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5 「木曽海道六十九次」の元絵
5,1 元絵作品の表示が少ない。 木曽海道六十九次の作者は、渓斎英泉と歌川広重、版元は、保永堂と錦樹堂であり、その変更理由は明らかでなく、複雑な事情を持つ連作画集です。
木曽海道六十九次の70枚のうち、広重は47作品描いたが、長いこと現地に行かず、先人の作品を元絵にして描かれたと考えられていました。近年、菅原 真弓氏が大英博物館が所蔵する『スケッチ帖』を検討し、、少なくても14作品は現地を訪れて描かれたと提案しています。 そこで、広重作品は、次の二つに分類されている。 ①広重が旅に出る前に担当した部分26図は図会等の資料を基にした作品 ②広重が旅から帰って後に担当した部分21図は、旅のスケッチに基づく写生図と考えれられる。
スケッチがない①の作品の元絵に関して、書物、美術系の文献では元絵が示されているかもしれませんが、Web上ではその有無は不明です。 元絵に関する研究がされておらず、元絵の確認がされていないかもしれません。 広重がは図会等の資料を基にした作品は二点示します。 (1)《木曽路名所図会》を元絵にした《鳥居本》 (2)もう一枚元絵とされたのが、驚くことに北斎の《諸国瀧廻り》です。通常は、各地の20年-30年ほど前に刊行された白黒の「名所図会」が元絵となることが多いのですが、錦絵《諸国瀧廻り》は、木曽海道六十九次刊行の4年ほど前の1833年頃に刊行された多色摺りの錦絵です。 「木曽海道六十九次」の各作品については、以下のサイトに詳細な説明があります。当サイトは、それを参考に記載してます。
5,2 広重作品の元絵 ■広重「木曽海道六拾九次之内 64 鳥居本」の元絵は、木曽路名所図会 「磨針嶺」 木曽海道六拾九次63の番場から、西に進むと磨針嶺(すりはりとうげ)を越えて鳥居本に至ります。この磨針峠からは琵琶湖の光景を展望できます。広重のスケッチ帖に「摺針峠とビハ湖」と題する下絵がありますが、構図視点が異なっているため、元絵にしていません。 元絵にしたのは、木曽路名所図会 「磨針嶺」です。磨針嶺の茶屋の部分を拡大して前景にして、琶湖を遠景にしてます。また、「磨針嶺」では大名一行の休息を描いていますが、「鳥居本」でも大名籠が描かれています。 *木曽路名所図会(文化2年(1805年)刊) 秋里籬島・著、西村中和・画:木曽路の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や、各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた書物。
磨針嶺の由来、現在の写真は摺針峠-すさまじきもの ~「歌枕」ゆかりの地★探訪~で見られます。 ■広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩(あげまつ)」の元絵は、葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」 広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩(あげまつ)」の元絵は、葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」で、その「 小野ノ瀑布 」の元絵は、木曽路名所図会 「小野瀧」です。 小野の滝は、長野県木曽郡上松町小野にある滝で木曽川本流からわずか100mほど離れた支流にある落差15mほどの直瀑です。下のgoogleのストリートビューのように国道19号(江戸時代の木曽海道 )の右横に小野の滝があります。googleのストリートビューには写っていませんが、地図に示すように国道19号の左側に、木曽川が流れています。小野瀧の手前上には、1909年(明治42年)にJR本線の鉄橋が架けられています。小野の滝は中央の岩により水は二筋に別れて流れ落ち、木曽川へ合流します。 木曽路名所図会 「小野瀧」では、googleのストリートビューに似たような景色が俯瞰的に描かれています。岩山から流れ落ちる二筋の滝の水は、木曽街道にかかる橋の下を通り木曽川に流れていきます。画面中央に岩場のように描かれているのは、木曽川の急な流れと思います。その木曽川は街道に沿って右側に流れていきます。小野瀧の左側には不動尊の祠があり、その右側には塔のような長い岩がせり出しています。橋の上には、小野の滝を眺める旅人が描かれています。
北斎は、木曽路名所図会 「小野瀧」の瀧の部分を切り取り、木曽川へ流れる川の橋の手前から眺めたように、小野の滝を描いています。そのため、瀧を左側から眺めることになり、瀧の中央と右側の岩場を消して、一筋の垂直に落ちる瀑布として描いています。または、二筋の右側の部分だけ描いたかもしれません。瀧と右手の岩場の間に霞を描き、その間が山肌か空か定かでない空間とすることで小野の瀑布が見事に強調されています。勾配が垂直になり,川の水が河床を離れて,高いところから直接落下する「小野ノ瀑布」です。北斎『諸国瀧廻り』八作品の中では、最も垂直に落ちる滝です。 北斎「小野ノ瀑布」は、垂直の滝、祠、塔のような岩、橋の上の旅人など、木曽路名所図会 「小野瀧」と同じです。北斎は、小野の滝を実際に眺めたかもしれませんが、この作品を参考にしたことは確かと思います。
●後から見つけた作品を追加します。北斎漫画七編(文化十四年 1817年)に「信濃 小野の滝」があります。 『諸国瀧廻り』が出版されたのは天保4年・1833年頃 。 そのため、『諸国瀧廻り』《 木曽海道 小野ノ瀑布 》と北斎漫画七編「信濃 小野の滝」がどちらが先に描かれたかは不明です。 *制作年から次のように推察します。構図の変化に驚きます。 木曽路名所図会 「小野瀧」の滝の部分拡大図(1805年)→北斎漫画七編「信濃 小野の滝」(1817年)→葛飾北斎『諸国瀧廻り』《 木曽海道 小野ノ瀑布 》・1833年頃
広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩(あげまつ)」の元絵は、葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」です。 下図に示すように、葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」を縦方向に圧縮すると、広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩」とほぼ同じ構図になります。瀧、岩場、橋、祠などの景色も人物配置もほぼ同じです。 しかし、縦長画面に描かれた垂直の滝を、横長の画面で描く事に無理があります。見る者を圧倒する、垂直に落ちる強烈な瀧の印象がなくなっています。瀧のようなものが左側にあるが、水が流れ落ちてる感じがない。広重が、この絵で何を描きたいのかが、伝わってこない。 瀧の展望台とそこにいる旅人を中心に描いているようだが、旅人は小野の滝を眺めていない。木曽路名所図会 「小野瀧」にある茶屋の方を指さして「蕎麦でも食いますか」と話しているようです。北斎の旅人はしっかり瀧を眺めているので、それを見る読者も一緒に瀧を眺めて共鳴する。
北斎の「 木曽海道 小野ノ瀑布 」では、滝壺の水の跳ね返りと、橋の下の急流の水の流れが描き分けられています。 しかし、広重の橋の上の水の流れが不可解です。水のようには見えません。きれいに切り取った石灰岩か氷の塊を並べているように見えます。川底に岩があると水が盛り上がって、 木曽路名所図会 「小野瀧」の川の流れのように見えることがありますが、広重の川面のように鋭角の形にはなりません。また、滝壺から離れているので水の跳ね返りではないと思います。広重の川には不可解な物体あることになります。
また画面中央にある祠が気になります。北斎の祠は、祠の建屋の横の板に角度があるため、建屋の右の柱と手前の屋根の柱が重なっているとして納得できます。 しかし、広重の祠の建屋の板は直線上にあるので、三面は同じ方向にむいています。しかしその面の下が水平ですので、柱の並んでいる方向と異なることになります。どのような構造かわからない、だまし絵のような祠です。
広重は元絵の作品に「筆意を加ふる」ことにより、元絵よりすぐれた作品に仕上げることが多いのですが、この「上ヶ枩」では失敗しています。 作品の優劣は別にして、広重が北斎の錦絵を元絵にしたことには驚いています。 広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩」の完成が1939年とすると、『諸国瀧廻り』「 木曽海道 小野ノ瀑布 」は1833年販売で、1849年北斎死没ですので、6年前に世に出た北斎の錦絵とほぼ同じ作品を、北斎が生きている間に販売したことになります。名所絵図だけではなく、同じ浮世絵師が描いた作品を元絵にすることが許されていたのでしょうか。 私は、広重は北斎を風景画の先輩として尊敬していたと思っていますので、「北斎先生に捧げる一枚」という気持ちで描いたと考えます。 それを見て、北斎は「まだまだですね」と言ったかかどうかは不明です。 それを実証する発見が、2007年にありました。 米国ボストン美術館蔵 「スポルディング・コレクション」6,500 枚の中から、広重が北斎をまねたと見られる団扇絵が発見された。 北斎「冨嶽三十六景」の内で“桶富士”として知られる「尾州不二見原」をほぼそっくりまねたもので、 「葛飾翁の 圖尓奈らゐて」(葛飾北斎老人の図に倣って) に「廣重筆」の署名が記されていました。立斎」 この「うちわ絵」は古くなった団扇の骨を再利用し、張り替えるための絵です。 ![]() 葛飾北斎 富嶽三十六景 尾州 不二見原 1831-1834年 富嶽三十六景 - Wikipediaより引用 (広重は北斎よりもさらに大きく富士山を描いています。しかし、尾州 不二見原からは富士山が見えません。この地方から見えるのは聖岳のようです。) この団扇絵の発見により、従来ライバルとされていた北斎と広重の関係が見直されています。 またこれに関して、板元が自らの開板であるかのように販売する贋板は禁止されていたが、模写や模倣であっても公然と制作されていたようです。
■広重「木曽海道六拾九次之内 64 鳥居本」の元絵は、広重が描いたスケッチ。 「木曽海道六拾九次之内」では、広重の元絵とした作品は2枚しか開示されていないので、広重が描いたスケッチを元絵とした作品を一つ示します。 スケッチでは、垂井宿場の一風景ですが、それに雨の日の大名行列を描き加えることで、活気に満ちた宿場町光景になっています。スケッチに「筆意を加ふる」事で 「木曽海道六拾九次之内」に相応しい作品としています。
5,3 渓斎英泉の元絵 「木曽海道六十九次」のもう一人の作者の渓斎英泉も木曽路名所図会の挿絵を元絵にしています。 ■英泉「木曾街道 藪原 鳥居峠硯 清水」の元絵は、木曽路名所図会 「草津の姥ヶ茶屋」 木曽路名所図会「草津の姥ヶ茶屋」の左上の道にある、義仲硯水と芭蕉句碑と松を峠まで移動して、薪を運ぶ女性を加えて、英泉らしい華やかな女性を登場させています。
「木曽海道六拾九次之内では名所図会だけでなく同じ浮世絵師の北斎の作品まで、元絵にしていること、広重だけでなく英泉も名所絵図を元絵に作品を制作、していることがわかりました。 先人の作品を元絵にして作品を制作することは、浮世絵の風景画としては一般的な制作方法であったようです。 次へ→ 6 その他広重作品の元絵
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