歌川広重の風景画の元絵









6 江戸名所図会が元絵の広重作品


6.1 江戸名所図会と長谷川雪旦の挿絵

広重の元絵検討にとって、素晴らしいサイトが有りました。

森川和夫のホームページ」の「森川和夫:廣重の風景版画の研究(2) 広重と「江戸名所図会

WEB上で、広重作品をこのように真正面から検討しているサイトは有りません。美術関係の専門家は何故かWEBでは、公に広重作品の元絵の評価を避けているようです。そのため、研究論文を見ることが難しい一般人が、広重の元絵を検討することが殆どありません。

しかし、このサイトでは江戸名所図を元絵にした広重作品を39点も掲載して、豊富な資料をもとにして作品評価を展開しています。

その目的を次のように述べています。「広重が「江戸名所図会」をいかに翻案し、あるいは参考にしたかを絵画的視点に立って考えてみようとするものである。言い換えれば、広重の作画意識、絵組みの背後にある考え方などを探ってみようとするものである。」

この目的に、共鳴し、本サイトで森川氏の指摘した広重作品を紹介していきます。


 広重と江戸名所図会
本シリーズでは、広重による模倣ないし翻案そのものをどう考えるかといった根本問題を取り扱うものではない。また、東海道五十三次を初めとする厖大な道中物、諸国名所物、さらには江戸名所絵などについてその種本の在りかを捜索し、これをいちいち突き止めようとするものでもない。

広重の江戸名所絵と、「江戸名所図会」の図柄のうち広重がヒントを得たであろうもののいくつかを拾い出し、広重が「江戸名所図会」をいかに翻案し、あるいは参考にしたかを絵画的視点に立って考えてみようとするものである。言い換えれば、広重の作画意識、絵組みの背後にある考え方などを探ってみようとするものである。 



「江戸名所図会」は絵入りの江戸地誌で、作者は、神田雉子町の名主、斎藤幸雄(長秋)、幸孝(莞斎)、幸成(月岑)という三代にわたる父子で、挿絵は長谷川雪旦が担当した。7巻20冊という大部の著述で江戸名所のすべてを書き尽くしたような書物です。そして、長谷川雪旦の挿絵が高く評価されています。


江戸名所図会と長谷川雪旦の挿絵
「江戸名所図会」は絵入りの江戸地誌で、江戸研究にとって欠くべからざる基本文献である。作者は、神田雉子町の名主、斎藤幸雄(長秋)、幸孝(莞斎)、幸成(月岑)という三代にわたる父子で、挿絵は長谷川雪旦が担当した。

天保5年(1834)に先ず3巻10冊が、2年後の天保7年(1836)に残り4巻10冊が出版された。合計7巻20冊という大部の著述である。

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この「江戸名所図会」では、従来、記述の内容もさることながら、長谷川雪旦の挿絵が高く評価されている。同時代の滝沢馬琴は、「異聞雑稿」のなかで、編者が四分、その素晴らしさの大半は挿絵にあるとし、北斎もここまで巧くは描けないだろう、とまで、雪旦の挿絵を激賞している。



このサイトで、次の重要な二点を知りました。

①広重作品で元絵を用いて作品を制作したのは、広重が旅をしていないため、眺めることができない景観を描くためとの考えが間違っていた。
  広重の住んでいる江戸の景観を、雪旦の絵を元絵として描いています。

②広重が「江戸名所図会」の作者月岑に、題材、解説文、挿図などの借用を希望し、その挨拶をした。



 斎藤月岑と広重の出会い
彼(鈴木重三)は、もう30年以上も前に、「広重」(日本経済新聞社、1970)のなかで、「広重の月岑訪問はもっと当面の具体的な理由によるものでなければならないと、私は判断する」と述べ、その最大の理由を、広重がこの頃作画した「東都旧跡尽」(若狭屋版)のために、月岑の著名な「江戸名所図会」から題材、解説文、挿図などの借用を希望し、その挨拶のためであったと推測しておられる鈴

木氏は、さらに、月岑が出版関係の検閲に関与する名主でもあったことから、その意味でも表敬訪問する必要を感じたのではないかと想像をふくらませていられる。おそらく、鈴木氏の推測が当を得ているのではないだろうか。



これまで扱った作品集では、広重が行っておらず、その景観を眺めていないために元絵を用いたと思っていました
・晩年の70枚揃物「六十余州名所図会」(1853-1856年)では殆ど旅していないため、各種元絵を使った。
・出世作であり、世界的にも評価が高い55枚揃物「東海道五十三次」保永堂版(1833-1834年)も大磯までしか行っていないのが暗黙の了解事項となっています。
・70枚揃物「木曽海道六十九次」(1835-1842年)は、広重の旅したところは、広重のスケッチをもとに製作された。


元絵がある「名所江戸百景」を見るときには、少し違う観点をもって眺めることが必要です。


この時代の浮世絵界では、先人の作品を参考にして作品を制作することは一般的であり、元絵にした作者に了解を得ることはなかったと思っていましたしかし、広重は「江戸名所図会」の作者の月岑に題材、解説文、挿図などの借用の許可をお願いしたようです。

これまで、広重が北斎の作品を10作品ほどあり、北斎生存時に元絵に使っているのもあり、納得できなかったのです。上記借用の許可と、広重のうちわ絵に「葛飾翁の 圖尓奈らゐて」(葛飾北斎老人の図に倣って) に「廣重筆」の署名がある(5 「木曽海道六十九次」の元絵)ことから、次の様に考えます。何処にも記載は有りませんが、広重は北斎にも作品の借用の許可をお願いしていたかもしれません。、





6.2 広重「東都旧跡尽」と「江戸名所図会」の元絵


■広重「東都旧跡尽 神田於玉が池の故事」の元絵は「江戸名所図会 於玉が池の故事」

広重「東都旧跡尽 神田於玉が池の故事」は、  「江戸名所図会 於玉が池の故事」の野点をしている女性を切り取り描いています。
一見すると、女性の向きが反対で、そのまま描いたようには見えませんが、女性お玉や茶釜の形状、池畔に白鷺のような鳥が描かれている点など、「江戸名所図会 於玉が池の故事」と似ています。

この「東都旧跡尽」とほぼ時を同じくして、広重は伊場久(伊場屋久兵衛)から「江戸旧跡尽」と題する団扇絵を世に送っている。こちらは、「江戸名所図会 於玉が池の故事」をそのまま描いたように酷似しています。

このように、一作だけではなく複数の作品に元絵を用いることが多いようです。





太田記念美術館: "歌川広重「江戸旧跡尽 神田お玉か池の古事」より引用

 



 「江戸名所図会 於玉が池の故事」の部分拡大

 


広重「東都旧跡尽 神田於玉が池の故事」

「東都旧跡尽」 「神田於玉が池の故事」: より引用
 
「雪旦「江戸名所図会 於玉が池の故事」

江戸名所図会 7巻 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





■広重「東都旧跡尽浅草金龍山観世音由来」の元絵は「江戸名所図会 於玉が池の故事」

この作品でもうちわ絵があます。

森川氏はあまり似通っていない例として、「浅草金龍山観世音由来」を出していますが、うちわ絵の方はかなり似ています。



 



江戸旧跡尽浅草の金龍山寺の起源

浅草の金龍山の起源 |広重・歌川 |V&A コレクションを探るより引用


「江戸名所図会  浅草寺縁起」の部分拡大図

 
 
広重「東都旧跡尽浅草金龍山観世音由来」

台東区図書館デジタルアーカイブ より引用
 
 雪旦「江戸名所図会  浅草寺縁起」

江戸名所図会 7巻 [16] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用








6.3 広重「佐野喜 東都名所」と「江戸名所図会」の元絵


■広重「佐野喜 東都名所」の「道潅山虫聞之図」の元絵は、「江戸名所図会」の「道灌山聴虫」

森川氏の記述。

広重と「江戸名所図会」を論じる場合、なんといっても第一に採り上げなくてはならないのがこの佐野喜東都名所「道灌山虫聞之図」であろう。この広重の「道灌山虫聞之図」は「江戸名所図会」の雪旦の挿絵をほとんどそのまま写し取ったといっても過言ではないほど似通っているからである。

しかし、広重の佐野喜東都名所「道灌山虫聞之図」は、雪旦の挿絵をほぼ忠実に翻案しているとはいえ、雪旦の画境をはるかに超える出来栄えを示している。

これを要するに、「道灌山虫聞之図」についていえば、「写し」が「本歌」を超えた例といえよう 


森川氏は「本歌」と書いています。
「本歌取り」が日本文化の伝統と言われていますが、「元絵」が日本文化の伝統とは言われません。美術界で「本歌取り」と「元絵」との関係を真剣に論じてもらいたいと思っています。


広重 「東都名所」 「道潅山虫聞之図」

広重 「佐野期 東都名所 道潅山虫聞之図」 1832年

道潅山虫聞之図 | 錦絵でたのしむ江戸の名所より引用




 長谷川雪旦画 江戸名所図会 道灌山聴蟲

 長谷川雪旦画 「江戸名所図会 道灌山聴蟲」 天保5-7年(1834-1836)

江戸名所図会 7巻. [14] 52/54- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





■広重「佐野喜 東都名所 道潅山虫聞之図」の元絵は、「江戸名所図会 道灌山聴虫」


「佐野喜 東都名所」の「道潅山虫聞之図」と同様、「江戸名所図会」の挿絵とほとんど同じであるといっていいほど図柄が似通っています。


 
広重「佐野喜東都名所 王子滝の川」

東都名所 王子滝の川 (東都名所) - 国立国会図書館デジタルより引用
 
雪旦「江戸名所図会 巻之五  松橋弁財天窟 石神井川

江戸名所図会 7巻 [15] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



その他一点

■佐野喜東都名所「浅草金龍山門前」の元絵は、「江戸名所図会 金龍山浅草寺全図(その一)」




6.4 広重「名所江戸百景」と「江戸名所図会」の元絵


『名所江戸百景』は広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作。何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多く、視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。


 広重「名所江戸百景」
『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵である。

広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作。最終的には完成せず、二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行された。版元は魚屋栄吉。江戸末期の名所図会の集大成ともいえる内容で、幕末から明治にかけての図案家梅素亭玄魚の目録1枚と、119枚の図絵から成る。

何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多く、視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。その魅力は江戸の人々を魅了し当時のベストセラーとなり、どの絵も1万から1万5千部の後摺りを要したほどだった。反面、多くの後摺りでは色数を減らし、手間のかかるぼかしを省略したため、本来の作品が持つ味わいを損ねることにもなった。


広重の江戸を描いた代表連作集「名所江戸百景」で、全119枚のうち12-13枚が「江戸名所図会」に図柄を依拠している。


 広重「名所江戸百景」と「江戸名所図会」
「名所江戸百景」のうち「江戸名所図会」に図柄を依拠しているであろうと思われるものが果たしてどのぐらいあるのだろうか。これについては先学の研究がある。朝日新聞社刊「(浮世絵を読む5)広重」(浅野秀剛・吉田伸之編、1998年7月)所収の「鼎談・広重「名所江戸百景」を中心に」(出席者:浅野秀剛・大久保純一・吉田伸之の各氏)のなかで、大久保純一氏の研究結果が紹介されている。それによると頻度は以下のとおりである。

  安政3年(辰)   8図  安政4年(巳)   3図   安政5年(午)   1図

本シリーズでも、これまで、「名所江戸百景」が「江戸名所図会」の影響を受けていると思われる事例を幾つか取り上げてきた。現時点で、その改印を見ると以下のとおりである。

  安政3年(辰)   7図  安政4年(巳)   4図   安政5年(午)   2図

このような事例が安政3年(辰)に集中、以後年とともに減少するという傾向は大久保氏の研究結果と一致している

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浅野秀剛氏の発言

「私も早い時期の辰年(安政3年)の改め印のある図というのはどんな図かなと思って拾ってみたんですが、そんなにおもしろくない図が多い。従来の広重のイメージの延長にある。

これは鈴木重三先生とか、ほかの研究者も指摘していることですけれども、次の巳年(安政4年)になってくると、「名所江戸百景」の一つの大きな特色である近景を拡大して、そのアングルの中から遠景を見るという顕著な例が少しずつふえてきている。それが巳の年です。午(安政5年)になると少し穏やかになってくる。巳の年は「大はしあたけの夕立」に代表されるような、空間の広闊感を表現したような、広い空間イメージを湧出させるような感覚の絵をつくることも多い。それがこのシリーズを結果的に名作にしたと思うわけです」



雪旦「江戸名所図会」は横長の画面ですが、広重「名所江戸百景」の絵は縦長の絵ですが、部分切抜きや横方向の圧縮が筆よとなるため、部分の構成は同じでも、構図としては異なったものになります。そのため雪旦「江戸名所図会」をよくぞこの構図で描いたと感心します。「六十余州名所図会」を見た時と同じ感想です。


(1)そんなにおもしろくない図が多い安政3年の作品


■広重「「名所江戸百景 千束の池袈裟懸松」(安政3年2月)の元絵は、「江戸名所図会 千束の池 袈裟懸松」


岩波本「名所江戸百景」のヘンリー・スミス氏は、「この絵は江戸名所図会の挿絵によるところが大きいが、広重は、実際にこの地を訪れたことがわかる。例えば、松のまわりには柵がめぐらせてあり、少し離れたところには、天保三年(1832)年の日付のある現在も残る石碑を描いているという点である」と書いていられる。

作画年代の順番として、広重の「絵本江戸土産」を見ると、例の石碑、松の周囲の柵、周囲の人家などが描かれ、広重が実地検分の上、写生したことを思わせる。

再び、スミス氏を引くと、彼は「絵は図会の描き出した原型からそれほど外れてはいないので、よくある風景画という感じになってしまった](森本氏

* ヘンリー・スミスは「広重 名所江戸百景」 岩波書店 1992年3月23日初版の茶者。ブルックリン美術館所蔵の「名所江戸百景」を書籍化したものです。ほぼ初刷の作品が実寸で掲載されている貴重な書籍です。










広重絵本江戸土産 千束(洗足)池 袈裟掛松」

【みんなの知識 ちょっと便利帳】 - 千束(洗足)池 袈裟掛松 より引用

 
広重「名所江戸百景  千束の池 袈裟懸松 」

110 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
雪旦「江戸名所図 千束の池 袈裟懸松 」

江戸名所図会 7巻 [4] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



■広重「「名所江戸百景 井の頭の池弁天の社」(安政3年4月)の元絵は、「江戸名所図会 井頭池、弁財天社


■広重「「名所江戸百景 八景坂鎧掛松」(安政3年5月)の元絵は、「江戸名所図会 江戸名所図会 八景坂鎧掛松」


広重「東都名所  八景坂鎧掛松」 天保10年(1843)-天保13年(1847)は雪旦「江戸名所図会 八景坂鎧掛松」 天保5年(1834)とほぼ同じ、広重「絵本江戸土産 八景坂 鎧懸松嘉」 嘉永3年(1850)は松が一本になっているがほぼ同じ。これの作品をもとにして、広重「名所江戸百景  八景坂鎧掛松」 安政3(1856)が制作されたと思う。



 

広重「絵本江戸土産 八景坂 鎧懸松嘉」 嘉永3年(1850)

みんなの知識 ちょっと便利帳】絵本江戸土産 - 八景坂 鎧懸松 より引用








広重「東都名所  八景坂鎧掛松」 天保10年(1843)-天保13年(1847

東都名所 品川大井 八景坂鎧掛松- Wikipedia
より引用



広重「名所江戸百景  八景坂鎧掛松」 安政3(1856)

026 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
雪旦「江戸名所図会 八景坂鎧掛松」 天保5年(1834)

江戸名所図会 7巻 [4] - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用



■広重「「名所江戸百景 鴻の台とね川風景」(安政3年5月)の元絵は、「江戸名所図会 国府台断岸之図」

「江戸名所図会」国府台断岸之図がひとつの型を確立し、広重がその型を踏襲したということである。具体的にいうと、「江戸名所図会」では国府台の絶壁がとね川(現在の江戸川)に迫出し、その迫出した断崖の上に絶景に見とれる数人の人物が描かれているというものである。

天保末年板行の関東名所図会「下総国府ノ台」がある。名所江戸百景「鴻の台とね川風景」と併せご覧いただきたい。いずれも「江戸名所図会」の型を忠実に踏襲していることが見てとれる。」


 


下総国府台

関東名所図会
より引用
広重「名所江戸百景 鴻の台とね川風景」

095 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
雪旦「江戸名所図 国府台断岸之図」

江戸名所図会 7巻 [20] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





■広重「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」(安政3年7月)の元絵は、「江戸名所図会 小名木川五本松


■広重「名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓」(安政3年7月)の元絵は、「江戸名所図会 吾嬬の森連吾嬬権現理の梓


■広重「名所江戸百景 するがてふ」(安政3年9月)の元絵は、「江戸名所図会 」

「広重の絵と「江戸名所図会」の差は、竪絵と横絵の差であろう。「江戸名所図会」を縦に長く伸ばして富士を一段と大きく描くと広重の絵になる。
長谷川雪旦が「江戸名所図会」の挿絵を描く以前から、同じ図柄の絵が数多くあったものと思われる。」


 

「東都名所駿河町之図」歌川広重

変わりゆく日本橋|今月の特集|「日本橋ごよみ」より引用

 
広重「 名所江戸百景 する賀てふ」

008 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
雪旦「江戸名所図 駿河町三井呉服店」

江戸名所図会 7巻 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用







(2)名作が多い安政4年と5年の作品



■広重「名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」(安政4年正月)の元絵は、「江戸名所図会 姿見橋


■広重「名所江戸百景 高田の馬場」(安政4年2月)の元絵は、「江戸名所図会」

名所江戸百景に「寛永十三年に至り今の如く馬場を築かせたまい、弓馬調練の所となさしめらるるとなり・・」
名所江戸百景「高田の馬場」と、広重の「絵本江戸土産・高田馬場」、広重の絵半切「江戸近郊名所・高田馬場」はほとんど同じです。

森川氏は次の様に書いてます。
さて、この三者を見たうえで、名所江戸百景「高田の馬場」を見ると、その構図が一変する。ものの姿を前面に大きく描く「名所江戸百景」独特の構図法である。馬場北側の松並木を捨象し、即馬場そのものに迫る。右手後方、遠近法の消失点辺りに赤と青に染め抜かれた幔幕が見え、射手が弓を引いている。心憎いばかりの広重の構図と色使いであるとえいよう。」

広重「名所江戸百景 高田の馬場」には、馬場、弓場の書かれていますが、弓の的は前景にして大きく描き、更に名所江戸百景「高田の馬場」にはない富士山も描かれています。このため、名所江戸百景「高田の馬場」とは異なる、弓の的と富士山が対峙する画面構成になっています。それがごく自然に描かれています。

なお、2009年頃まで、山手線の田馬場-目白駅間で富士山が見えていたようです。




江戸近郊名所・高田馬場

森川和夫:廣重の風景版画の研究(2)18 (coocan.jp)


 


広重「絵本江戸土産「高田馬場」

【みんなの知識 ちょっと便利帳】絵本江戸土産・くずし字を読む - 高田馬場



広重「名所江戸百景  高田の馬場」

115 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
雪旦「江戸名所図会 高田馬場」

江戸名所図会 7巻 [12] - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用





■広重「「名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火」(安政4年9月)の元絵は、「江戸名所図会 」


森川氏は次の様に書いてます。
「広重のこの浮世絵は名所江戸百景中、三役の一枚に数えられる傑作で、その刷りの美しさは格別、初刷りの優品ならば一時間や二時間眺めていても飽きないほどの魅力をもっている

それにしても、雪旦の挿絵は例によって説明的である。しかし、広重の「王子装束ゑの木晦日の狐火」は、賦彩があるとはいえ、単なる「江戸名所図会」の翻案といったものではなく、全く別の、しかも次元を異にする幻想的な世界を作り出している。その意味ではこの絵は間違いなく広重の「創作」といっていいだろう。


*三役 「王子装束ゑの木大晦日の狐火」「深川洲崎十万坪」「大はしあたけの夕立」


「木曾路之山川で次の様に書きました。この 「王子装束ゑの木大晦日の狐火」も同様に、元絵との関連など考えず、広重の最高傑作として眺めます。
 「元絵の「木曽路名所図会 馬籠から妻籠にいたる」を大胆に改変して壮大な雪景色を創っています。ここまで改変すると、元絵との関連など考えず、作品を眺めます。広重しか描けない作品です。広重の最高傑作と思っています。」







狐の群れの拡大図
広重「名所江戸百景  王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

119 - 名所江戸百景 - Wikipedia
より引用
雪旦「江戸名所図会 装束畑、衣装榎」

江戸名所図会 7巻 [15] - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用




■広重「「名所江戸百景 王子不動之瀧」(安政4年9月)の元絵は、「江戸名所図会 不動の瀧、泉流の瀧とも云




■広重「「名所江戸百景 両国花火」((安政5年8月))の元絵は、「江戸名所図会 」

雪旦「江戸名所図会 両国橋」の橋の左側を切取り、花火を高く描くと「名所江戸百景 両国花火」の構図になります。

森川氏は次の様に書いてます。

「広重は、視点を自由に移動させ、その移動させたところから見えるであろう景を頭のなかで再構成し、これを破綻なく描くことにかけては天才的な能力を持っていた。本図なども、もしかすると、そのような作業の結果できた可能性もある。今まで多くの例で見てきたように、その作業の過程で、「説明的」な雪旦の絵が「象徴的」な広重の絵に変貌する。まさに、マジックに近いといっていいだろう。」


「王子装束ゑの木大晦日の狐火」も含め、夜の風景をこれほど見事にrがいた絵師はいないと思います。隅田川の川面をこのように鮮やかに描いて、違和感が有りません。


  中央に大川(隅田川)が描かれ、沢山の船が浮かんでおり、橋の両側で花火も上がっています。

「一両が花火間もなき光かな」(其角)<



部分拡大




広重「名所江戸百景  両国花火」

98 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
 
雪旦「江戸名所図会 両国橋

江戸名所図会 7巻 [2] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



■広重「「名所江戸百景 鉄砲洲築地門跡」((安政5年7月))の元絵は、「江戸名所図会  寒橋
  



6.3 広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所」と「江戸名所図会」の元絵




 広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所」と「江戸名所図会」
広重には、三枚続で鳥瞰図風に江戸の名所を描いた「東都名所」シリーズがあり、内、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵の開板にかかるものが現在二十数図知られている。これらは所謂「応需がき」といわれるもので、落款は「応需、一立斎広重筆」ないし「応需、一立斎広重画」である。

この鳥瞰図風な描き方は「江戸名所図会」における長谷川雪旦の挿絵に酷似しており、おそらくは、広重が雪旦の絵を下敷きとしてこの「東都名所」シリーズを製作したのではないかと思われる。この現在知られている二十数枚を逐一「江戸名所図会」と見比べてみると、殆んど同じではないかと思われるものから、広重が適宜手を加え改変を施したものまでマチマチである。


昭和5年に刊行された「広重」(岩波書店)のなかで、内田実氏はほとんど「観るべきものは無いといってよい。然し、装飾的ではあるが賦彩は上手に出来ている」とやや素っ気ない評価を与えている。






■広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 王子稲荷境内全図」の元絵は「江戸名所絵図 王子稲荷社」

広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 王子稲荷境内全図」は雪旦「江戸名所絵図 王子稲荷社」とほぼ同じです。石垣の部分拡大図を見ると、異なっているところを指摘するのが難しいほどです。

一枚の図が37.9×25.8ですので、三枚続では67.9×77.4となります。江戸の民家飾るとしたら装飾的で鮮やかなものが良い。判もとぁらそ右脳に要求されて描いたように思います。


 
広重 「東都名所 王子稲荷境内全図」

王子稲荷境内全図 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 より引用
 




 
雪旦「江戸名所図会 王子稲荷社

江戸名所図会 7巻 [15] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





   
広重 「東都名所 王子稲荷境内全図」部分拡大
雪旦「江戸名所図会 両国橋」部分拡大 






■広重「東都名所 上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」の元絵は雪旦「江戸名所図会 不忍之池全図 中島弁財天社」

広重「上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」は雪旦「江戸名所図会 不忍之池全図 中島弁財天社」とほぼ同じです。

上野に行き不忍之池にある中島弁天社を眺めたくなる絵です。



 
広重「東都名所 上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」

上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 (ndl.go.jp)




 
雪旦「江戸名所図会 不忍之池全図 中島弁財天社」

江戸名所図会 7巻 [14] - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)


 





■広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 上野東叡山全図」の元絵は「江戸名所図会 東叡山寛永寺一-五」

これほどの詳細な鳥観図を描くのは大変な作業と思ったのですが、雪旦「江戸名所図会 東叡山寛永寺一-五」の元絵が有りました。



 
広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 上野東叡山全図」

上野東叡山全図 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 (ndl.go.jp)より引用
 











部分拡大図



 
雪旦「江戸名所図会 東叡山寛永寺一-五」

江戸名所図会 7巻 [14] - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)より引用
 



雪旦「江戸名所図会」を元絵とした広重「蔦屋吉蔵板三枚続東都名所」 次の八点が指摘されています。


 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 深川富ヶ岡八幡宮境内全図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 浅草金龍山の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 飛鳥山全図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 二丁町芝居繁栄之図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 亀戸天満宮境内全図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 浅草東御堂之図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板三枚続東都名所 両国回向院境内全図の元絵は「江戸名所絵図」

 ■蔦屋吉蔵板東都名所三枚続 日本橋真景並びに魚市全図の元絵は「江戸名所絵図」





6.4 広重「江戸近郊名所」と「江戸名所図会」の元絵


広重には書簡用箋用に刷られた絵半切「江戸近郊名所」が十数点が有ります。全体に薄刷りに仕上られた優品揃いで、浮世絵ですが淡彩スケッチのような作品です。

広重の絵の左半分は、[江戸名所図会 行徳塩浜之図」と一致する。千鳥が飛んでいる部分は、[江戸名所図会 行徳千鳥」を参考に描いたと思います。

行徳塩浜に行ったら、このような雰囲気のスケッチを描きたいと思わしてくれる作品です。この絵も、元絵との関連など考えず、じっくり作品を眺めます






   
雪旦、[江戸名所図会 行徳塩浜之図」

江戸名所図会 7巻 [20] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
雪旦、[江戸名所図会 行徳千鳥」

江戸名所図会 7巻 [20] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


雪旦「江戸名所図会」を元絵とした広重「「江戸近郊名所」」 次の四点が指摘されています。

 ■江戸近郊名所 中川口之図の元絵は「江戸名所絵図 中川口」

 ■江戸近郊名所 松戸の里の元絵は「江戸名所絵図 松戸の里」

 ■江戸近郊名所 萩寺の元絵は「江戸名所絵図 萩寺庭中の図」

 ■江戸近郊名所 多摩川ノ里の元絵は「江戸名所絵図 多摩川」





6.5 広重「絵本江戸土産」と「江戸名所図会」の元絵




絵本江戸土産(えほんえどみやげ) は、全 10 編、およそ 250 図からなる江戸の名所、名店、名物などを案内する絵本で、嘉永かえい 3年〈1850年〉(今から174年前)から、慶応けいおう 3年〈1867年〉(今から157年前)にかけて出版された。初編から7編は初代広重が、初代広重没後に8~10編を二代広重が手がけたとされる。

絵本江戸土産はこのほか4作塵ほど指摘されています。樹木、波などを描く線が雪旦の線と似ています。「江戸名所絵図」の挿絵の色付けしたような作品です。

■広重「本江戸土産  佃 白魚 夜景」の元絵は「江戸名所図会 佃島白魚網」


 
広重「絵本江戸土産   佃 白魚 夜景」

【みんなの知識 ちょっと便利帳】絵本江戸土産 より引用
 
雪旦「江戸名所図会 佃島白魚網」

江戸名所図会 7巻 [2] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


■広重「本江戸土産  佃 白魚 夜景」の元絵は「江戸名所図会 佃島白魚網」



 
広重「絵本江戸土産   井の頭の池 弁財天社」

【みんなの知識 ちょっと便利帳】絵本江戸土産より引用
 
雪旦「江戸名所図会 井の頭池 弁天天社」

江戸名所図会 7巻 [2] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


その他、「名所江戸百景」で示した次の三点があえいます。

■広重絵本江戸土産 千束(洗足)池 袈裟掛松」の元絵は、雪旦「江戸名所図 千束の池 袈裟懸松 」

■広重「絵本江戸土産 八景坂 鎧懸松嘉」の元絵は、広重「絵本江戸土産 八景坂 鎧懸松嘉」

■広重「絵本江戸土産「高田馬場」の元絵は、雪旦「江戸名所図会 高田馬場」




*その他他一点

■広重「名所月雪花多 満川秋の月あゆ漁の図」の元絵は、雪旦「 「江戸名所図会 玉川猟鮎」









  





蛇足の補足  




広重「名所江戸百景」の三役


森川氏の『広重のこの「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は名所江戸百景中、三役の一枚に数えられる傑作』と有るので、他の二役を眺めたくなり、調べると「深川洲崎十万坪」「大はしあたけの夕立」が出てきた。専門的なサイトでの記述でないため、現在、三役は定着していないかもしれません。

この二役の元絵の指摘はまだ無いようです。広重の名作を、じっくり眺めます



 
広重「名所江戸百景  大はしあたけの夕立」 安政4年(1857)

名所江戸百景 - Wikipediaより引用
広重「名所江戸百景  深川州崎十万坪」 安政4年(1857)

107 - 名所江戸百景 - Wikipediaより引用
隅田川にかかる「大はし」(現在の新大橋)を俯瞰した視点で捉え、急に降り出した夕立に相傘をしながらしのぐ3人組の男たちをはじめ、両岸へ急ぐ町人たちの様子が描かれる。

橋の向こう側が「あたけ」(安宅)の地域であるが、激しい雨の中でかろうじてシルエットが確認できるのみである。空の部分には摺師の手による「当てなしぼかし」によって、漆黒の雨雲が見事に表現されている。後に、ゴッホが油彩模写を残したことでも有名。 


名所江戸百景 大はしあたけの夕立 | 歌川広重 |東京富士美術館より引用
広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰(ちょうかん)という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出した。

しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっている。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしている。 


名所江戸百景 深川洲崎十万坪 | 歌川広重 | 東京富士美術館より引用