大山 来迎谷」嘉永5(1852)年
   「不二三十六景 相模大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用



大山の二十丁目富士見台からの富士山

   大山の二十丁目富士見台からの富士山 2018.1.27 10:56







甲州日記の

広重の「甲州日記」は風景の描写より、宿の状況、食い物の描写が多く、また、面白いので抜粋して掲示します。

「三日・・・のた尻の駅にて泊る。ここにて江戸者三人に別れる。小松屋といえるにとまる。広いばかりにてきたなき事おびただし。
     へのやうな茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなき野田尻の宿  」

しかし「へのような茶」とは、どんな茶でしょう。野田尻の「尻」に「屁」を掛けたのでしょうか。また、四日目の宿、若松屋の汚さの表現がすごい。罵倒文の見本になりそうな文です。

[此所を出て、黒野田宿、扇屋へ行く、断る故、若松屋といえるに泊、此家古今きたなし、前の小松屋に倍して、むさいこといわん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地蟲座敷をはひて、疊あれども、ほこり埋み、蜘の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一ッ、湯呑形の茶碗のみ、家に過ぎたり、」

さらに、三日、四日の旅先の食い物の記述が詳細を極める。よくぞ食ったね、よくぞ書いたねと思う。グルメ観光案内記のようです。

「三日
小仏峠にて休。ここにて信州いなべ郡の者 を供につれて、峠の茶屋に休。中喰一ぜんめし。平、きざみこんぶ、あぶらげにふきなり。甚だまずし。・・・
小原の宿より、よせの宿、入口茶屋に休。あゆのすしをのぞむ。三人手つだいて、出来上り出す。甚高直(タカネ)、其代りまずし。・・・
其先の茶屋にて大まんじゅう、塩あんを喰い、関野の宿を越て境川に至る。・・・
ここに茶屋三軒あり。上の方よろし。中の茶屋に休。少々くうふくにあり、四人食事する。あゆの煮付、さくら飯、又うどん一ぜん喰、酒一杯のむ。壱合廿四文なり。・・・
其夜の膳献立、皿(【塩あじ半切】)、汁(菜)、平(【氷とうふいも菜】)、飯・・

「四日
この茶屋、当三月一日見世ひらきしよし。女夫共江戸新橋者、仕立屋職人なりとのはなし。居候一人これも江戸者なり。だんご、にしめ、桂川白酒、ふじのあま酒、すみざけ、みりんなどうる。(食べてはいない)・・・
さる橋向う茶屋にて中喰。やまめ焼びたし、菜びたしなり・・・
初狩宿はずれに茶屋あり。団子四本喰う。・・・
粉麦の焼餅をちそうになる。・・・・
黒野田泊。料理献立。皿(【めざし四ッ、いわし】)、汁、平(【わらび、牛蒡、とうふ、いも】)、飯。皿(【牛蒡ささがき生ゆかけ】)、汁、平(【とうふ、赤はら干物】)、飯。・・・」

宿、食い物の記述に比べ、犬目峠、富士山、座頭転がしの記述は簡潔そのもので、どのような形状か、感激したところはどこかの記載はないのが残念です。

「四日 晴天。野田尻を立て犬目にかかる。この坂道富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休む」

途中でわき道に入ってしまいましたが、武家出身、几帳面な浮世絵からくるイメージと異なり、広重は結構面白い人物のようです。ここは犬目峠ではないという結論は出ていませんが、広重は座頭ころがし峠を犬目峠と早合点しそうな人物と思っています。








「嶺」と「峠」について


 




「嶺」は、辞書では「峠」との関係が出てきませんが、「峠」のほうから「嶺」との関連が出てきます。


「嶺」
音読み:リョウ、レイ。訓読み:みね
意味:みね。山の一番高い所。山頂。連なったみね。山なみ。山脈。
 漢字辞典オンラインより引用


「峠」
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点。
「峠」という文字は室町時代に日本で会意で形成された国字(和製漢字)である
なお、中国語では、「嶺」(簡体字は岭)という字で峠の地形を表す事が多い。例えば、万里の長城のある「八達嶺」や、映画『あゝ野麦峠』の中国公開時の題名『啊!野麥岭』などがある。また、「山口」と表記する例もある。
 峠 - Wikipediaより引用

峠」という字は室山時代に作られた日本の国字で、本来の漢字は「峠」は「嶺」です
江戸中期の書〔同文通考・国字〕に「峠(トウゲ)」:嶺なり。嶺は高山の踰(こえ)て過ぐべきものなり」とあるので、嶺は峠と同じように使われていたようです。


「峠」と「嶺」に関する資料


「嶺」が「峠」である浮世絵として歌川広重の「東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺」がある。


東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺

東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺 保永堂版

由井 薩埵嶺 保永堂版東海道五十三次 (浮世絵) - Wikipediaより引用 

薩埵嶺の読み方は現在「さったれい」又は「さったみね」ですが、嶺を「とうげと」と読んでいた例もある。「狗目嶺」が実際にどのように読まれていたかは不明。


中山介山 「峠」という字

「峠」という字は日本の国字である。日本にも神代から独得の日本文字があったということだが、それは史的確証が無い、人文史上日本の文字は、支那から伝えられたものであって、普通それを漢字と云っているが、日本で創製した文字もある、片仮名や平仮名はそれであって、寧ろ国字といえば、この仮名文字こそ国字であるが、普通に国字といえば、仮名を称せずして、日本製の漢字をうのである。
 この日本製の漢字が、新たに造られたというのは天武天皇の十一年に(昭和十年より千二百四十三年以前)境部さかいべ連石積むらじいわつみに命じて新字一部四十四巻を造らしめられたというのが日本書紀に記されていることを典拠としなければならぬ。右の新国字の数と種とは、今正確に分類出来ないけれども、新井白石の同文通巻によれば「峠」の如きも、まさにその時代に造らしめられた国字の一つに相違ない。
 本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。
按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処、嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。
 これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く、えりとか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパスとかサミットとかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
 和語の「たうげ」は「たむけ」だという説がある、人が旅して、越し方と行く末の中道に立って、そうして、越し方をなつかしみ、行く末を祈る為に、手向たむけをする、祈願をする、回向えこうをする――といったような縹渺たる旅情である。

 中里介山 「峠」という字-青空文庫 より引用



「峠」に対応する漢字は「嶺」

【峠】
『運歩色葉集』・『異體字辨』・『漢字の研究』(我國にて制作したる漢字)に「タウゲ」、『合類節用集』に「タウゲ 字未詳或ハ倒下ト曰」、『同文通考』に「トウゲ 嶺也嶺ハ高山之踰テ而過ク可キ者也」、『和字正俗通』に「トウケ」また対応する漢字として「嶺」、『倭字攷』に「タウケ 嶺 ○和爾雅 和漢名数 音訓國字格(中略)从山从上下、皇國會意之字」とある。『和爾雅』には、「倭俗ノ制字」として「タウゲ 嶺ノ字ヲ用宜」とある。韓国の漢字規格にもあるが、『漢韓最新理想玉篇』は日本字とする。『中華字海』にもあるが典拠がなく、新しい文字か日本の国字を輸入したものか。国字であると考えられる
 日本語を読むための漢字辞典 和製漢字の小辞典 一画~四画より引用



「嶺」が「とうげ」と読まれていた例

顔振峠(かあぶりとうげ)とは、奥武蔵の東部、埼玉県飯能市と越生町にある峠である。
・・・『武蔵野話』(1815)には「越生領黒山村に嶺(とうげ)あり。北方より向うは高麗郡長沢村なり。この嶺をカアブリ嶺といふ。按ずるにこの嶺は秩父山の入口にて嶺のはじまりなり、終の嶺を足が窪嶺といふその頭に有ゆゑ冠嶺(かぶりとうげ)といふ。方言にてカアブリと唱る故に本字を失うとおもはる」と記されている。
 顔振峠 - Wikipediaより引用

八科峠 (京都市伏見区)  
江戸時代、1686年、儒医・黒川道祐は、峠を「矢嶋峠(やじま-とうげ)」と記している。豊臣秀吉が伏見城に居城した頃、矢嶋氏の館舎がこの峠付近に在り、称されるようになったという。(『雍州府志』)
 1721年、儒学者・貝原益軒は、峠を「矢島嶺(やじま-とうげ)」と記している。(『京城勝覧』)
 八科峠-京都風光(京都寺社案内)より引用

三国嶺(たふげ)を知る人は松を画しを笑わふべし。
北越雪譜:05 北越雪譜二編凡例 (新字旧仮名) 1841年(天保12年)山東京山(著)
 “嶺”のいろいろな読み方と例文|ふりがな文庫より引用


「峠」、「嶺」が山名であるが、「-toge」と読まれている。

山 峰 名 の 語 尾 語 と そ の 意 味 山 の 名 の 語 尾 語 の 主 な もの と し て,中野 理 學 士 は 前 掲 の 論 交 に 於 い て,山,嶽,岳,森,峰,嶺,丸,牟 禮,辻,岡 を 擧 げ られ た.筆 者 が 個 數 の 多 い もの か ら順 に 列 擧 す る と次 の 様 に な る.
山(-yama, -san, -zan),嶽,岳(-take, -dake),森(-mori),峯,峰,嶺,宇 根(-mine, -ne, -mune, -une),塚(-tuka53例 … … 以 下 例 の 文 字 を省く)岡,丘(-oka 52),仙,山(-Sen, -zen 37),臺,台,平(-dai,tai 29),富 士(-fuji 24),峠,嶺(-toge, toki 22),辻(-tuji 14),城(-zyo 12),丸(-maru 11),頭(-tUmu,-atam 11),鼻(-hana 8),壇,段(-dan 5),

朝鮮では 「嶺 」は峠 を意味 し,山 には この漢字 を用い ない

 鏡 味 完 二「日本の山峰の語尾名 とその地理學的意義」地 理 學 評 論 第25卷第1號昭 和27年 (1952) 1月-J-STAGEより引用
   
   
   

甲州街道と旧甲州街道の区別が難しい。Googleの地図では、ここに描かれている史跡の道は、すべて旧甲州街道である。江戸時代以降の道は、県道30号となっている。桂川の上にある国道20号線が甲州街道となっている。


  甲州街道は、古甲州道をもとにして、江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。

本来の甲州街道は現在の甲州街道(国道20号)と同一の部分もあるが、バイパスの完成などにより、並行する別の道となっている所がある。この場合、旧来の道を「旧甲州街道」、新しい道を「新甲州街道」や「新道」とも呼ぶ。

上野原市街地を抜けた甲州街道は、今では桂川の河岸段丘を急坂で下り左に折れ、鶴川から桂川沿いに進んでいる。かつての甲州街道は本町交差点の先にある国道20号・山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線の分岐点の左手にある脇道に入り、さらに右に曲がって鶴川を渡り急峻な山間部を通って鳥沢に至る、現在の山梨県道30号大月上野原線のルートに相当する。一部は中央道の工事に際し埋没してしまったが、急峻な地形が仇となって整備を免れたところも多く、現在も往時の面影を残すものも多い。
 

        おわり


2-4 現地の案内図、インターネットなどで「犬目峠」は何処にあるか


(1)現地案内板に「犬目峠」はない

甲州街道に設置されている「甲州街道史跡案内図 平成5年3月 上野原町教育委員会」です。街道の各区間にあり、これは犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図です。この案内図には「犬目峠」はありません。北斎と広重が描いた「犬目峠」で富士山を眺めようとおもって、この街道に来た人はこの地図を見て呆然とします。
宝勝寺境内に「北斎と広重はこの辺りで犬目峠からの富士山を描いた」という説明文があるのに街道筋には「犬目峠」に行く手掛かりがない。

「犬目峠」は史跡の定義から外れるためかと思ったが、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の「長峰の句碑」の記載があるので、それとも違うようである。
「史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。」

芭蕉の句碑があるのに、北斎、広重の画碑がないのはどうしてか。北斎はアメリカの雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした人物である。しかし、その評価は現在の評価であり、江戸時代には浮世絵の巨匠であっても、量産の観光用の風景画を作る作業グループの一人の絵師としか見られていなかったためか。富嶽三十六景の「犬目峠」の地名が200年ほどで消えるのが不思議です。

野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿の街道で、「犬目峠」は最高の名所と思いますので、現地の案内板に何らかの説明があるべきとおもった。
「北斎、広重が描いた犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿にあるといわれていますが、現在その場所が特定されていません」
このような説明があれば、私も納得して扇山登山に出発したのですが、もやもやとした気持ちを晴らすため甲州街道を進み、恋塚一里塚を越えたところにある富士山展望地まで歩きました。そのため扇山山頂到着は、11:40になり少し霞んだ富士山を眺めました。(扇山の山歩き

「座頭ころがし」は野田尻宿と犬目宿の間にあります。


甲州街道史跡案内図


甲州街道史跡案内図の拡大図

犬目宿の左側にある宝勝付近の案内図


インターネットで犬目峠の場所を探すと北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」の犬目峠の場所が示されるのが多く、(1)野田尻宿と犬目宿の間(2)犬目宿と下鳥沢宿の間が出てきます。しかし、そこを犬目峠とした根拠の記述はありません。



(2)野田尻宿と犬目宿の間に犬目峠


■日記によると、広重は犬目宿の手前で富士山を見ている。「のだ尻を立(っ)て、犬目峠にかかる。此坂道ふじを見て行(く)。座頭ころばしという道あり」とある。座頭ころばしは野田尻宿と犬目宿の間にある地名で、現代は矢坪坂と言っている。
 赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年


■甲州犬目峠 冨嶽三十六景 葛飾北斎
犬目峠は、甲州街道の犬目宿と野田尻宿の間に位置する峠で、桂川に沿ったこの場にまで来ると、西南の方向に雄大な富士山容を望むことができたという。
 「甲州犬目峠」(冨嶽三十六景) 葛飾北斎|東京伝統木版画工芸協同組合


■折り重なる山々の向こうに富士の姿
 山梨県上野原市。旧甲州街道の宿場町のひとつ。上野原宿から野田尻宿を経て西へ、犬目峠を越えると犬目宿に至る。郡内地域の宿の中で最も標高が高い。 
 江戸からこの道をたどった富士講信者たちの歓声が今にも聞こえてきそうなほど峠から望む富士山の姿は素晴らしい。折り重なる山々の向こうに富士をのぞむことができる。浮世絵師・葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」には、急坂を登る旅人と富士山が描かれ、甲斐の山々の険しさを強調した名作として知られる。
 折り重なる山々の向こうに富士の姿 ; 富士山NET|ふじさんネット|富士山情報 まるごとおまかせ(山梨日々新聞社)


■甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)犬目峠は甲州街道の野田尻宿と犬目宿の間にあり、『甲州叢記』によると房総の海まで見えるほど極めて高いところにあったといいます。

*『甲州叢記』に「犬目峠」が記載されていることを知る。『甲州叢記』で「峡中紀行に犬目峠の記載があることを知る。
 しかし、二資料とも、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間ではなく、犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載。(筆者注)
 葛飾北斎 冨嶽三十六景 著者: クールジャパン研究部


■この北斎ミニギャラリーでは、現在開設準備中の「すみだ 北斎美術館」に収蔵する「冨嶽三十六景」シリーズの作品をご紹介しています。「冨嶽三十六景 甲州犬目峠」
犬目峠は現在の山梨県上野原市内に位置し、旧甲州街道の宿場町である野田尻宿と犬目宿(どちらも上野原市内)の間にあたります。犬目峠は標高が高く、遮るものがないために富士山がよく見えますが、北斎がどこからこの絵を描いたのかは分かっていません。
 すみだ区報 |文化・スポーツ


(犬目宿付近)

●関東富士見百景 犬目地区内 遠見

犬目地区は、旧甲州街道の犬目宿として栄え、葛飾北斎の富士三十六景のひとつに甲州街道犬目峠が描かれています。犬目地区遠見(とうみ)は地名の通り、富士山を遠く四方を見渡すことができ、天気良ければ、左右に裾野を引いた雄大な富士山が年間を通じて望めます。南の方向には、丹沢連邦が見え、展望が良い場所です。




*北斎の「犬目峠」が犬目地区で描かれたとしか書いていませんが、犬目地区の遠見で描いたと誤解されます。遠見は、地元で北斎が「犬目峠」を描いた場所と言われているようです。(筆者注)




(2)犬目宿と下鳥沢宿の間に犬目峠


■富嶽三十六景 甲州犬目峠
甲州街道沿いの犬目峠(上野原市)の風景が描かれている。犬目峠は犬目宿(上野原市)と鳥沢宿(大月市)の中間に位置する峠で、『甲駿道中之記』に拠れば絶景の地であったと記されている。現在では周辺の道が廃れてしまっているため、正確な場所は不詳。1830-34年(天保元-5年)頃作。
*『甲駿道中之記』に「犬目峠」の記載があるこを知る。
 葛飾北斎と甲斐国 - Wikipedia


■葛飾北斎 富嶽三十六景 甲州犬目峠
甲州街道の野田尻(山梨県上野原市)から少し行くと犬目という宿がありました。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠を描いたといわれています
 
甲州犬目峠|葛飾北斎|富嶽三十六景|浮世絵のアダチ版画オンラインストア


■葛飾北斎 冨嶽三十六景:甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)
犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。
 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館


■現在の山梨県上野原市あたりには犬目宿という甲州街道の宿場街がありました。そこから次の下鳥沢宿へ向かう途中にあったのが犬目峠です。
 「富嶽三十六景」 葛飾北斎。 江戸歴史ライブラリー編集部.



■「犬目峠」の場所を、特定している甲州街道図が一枚あります。

山梨県のホームページ/ダウンロード/ウォーキングマップ表-7・8甲州街道往来図(上野原市域)(PDF:4,731KB)です。
編集・製作は山梨県埋蔵文化材センターで、印刷されたパンフレットもあるようです。



「犬目峠」を特定している甲州街道図



各名所に番号を当ててあります。

(25)矢坪坂の古戦場の後の(27)座頭ころばし;細く急な坂道があります。座頭ころばしの位置は江戸時代から現在まで、野田尻宿と犬目宿の間のこの矢坪坂の中にあります。

(31)犬目峠は(30)白馬不動尊と(32)恋塚一里塚の間にあります。県道30号の道の上に(31)犬目峠があるので、君恋温泉の辺りを示していると思います。犬目宿と下鳥沢宿の間の最高標高地点で、当サイトの犬目峠候補地②と同じ場所です。



「広重の甲州道中記 その①」に甲州日記からの引用が記載されていますが、原文と異なり、変化、簡略化された文になっています。その②、③、④では原文が引用されています。
下に示す原文をそのまま出すと、犬目峠が座頭ころがしのところになってしまうため、変化、簡略化した引用になったと邪推してしまいます。。
「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

それなら、「広重の甲州道中記」ではなく、吉田兼信の「甲駿道中之記」にして、以下の文を載せたほうが良いと思います。

「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」
君恋温泉付近を犬目峠にした貴重な甲州街道往来図ですので、差し出がましい意見を述べてしまいました。


「犬目峠」を特定している甲州街道図の拡大図


まとめ


1. 犬目峠はどこにある

犬目峠は現在の地図に記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。

現在、犬目地方の標高図と江戸時代に書かれた「旅日誌」、甲斐志料から、二つの場所が犬目峠の候補地としてあります。

野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の間で、登り下りのある坂道の一番高いところが犬目峠候補地になります。標高図を見ると地図に記載したニ箇所が犬目峠候補地になります。
犬目峠候補地①は、野田尻宿と犬目宿の間にある矢坪坂の頂。
犬目峠候補地②は犬目宿と下鳥沢宿の間にある君恋温泉付近。

    旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の地図
旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の標高図
   旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿   旧甲州街道 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の標高図 

犬目峠の記述がある史料検討

「峡中紀行」、「風流使者記」、「甲駿道中之記」、「甲斐叢記」の四史料が「犬目峠」は、候補地②の犬目宿と鳥沢宿の間にあると記載してます。そのうち、三つは犬目峠は犬目宿と恋塚の間にあると記載して、二つの史料は、候補地①の野田尻宿と犬目宿の間にあるのは、座頭転がしと座頭ころがし峠、箭壺坂一名座頭轉であるといっています。
「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。「犬目峠」が候補地①にあると記載しているのは、歌川広重の「甲州日記」のみです。

以上の検討から、「犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間の最も高いところの君恋温泉付近」」にあったと推察します。
44歳の広重は一人で座頭ころがしがある坂を登り、頂近くで現れた見事な富士山に感動し写生して、ここが北斎先生が描いた犬目峠かと早合点した可能性が高いと思います。


① 歌川広重の「甲州日記」、1841年(天保12年)
「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかかる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

②-1 荻生 徂徠の「峡中紀行」、「風流使者記」(1706年宝永7年),
「鶴川を渉りて山行し、鶴川の駅、垈尻の駅、八坪の駅、蛇城新田、狗目の駅を過ぐ。・・・・
狗目嶺を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村嬪がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。」

②-2 荻生 徂徠の「風流使者記」(1706年宝永7年),
漢文で詳細は不明ですが、「野田尻驛→狗目驛→狗目嶺→恋塚→鳥澤驛」を歩いたようで、狗目峠は狗目驛と恋塚の間にあります。「峡中紀行」と同じです。

②-3 吉田兼信の「甲駿道中之記」、文政13年(1820年)
「矢坪、犬目の驛過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より冨士嶺を望、絶景の地なり、峠を下りて鳥沢の驛なり、・・・・」

②-4 大森善庵・快庵の「甲斐叢記」(1851年 嘉永4年 )
「犬目驛-此の地は狗目嶺とて、一郡の内にて、極めて高き所なり。房総の海まで見え、坤位には富士山聳えて、霄漢を衝き、其眺望奇絶たる所なり。・・・・」


君恋温泉からは坤位(ヒツジサルノカタ )に富士山が聳えています。カシバード画像では、三ッ峠山から陣馬山までの予想を超える大展望に驚きました。君恋温泉から90㎞離れた房総の海も見えています。北斎も広重も眺めた犬目峠からの景色です。

  犬目峠があったと思われる君恋温泉からの富士山 君恋温泉からの房総の海
  犬目峠があったと思われる君恋温泉からの富士山 君恋温泉からの房総の海



2.歌川広重の「甲斐犬目峠」はどこで描かれたか

広重の「甲斐犬目峠」の作品は、次のように描かれたと推察します。




1841年甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際に、座頭ころばしのある道坂道を「犬目峠」と思い、そこからから富士山を写生。
1848年頃ころ、天童藩主織田氏の申し出を受けて肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」制作。

    「旅中 心おほへ」の「座頭転がしのある峠道からの富士山」


1841年(天保12年)「旅中 心おほへ」の「座頭転がしのある峠道からの富士山」
    肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」 

1848年(嘉永元年)頃ころ、
肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」





初めての富士山連作「不二三十六景」に犬目峠を描くためほぼ10年前の1841年に描いた甲州日記の写生から犬目峠と富士山の構図で一枚試作。
しかし、その図を横に反転して眺めると、葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」とほぼ同じであることに気が付く。この構図を不採用とする。(かってに推察)

  「不二三十六景」の犬目峠試作の横方向反転

 「不二三十六景」の犬目峠試作の横方向反転



葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

1831年(天保2年)頃から1833年(同4年)頃
葛飾北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

1859年、①感銘を受けた鳥沢の桂川渓流②甲州街道からの富士山③犬目峠、これら三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を制作。
しかし、桂川は犬目峠があったと思われる場所から見えず、実際には見ることはできない景色を描いています。

  三つの景色の合成

①感銘を受けた鳥沢の桂川渓流
②甲州街道からの富士山③犬目峠」を合成
      「富士三十六景 甲斐犬目峠」 

1859年(安政6年)「富士三十六景 甲斐犬目峠」



「不二三十六景 甲斐犬目峠」の構図が気に入り、7年後に縦長の構図にして、肉筆画 「猿橋冬景図」「犬目峠春景図」も参照して「富嶽三十六景 甲斐犬目峠」制作。

   歌川広重の「不二三十六景 甲斐犬目峠」

嘉永5年(1852)歌川広重の「不二三十六景 甲斐犬目峠」
   「富士三十六景 甲斐犬目峠」

1859年(安政6年)「富士三十六景 甲斐犬目峠」



写生をもとにして描く趣旨の「富士見百図」の要請に応じて、座頭ころばし付近からの実景の基づき「甲斐犬目峠」制作。 峠の向きは左側に変更。

   座頭ころばし付近からの実景の基づき制作

座頭ころばし付近からの実景の基づき制作中

      「富士見百図 甲斐犬目峠」

1859年(安政6年)・「富士見百図 甲斐犬目峠」
広重は1858年安政5年9月6日61歳で没


 「犬目峠春景図」と三枚の「甲斐犬目峠」の富士山下の山並みは、実際の山並みとほぼ同じように描いています。十数年前の旅の記憶だけで描いたとしたら驚きです。「旅中 心おほへ」の写生図のほかに詳細な「写生図」があったと思ってしまいます。