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3 「富士見三景」の御坂峠はどこにある 3.1 太宰治「富嶽百景」では、「富士三景の御坂峠」は「東の御坂峠」 太宰治は小説「富嶽百景」で、滞在している天下茶屋がある「東の御坂峠」に関して、三件の歴史的事項を書いてます。 ①この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて ②ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つ ③むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つた
しかし、この三件は「西の御坂峠」にある「御坂峠」のことです。 ①鎌倉往還とは、鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた街道で、御坂峠を越えていく御坂路のことです。「東の御坂峠」が出てきたのは、御坂隧道が竣工した1931年(昭和6年)以降ですから、鎌倉時代にあった御坂峠は「西の御坂峠」です。 ③能因法師(988-1058年)は平安時代中期の歌人で、小倉百人一首の「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」の作者です。平安時代に御坂峠に来たならば、そこは「西の御坂峠」です。 ②の富士三景は、WEBのGoogleで検索すると太宰治の「富嶽百景」のためか、天下茶屋がある「東の御坂峠」が出てきます。 「富士見三景」で検索すると、「西の御坂峠」と「東の御坂峠」が半分ずつ出てきます。そこで、「甲州富士見三景」で検索して、(More)-(Books)で表示すると、大正時代の文献が出てきます。これにより、富士三景の「御坂峠」は「西の御坂峠」であることがわかります。 3・2 「富士見三景の御坂峠」は「西の御坂峠」 「東の御坂峠」ができる1931年(昭和6年)以前に出版され、「御坂峠」の写真がある「富士見三景 御坂峠」の文献を二件示します。 (1)「富士山麓と御嶽 山梨県編集 大正十三年(1924年)発行」 山梨県が出版した観光案内書のようです。観光の順路説明があり、「籠坂より吉田」-「大月駅より下吉田」-「大月駅から下吉田」-「吉田より精進」と続き、 「吉田より精進」の中の船津のところで、河口湖-鵜の島-胎内-嘨山-鐘懸の松-丸山-御坂峠となります。 「御坂峠」の解説文の前に、「御坂峠より見たる河口湖と富士」の写真があります。この河口湖と富士山は、御坂黒岳と御坂山の鞍部にある「西の御坂峠」周辺から写したものです。(「御坂峠からの富士山展望図」は後で詳述)。図16で示した「東の御坂峠」の天下茶屋周辺からの河口湖と富士山ではありません。 解説文は、簡潔ではありますが4行の中に太宰治「富嶽百景」に出てくる①鎌倉往還(鎌倉街道)②富士三景(富士見三景)③能因法師が入ってます。 この三点が大正十三年頃の御坂峠の観光要素のようです。
この本で富士北面の観光地として、三ツ峠、十二ヶ嶽、パノラマ台、足羽山(足和田山)は出てきますが、現在富士展望で有名な新道峠、御坂黒岳は出てきません。新道峠はまだなかったのか、利用する人が少なかったのかは不明です。
(2)「富士の地理と地質 石原初太郎著 古今書院 昭和三年(1928年)発行」 この本は、浅間神社社務所が富士山に関する古典的な研究を編纂した「富士の研究」(古今書院から昭和3~4年刊行)の一冊です。 「1 富士の歴史」「2 浅間神社の歴史」「3 富士の信仰」「4 富士の文学」「5 富士の地理と地質」「6 富士の動物」。 富士山の研究書であるから、その内容は学問的根拠をもってに記載されている。「御坂峠」は「第五章 富士山の形態」-「第四節 八面相」-「北面の富士」に出てきます。 その中で、研究目的を次のように述べている。そのため、写真付きの御坂峠の解説があります。 「富士山の頂上は、凸凹があり「八葉の蓮華」などと呼ばれている。また八面玲瓏などと、いずれの方向から見ても同一のように形容されるが、これは粗雑な観察のためである。これを詳細に研究するには八面からの写真が必要である。」 御坂峠からの富士山と河口湖の写真は、(1)「富士山麓と御嶽」とほど同様で、「西の御坂峠」周辺からのものです。 御坂峠の解説文
ここでも①鎌倉往還②富士三景(富士見三景)③能因法師が記載されており、学問書のためか、④物徂徠の漢詩まであります。 物徂徠は、荻生徂徠のことで、江戸時代中期前期の儒学者・思想家・文献学者です。 将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。 『峡中紀行』に、「犬目峠は犬目宿と下鳥沢の間」にあるとの記載があり、「歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある」で最も重要な書物です。 「漢詩に、美人微笑立雲端」とせっかく美人が出てきたのに、その意味は分かりません。 しかし、儒学者は自分の小説に合わないと思ったのか、太宰治の「富嶽百景」には出てきません。 この石原初太郎の四女が太宰治と結婚しています。石原初太郎は太宰治の岳父です。その太宰治が「富嶽百景」を書いています。
これらの大正十三年、昭和三年発行の書物の「御坂峠」解説文と写真により、富士見三景の御坂峠は御坂黒岳と御坂山の鞍部にある「西の御坂峠」であることがわかりました。 3.3 「西の御坂峠」からの富士山 現在、甲州富士三景の「西の御坂峠」からは、富士山は見えません。「御坂峠」表示板の後ろが河口湖方面からの登山道で、右横に現在使われていない御坂茶屋の端部が見えています。 「平成富嶽百景」東京新聞出版局2006年刊、「富士山の見える山ベストコ-ス45」2011年刊 の「西の御坂峠」の写真では、河口湖は樹木で隠れて見えませんがその上の富士山はほとんど見えています。 この頃は、御坂茶屋が営業しており、樹木の伐採を行っていたためかもしれません。それでも登山道そばの樹木が少し伸びると河口湖は見えなくなるので大正時代に河口湖が峠頂上から見えていたかは不明です。 ![]() 図39-1 「西の御坂峠」頂上からの展望 (2015年5月17日撮影。富士山は見えません。) ![]() 図39-2 「西の御坂峠」頂上からの展望 「平成富嶽百景」東京新聞出版局2006年刊より引用 ![]() 図39-3 「西の御坂峠」頂上からの展望 「富士山の見える山ベストコ-ス45」2011年刊より引用 カシバードで作成した「御坂峠」からの富士山と河口湖を図40に示します。 ![]() 図40 カシバードで作成した「御坂峠」からの展望 3.2で掲示した大正十三年、昭和三年の「西の御坂峠」からの写真二枚は、峠に到着する手前の登山道から写した写真と思います。 図41に示すように峠頂上手前のカシバード画像は、河口湖の見え方がほぼ同じです。 ![]() 図41 カシバードで作成した河口湖から「御坂峠」へ行く登山道からの展望 ここからの展望も、現在は樹木により妨げられています。 図42の写真は、私が2014.12.27に登山した時の、御坂峠頂上手前15分ほどのところからの富士山です。手前の樹木がなければ、大正十三年、昭和三年の「西の御坂峠」からの写真と同じです。大正、昭和初期には画面手前にある峠道の樹木はすべて伐採されていたと思います。 このような状況ですので、現在、「富士見三景」と言われた「御坂峠」からの富士山は、樹木の奥にしか、見ることはできないようです。 ![]() 図42 「西の御坂峠」頂上手前15分ほどのところからの展望 (2014年12月27日撮影。富士山と河口湖が見えています。) 明治天皇崩御の一ヶ月前の明治45(1912)年6月に発行された「富嶽百景」に、「御坂峠」の写真がありました。前の二枚とほぼ同じ構図になっています、 明治45年に英語付きの写真集「富士山百景」が販売されていたとは驚きます。19世紀後半にヨーロッパで流行したジャポニズムの影響でしょうか。北斎の「富嶽三十六景」で富士山は世界的にかなり有名になっていたと思います。 「峠」は「passではなく「peak」になってます。「peak」」は、現在の英和辞典では(とがった)山頂、峰、(山頂のとがった)山、孤峰、(屋根・塔などの)とがった先、尖端(せんたん)、(ひげなどの)先、先端、絶頂、最高点 「province」は、現在の英和辞典では「(カナダ・オーストリア・スペインなどの)州、省、地方、いなか、(学問・活動の)範囲、領域、分野、職分、本分、管区」です。 富士見三景の「花水坂」、「西行坂」は載っていません。 岡田紅陽の「富士百影作品集」に「御坂峠から見たる富士(海抜一五二五米)」があります。 岡田紅陽は富士山撮影で著名で、旧5千円札と新千円札の裏に描かれている逆さ富士のデザインは、彼が1935(昭和10)年に本栖湖畔から撮影した作品「湖畔の春」を参考にしたといわれています。 解説に「自動車のドライブを欲しいままにしつつ、この景勝の鑑賞を満喫し得るようになった。」とあります。そうすると、御坂トンネルから出たところからの写真かと思いましたが、河口湖の形が違います。やはり、岡田紅陽の写真は峠手前の登山道から写したと思います。 ![]() ![]() 図44 岡田紅陽の富士百影作品集「御坂峠から見たる富士(海抜一五二五米)」 岡田紅陽の富士百影作品集 第4輯 審美書院 昭和7年10月発行-国立国会図書館デジタルコレクションより引用 その他の岡田紅陽の富士百影作品集は検索結果 岡田紅陽の富士百影作品集- 国立国会図書館デジタルコレクション 現在、この辺りに富士山展望台ができており樹木のためか、河口湖が少し見えるぐらいです。 「新御坂峠からの富士 |富士山NET|山梨日日新聞社」のサイトにおいて、「新富嶽百景」の「新御坂峠」と呼ばれています。 ![]() 図45 カシバードで作成した西の御坂峠付近にある新御坂トンネルから出たところからの展望 ![]() 図46 御坂トンネルから出たところにある展望台からの富士山(googleストリートビューで作成) 3.4 いつ頃から御坂峠は富士見三景と呼ばれたか 富士見三景の位置と富士山を示します。 ![]() 図47 富士見三景の位置 ![]() 図48 富士見三景 西行峠からの富士山
![]() 図49 冨士見三景 花水坂からの富士
今回の富士見三景に関する書籍の調査結果を表7に示す。この表7の古いほうから説明を行います。 表7 富士見三景に関する書籍
(1)今回の調査で、御坂峠が出てくる最も古い書籍は1814年(文化1年)の「甲斐国志」です。 甲斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。甲斐国(山梨県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。 山川部のところで、御坂嶺として説明されていますが、名所に関する説明はありません。 古蹟部のところで、坂道の御坂が出てきます。御坂嶺は出てきませんが、おなじばしょをしめしています。そこで河口湖と富士山が出てきて、能因法師の歌も出てきます。しかし、富士見三景に関する記載はありません。 (2)今回の調査で「三富士」が出てくる最も古い書籍は1881年(明治24年)の「甲斐叢記」です。 「甲斐叢記」は、甲斐一国の地誌で、「甲斐名所図会」ともいいいます。内容は、甲斐を九筋の道路にわけて、道路毎に山川・村落・神祠・仏閣・名所・古跡についてまとめたもので、本書は10巻から成り、前輯5冊は嘉永4年(1851)に刊行されたが、著者の大森善庵・快庵が続けて没したため、後輯5冊は明治24年(1891)から同26年にかけて刊行されました。死亡時にすべての原稿ができていたかは不明です。 西行坂、御坂峠は前輯5冊(1851年)に記載されていますが、「富士三景」の記載はありません。花水坂は後輯5冊(1883年)に記載され、「御阪・花水・西行とを三富士とて稱譽せり」とあります。そのため、1851年から1883年の間に「富士三景」の呼称がでてきたようです。 甲斐の名所をまとめた書物なので、「甲斐の富士三景」のようですが、「日本の富士三景」とも読み取れます。 御坂峠の説明では、日本武尊が此の坂道を越えたので「御坂」と呼ばれたと書いてます。能因法師など数名の和歌が記載されてます。 「西行坂」は2ページにわたって、挿絵をつけて記述してます。 「御坂峠」は景徳天皇の時代日本武尊がこの坂を越えたので御坂と呼ばれたと書いています。峠からは「富士の山・・・・其影湖水の面に浮かびて、白雪青漣に涵せり。・・・往昔より御坂の富士とて世に稱譽し来つるも宜なりけり。」と称賛しています。 「御坂峠」のところに挿絵はありませんが、次の次の「河口湖」のところに、「御坂嶺 河口湖 両景」の題目で挿絵があります。この挿絵については後で詳しく述べます。 「花水坂」に「凡本州にて岳を望視るに所在も美とすれとも殊て御坂・花水・西行とを三富士とて稱譽せり」とあります。 「本州」に「コノクニ」が付いており、甲斐のことか、日本国のことか不明ですが、、甲州だけの三富士ではなく、日本の富士三景ようでもあります。この文が江戸時代に書かれたか、明治に書かれたかは調査不足で不明です。 (3)「甲斐叢記」の後、明治から大正まで、「御阪峠・花水坂・西行坂」を「富士見三景」として各書物が紹介しています。 明治27年の「日本名勝地誌」、明治36年の「中央線鉄道案内」、明治39年の「日本山嶽志」など、山梨県のみでない全国版の書物が、「富士見三景」の前に「甲州」や「甲斐」がつかない、「日本」の「富士見三景」としています。 明治43年の「新撰名勝地誌:東海道西部. 巻」の著者が田山花袋になってます。田山花袋は「蒲団」「田舎教師」等で有名な小説家ですが、紀行文集「日本一周」も書いているので、地誌の編集なども行っていたかもしれません。 ①明治36年の「中央線鉄道案内」の表紙は国の偉い人たちの題字や序が記されており、一般庶民に案内してあげますという本です。 中央線の各駅に関する名所案内をしています。「御坂嶺」は「甲府駅」で出てきます。「甲斐叢記」でも、「御坂峠」は「御坂嶺」でしたが、ここでも「御坂嶺」です。読み方は「御坂嶺(みさかたふげ)」です。 短いですが、富士山を見るため御坂嶺に行きたくなるような文章が載っています。 「嶺上ヨリ南ヲ望メバ富士山巍峨トシテ天際に突出シ河口湖其下ニアリテ山上ノ白雪影ヲ碧水ニ寫シ絶景云フベカラズ」 ②明治39年の「日本山嶽志」は日本初の山岳事典で、明治時代の最大の山案内書です。この本の著者は日本山岳会を起こして二代目会長になった高頭式(しょく、仁兵衛)です。 目次の「御坂山塊」「丹沢山地」にある山の名前は現在とかなり異なります。「御坂嶺」紹介のページに、御坂峠からの河口湖と富士山の写真があります。今回の調査で見つけた最も古い御坂峠からの富士山の写真です。御坂峠頂上手前のところから写した写真と思います。 「御坂嶺」の登山情報は、よく読み取れませんが、東の方の八丁山の情報が多く、西の現在の黒岳に関する記述がありません。明治のころ、黒岳は登山の山としては、知られていなかったようです。 この本の「御坂山塊」にある「三嶺山」は、現在の富士山展望の山で有名な「三ツ峠山」と思いますが、説明文に富士山の名前は出てきません。 ③北海道の紀行文で著名な大月桂月が大正7年に「富士見三景めぐり」を書いています。その中で、「愚かや、甲州人士には斯くばかり一般に知れ渡りたる富士見三景を、余は十数年もかかりて空しく書籍の上に捜したりし也。」とかいてあります。この時代、案内書などでは「富士見三景」はあまり紹介されていなかったようです。 また、大町桂月全集 別巻では「甲州にては、西行坂、御坂峠、花水坂を富士見三景と稱す。」と書き、甲州の冨士見三景にしています (4)静岡県駿東郡役所 が(大正6年) に発行した「静岡県駿東郡志」では、何故か「御坂峠、乙女峠、西行坂」が「富士見三景」になっています。 「富士眺望の名所・・・一 富士見三景 古人三坂(御坂峠)乙女峠、西行坂を以て富士見三景となす、・・・」と書いてますが、他の書物で乙女峠を入れた「富士見三景」はありません。 富士山に関しては、山梨県と対抗する静岡県ですから、「富士見三景」がすべて山梨県にあるのは理不尽であるとして、花水坂を除き、静岡県御殿場市と神奈川県足柄下郡箱根町の境に位置する乙女峠を入れたのかもしれません。 現在、乙女峠は、日本富士山協会のHPで『箱根外輪山の峠「乙女峠」は古くから富士見三峠の一つに数えられる好景勝地』と紹介されています。 他の二峠は「御坂峠」と「薩た峠」です。古くからと書いているので、調べましたが、2015年以前の書物、Webサイトには「富士見三峠」は出てきません。そのため、「富士見三峠」の御坂峠は、「東の御坂峠」のようです。また、「富士見三峠」はそれほど有名になっていないようです。 乙女峠は上記した「」富士百景」のにも載り、富士見の峠とは明治のころから有名のようです。 ![]() 図43 「富士百景」の「箱根乙女峠より見たる富士」 「富嶽百景」今尾掬翠 撮影- 実業之日本社 明45.6発行-国立国会図書館デジタルコレクション29/131より引用 ![]() ![]() ![]() 図44 大正6年発行の「静岡県駿東郡志」 静岡県駿東郡誌 静岡県駿東郡役所編集 大正6年発行 より引用 (5)1924年(大正14年)「富士山の自然界」で、 山梨県嘱託の石原初太郎が「甲州富士見三景」として、日本ではなく山梨県の三景にしています。この時期には、静岡県や神奈川県にも著名な富士山展望地がでてきて、「御阪峠・花水坂・西行坂」を日本の冨士見三景にはできない状況になったと推察します。 その後は「富士見三景」と「甲州富士見三景 」が半々出てきます。 なお、太宰治は次に示す「富嶽百景」の冒頭で、岳父の石原初太郎の「富士山の自然界」の文章を用いています。しかし、「富嶽百景」では「甲州」と「見」を除き「富士三景」にしています。 「この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。」 太宰治の「富嶽百景」については『太宰治「富嶽百景」の富士山』で検討します。 (6)昭和36年の「日蓮・その生涯と足跡」で、小川雪夫は次の様に「富士見三名所」と書いてます。 [西行坂は、東八代の御坂峠、北巨摩の花水峠と共と富士見 三名所の一つで、松のところからは富士の上半身が山波の上にみえるのであった。」 やはり、「富士見」の後に来る語句は「三景」はおかしく、場所に関する語句が来るべきと考えていた人は多いと思います。 「富士見」が有名な「三名所」→「富士見」の「三名所」→「富士見三名所」で問題がない。 「富士見三景」は語呂が良く、言わんとするところはわかるので、「富士見三景」が定着したようですが、その意味を正確に説明できないところが有ります。 (7)昭和後半から現在まで。「富士見三景」はあまり使われてないようです。 Web検索でも、御坂峠、西行坂、花水坂の各々のサイトでここは「富士見三景」の一つですという説明がありますが、「富士見三景」を説明しているサイトがありません。「ウィキペディア」にもありません。これは次の二点のためと思われます。 ①現在、有名な富士山展望地が各地にできて、御坂峠、西行坂、花水坂を「富士見三景」とする状況ではない ②本来の御坂峠である「西の御坂峠」では現在富士山が見えない。天下茶屋がある「東の御坂峠」を「御坂峠」にすると、調べるとすぐわかってしまう。 現在、天下茶屋のある「東の御坂峠」を「富士見三景」の「御坂峠」としている観光案内は少しありますが、将来的にはなくなると思います。 太宰治の「富嶽百景」の効力も消えていくと思います。
御坂峠はどこにある 完
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