葛飾北斎の「富嶽三十六景 甲州三坂水面」の逆さ富士








 



3 「甲州三坂水面」の富士山、実像は男富士、虚像は女富士


3-1 「甲州三坂水面」の富士山は、男女の性別的な視点から描いています。

北斎は、時間的な多視点、空間的な多視点とともに、男女の性別的な視点からも「甲州三坂水面」富士山を描いています。


「甲州三坂水面」の実像の富士山は男富士  「甲州三坂水面」の虚像の富士山は女富士
「甲州三坂水面」の実像の富士山は男富士
 「甲州三坂水面」の虚像の富士山は女富士

「富士山は男か女か」という論争は、昔から現在に至るまで続いています。
これらの江戸時代の論争に応えて、男富士と女富士を描きました。


「富士山の守護神」、「富士山の祭神」、「富士山そのものがご神体」、「本地垂迹説により大日如来が登場」、「木花開耶姫命は浅間大菩薩である」などなど、論争の観点が多く結論は難しいようです。しかし、江戸時代の人々は、神として富士山をとらえ、時には男性として時には女性として富士山を眺めていたと思います。また「呉服屋を毎日のぞく咲耶姫」と江戸時代の川柳ににあるように、祭神も人格化して見ていたようです。


富士山は両性具有の稀有な山である、また、富士山そのものを、「ご神体」で中性の山でもあるという記述を、以下に引用します。


『富士山の守護神に眼を移すと、古代人より噴火を鎮護する浅間大神(あさまおおかみ)であるし、中世からは浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)であるが、これらは、基本的に男神(だんしん)とされる。その一方で祭神は、中世までは赫夜姫(かぐやひめ)、近世以後は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と、こちらは女神(じょしん)である。富士山は両性を兼備した、つまりは両性具有(ぐゆう)の稀有(けう)な山であり、その「高さ」はだけでなく、こういった性格も万人が好む根拠のひとつであろう。

明治の詩人・北村透谷は、両性具有のアンビヴレントな富士山の本質を見事にとらえて、「遠く望んで美人の如(ごと)く、近く眺めて男子の如きは、そも我(わが)文学史の證(あか)しするところの姿にあらずや」(「富嶽の詩神を思ふ」)と評した。』


『富士山が「三国第一山」、世界一の山である以上、宇宙の根本仏(こんぽんぶつ)である大日如来は、本地仏としてふさわしいものであった。
ところが、「地蔵菩薩霊験記」によると、浅間大菩薩は、金剛毘盧遮那仏(こんごうびるしゃなぶつ)〔密教でいう大日如来〕の本地仏であるから男体(なんたい)であるべきなのに、なぜ女体(にょたい)として現れているのかと不審感(ふしんかん)をいだく衆生(しゅじょう)が多かったそうである。
末代上人がその答えを得ようとして、100日間の断食修行をしたところ、ある夜の夢に、宝珠を持ち白雲に乗って青衣(しょうえ)天女が現れた。天女のお告げに導かれ富士山中の某所を掘ると、「富士山形」の水晶が見つかったのである。
この一件から、富士山そのものを、「ご神体」とする古来の思想が、確認された。そして、「富士山の祭神は男神でも女神でもなく、中性の富士山本体である」と見なすことによって、浅間大菩薩が男神か女神かという論争には、ひとつの終止符が打たれることとなった。』

               竹谷靭負「日本人は、なぜ富士山が好きか」祥伝社新書291 22p、p38 祥伝社 2012年参照







3-2 「富嶽三十六景」の男富士と女富士


同一画面で比較すると実像の男富士は内側に凹んだ形状になっており、虚像の女富士は外側に少し凸の部分もあります。
男富士は山体山頂とも荒々しく力強い。女富士は山体山頂とも丸くたおやかです。

「甲州三坂水面」の男富士と女富士
「甲州三坂水面」の男富士と女富士



「甲州三坂水面」の富士山の実像と虚像をコンパスを用いて、円弧で描くと図50Zのようになります。実像の男富士に比べ、の円弧の曲率半径は、虚像の女富士かなり大きくなってます。

「甲州三坂水面」の富士山の実像と虚像をコンパスを用いて、円弧で描く 「甲州三坂水面」の富士山の実像と虚像をコンパスを用いて、円弧で描く




富嶽三十六景を男富士、女富士で分類するのはとても難しい。中性の富士も加えて、当方なりの分類を行った。


(1)「富嶽三十六景」の男富士



■ 山下白雨

「甲州三坂水面」の男富士とほぼ同じ山体の形状で、多数の沢は荒々しく、山体から鋭角の突起が出てます。更に入道雲と雷鳴が聞こえるような雷が発生しています。男富士の代表です。


富嶽三十六景 山下白雨

富嶽三十六景 山下白雨

 富嶽三十六景山下白雨 - Wikipediaより引用  

■甲州伊沢暁

「甲州三坂水面」の男富士とほぼ同じ山体の形状で、山体は黒々として、左側のすそ野は異様な突起で描かれている。


富嶽三十六景 甲州伊沢暁


富嶽三十六景甲州伊沢暁 - Wikipediaより引用  

■甲州三嶌越

「甲州三坂水面」の男富士の横幅を85%に縮小するとほぼ同じ山体の形状になり、山体から鋭角の突起が出てます。山体から鋭角の突起が出ているのは、「山下白雨」と「甲州三嶌越」だけです。

富嶽三十六景 甲州三嶌越

富嶽三十六景 甲州三嶌越

富嶽三十六景甲州三嶌越 - Wikipediaより引用  




(2)「富嶽三十六景」の女富士




■甲州三嶌越

山頂部が丸く、山体はまろやかで、全体にたおやかな富士の姿です。心和ませる女富士です。
「甲州三坂水面」の男富士の横幅を85%に縮小するとほぼ同じ山体の形状になります。


富嶽三十六景 甲州犬目峠

富嶽三十六景 甲州犬目峠

富嶽三十六景 甲州犬目峠- Wikipediaより引用



■金谷ノ不二

山体の形状はまろやかで、「甲州三坂水面」の女富士の横幅を74%%に縮小するとほぼ同じ山体の形状になります。冠雪状態も似ています。


嶽三十六景 金谷ノ不二

富嶽三十六景 金谷ノ不二


富嶽三十六景 金谷ノ不二- Wikipedia
より引用




(3)「富嶽三十六景」の中性の富士

■江都駿河町三井見世略図 ■神奈川沖浪裏 ■東海道江尻田子の浦略図 ■相州日七里濱

これらは雪化粧した美人の富士山で女富士、円形の曲線が形成する内側に反った秀麗な男富士、両者合わせてて中性の富士


富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図


富嶽三十六景 神奈川沖浪裏



富嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図 富嶽三十六景 相州日七里濱

富嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図


富嶽三十六景 相州日七里濱


上図は富嶽三十六景- Wikipediaより引用  

■凱風快晴

凱風快晴の富士山の性別判定は難しい。
夏の岩肌の険しい沢の残雪は男富士、山頂下の左側の膨らみがたおやか山体を形成して女富士、両者合わせてて中性の富士



富嶽三十六景 凱風快晴 凱風快晴の男富士と女富士の部分 神奈川沖浪裏

富嶽三十六景 凱風快晴


凱風快晴の男富士と女富士の部分 神奈川沖浪裏

  冨嶽三十六景 凱風快晴 | 葛飾北斎 | 作品詳細 | 東京富士美術館 




「凱風快晴」の山頂下の左側の膨らみ



山頂下の左側の膨らみが凱風快晴の富士山山体の最大の特徴です。この膨らみのため秀麗な富士と言い難く、何故膨らませたのかという疑問のため、ずーと眺めていても飽きない富士山になっています。江戸期までの伝統的な秀麗な富士山では画狂老人の前北斎為一は満足しなかったと思っています。


北斎以前の画家の富士山にこの膨らみのある山体はありません。

富士山同士を重ね合わせてその山体の違いを調べます。富士山の横幅を調整して富士山山頂部の横幅と山体部の傾斜を合わせています。


円山応挙の「富士図」

 円山応挙は江戸時代中期~後期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色。すそ野がきれいに伸びた秀麗な富士山で、山腹に膨らみはありません。



山応挙 富士図 1792年(寛政4年)
円山応挙 富士図 1792年(寛政4年)

凱風快晴と富士図の重ね合わせ

  「美JAPAN 富士山」 発行:四季出版 発売:東洋書院 2005年 より引用


宋 紫石 「富嶽図」

宋紫石は江戸時代中期の画家。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。「富嶽図」は伊豆国田子浦からの富士山を描いた。
宋 紫石「富嶽図」は変形無しで「凱風快晴」の富士山の形状ととほぼ一致します。「凱風快晴」の元絵と言われてもおかしくない作品です。しかし、山頂下の左側の膨らみがあるため「富嶽図」と異なる富士山になっています。



宋 紫石 富嶽図 1776年(安永5年)
宋 紫石 富嶽図 1776年(安永5年)

凱風快晴と富嶽図の重ね合わせ

全体の大きさ調整のみで図の変形無し。

  「美JAPAN 富士山」 発行:四季出版 発売:東洋書院 2005年 より引用


北斎「甲州三坂水面」の男富士

「甲州三坂水面」の男富士は内側に反り、凱風快晴の富士は外側に膨れます

北斎「甲州三坂水面」の男富士 凱風快晴と「甲州三坂水面」の男富士の重ね合わせ
北斎「甲州三坂水面」の男富士

凱風快晴と「甲州三坂水面」の男富士の重ね合わせ





北斎「東海道江尻田子の浦略啚」
北斎以前の伝統的な秀麗な「東海道江尻田子の浦略啚」の富士山との比較。山頂下の左側の膨らみが異なります。


北斎「相州梅澤左」 凱風快晴と「相州梅澤左」の重ね合わせ
北斎「東海道江尻田子の浦略啚」

「凱風快晴」と「東海道江尻田子の浦略啚」の重ね合わせ






北斎「相州梅澤左」

山体の左側が膨らむ富士山はもう一枚「相州梅澤左」があります。「相州梅澤左」では山頂下よりさらに下側の山腹の左側に膨らみがあります。


そのため、「凱風快晴」の富士山とかなり異なるっ富士山になっています。ずんぐりむっくりの男富士か、とてもまろやかな女富士か見る人により違ってきそうです。


北斎「相州梅澤左」 凱風快晴と「相州梅澤左」の重ね合わせ
北斎「相州梅澤左」

凱風快晴と「相州梅澤左」の重ね合わせ








蛇足の補足




1 「甲州三坂水面」の男富士と女富士の山頂


実像の男富士に近い絵画作品

北斎以前には三峰構造が多いが、三峰構造で尖っ峰の三峰構造は無い。尖った峰を持つ山頂部は、宋紫石や司馬江漢の写実的な作品になるが、平坦な峰構造となる。


聖徳太子絵伝絵巻
<font size="+0">宋 紫石 富嶽図</font>
司馬江漢 駿州薩陀山富士遠望図
 作者不明 聖徳太子絵伝絵巻
1321(元亨元)年
宋 紫石 富嶽図
1776(安永5)年
司馬江漢 駿州薩陀山富士遠望図
1804(文化元)年

虚像の女富士に近い絵画作品

一峰の山頂部は無く、三峰以上です。三峰だと、峰自体はおのおの丸い峰です。狩野山雪の「富士三保松原屏風」では、峰と峰が接近して境界線を除くと、一峰の丸い峰になりそうです。

作者不明 山王霊験記 室町時代
遊行上人縁起え第八巻 室町時代
狩野山雪 富士三保松原屏風
 作者不明 山王霊験記 室町時代
遊行上人縁起え第八巻 室町時代
狩野山雪 富士三保松原屏風 
17世紀前半(江戸時代初期)

  「美JAPAN 富士山」 発行:四季出版 発売:東洋書院 2005年 より引用





2 「甲州三坂水面」の冨士山頂部と各方位からの富士山頂部」



「甲州三坂水面」の冨士山頂部と各方位からの富士山頂部」





3 女富士、男富士、中性の富士山




女富士 甲州犬目峠 木花開耶姫命

江戸からの長旅の富士講の旅人を木花咲耶姫が温かく迎えます。



女富士 甲州犬目峠 木花開耶姫命





木花開耶姫命

大山津見神の娘で石長比売の妹。天照大御神の孫である邇邇芸命との間に火照命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦)を生んだ。

富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。
【みんなの知識 ちょっと便利帳】葛飾北斎 富岳百景《初編序後半/木花開耶姫命》より引用



男富士 山下白雨 役優婆塞

富士山とは厳しい人生の修業の場であると役優婆塞入っています。



男富士 山下白雨 役優婆塞


役優婆塞

役 小角(えん の おづの  舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれている。姓は君。 日本独自に発祥・発展した山岳信仰である修験道の開祖。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている


*北斎は、男神とされる浅間大神、浅間大菩薩を描いていないので役優婆塞が登場。
 






中性の富士山 凱風快晴 木花開耶姫命 役優婆塞





中性の富士山 凱風快晴 木花開耶姫命 役優婆塞



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