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4 「東海道五十三次・原」の元絵
4,1 広重が、「東海道五十三次」 保永堂版 13 「原 朝之富士」を描く 広重は、東海道を歩いて京都まではいっておらず、実際に訪れて景色を眺めたのは、大磯あたりまでというのが有力な説です。 ここでは、広重が原と吉原を歩くことなく、いかにして「東海道五十三次 原 朝之富士」を描いたかをを検討します。 画才にかける私ですが、この時だけ画才豊かな広重になった気分で検討します。 広重は、東海道五十三次の14番目の宿場「原」の制作にかかりました。原と次の吉原は東海道で一番富士山に近づくところです。北斎翁もこの辺りからの富士山を描いています。 版元からは、一枚の参考図を貰いました。司馬江漢の東海道五十三次の「原」の図です。「原」とは書いてませんが、版元は富士山と愛鷹山を原付近で眺めた作品で、これに基づいて「原」の作品を作ってくれとの要求です。 原は東海道では富士山に最も近い宿場ですが、江漢の作品では富士山のすそ野が手前の柳に隠されており、雄大な富士山という印象が薄くなっていると感じました。富士山の山体の形状も5段ぐらい凸部が重なり合って爽快な富士山ではない。もっと堂々とした富士山を描きたいと思い、参考とする富士山がある図を調べます。 ![]() S01 司馬江漢「東海道五十三次」 「原」 4,2 広重は「東海道名所図絵」で「原」付近を調べる 後年、「六十余州名所図会」(1853-1856年)制作の時に元絵にした「山水奇観」には東海道の作品がほとんどないため、まず、1997年刊行の「東海道名所図会」を眺める。この図会は37年前に刊行されたものだが、、東海道各地の説明もあり「東海道五十三次」を描くときには常に参考にしている。 (M01-M05の東海道名所絵図の画像は 東海道名所図会. 五 4-29/70- 早稲田大学図書館から引用、文は活字印刷の東海道名所図会. 下冊 45/139 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用) 東海道名所図会は京都から江戸へ進むため、それに従いまず原の手前の吉原から見て行きます。 この辺りからは雄大な富士山が丸ごと見えます。富士山右側の中腹にある宝永山の火口まで描いています。富士山右側の山は愛鷹山、左側の山は毛無山です。 画面に、吉原宿と左冨士の文字が入っています。原から吉原に行く途中の中吉原から西一町斗の間で左冨士が見えるようです。吉原宿では、左冨士を描く予定です。 左冨士の道から松並木の道が東海道のようです。吉原は延宝八年(1681年)に湖水が満水したため、天和二年(1682年にこの場所に移ったという。そうすると、富士山南東の愛鷹山と東海道の間は湖か湿地帯か。 ![]() ![]() M01 東海道名所図会 吉原 左冨士 吉原宿からの堂々とした富士山。宝永山の凸部が描かれています。日本最古物語「竹取物語」に「兵士に富む山」なので「富士山」と書かれるとあります。その他の富士の名前がでてます。不二、不盡、 ほかは殆ど知らない。富士山と松並木の間は、M01に描けれた湖か湿地帯か。 ![]() ![]() M02 東海道名所図会 吉原宿からの富士山 吉原-原間からの富士山。富士山に寄り添うように愛鷹山がいます。S01江漢東海道五十三次「原」の図と同じようなところから眺めた富士山です。この構図で富士山と周りの山を描こうと決めました。 M01、M02でも描かれていますが、富士山の下側にある、湖または沼のようなところは、富士ハ湖の「富士沼」と推察する。その富士沼は富士川のほとりまで続いたため、昔の東海道は愛鷹山と富士山の間を通ったという。江戸時代には富士沼と駿河湾との間に砂州ができ、道ができて東海道となった。その陸地が浮島原。「南海の中にゆられてありける島を打ちよせ給うふて今の海道は出来にけり其寄られし島は浮島原といひ傳へ侍る」 ![]() ![]() M03 東海道名所図会 吉原と原の間からの富士山と愛鷹山 このあたりは 『新古今集』にある山部赤人の「田子の浦に うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」で有名な田子の浦です。 (新古今和歌集や小倉百人一首にも収録されていますが、そちらでは「田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」と改編されています。) 田子の浦は興津よりひがし浮島原までの海辺とある。(今よりかなり広い範囲です)。風景画としてはあまり参考にならない。 ![]() ![]() M04 東海道名所図会 田子浦 原駅のほとり一本松村の漁。北斎「富嶽三十六景 東海道江尻 田子の浦略図」の元絵みたいな風景です。 ![]() ![]() M05 東海道名所図会 原駅のほとり一本松村 江戸時代の「原」は「浮島原」と呼ばれていた。「委(くわしく)は浮島原なるべし北に富士沼南にに大洋満々たり其中の曠原なれば此名あり」とあります。原-吉原-蒲原と続き「三原」と呼ばれていた。 駿河湾に沿って街道があり、原に臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である白隠和尚ゆかりの松蔭寺があります。 その下に数羽の鳥が遊んでいるのが富士沼(文字記入)です。この図から街道の道がある陸地が狭かったことがわかります。 愛鷹山の説明があります。諺に延歴二十一年(802年)にこの山が出現したとあります。(この時富士山が噴火、延歴大噴火。これが諺の元か) 富士山の標高3776m、愛鷹山の標高1186m。 ![]() ![]() M06 東海道名所図会 原駅 ■現在からの補足説明 東海道原宿付近の地図とカシバード画像を示します。 東海道と関係する作品を描いたと推察した場所とカシバード画像制作場所を示しています。 ![]() A01 東海道地図 吉原-原 富士山と愛鷹山 A01に記入した場所からの毛無山と富士山と愛鷹山。地図でもわかるように吉原から原に進むに従い、毛無山と富士山と愛鷹山との間が狭くなり、宝永山の凸部が低くなります。 ![]() A02 東海道吉原宿からの毛無山と富士山と愛鷹山。富士山と愛鷹山はほとんど離れています。 ![]() A03 東海道吉原宿と原宿のあいだからの毛無山と富士山と愛鷹山。愛鷹山のすそ野が富士山の下にあります。 宝永山の凸部が少しあります。 ![]() A04 東海道原宿からの毛無山と富士山と愛鷹山。愛鷹山のすそ野の上に富士山がいて、両側のすそ野は見えません。 かつては富士市の須津地区を中心として、浮島地区や沼津市の原地区にわたる湿地に大小の沼が点在しており、これらを総称して浮島沼と呼んだ。柏原沼、須津沼、富士沼、大沼、広沼などとも呼ばれていた。沼の周囲には浮島ヶ原と呼ばれる、湿田やヨシ、マコモが茂る低湿地帯が広がっていた。中里地区の「西の池」とともに須津湖として富士講における内八海の1つに数えられたが、江戸時代は陸化が進み内八海から外された。 駿河湾上空からの富士山と浮島沼を示します。 ![]() A05 浮島沼と富士山 フリー写真素材集 | 静岡県富士市より引用 ![]() A06 田子の浦みなと公園からの富士山 A02の吉原宿の方位からの富士山 フリー写真素材集 | 静岡県富士市より引用 冨士海岸の地形変遷図と写真を示します。江戸時代どの程度陸地化が進み、湿地帯がどのような状態化はわかりません。「東海道名所図会」の図、文の方がくわしい。A09、A10の富士山と愛鷹山と湿地帯の写真が広重「東海道五十三次 原」と似ている。
![]() A10 柏原の沼からの富士山の眺め 明治時代の日本の風景(写真68枚) | ネタサイトZ 4,3 広重は原付近からの富士山の作品を調べる 吉原宿と原宿の間の地理がわかりましたが、広重にとって重要な風景画がまだあります。 (1)河村岷雪 百富士 (1767)の「原」と「浮島」 河村 岷雪(かわむら みんせつ、生没年不詳)は、江戸時代中期の書画家。『百富士』(全四冊。1767年(明和4年))を版行。葛飾北斎の『富嶽三十六景』(1831 - 34年(天保2-5年)頃。以下、「三十六景」とする。)・『富嶽百景』(初編:1834年(天保5年))等、複数図から『百富士』との関連が見いだせる。北斎は『百富士』を元絵として数枚の富士山を描いています(『三十六景』「深川万年橋下」、『百景』二編「七橋一覧の不二」など) 「原」では、愛鷹山と街道の間は、水田のようですが、「浮島」では、湿地帯か沼地のようです。場所によって水田か沼地の両方があるようです。S01江漢図の水田に納得。 ![]() KM01河村岷雪 百富士 (1767)の「原」 愛鷹山と街道の間は水田か ![]() KM02 河村岷雪 百富士 「浮島」 愛鷹山と街道の間は沼地 富士山関係資料デジタルライブラリー 百富士 静岡県立中央図書館より引用 (2)葛飾北斎の「富嶽三十六景 駿州大野新田」 大野新田は原宿と吉原宿にあります。富士山と東海道の間は浮島沼で鳥が飛んでいます。鶴は飛ぶとき首を伸ばして飛び、鷺は縮めて飛ぶのでこの鳥は鷺だろう。富士山の右下と雲が少し紅くなっている。朝焼けか。広重が描こうとしている原宿の構図の参考になりそうです。この辺りからは富士山の前には愛鷹山がいますが、北斎のこの作品には愛鷹山はなく、反対に富士山の奥に山並みが見えます。北斎は、他の作品でも実際には見えない富士山の後ろの山を描いています。 また、北斎は宝永山の凸部を殆どの作品で絵は描きませんが。この作品でも描きません。 ![]() K01 葛飾北斎 富嶽三十六景 駿州 大野新田 富嶽三十六景 駿州 大野新田- Wikipediaより引用 (3)葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道江尻 田子の浦略図」 「東海道名所図会」に、田子の浦は興津よりひがし浮島原までの海辺とあるが、題名にある「江尻」はその西側で、そこからこのように富士山の前に山は見えない。吉原付近の田子の浦海岸からの景色で愛鷹山が富士山の右から下に迫っている図と考える。江尻から駿河湾に舟を出して眺めたと推察する。富士山と寄り添う愛鷹山の関係がいいです。 ![]() K02 葛飾北斎 富嶽三十六景 東海道江尻 田子の浦略図 富嶽三十六景 東海道江尻 田子の浦略図- Wikipediaより引用 (4)飾北斎の「富嶽三十六景 「山下白雨」 広重は、毛無山と富士山の描き方は「山下白雨」が素晴らしいと思いました。ほれぼれする富士山だ、さすが北斎翁。「東海道名所図会」で富士山の後ろに毛無山がある図を見つけ、北斎のこの作品を見てそうおもいました。「山下白雨に地名の記載が有りませんが、どこから描いたかは問題ではありません。 ![]() K03 葛飾北斎 富嶽三十六景 山下白雨 富嶽三十六景 山下白雨- Wikipediaより引用 (4)宋紫石の富嶽図 絹本着色 宋紫石は(1715年1786年)は、江戸時代中期の南蘋派の画家。弟子に司馬江漢。後に洋風画家として活躍する司馬江漢もはじめ宋紫石に習っている。 画中の款記によれば、安永5年(1776)、当時62歳だった紫石が伊豆国田子浦からの眺望を描いたことがわかる。駿河の田子の浦ではないが、構図としては「 A03 東海道名所絵図会の吉原宿と原宿」とほぼ同じである。富士山の山体形状とすそ野の冠雪の描写、前面の岩場の描き方が、「H01 広重 東海道五十三次原と似ています。富士山の左すそ野の奥に山が描かれている。絹本着色のため、広重が見ていたか否かは不明。 ![]() SS01 宋紫石 富嶽図 安永5年(1776) 高階秀彌監修 日本の美Ⅴ 富士山 美術年鑑社(2013年刊)より引用 (5)喜多川月麿 画 「原-吉原」 さらに、「諸国道中金の草鞋. 2 東海道十返舎一九 著 ; 喜多川月麿 画 原-吉原」を見て、広重は喜びました。この枠からはみ出す富士山はいいね、採用しよう。 木曽路の所でも、御岳山が枠からはみ出しています。このように天下の名山は枠からはみ出すことで一段と立派に見えます。 ![]() J01 諸国道中金の草鞋. 2 東海道 十返舎一九 著 ; 喜多川月麿 画 原-吉原 諸国道中金の草鞋. 2 10/33- 早稲田大学図書館より引用 ![]() J02 諸国道中金の草鞋. 4 木曽路 十返舎一九 著 ; 喜多川月麿 画 小田井-追分 御嶽山もはみ出しています。 諸国道中金の草鞋. 4 24/33- 早稲田大学図書館より引用 (6)野呂介石の「富岳高紅暾図」 また、広重は紀州三大南画家のひとりである野呂介石の「富岳高紅暾図」と「紅玉芙蓉峰図」を見る機会がありました。その図を思い出し「富岳高紅暾図」を「原」の富士山に反映しようとしています。 (広重が実際に見たかどうかは不明ですが、この図は最初に赤富士を描いた朝焼けの富士山として、噂になっていた。)
■現在からの補足説明。 広重の制作を見る前に、実景のA03カシバード画像からM03東海道名所図会「原-吉原」への変換を見ていきます。 実景のカシバード画像A03の横幅だけを77%に収縮すると、東海道名所絵図のM03の上部の山々の景色にに近づきます。 東海道名所図会が実景に基づいて風景を描いたいることがわかります。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 東海道名所図会 吉原と原の間からの富士山と愛鷹山 4,4 広重は「原」の富士山がいる画面上部の制作を行なう 原周辺の資料がそろったので、広重がH01東海道五十三次「原」の制作を行います。まず、画面上部の富士山、愛鷹山、毛無山を描きます。 ![]() ![]() 「 M03東海道名所図会」の愛鷹山の上に「K03北斎山下白雨」を載せます。 「富嶽三十六景」で話題になった北斎の「山下白雨」の富士山と左すそ野の奥にある山を使います。 ![]() ![]() ![]() ![]() 「S01江漢の原」と「K02北斎の田子の浦略図」を参考にして、冨士山山頂部を平坦にして、富士山山体の突起を除きます。 愛鷹山の山体を大胆に描きます。富士山左すそ野を強調するため愛鷹山の左側を除去します。 富士山とのバランスから 毛無山を小さくしてを形をを整えます ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() M03東海道名所図会では雲で隠れていた宝永山の凸部を、M02,M03をもとに『原 朝之冨士」に描きます。 冨士山の右側中腹に宝永山の凸部がある駿河の富士山が出来上がります。 北斎は「富嶽三十六景」ではこの宝永山の凸部を一枚も描いていません。 「SS宋紫石富嶽図」の冠雪、手前の岩場の描き方を参考に全体を仕上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() 「N01野呂介石 富岳紅暾図」に倣って、朝焼けの富士山にして、富士に神々しさを加えます。 「J01諸国道中金の草鞋 原-吉原」に倣って富士山を枠からはみ出させ、雄大な富士山にします。 「原」の上の部分は完成しました。 ![]() ![]() 4,5 広重は「原」の湿地帯の画面下部の制作を行います ![]() ![]() ![]() ![]() 街道を行く三人は江漢「原」からそっくり写します。愛鷹山と街道の間は、江漢「原」では水田ですが、原から吉原の間は湿原のほうが多いようです。 また、前景としては横線の多い湿地帯の方が好ましいので基本形は「K02北斎大野新田」を採用します。 M06の「原」の湿地帯には鷺が多いようなので、鷺も描きます。前景を簡潔にするため街道横の樹木は描きません。 ![]() ![]() 街道から湿地帯に進む小道を描いて、湿地帯に奥行きを出します ![]() ![]() 街道から湿地帯に進む小道を描いので飛んでる鷺を後ろに移動して湿地帯に留させます。 従者を連れた二人の女をしっかり描く。女二人には同じ柄の着物を着せて姉妹のように描く。 女性の歩き煙草で見る者の目を引き付けます。 従者の着物の模様は、広重の「ヒロ」の字を組み合わせた広重の遊び心。 「原」の下の部分も完成しました。 ![]() ![]() 上と下の部分を合わせて「原 朝之冨士」が完成しました」 多くの作品を元絵として用いたが、それに関しては気にしていない。 北斎翁も鍬形蕙斎に「人真似」と言われたが、「富嶽三十六景」の素晴らしい作品を描いている。 北斎翁の富士山も元絵としたが、他の工夫で「富嶽三十六景の富士山と匹敵する富士山を描けたと思う。 ![]() H01 広重「東海道五十三次」保永堂版 13 「原 朝之冨士」 1835年刊 ![]() 広重「原 朝之富士」の富士山 「広重 原 朝之冨士」と「北斎 山下白雨」、「宋紫石 富嶽図」の富士山の山体形状の一致度を検討しました。 下図のように山頂部の横幅を合わせ山体形状を比べます。両図の富士山は「広重 原 朝之冨士」の富士山とかなり一致しています。 「宋紫石 富嶽図」の方が一致しているようですが、知名度の高い北斎の富士山を参考にしたとします。山体の冠雪の描き方は「宋紫石 富嶽図」を参考にしています。 ![]() 「広重 原 朝之冨士」と「北斎 山下白雨」の富士山重ね合わせ ![]() 「広重 原 朝之冨士」と「宋紫石 富嶽図」の富士山重ね合わせ 掲載した富士山の形状比較 H01:広重東海道五十三次「原 朝之冨士」に最も近い形状の、富士山は、H02:北斎 富嶽三十六景「山下白雨」です。SS01:宋紫石「富嶽図」も、中腹まではほぼ同じ形状で、突起がない山体、冠雪状態など富士山が持つ雰囲気は最も似ています。しかし、この「富嶽図」は肉筆画で、広重が見たことがあるか不明ですので一番候補からは外しました。 当コラムで出てきた富士山の形状を示します。。 広重「原 朝之冨士」の頂角(山頂からの傾斜角度)は左45°、右33°で78°です。「原 朝之冨士」の富士山ががこれほど頂角が小さい富士山とは意外でした。 ![]() 掲載した富士山の形状比較 富士山山頂の平坦部の長さを同じにして比較 ![]() 広重「原 朝之冨士」の富士山の頂角(山頂からの傾斜角度) 広重東海道五十三次の後、冨士三の頂角はだんだん大きくなります。晩年の「名所江渡百景する賀てふ」では100°、 「不二三十六景 武蔵多満川」では1121°になっています。 ![]() ![]() ![]() ![]() 北斎の摸倣 「多くの作品を元絵として用いたが、これに関しては気にしていない。北斎翁も鍬形蕙斎に「人真似」と言われたが、「富嶽三十六景」の素晴らしい作品を描いている。」 本文に以上の様に書きましたが、北斎も多くの作品で、他画家の模倣を行っていたようで、蕙斎に非難されている。
![]() 蕙斎略画式. [初篇] 蕙斎略画式. [初篇] 11/23 / 蕙斎 [画] (waseda.ac.jp) ![]() 北斎漫画 Hokusai Magic - 北斎漫画 - Wikipedia ![]() ![]() ![]() 広重の登場人物は富士山を眺めない 残念なのは、このようにめったに見れない朝焼けの富士山が目の前にあるにもかかわらず登場人物三人は富士山を眺めていない. Webの解説では「笠を外した女が富士山を眺めていると」いうのがあるが、笠を外した女は振り向いて従者と何か話しているように見えます。江漢の原でも同様です。 何故か広重は富士山を描いて富士山を眺めない、不思議です。 ![]() 広重「原 朝之冨士」の三人 ![]() 司馬江漢の東海道五十三次の「原」の三人 ![]() ![]() ![]() ![]() 「東海道五十三次」 保永堂版 14 「吉原 左冨士」 東海道名所図会は京都から江戸へ進むため、それに従いまず原の手前の吉原から見て行きます。 この辺りからは雄大な富士山が丸ごと見えます。富士山右側の中腹にある宝永山の火口まで描いています。富士山右側の山は愛鷹山、左側の山は毛無山です。 画面に、吉原宿と左冨士の文字が入っています。原から吉原に行く途中の中吉原から西一町斗の間で左冨士が見えるようです。吉原宿では、左冨士を描く予定です。 左冨士の道から松並木の道が東海道のようです。吉原は延宝八年(1681年)に湖水が満水したため、天和二年(1682年にこの場所に移ったという。そうすると、富士山南東の愛鷹山と東海道の間は湖か湿地帯か。 ![]() ![]() M01 東海道名所図会 吉原 左冨士 左冨士の初めの道からのカシバード画像を示します。富士山が左側に見えています。 ![]() 左冨士のはじめの道からのカシバード画像。 河村岷雪 「百富士」の「吉原」 松並木の左冨士の街道が描かれています。手前の橋は、現在地図上にある河合橋かもしれません。 司馬江漢「東海道五十三次」 「吉原」 並木道の左に富士山がみえます。 ![]() ![]() 司馬江漢「東海道五十三次」 「吉原」 広重「東海道五十三次」保永堂版 13 「吉原 左フジ」 河村岷雪 「百富士」の「吉原」の松並木、湿地帯、愛鷹山、左冨士を参考にして景色を描き、馬に乗る人物は江漢の図をそのまま使いました。 三人乗りの馬に乗った中央と左の子供は富士山を眺めています。広重の富士山を描いた作品で、登場人物が富士山を眺めているのはとても珍しく、「冨士三十六景 甲斐御坂越」とこの「吉原 左フジ」だけです。元絵とした江漢の人物が冨士を眺めているのをそのまま描いたようです。 江漢「原」と異なるところは、三人を載せた馬が馬沓(うまぐつ)を付けているところです。日本で蹄鉄が普及したのは、明治時代以降で、それまでは「馬沓」と呼ばれるワラ製の履物を履かせていました。絵で見ると馬用のわらじです。 広重は「馬沓」が好きなようで、「東海道五十三次」保永堂版 5 「戸塚 元町別道」の馬にも馬沓を履かせています。 広重「名所江戸百景 四ッ谷内藤新宿」では、馬沓を付けた馬が主役です。 北斎の馬は馬沓を付けていません、
この国貞「東海道五十三次之内(美人東海道)」に刺激され、「美女がいる富士山百景」シリーズを描くことになりました・
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