歌川広重の風景画の元絵








2 「六十余州名所図会」の元絵



2.1「六十余州名所図会」とは



次に示すのはWikipediaの「六十余州名所図会」の説明文ですが、元絵に関する記載はありません。目録は「大日本六十余州 名勝図会」、各作品は「六十余州名所図会」。作品名、揃物名として「大日本六十余州 名勝図会」は殆ど使われていません


『六十余州名所図会』(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)は、歌川広重による日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作である。
1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作で、五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会である。
全図とも画面は縦長で、前景を大きく描き遠近を協調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図がとられている。




大日本六十余州 名勝図会 一立斎広重画

大日本六十余州 名勝図会 一立斎広重画 目録

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用



Webのサイトで、美術関係者が公に「六十余州名所図会」の種本、元絵について論じたページはまだ見つけていません。そのため、各サイトの文の一部から、「六十余州名所図会」の多くの作品に元絵があることを知りました。


 「このシリーズ(「六十余州名所図会」のこと)のうちの大半の図は、名所図会類の挿絵を種本としてつくり上げたもので、広重自身の写生に基づくと思われるものは、主に関東とその周辺の数図に過ぎないからである。」

『広重六十余州名所図会』:プルヴェラー・コレクション(安藤広重画:大久保純一解説 岩波書店 1996) p11より引用


先行する版本等の挿絵をしばしば借用して自らの作品とした広重には、こうした例はまま見られ る48)。むしろ広重名所絵の真骨頂は、出典とするイメージを基に、どれだけ魅力ある画面を作 り出すことが出来たか(=換骨奪胎)にあることは既に多く指摘がなされるところだ49)。


48)最も極端な例が「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 双剣石」(嘉永 6 年/1853)とその出典である淵上旭江『山水奇観』(寛政11年/1799)「薩摩坊津其二」の関係である。後者の中央にほんの小さく描か れた「双剣石」を広重は作品の前面中心に大きく据えた同主題の作品を構成している。「六十余州名所 図会」という揃物の図柄の多くに出典(種本)があることは、古くから指摘されており、そのために、本 作品の評価はおもわしくなかった(石井研堂「広重の六十余州名所図会の剽窃の跡」『中央美術』82号、 1922年)。しかし近年、出典となる図柄からの換骨奪胎の努力をこそ認めんとする評価がなされ、さら に詳細な出典の解明と作品分析が行われることによって、正当な評価が下されつつある。

49)鈴木重三『広重』日本経済新聞社、1970年 225 菅原真弓  同氏「広重『六十余州名所図会』小考」、大久保純一 「『六十余州名所図会』の成立とその背景」 共に 鈴木重三監修・大久保純一解説『広重 六十余州名所図会 プルヴェラーコレクション』岩波書店、 1996年  大久保淳一『広重と浮世絵風景画』東京大学出版会、2008年
むしろ広重名所絵の真骨頂は、出典とするイメージを基に、どれだけ魅力ある画面を作り出すことが出来たか(=換骨奪胎)にあることは既に多く指摘がなされるところだ。

「人文研究 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 研究ノート 第70巻 2019年3月 209頁~227頁
 「浪花百景」―作品に見られる歌川広重学習を中心に― 菅原 真弓」 

 難波百景より引用  



上記のように浮世絵研究書で「六十余州名所図会」の多くの作品で元絵があるとされていますが、Webではその元絵作品はほとんど確認することはできません。
平木浮世絵美術館蔵の「六十余州名所図会」を解説した下記の本により、その元絵の全容を知りました。


広重の諸国六十余州旅景色―大日本国細図・名所図会で巡る

広重の諸国六十余州旅景色―大日本国細図・名所図会で巡る (古地図ライブラリー12)  人文社 2005.10.1刊

作品解説 森山 悦乃(平木浮世絵美術館主任学芸員) 松村 真佐子(平木浮世絵美術館学芸員)
広重が参考とした「山水奇観等の画像と説明文があります。本文はほぼこれを基にして記述してます。

Amazon.co.jp: 大日本国細図名所図会で巡る広重の諸国六十余州旅景色 (古地図ライブラリー 12) :




又その本の読後感は、佐藤館長の記述と同じです。浮世絵版画というのは企画者、下絵師、彫師、摺師らによる総合芸術であり、「六十余州名所図会」は、それらに全国を旅してスケッチを担当した画家が加わって出来上がった作品集です。その中で広重の才能がその作品に輝きを与えたと思います。そして日本だけではなく世界の人々に感動を与えています。


 広重の「六十余州名所図会」について」  -抜粋-

                   佐藤光信(平木浮世絵美術館館長)

 当時の交通事情を考えれば、風景画家・広重といえどもこれだけ多くの地方に赴く機会があったはずもない。本作の制作に際して、広重は沢山の版元に資料を求めた。「都名所図会」「摂津名所図会」などの名所図会や地誌本、葛飾北斎の「北斎漫画」にまで探索は及んでいる。とくに前編は寛政12年(1800)、後編は享和2年(1802)の刊行となる「山水奇観」は、淵上旭江が23年という歳月を掛けて実際に諸国を歩き、風景を写生したものである。広重が「山水奇観」を最も多くの図に採用したのも、ほぼ全国を網羅している都合の良さに加え、写実であることの正確さに信頼を寄せたものである。

 作画における広重の信条は「真を写す」ことにあった。旭江や名所図会の絵師たちが写した風景は墨線だけで表現され、いわば広重に代わって諸国を廻って描いたスケッチであり、これに広重が色彩を加え、風景画として完成させたともいえる。高度に発達した彫師と摺師の技と、長年にわたって風景を描いてきた広重の経験が絵に臨場感を与え、見るものに感動すらおぼえさせるのである。

・広重の諸国六十余州旅景色―大日本国細図・名所図会で巡る (古地図ライブラリー12)  人文社 2005.10.1刊
作品解説 森山 悦乃(平木浮世絵美術館主任学芸員) 松村 真佐子(平木浮世絵美術館学芸員)

より引用




『日本勝地山水奇観』の淵上旭江、、北斎漫画の北斎及び『六十余州名所図会』(1853-1856年)に用いた名所図の絵師は、『六十余州名所図会』刊行時にはほぼ死没しているようです。


■淵上旭江 『日本勝地山水奇観』
淵上 旭江(ふちがみ きょっこう、宝暦3年(1753年) - 文化13年2月5日(1816年3月3日)は江戸時代中・後期の日本の絵師。名は禎、字は白亀、号ははじめ曲江のち旭光。舎亭を鳴亭・画隠窟。『日本勝地山水奇観』の著者として知られ、後の歌川広重にも影響を与え、明治時代の教科書にも挿絵として利用された。         淵上旭江--Wikipediaより引用

この『日本勝地山水奇観』が最も『六十余州名所図会』の元絵として使われています。


■名所図会の系譜
名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された、通俗地誌および絵画のジャンル。江戸・畿内をはじめとして、諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や、各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた書物。

秋里籬島(あきさと りとう、生没年不詳)の『都名所図会』以降、多くの類書が作られており、名所図会ブームともいえる状況があった。

・名所図の一部
日本山海名産図会(寛政9年(1797年)刊)蔀 関月著、 法橋関月 画図
都名所図会(安永9年(1780年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
大和名所図会(寛政3年(1791年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
和泉名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
摂津名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
東海道名所図会(寛政9年(1797年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎ほか・画
伊勢参宮名所図会(寛政9年(1797年)刊) 著者不詳、蔀関月・画
河内名所図会(享和元年(1801年)刊) 秋里籬島・著、丹羽桃渓・画
木曽路名所図会(文化2年(1805年)刊) 秋里籬島・著、西村中和・画
江戸名所図会(天保7年(1836年)刊) 斎藤月岑・著、長谷川雪旦・画
尾張名所図会(天保15年(1844年)刊) 深田正韶・著、小田切春江・画
善光寺道名所図会(嘉永2年(1849年)刊) 豊田利忠・著画、小田切春江・補淵上旭江
甲斐叢記 甲斐名所図会ともいう。(嘉永4年(1851年)) 大森快庵著
       名所図会-Wikipediaより引用

■葛飾 北齋 〈1760年10月31日1849年5月10日〉
『六十余州名所図会』(1853-1856年)は北斎死没後に刊行。。


著作権が無い江戸時代には、浮世絵の名所図などは現地に行かないで、先に出版された絵を参考に自分の描き方で作成することが多く行われていたように思えます。広重の「六十余州名所図会」は先に刊行された有名な「名所図会」の挿絵などを元絵に用いており、作品名も元絵の作品名をそのまま使っています。元絵の存在を隠そうとはしてないようです。連作の風景画を描くときの浮世絵師の基本姿勢であり、世の中公認の行為であったような気がします。


六十余州名所図会の作品について

大久保氏は「大胆な手法は、本作ではさほどなく、平淡ともいえる風景画が続きます」と厳しい評価です。しかし、「六十余州名所図会」と「元絵」を並べてると元絵の横長画面を縦型画面にするという制限条件により、今までにない斬新な構図が生まれてきたように感じました。元絵の作者が良しとした横長画面から、部分的に切り取る、または横幅を圧縮し、さらにバランスを整えるため、元絵の一部を変化させる、または新に加える。この工程で広重の高度な構図と色彩の感覚が発揮されて、フルカラ-の素晴らしい「六十余州名所図会」ができたように思えます。


さて、今回紹介した「六十余州名所図会」は日本全国68の国々の名所を描いた揃い物(そろいもの)で、広重晩年の作品。揃い物では本作から風景を縦長の画面に描く「竪絵(たてえ)」が始まり、最晩年に発表された「名所江戸百景)」につながります。風景を描くには扱いづらい「竪絵」が求められた背景には、ひとまとめにして本に綴じる鑑賞法が流行したからだとか。『名所江戸百景』の「亀戸梅屋舗」の梅や「深川万年橋」の亀などに見られる「極端に拡大した近景の事物の向こうに遠景で名所を見せる」大胆な手法は、本作ではさほどなく、平淡ともいえる風景画が続きます。

「芸術として評価すると単調な絵かもしれません。でも名所絵が絵葉書的な商品だったと考えると、このわかりやすさが受け入れられた。広重は版元にとっては非常にいい絵描きだったと思いますよ。「こう売りたい」という要求を理解して、それに応えた。実は『六十余州名所図会』は海外では日本の地理がわかるという意味でも、人気がある。時代を超えて、今私たちが同じ風景を眺めることができるのも広重のとらえた視点が確かだからなんですね」




■参考にした書物、Webサイト

・ 「平木浮世絵文庫7 歌川広重 六十余州名所図会」 上 下」(2012年)
広重が参考とした「山水奇観」「名所発句集」も収録とありますので、最新の情報をすべて見ることができるかもしれません。しかし、残念ながら上下巻とも売れ切れとあります。文庫 広重六十余州名所図会

歌川広重の『 六十余州名所図会 』解説つきで見る 浮世絵の幅広い世界。こちらも現在サイトは削除されています。
・ 日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29



2.2 「六十余州名所図会」の各作品と元絵

上記の「広重の諸国六十余州旅景色」を参考に、とくに選定理由はなく、自分の好みで抜粋した28作品と元絵を表示してます。但し、北斎の作品を元絵とした五作品はすべて載せてます。これ以外にも、元絵があるとされた作品が多く記載されています。作品名の先頭の数字は、「目録」の記載順番を示します。


(1)「六十余州名所図会 山城 あらし山渡月橋」の元絵は、秋里籬島著、竹原春朝斎画の「都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋」

「都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋」の渡月橋の箇所を縦長に切り取った構図です。その右側にあった戸無瀬(となせ)の滝を左側に移動して描いています。

       
歌川広重の「六十余州名所図会山城 あらし山渡月橋」   


図128 都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋
(1)山城 あらし山渡月橋

六十余州名所図会 - Wikipedia より引用
  都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋

都名所図会 6巻 [4] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  
     
 


(2)「六十余州名所図会 大和 立田山 龍田川」の元絵は、秋里舜福 著、 竹原信繁 画の「大和名所図会 龍田川」」
     


百人一首の在原業平「千早振神代もきかず龍田川 からくれないに水くくるとは」で紅葉の名所になった龍田川。名所図絵では、和歌を入れて季節感を出しています。
広重は、「大和 立田山 龍田川」で紅葉を描き、秋の龍田川の景色にしています。色彩のある「六十余州名所図会」では、作品に季節感を加えることができます。


大和 立田山 龍田川」  
大和名所図会 龍田川
(2) 大和 立田山 龍田川」

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  大和名所図会 龍田川」

「大和名所図会三上」46/65-早稲田大学図書館より引用  
      



(3)「六十余州名所図会 河内 牧方 男山」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 河内枚方」

山水奇観「河内枚方」を、横方向に70%程に縮めて、全体のバランスを整えると、「六十余州名所図会 河内牧方男山」になります。元絵としては最もわかりやすい作品です。しかし、山水奇観「河内枚方」を、「六十余州名所図会 河内牧方男山」の素晴らしい作品に仕上げる広重の力量には圧倒されます。

       
 歌川広重の「六十余州名所図会 河内牧方男山」      山水奇観「河内枚方」
(3)河内 牧方 男山

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観河内枚方

山水奇観 前編4巻後編4巻 5 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  
      



(4)「六十余州名所図会 和泉 高師のはま」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 和泉高師濱」

「山水奇観 和泉高師濱」に砂浜を加えると、、「六十余州名所図会 和泉 高師のはま」になります。


       
 和泉 高師のはま       日本勝地山水奇観 和泉高師濱」
(4)和泉 高師のはま

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  日本勝地山水奇観 和泉高師濱

山水奇観 前編4巻後編4巻 5 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  
      


      
(5)「六十余州名所図会 摂津 住よし 出見のはま」の元絵は、秋里舜福 著、 竹原信繁 画の「摂津名所図会 出見浜 高灯籠」

 元絵の3ぺ-ジに渡る横長画面から、高燈籠の部分を抜き出して縦長画面にしています。高燈籠の図は名所図のほうが正確です。広重の高燈籠は、スマートすぎて中央で折れてしまいそうです。
    
 住吉高灯籠

住吉高灯籠
大阪市:5.住吉高灯籠より引用


摂津 住吉 出見のはま
      摂津名所図会 出見浜 高灯籠

全体図

摂津名所図会 出見浜 高灯籠の部分
(5)摂津 住吉 出見のはま

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
摂津名所図会 出見浜 高灯籠

攝津名所圖會 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  
     



(7)「六十余州名所図会 伊勢 朝熊山 峠の茶屋」の元絵は、「伊勢参宮名所図会 朝熊峠」

元絵にはない崖を画面両側に描き、峠の雰囲気を創っています。広重は峠を描くのを得意としています。画面中央に下り道を作り旅人を歩かせて、奥行きのある画面にしてます。

     
伊勢 朝熊山 峠の茶屋       

伊勢参宮名所図会 朝熊峠
(7)伊勢 朝熊山 峠の茶屋

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  伊勢参宮名所図会 朝熊峠

『伊勢参宮名所図会』五上30/43-早稲田大学図書館より引用  
      




(8)「六十余州名所図会 志摩 日和山 鳥羽湊」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 志摩日和山」

山水奇観「志摩日和山」の右側をカットして、視点を画面左側に移動して描くと、「六十余州名所図会 志摩 日和山 鳥羽湊」になります。
「山水奇観」の図を元絵にする場合、構図を大幅に変えることなく、ほぼ最小の変更で作品を描いてることが多いです。

       
 志摩 日和山 鳥羽湊        山水奇観「志摩日和山」
(8)志摩 日和山 鳥羽湊

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
   山水奇観 志摩日和山

山水奇観 前編4巻後編4巻 6 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  
      




(9)「六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭」の元絵は、「尾張名所図会 六月十四日夜 津島試楽」

「六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭」の天王川と沿岸と巻藁船(提灯船)の色彩が見事です。


    
尾張 津嶋 天王祭       
尾張名所図会 六月十四日夜 津島試楽
(9)尾張 津嶋 天王祭

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用

  尾張名所図会 六月十四日夜 津島試楽

尾張名所図會巻之七 63/91 愛知県図書館より引用  
     



      
(10)「六十余州名所図会 三河 鳳来寺 山巌」の元絵は、秋里籬島編の「東海道名所図会 鳳来寺」

元絵の左の山の階段が長く続くところを抜き出しています。よく見ると下の道の横に滝もありました。意外と忠実に描いています。

     
 三河 鳳来寺 山巌       
東海道名所図会 鳳来寺

東海道名所図会 鳳来寺の左側
三河 鳳来寺 山巌

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  東海道名所図会 鳳来寺

東海道名所図会・上冊 143-4/168- 国デジより引用  



      
(11)「六十余州名所図会 遠江 浜名之湖 堀江舘山寺 引佐之細江」の元絵は、秋里籬島編の「東海道名所図会 遠湖 堀江村 舘山寺」

元絵は三枚続きの横長の画面。右の二枚の横幅を縮めるとほぼ「遠江 浜名之湖 堀江舘山寺 引佐之細江」の構図になる。あと各部のバランスを調整して完成する。広重の横長画面を縦長画面に移行する一方法。

     

横長画面を縦長画面に変換すると
独創的な構図ができます






左の山が館山で、その上にある松の木を抱いた岩が「冨士見岩」です。そこから、富士山の山頂部が見えます。




      

右の二枚の横幅を縮める



(11)遠江 浜名之湖 堀江舘山寺 引佐之細江

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  東海道名所図会 遠湖 堀江村 舘山寺

東海道名所絵会・上冊 152-3/168- 国デジより引用  
   



      
(12)「六十余州名所図会 駿河 三保のまつ原」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 駿河観音山」

そのほか、元絵候補として「東海道名所図会 久能寺」、司馬江漢の「西游旅譚 久能寺観音山より富嶽を望図」もあります。
江戸時代の人気がある名所のため、多くの作品に描かれています。
     
西游旅譚 久能寺観音山より富嶽を望図

司馬江漢 西游旅譚 久能寺観音山より富嶽を望図

西遊旅譚. 巻之1-14/25 [司馬]江漢 著-早稲田大学図書館より引用

 
  東海道名所図会 久能寺

東海道名所図会 久能寺

東海道名所図会四 47/73-早稲田大学図書館より引用
駿河 三保のまつ原  


山水奇観 駿河観音山
(12)駿河 三保のまつ原


六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観 駿河観音山

山水奇観 前編4巻後編4巻 6 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用   




      
(24)「六十余州名所図会 飛騨 籠わたし」の元絵は、歌川豊広 「浮牡丹全伝 挿絵 飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図」

歌川豊広は、伴蒿蹊の随筆 「閑田耕筆」の図(1901年)を元絵として、「浮牡丹全伝 挿絵 飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図」(1809年)を描いた。、広重は、この図を元絵として、「飛騨 籠わたし」(1853-56年)を描いた。
渓谷の間に綱を渡し宙吊りにした籠を引いて移動させる「籠渡し」、「閑田耕筆」では一籠であるが、豊広は往復の二籠にして描いている。こんな危険な作業を数倍危険になる二籠では行わないと思う。二籠がぶつかると思う。しかし、豊広は往復の拡大図まで描いている。複線の籠渡しは実際あったのか。参考に、五箇山の籠私は単線です。
なお、豊広(1774-1830年)は広重の師匠です。師匠の死後、その絵を元絵として「六十余州名所図会」の一作を制作したことになります。
籠渡しとか金山の作業現場を、、元絵から取り入れ、縦型画面を生かして上方に山並みを描いて、奥行きのある風景画にすること34が多い。
     
飛騨 籠わたしの部分   飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図の部分
 飛騨 籠わたし   伴蒿蹊 随筆 「閑田耕筆」の図

伴蒿蹊 随筆 「閑田耕筆」の図

閑田耕筆 4巻 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用

歌川豊広 浮牡丹全伝 挿絵 飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図
(24)飛騨 籠わたし

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  歌川豊広 浮牡丹全伝 挿絵 飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図(1809年)


浮牡丹全伝四 34/53-早稲田大学図書館より引用  
    
二十四輩順拝図会 五箇山       飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図 其二
二十四輩順拝図会 五箇山

二十四輩順拝図会 三 9/60-早稲田大学図書館
  歌川豊広 浮牡丹全伝 挿絵 
飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図 其二(1809年)

浮牡丹全伝四 38/53-早稲田大学図書館より引用
     



      
(26)「六十余州名所図会 上野 榛名山 山中」は、広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)により制作

日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29で紹介されています。スケッチとほぼ同じ構図で描いています。岩の形状などは「山水奇観 上野榛名山」を参考にしているかもしれません。スケッチがあっても、横幅を縮小する作業は行っています。
広重にとって、スケッチと先人の名所図は同じ位置づけにあった、と思ってしまいます。


    
 上野 榛名山 山中の部分


上野 榛名山 山中
 
山水奇観 上野榛名山

山水奇観 上野榛名山

山水奇観 前編4巻後編4巻 7 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用   




広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)
(26)上野 榛名山 山中

26 Kozuke - 六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)

日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29
 



      
(30)「六十余州名所図会 若狭 漁船 鰈網」の元絵は、「日本山海名産図会 若狭鰈網」

手繰網による鰈魚の風景を、人物も含めてほぼ元絵を忠実に写しています。名所図だけではなく、各種図会を元絵としています。
「若狭鰈網」の鰈の振り仮名は「カレイ」ではなく「カレ」です。

     
 若狭 漁船 鰈網 若狭 漁船 鰈網の部分  日本山海名産図会 若狭鰈網の部分


日本山海名産図会 若狭鰈網
(30)若狭 漁船 鰈網

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
日本山海名産図会 若狭鰈網

日本山海名産図会巻之三 20/31-早稲田大学図書館より引用
  



     
(31)「六十余州名所図会 越前 敦賀 気比の松原」の元絵は、淵上旭江著の「山水奇観 越前敦賀 其二」

「山水奇観 越前敦賀 其二」の右側を圧縮して縦長画面に取り入れ、着色すると「六十余州名所図会 越前 敦賀 気比の松原」。山水奇観を元絵とする場合、大きな変更はしない。

     
 三越前 敦賀 気比の松原       

山水奇観 越前敦賀 其二
(31)越前 敦賀 気比ノ松原

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観 越前敦賀 其二

山水奇観 前編4巻後編4巻 8 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用   
   




      
(33)「六十余州名所図会 能登 瀧之浦」の元絵は、淵上旭江著の「山水奇観 能登 瀧浦」

中央の巨岩が巌門、それを描いた横長の画面の横を縮小して縦長画面に再構成してます。勝手に桜を入れて春の風景にしています。

巨岩中央に口を開けて上を見上げる奇妙な生き物の頭部、右側に四本足の後ろ姿が見えるのは広重の遊びか、私だけの錯覚か。

     
 能登 瀧之浦       

山水奇観 能登 瀧浦
(33)能登 瀧之浦

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観 能登 瀧浦

山水奇観 前編4巻後編4巻 8 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用   
  



(34)「六十余州名所図会 越中 富山 舩橋」の元絵は、「山水奇観 越中船橋」

64艙の舟を繋ぐ舩橋。両図とも数えてみたらそのぐらいありました。

越中 富山 舩橋>  


山水奇観 越中船橋
(34)越中 富山 舩橋

六十余州名所図会 - Wikipedia より引用
  山水奇観 越中船橋

山水奇観 前編4巻後編4巻 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  
      
 


      
(36)「六十余州名所図会 佐渡 金やま」の元絵は、の葛飾北斎「北斎漫画 三編 金山」(1754年 宝暦4年)

「北斎漫画 三編 金山」の坑道の入り口付近を人物も含めてほぼ正確に写し、上部に遠くの山を加えている。

北斎が佐渡に行っていない場合、「日本山海名物図会 金山浦口」が「北斎漫画 金山」の元絵か。三ヶ所の鉱山入口と入口上の額「山神宮」が同じ。

     

  

広重       北斎漫画     山海名物

 佐渡 金やま
      
日本山海名物図会 金山浦口

日本山海名物図会 金山浦口

日本山海名物図会 5巻 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用

北斎漫画 金山
(36)佐渡 金やま

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  北斎漫画 金山

北斎漫画 3編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  


      
(37)「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」の元絵は、山水奇観「丹波鐘坂」

鬼の架け橋は、兵庫県丹波市と丹波篠山市の市境の金山山頂付近、いわゆる鐘ケ坂峠に存在する自然石でできた奇勝で、2つの大岩の間に別の岩が倒れ込み、あたかも橋梁のような形状をなしている。このため、古くから大江山の鬼が架けた橋であるという民話が語り伝えられ、この構造物自体の名前になっているが、実際には15世紀中頃、地震により崩落した岩が偶然にこのような形状になったのであろうと考えられている。(文写真とも鬼の架け橋 - Wikipediaより引用

山水奇観「丹波鐘坂」の石梁の右横から切り出し横幅を少し縮めると「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」になります。
その石の橋梁は山水奇観では「石梁」と書かれ、六十余州名所図会でも「石梁」と書かれている。作品名「丹波 鐘坂」も山水奇観と同じであり、元絵の存在を隠そうとはしていない。かえって、この元絵により制作しました、と宣言しているようです。
     

鬼の架け橋

山水奇観「丹波鐘坂」の部分

丹波 鐘坂の部分

丹波 鐘坂
 

        横幅縮小


山水奇観「丹波鐘坂」の横幅縮小
(37)丹波 鐘坂

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観「丹波鐘坂」

山水奇観 前編4巻後編4巻 1 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用  


    
(44)「六十余州名所図会 隠岐 焚火の社」の元絵は、葛飾北斎の「北斎漫画 隠岐 焚火の社」

 「焚火の社」とは、現在の焼火(たくひ)神社のこと。弁天船の描き方は同じですが、構図は異なり、北斎漫画の乗員は火を振り海中に投げ入れていますが、広重は弊を振る乗員を描いています。

 >隠岐 焚火の社       

北斎漫画「隠岐 焚火の社」
(44)隠岐 焚火の社

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  北斎漫画「隠岐 焚火の社」

北斎漫画 7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  




      
(45)「六十余州名所図会 播磨 舞子の浜」の制作は、広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)から。

松の形状はスケッチから描いてます。砂浜の構図は「山水奇観 播磨舞妓濱」を参考にしているようです。
これ以前の「本朝名所 播州舞子之浜」でも同じ松の形状で浜辺を描いています

     
 本朝名所 播州舞子之浜

広重 本朝名所 播州舞子之浜

文化遺産オンライン
より引用




播磨 舞子の浜
 
「山水奇観 播磨舞妓濱」

「山水奇観 播磨舞妓濱」

山水奇観 前編4巻後編4巻 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用   



広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)
(45)播磨 舞子の浜

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  広重スケッチ(イギリスの大英博物館所蔵)

日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29



      
(55)「六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波」の参考絵は、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

元絵とは言いにくいが葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と北斎漫画「阿波の鳴門」を参考にして、「阿波 鳴門の風波」を描いたと思う。

     
 阿波 鳴門の風波   阿波 鳴門の風波の部分  葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の部分


葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
阿波 鳴門の風波

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

富嶽三十六景 - Wikipediaより引用  


北斎漫画「阿波の鳴門

北斎漫画「阿波の鳴門」 下の写真の渦を見事に描いています。
北斎漫画七編 7/34- 国デジより引用


鳴門の渦潮

鳴門の渦潮 鳴門市 - Wikipediaより引用
  





(57)「六十余州名所図会 井豫 西條」の元絵は、「山水奇観 井豫 西條」

背後の山は四国最高峰、標高1982mの石槌山。山頂がこんなに平たいかと思い、カシミールで探すと平たい石槌山がありました。「山水奇観」の石鎚山に舟の帆を掛けて、雁の群れを飛ばすと、「井豫 西條」が出来上がります。
       
井豫 西條の部分

井豫 西條
      瀬戸内海海上から石鎚山 カシバ-ド画像

瀬戸内海海上から石鎚山 カシバ-ド画像


山水奇観 伊豫西條
(57)井豫 西條

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  山水奇観 伊豫西條

山水奇観 前編4巻後編4巻 3 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用   
      



(58)「六十余州名所図会 土佐海上松魚釣」の元絵は、木村孔恭著、蔀関月画「日本山海名産図会. 」の「土佐鰹釣」

松魚(しょうぎょ)はカツオの別名。鰹節の切り口が松の木の年輪に似ていることが由来といわれています。船に乗っている漁師たちの人数も同じで、動作までよく似ています。
しかし、縦長画面を生かして、五隻の船を重ねて、その先に帆船を浮かべて奥行を出しています。

       
土佐海上松魚釣  

日本山海名産図会. 土州鰹釣 法橋関月 画図

(58)土佐海上松魚釣

六十余州名所図会 - Wikipedia より引用
  日本山海名産図会. 土州鰹釣 法橋関月 画図


日本山海名産図会. 巻之4 -早稲田大学図書館より引用  
 


(64)「六十余州名所図会 肥後 五ヶの庄」の元絵は、葛飾北斎の「北斎漫画 肥後 五ヶの庄」

  縦長画面を生かして、左の山を高く盛り上げて山深い雰囲気を出しています。

   
肥後 五かの庄  

北斎漫画 肥後 五ヶの庄
(64)肥後 五肥後 五ヶの庄の庄

六十余州名所図会 - Wikipediaより引用
  北斎漫画 肥後 五ヶの庄

北斎漫画 7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  
  





(67)「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 雙劍石」の元絵は、山水奇観「坊津其二
」→伊東陵舎著「鹿児島風流(1845年)の「坊の津双剣石」


「広重の諸国六十余州旅景色」及び 日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29 などで「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 雙劍石」の元絵は、山水奇観「坊津其二」としていました。


山水奇観「坊津其二」の右側に「雙劍石」と書かれ二個の縦長の石が描かれています。広重はその雙劍石を拡大して「薩摩 坊ノ浦 雙劍石」に仕上げています。


歌川広重の「六十余州名所図会薩摩 坊ノ浦 雙劍石」    >     「山水奇観「坊津其二」の雙劍石



山水奇観「坊津其二」
(67)薩摩 坊ノ浦 雙劍石

六十余州名所図会 - Wikipedia より引用
  山水奇観「坊津其二」

山水奇観 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  



2018年に「薩摩坊ノ浦双剣石」の原図とみられる絵が新たに発見されました。伊東陵舎著「鹿児島風流(1845年)の「坊の津双剣石」です。発見者の文献を読んでいないため詳細はわかりませんが、双剣席の後ろの島の配置は広重の「薩摩 坊ノ浦 雙劍石」と同じです。そのため、広重は伊東陵舎著「鹿児島風流 坊の津双剣石」を元絵に「薩摩 坊ノ浦 雙劍石」に描いたようです。山水奇観「坊津其二」は双剣石の奥にある坊岬秋月洞を描くときに参考にしたと思います。

       

広重の浮世絵「薩摩坊ノ浦双剣石」 原図とみられる絵、新たに判明 南日本新聞 2018.3.16

 江戸時代に活躍した浮世絵師・歌川広重(1797~1858年)が「六十余州名所図会」シリーズに描いた、「薩摩坊ノ浦双剣石」(南さつま市坊津)の原図とみられる絵が、当時の鹿児島を記録した見聞録に残っていることが分かった。同市の坊津歴史資料センター「輝津館」職員橋口亘さん(41)が発見、論文にまとめた。世界的に著名な広重作品で種本が新たに判明するのは極めて珍しい。
 広重の「双剣石」は、海からそそり立つ2本の岩を描く。大胆な構図や独自の色彩が美術的に高い評価を受け、これら広重作品は、モネやゴッホら印象派の画家に影響を与えたといわれる。これまで坊津など全国の名所を集めた江戸期の版本(印刷本)「山水奇観」が原図とされていた。

鹿児島風流(ぶり)著者:伊東陵舎
天保6年(1845)著者が薩摩藩主に随行して鹿児島に下った時に、滞留中の見聞を記録したもの。年中行事・風俗・霧島登山の紀行文等が豊富な挿絵と共にしるされている。
画像は明治8年修史局地誌課が目賀田守蔭の蔵書を書写したもの。

広重の浮世絵「薩摩坊ノ浦双剣石」 原図とみられる絵、新たに判明 | mixiユーザー(id:4342629)の日記より引用
  


鹿児島風流 坊の浦双剣石

鹿児島風流 坊の浦双剣石

画像は明治8年修史局地誌課が目賀田守蔭の蔵書を書写したもの。

かこしまふり 47/72-「国立公文書館デジタルアーカイブ」
  より引用



また、国立国会図書館デジタルコレクションにも鹿児島風流 3巻があるが、
こちらにも、「出版社 写」とある、画面構成は上図ほとんど同じである。

鹿児島風流 3巻 著者伊藤, 草臣[他] 出版者 写

鹿児島風流 3巻 著者伊藤, 草臣[他] 出版者 写

鹿児島風流 3巻 56/84- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


天へ向かって剣のようにそびえ立つ2つの岩「双剣石」

天へ向かって剣のようにそびえ立つ2つの岩「双剣石」

双剣石 | 南さつま市観光協会より引用



(68)「六十余州名所図会 壱岐 志作」の元絵は、葛飾北斎の「北斎漫画 壱岐志作」。その元絵は司馬]江漢 の「 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺」



 広重「東海道五十三次 蒲原 夜の雪」

広重「東海道五十三次 蒲原 夜の雪」

東海道五十三次 (浮世絵) - Wikipedia



壱岐 志作
  司馬]江漢 著 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺

司馬]江漢 著 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺

司馬]江漢 著 西遊旅譚. 巻之五-4/25 -早稲田大学図書館

北斎漫画「壱岐 志作」
(68)壱岐 志作

六十余州名所図会 - Wikipedia Wikipediaより引用
  北斎漫画「壱岐 志作」

北斎漫画 7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用  


「壱岐 志作」の謎 其の一 作品名

司馬江漢→北斎→広重 江戸時代後期の風景画の三巨匠の豪華な組み合わせです。この組み合わせで「壱岐 志作」の作品名の謎が生じました。
「六十余州名所図会」の作品名は、国名のあとにはだいたい地名か、名勝、行事、時間などが補足のように付けられています。しかし壱岐には志作という地名はありません。長崎県松浦市志佐町であると指摘されています。
 司馬江漢「 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺」(1794年)では手前の山の麓付近が志作村で、右奥の島影が壱岐国です。北斎が北斎漫画七編(1817年)に写す際に「壱岐 志作」としたために、それを元絵とした広重の作品名が「壱岐 志作」となり壱岐の中に志作があるような作品名になったようです。


「壱岐 志作」の謎 其の二 雪景色

「六十余州名所図会」で冬景色は(16)「武蔵 隅田川 雪の朝」。(26)「上野榛名山 雪中」、(68)「壱岐 志作」の三作しかありません。六十余州の中では「武蔵」、「上野」は北に位置するので雪景色は妥当です。しかし、「壱岐」は温暖な気候で、雪が降ることはあっても広重が描いたように雪一色にはなりません。
万葉集に詠まれ、江戸末期に書かれた壱岐名勝図誌に壱岐の島(雪の島)の名にもなったと伝える「雪の島」が、壱岐島の北西、勝本町浦海海岸にあります。しかし、そこからの連想で雪景色にしたとは考えにくい。観光案内も兼ねる「六十余州名所図会」としては、問題な一作です。
「東海道五十三次 蒲原 夜の雪」でも、雪がほとんど積もらない温暖な気候の蒲原を、一面の雪で描いています。同じ雪景色の謎です。


「壱岐 志作」の謎 其の三 北斎漫画

風景画においてライバル視されている北斎の「北斎漫画」が次の5作品で元絵として使われている。
(36)「佐渡 金やま」 (44)「隠岐 焚火の社」 (55) 「阿波 鳴門の風波」 (64)「肥後 五かの庄」 (68)「壱岐 志作」
広重が、「富嶽三十六景 尾州不二見原」とほぼ同じ構図で団扇絵を描き、その絵に「葛飾翁の図にならいて」と記していたことから、広重は尊敬の念をこめて北斎の絵を元絵として使っていたと思います。
)




 





  





蛇足の補足  




「六十余州名所図会」目録と作品の「州」


目録は「州」志摩は異体字「刕」、他は崩し字とわかったが、何故、同じ揃い物で異なる字を使うかが謎。



   
     (65)日向 (8)志摩 (1)山城  目録 
     
   
  




「刕」について

「刕」が何故「州」かわからない。「そこで、笹原宏之早稲田大学教授の著書『国字の位相と展開』に当たってみたところ、ありました。「『州』はその書きづらさや形状・筆運びの単調さ、形の取りにくさから、点と縦画とを『立刀』と見なし、バランスを求めて再構成し、漢字『刕』と交替する例もある」とのこと。「刕」は古文書にもよく見られる字だそうで、『実習近世古文書辞典』にも「刂(リットウ)を刀(トウ)におきかえ、山型に三つ重ねた形」とありました。つまり「州」を3つの「刂」として、それが「刕」という形に変化したということになります。」



養蚕秘録 に出てくる「州」(25)  「州」と「刕」の各種崩し字が有ります。江戸時代の人は大変苦労したと思います。