歌川広重の風景画の元絵









1 歌川広重の風景画、その元絵の状況



1.1 歌川広重について



 歌川広重
 
  歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
(*昭和の頃は「安藤広重でした」)

天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。

以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。

歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。

 
 広重の死絵(3代豊国筆

広重の死絵(3代豊国筆
  錦絵の主な作品
 
『東海道五十三次』保永堂版(1833 - 1834)、横大判で55枚揃物、53の宿場と江戸と京都を描く
『木曽海道六十九次』(1835 - 1842)、「宮ノ越」など、横大判で70枚揃物、渓斎英泉の後を継ぐ
『不二三十六景』(1852)、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛
『六十余州名所図会』(1853 - 1856)、竪大判で70枚揃物
『名所江戸百景』(1856 - 1859)、竪大判で120枚揃物
『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857)、竪大判の横3枚続 (「雪月花の三部作」)
『冨二三十六景』(1859)、竪大判で37枚揃物、発売は1年後の1859年夏、結果的に最後の作品となった、

『富士見百図』(1859)、富士の姿をリアルに描いた絵本で、作者の死により初編のみで未完に終わった(絵本)

歌川広重 - Wikipedia
 






1.2 各作品集での元絵


歌川広重は、一般的に“旅する画家”のイメージがあり、各地の風景をスケッチし、それをもとに作品を制作したと思われていました。しかし、現在では歌川広重の風景画の多くが、他の絵師が描いた「名所図」などを参考にしていることが美術界の通念になっています。



「広重が名所風景画の絵師として優れていたのは、透視図法的な空間の認識力です。生涯に国内のあらゆる名所絵を描きましたが、すべての場所に足を運んでいるわけではない。むしろ、江戸近郊以外はほとんど行っていません。

風景を描く際には、名所図会やほかの絵師の描いた風景絵本を種本(たねほん)とするわけですが、その選び方がまず優れていました。その絵の景観を元に奥行き感のある風景を構築し、さらに遠景の山に青く霞をかける空気遠近法や雨や霧、雪などを肉付けしてよりリアリティのある名所風景をつくり出した。自身の風景画に対して『写真(しょううつし)』という言葉を用いていますが、写生したように表現できるという広重の自負でしょう」 ( 大久保純一 国立歴史民俗博物館研究部教授)





広重の旅は①1841年甲州、②1844年房総、③1845年奥州安達、④1848年頃中山道を上がって信濃、美濃、近江方面、⑤1852年には再び上総、⑥1853年には武蔵、相模と言われています。東海道の旅はなかったという説が有力になってます。



旅の情感あふれる名所絵を数多く残した広重には、ごく一般的に“旅する画家”のイメージがある。しかし実際はそうではなく、広重作品の多くが、たとえばいわゆる『名所図会』諸本などの地誌類の版本を参考に制作されていたことは、既に先学の諸氏によって指摘がなされている。また代表作「東海道五拾三次」についても、実景写生を基としているとした定説が、近年、改められるに至った。

しかし一方広重には、その筆になる旅の記録(旅日記やスケッチ帖)も現存する。現存あるいは存在したとする記録から判明する広重の旅の上限は、現在までの研究によれば、天保 12 年(1841)であり、これは甲州への旅であった。その折の旅日記(スケッチ帖)が残されており、その旅の様子が明らかになる。これに加えて旅の記録類からは、弘化元年(1844)には房総、翌 2 年には奥州安達、嘉永元年(1848)頃には中山道を上がって信濃、美濃、近江方面、さらに嘉永 5 年には再び上総、そして同 6 年には武蔵、相模を旅していることが明らかになる。現存する旅日記の類に描きとどめられた図柄を確認すると、錦絵として作品化されたと思しき素描もまま見られ、広重作品における写生の成果を見ることができる。

そしてその結果として「木曽海道六拾九次」には実景 写生によって成立した図が多数存在すること、また『スケッチ帖』じたいの成立 年代の一部を改めることができること、したがって広重が実際に旅した時期をこ れまでの研究よりも遡って設定することが可能であることを指摘する。





ここでは、代表となる作品集三作を簡単に説明します。詳細検討は後の各ページで行ないます。


(1)「六十余州名所図会」(1853-1856年)

広重は、日本全国の名所の風景を描いた晩年の70枚揃物「六十余州名所図会」(1853-1856年)の描かれた場所には殆ど行っておらず、八割ほどの作品に「山水奇観」などの名所図が元絵として示されています。広重作品と元絵を並べて眺めるには最も良い作品集で、これら多くの元絵をみたあと、次のように思いました。

浮世絵版画というのは企画者、下絵師、彫師、摺師らによる総合芸術であり、「六十余州名所図会」は、それらに全国を旅してスケッチを担当した先人の画家が加わって出来上がった作品集で、その中で広重の才能が作品に輝きを与えた。


■広重 「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」の元絵は、淵上旭江 「山水奇観 丹波鐘坂」

「六十余州名所図会」では、淵上旭江 「山水奇観」が最も多く元絵として用いられています。
横長の風景を、縦長の画面に入れて纏め上げる構成力には驚きます。
    

広重 「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」   淵上旭江 「山水奇観丹波鐘坂」
広重 「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  淵上旭江 「山水奇観丹波鐘坂」

山水奇観 前編4巻後編4巻.  6/29 -国デジより引用  



(2)「東海道五十三次」保永堂版(1833-1834年)

広重の出世作であり、世界的にも評価が高い55枚揃物「東海道五十三次」保永堂版(1833-1834年)では、十数図の「東海道名所図会」等の元絵が示されています。また、二十年ほど前に描かれた司馬江漢の肉筆画の「東海道五十三次画帖」を元に制作したという説があり、まだ決着がついていません。


■広重「東海道五十三次」保永堂版  「石部 目川ノ里」の元絵は、東海道名所図会 「石部 目川」
縦長の風景を、横長の画面に入れて、右側にさらに家並みと樹木を加え、遠景に山を入れて纏めます。

    
広重「東海道五十三次」保永堂版  「石部 目川ノ里」    東海道名所図会 「石部」の挿絵
広重「東海道五十三次」保永堂版  「石部 目川ノ里」

東海道五十三次 (浮世絵) 石部- Wikipediaより引用 
  東海道名所図会 「石部 目川」の挿絵

東海道名所図会 二 . 35/85- waseda.ac.jpより引用  




・広重「東海道五十三次」保永堂版  「「蒲原 夜之雪」の元絵と指摘されている、司馬江漢「東海道五十参次画帖 蒲原」

浮世絵の学会では元絵として認められていませんが、私は元絵と考えます。




 
広重「東海道五十三次」保永堂版 15 「蒲原 夜之雪
司馬江漢東海道五十参次画帖 蒲原
広重「東海道五十三次」保永堂版 15 「蒲原 夜之雪」

東海道五十三次「蒲原 夜之雪」 - Wikipediaより引用

 
司馬江漢東海道五十参次画帖 蒲原

 「司馬江漢「東海道五十三次」の真実 」 對中如雲 著| 祥伝社  2020.9.30刊より引用



(3)「木曽海道六十九次」(1835-1842年)

70枚揃物「木曽海道六十九次」(1835-1842年)は、(1)英泉の担当した部分、②広重が旅に出る前に担当した部分、③「広重が旅から帰って後に担当した部分」の三つに分かれ、②は図会等の資料を元絵にした構想図であると言われていますが、Web上では元絵となる作品はほとんど示されていません。

しかし、その中に北斎『諸国瀧廻り』《 木曽海道 小野ノ瀑布 》を元絵とした広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩」があります。縦長の絵を横長に変えていますが、ほとんど同じ構図です。これは北斎(1760-1849年)の生前の発行ですので、北斎も見ることができます。私は、この作品は尊敬している北斎翁の作品を元絵として描いた作品と思っています。

■広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩」の元絵は、葛飾北斎「諸国瀧廻り  木曽海道 小野ノ瀑布 」


    
広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩」   葛飾北斎「諸国瀧廻り  木曽海道 小野ノ瀑布 」
広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩」

広重上ヶ枩-木曽海道六十九次 - Wikipeより引用
  葛飾北斎「諸国瀧廻り  木曽海道 小野ノ瀑布 」

【みんなの知識 ちょっと便利帳】小野ノ瀑布より引用 



(4)「名所江戸百景」(1856-1858年)

広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作de119枚の図絵から成る。何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多く、視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。

この「名所江戸百景」と他の江戸名所図では、三十数図の「江戸名所図会」の挿絵(雪旦画)が元絵として示されています。これより、次の重要な二点を知りました。
①広重作品で元絵を用いて作品を制作したのは、広重が旅をしていないため、眺めることができない景観を描くためとの考えが間違っていた。
②広重が「江戸名所図会」の作者月岑に、題材、解説文、挿図などの借用を希望し、その挨拶をした。


広重「名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」   雪旦 「江戸名所図会 姿見橋」
広重「名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」

116 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
  雪旦 「江戸名所図会 姿見橋」

江戸名所図会 7巻 [12] - 国立国会図書館デジタルコレクション-より引用  



(5)その他の広重作品

旅をしていない場所の広重の作品には元絵があるはずですが、Web上では元絵の表示は多くありません。美術関連の研究論文、書籍では、多くの元絵が示されているかもしれませんが、Web上では公に扱わないようです。上記の三揃物を中心に当方が見つけた元絵をこのサイトで示します。


元絵について

広重が、先人の作品を元にして自分の作品を制作したことを、このサイトでは「元絵」として記載していますが、他では「盗作 剽窃 種本 模倣 まね 元絵  転生 参考 模写 しきうつし」などいろいろな語句で表現しています。その使い方は、時代、評価する者によって異なっています。

広重の時代、浮世絵界では、先人の作品を参考にして作品を制作することは一般的であったと思います。広重も先人の作品名を、自作の作品名に入れて、元絵にしたことを隠そうとはしていません。元絵にある地名まで同じように記載してます。江戸時代の読者もそれらの元絵採用を認めていたと思います。

以前は、元絵があることで作品の評価が低くなっていたが、最近は元絵があるなしにかかわらず、その作品自体で評価するようになってきたようです。元絵がある場合は、その元絵からの制作過程を含めて、その構想力などを評価します。広重のグラフィックデザイナー的な手法を評価するのも作品鑑賞方法の一つと思います。




1.3 広重作品鑑賞に適した三枚の作品「雪 月 花」


私も、このコラムを作成する過程で広重の絵と元絵を並べて見て、広重作品を見る時、新たな楽しみが加わりました。
まず元絵の有無にかかわらず、作品自体を鑑賞します。次に元絵の存在がわかった場合、その元絵からどのような過程で広重が作品を制作したかを見て行きます。その過程での広重の構想力、グラフィックデザイナ的能力に、感銘し、堪能します。

広重作品鑑賞に適した三枚の作品があります。木曽路の雪、金澤の月、そして阿波の鳴門のうず潮の花を描いた“雪月花の三部作”です。広重の晩年期に描かれた三枚続の傑作「雪月花」で、各作品で異なった制作過程を見ていきます。


いずれも元絵のあるなしにかかわらず素晴らしい作品で、広重の風景画の傑作と思います。元絵がある場合、その風景に最も適した構図を採用しており、木曽路之山川」の大胆な構図、色彩には驚いてしまいます。


説明の順番は「雪月花」ではなく、自作スケッチからの「月」から行います。



雪   木曽路之山川    月  武陽金沢八勝夜景   花   阿波鳴門之風景
 雪   木曽路之山川   月  武陽金沢八勝夜景  花   阿波鳴門之風景
③ 元絵を大胆に改変して制作 
①自分のスケッチ帳から制作   ②元絵にほぼ忠実に制作
  制作年代:安政4年(1857) 版元:岡沢屋太平治 極印:安政4年7月改印 版型:大判錦絵三枚続 
武陽金沢八勝夜景の詳細:寸法:( 右)36.8×25.4,(中)36.9×25.5,(左)36.1×24.4 署名:広重筆、弌立斎 ( 他二枚もほぼ同じ)





① 月 「武陽金沢八勝夜景」 自分のスケッチ帳から制作

自作のスケッチから制作。昼間のスケッチを夜景にして、画面中央に満月と雁の群れを描くという構成力が素晴らしい。広々とした風景を描いていますが、船に乗る人、橋を渡る人などの細部も丁寧に描いています。



歌川広重 武陽金沢八勝夜景


歌川広重 「武陽金沢八勝夜景」



歌川広重 武陽金沢八勝夜景の満月 歌川広重 武陽金沢八勝夜景の橋


歌川広重 武陽金沢八勝夜景 部分拡大 月に雁の群れ、橋に人物が描かれています。

武陽金沢八勝夜景 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションより引用




広重晩年の傑作の一枚。彼は武蔵や相模を旅して、多くの名所旧跡をスケッチしており、能見堂から見た金沢八景も肉筆画として数点残されている。本図では、そうしたスケッチを基にして夜景に変えて描いている。色彩は全体を墨と藍で統一し、中央上部には満月が上がり、近くには雁が列をなして飛んでいる。叙情性の高い作品。


 

広重「武相名所旅絵日記」(1851年頃)より。


広重「武相名所旅絵日記」(1851年頃)より。

『12月12日 金沢八景の今昔探訪(2)金沢七景と夏島の巻き(3/4回)』-cycling wonderより引用




金沢八景能見堂跡にある説明板「金沢八景と能見堂」

金沢八景能見堂跡にある説明板「金沢八景と能見堂」 上の図1の作品は「武相名所手鏡」嘉永6年(1853)の肉筆画か

金沢道・六浦道・浦賀みち② : 漫歩人の戯言




広重 絵本手引草

広重 絵本手引草

    絵本手引草: Ehon Database-5 より引用


上記の神奈川県立歴史博物館には、広重の絵画制作の極意が記された資料「絵本手引草」が残されており、
そこに「画は物の形を本とす、なれば寫真をなして是に筆意を加ふる時はすなわち画となる」とあります。
「寫真」は変体仮名交じりで「志やううつし」と振り仮名を打って「しよううつし」と読ませている。「画」は「え」。

「武相名所旅絵日記」(1851年頃)スケッチの6年後に、「武陽金沢八勝夜景」制作
スケッチの景色を、夜景にして月と雁を加えているのが、広重の「筆意」です。
視線の流れの先に月があり、画面全体を引き締め、かつ作品の抒情性を高めています。




広重は、月と雁が好きなようで切手になった「月と雁」だけではなくいろいろな月と雁を描いています。その一部を示します。月はすべて満月です。



広重 月に雁

月に雁
広重 月に雁

月に雁
広重 東都名所 高輪

東都名所 高輪


  広重 東都名所 高輪之名月

東都名所 高輪之名月
広重 諸国六玉河  摂津祷衣之玉河 

諸国六玉河  摂津祷衣之玉河
 【みんなの知識 ちょっと便利帳】「広重と月・広重と満月」- 初代歌川広重が描く月より引用






② 花 「阿波鳴門之風景」  元絵にほぼ忠実に制作

元絵は「山水奇観 阿波の鳴門」で、その画とほぼ同じ構図で制作。「花」は鳴門の渦巻きです。
元絵を使い実景感豊かな風景画を制作。歌川広重、淵上旭江共画と認識して作品を眺めてもよい。


歌川広重 阿波鳴門之風景


歌川広重 「阿波鳴門之風景」



阿波鳴門之風景の花(渦巻) 阿波鳴門之風景の島の部分。


阿波鳴門之風景の花(渦巻)と島の部分。


阿波鳴門之風景 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション




 元絵とされる淵上旭江「山水奇観 阿波の鳴門」


  元絵とされる淵上旭江「山水奇観 阿波の鳴門」 (1800年) 広重「阿波鳴門之風景」とほぼ同じ構図ですが、渦巻はない。

山水奇観 前編4巻後編4巻.  3 14-15/27 -国立国会図書館デジタルコレクションより引用

  

北斎漫画「阿波の鳴門」


北斎漫画「阿波の鳴門」 渦巻はこの図を参考にしたか

北斎漫画七編 7/34- 国デジより引用


「写真をなして是に筆意を加ふる」

「山水奇観 阿波の鳴門」により「写真をなして」、広重がこの渦巻きにより「筆意を加ふる」ことにより「阿波鳴門之風景」が完成





 上記の文献から、「阿波鳴門之風景」(1857年)以前の作品を表示します。



■1796年に徳島藩の御用絵師、鈴木芙蓉の「鳴門十二勝景図巻」(1796年)

鈴木芙蓉 裸嶼望門先

鈴木芙蓉 裸嶼望門先

鈴木芙蓉 大毛山望鳴門
鈴木芙蓉 大毛山望鳴門
鳴門十二勝景図巻(1796年)

鳴門十二勝景図巻(なると じゅうに しょうけいずかん):徳島市公式ウェブサイト



■この後、1802年に上記の淵上旭江「山水奇観 阿波の鳴門」が描かれる。



■1814年に探古室墨海の阿波名所図会 鳴門真景」 渦が描かれています。北斎漫画の渦と共に広重が参考にしたかもしれません。


阿波名所図会 探古室墨海


阿波名所図会 探古室墨海

阿波名所図会 上 7/22-早稲田大学図書館



■1836年に仙台藩士で絵師の小池曲江の「莫逆閑友 阿波鳴門図」。「山水奇観 阿波の鳴門」とほぼ同じ場所から、同じ構図。

莫逆日閑友 阿波鳴門図(1836年)

莫逆日閑友 阿波鳴門図(1836年)

函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ



■1835-1854年に藩の御用絵師、守住貫魚の「鳴門真景図」絹本著彩)。「山水奇観 阿波の鳴門」とほぼ同じ場所から、同じ構図。


守住貫魚筆 鳴門真景図 絹本著彩(1835-1854年)

守住貫魚筆 鳴門真景図 絹本著彩(1835-1854年)
鳴門真景図(なると しんけいず):徳島市公式ウェブサイト



これらの作品が広重の「阿波鳴門之風景」制作に集結されます。





③雪 「木曾路之山川」   元絵から離れてほぼ創作


元絵の「木曽路名所図会 馬籠から妻籠にいたる」を大胆に改変して壮大な雪景色を創っています。ここまで改変すると、元絵との関連など考えず、作品を眺めます。広重しか描けない作品です。広重の最高傑作と思っています。



歌川広重 木曽路之山川


歌川広重 木曽路之山川


歌川広重 木曽路之山川の集落 歌川広重 木曽路之山川の人物 歌川広重 木曽路之山川の橋


木曽路之山川の集落と人物の部分。この山川の雪景色の中に村人が生活しています。

木曽路之山川 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション



木曽路名所図会 馬籠から妻籠にいたる


木曽路名所図会 馬籠から妻籠にいたる

木曽路名所図会 三 10/53 -早稲田大学図書館 


2番目は、大判3枚続という横長の大きな画面いっぱいに描いた、広大な雪景色です。
場所は、中山道の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)と妻籠宿(現代の長野県木曽郡南木曽町)の境にある馬籠峠付近です。

画面の右下にある橋の上を渡っている人が、小さく描かれています。いかに広大な景色を描いているかが分かるでしょう。見る人に向かって迫ってくるような、雪が降り積もった山々のボリューム感が印象的な作品です。

ちなみに、実はこの作品には種本ではないかと指摘されている図があります。『木曾路名所図会』という絵本の一図です。(鈴木重三『広重』日本経済新聞社、1970年。)

右端の桟道や川に架かる橋、滝など、いくつか一致している点が認められます。しかしながら、この墨摺の挿絵を元にしながらも、白い雪が強烈な存在感を見せる浮世絵に改変することできたのは、やはり広重の類まれなる表現力があってこそでしょう。







この図をジ---と眺めていると、山の中の湖に、三柱の巨大な山の精霊が蹲っているように見えてきます。見る人の想像力を喚起させる作品です。
精霊の家族でしょうか。右の精霊の頭と眼の部分はわかりやすいが、中央の精霊の頭と眼をどこにするかが難しい。左は子供が後ろ向き。

広重の遊び心か、私の錯覚か。
広重最高の傑作と言いながら不謹慎な妄想ですが、北斎や広重にはこのような遊び心があったように思います




木曽山中の精霊

「木曽山中の精霊」


「木曽路之山川」は三枚続の横長の作品でその大胆な構図に圧倒されますが、
三枚の図は各々独立した竪絵としても成立する事に気づきました。




木曽路之山川 其の一


木曽路之山川 其の一



木曽路之山川 其の二


木曽路之山川 其の二



木曽路之山川 其の三


木曽路之山川 其の三






次へ→ 2 「六十余州名所図会」の元絵