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2 「六十余州名所図会」の元絵
2.1「六十余州名所図会」とは 次に示すのはWikipediaの「六十余州名所図会」の説明文ですが、元絵に関する記載はありません。目録は「大日本六十余州 名勝図会」、各作品は「六十余州名所図会」。作品名、揃物名として「大日本六十余州 名勝図会」は殆ど使われていません
Webのサイトで、美術関係者が公に「六十余州名所図会」の種本、元絵について論じたページはまだ見つけていません。そのため、各サイトの文の一部から、「六十余州名所図会」の多くの作品に元絵があることを知りました。
上記のように浮世絵研究書で「六十余州名所図会」の多くの作品で元絵があるとされていますが、Webではその元絵作品はほとんど確認することはできません。 平木浮世絵美術館蔵の「六十余州名所図会」を解説した下記の本により、その元絵の全容を知りました。 ![]() 広重の諸国六十余州旅景色―大日本国細図・名所図会で巡る (古地図ライブラリー12) 人文社 2005.10.1刊 作品解説 森山 悦乃(平木浮世絵美術館主任学芸員) 松村 真佐子(平木浮世絵美術館学芸員) 広重が参考とした「山水奇観等の画像と説明文があります。本文はほぼこれを基にして記述してます。 Amazon.co.jp: 大日本国細図名所図会で巡る広重の諸国六十余州旅景色 (古地図ライブラリー 12) : 又その本の読後感は、佐藤館長の記述と同じです。浮世絵版画というのは企画者、下絵師、彫師、摺師らによる総合芸術であり、「六十余州名所図会」は、それらに全国を旅してスケッチを担当した画家が加わって出来上がった作品集です。その中で広重の才能がその作品に輝きを与えたと思います。そして日本だけではなく世界の人々に感動を与えています。
著作権が無い江戸時代には、浮世絵の名所図などは現地に行かないで、先に出版された絵を参考に自分の描き方で作成することが多く行われていたように思えます。広重の「六十余州名所図会」は先に刊行された有名な「名所図会」の挿絵などを元絵に用いており、作品名も元絵の作品名をそのまま使っています。元絵の存在を隠そうとはしてないようです。連作の風景画を描くときの浮世絵師の基本姿勢であり、世の中公認の行為であったような気がします。 六十余州名所図会の作品について 大久保氏は「大胆な手法は、本作ではさほどなく、平淡ともいえる風景画が続きます」と厳しい評価です。しかし、「六十余州名所図会」と「元絵」を並べてると元絵の横長画面を縦型画面にするという制限条件により、今までにない斬新な構図が生まれてきたように感じました。元絵の作者が良しとした横長画面から、部分的に切り取る、または横幅を圧縮し、さらにバランスを整えるため、元絵の一部を変化させる、または新に加える。この工程で広重の高度な構図と色彩の感覚が発揮されて、フルカラ-の素晴らしい「六十余州名所図会」ができたように思えます。
■参考にした書物、Webサイト ・ 「平木浮世絵文庫7 歌川広重 六十余州名所図会」 上 下」(2012年) 広重が参考とした「山水奇観」「名所発句集」も収録とありますので、最新の情報をすべて見ることができるかもしれません。しかし、残念ながら上下巻とも売れ切れとあります。文庫 広重六十余州名所図会 歌川広重の『 六十余州名所図会 』解説つきで見る 浮世絵の幅広い世界。こちらも現在サイトは削除されています。 ・ 日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29 2.2 「六十余州名所図会」の各作品と元絵 上記の「広重の諸国六十余州旅景色」を参考に、とくに選定理由はなく、自分の好みで抜粋した28作品と元絵を表示してます。但し、北斎の作品を元絵とした五作品はすべて載せてます。これ以外にも、元絵があるとされた作品が多く記載されています。作品名の先頭の数字は、「目録」の記載順番を示します。 (1)「六十余州名所図会 山城 あらし山渡月橋」の元絵は、秋里籬島著、竹原春朝斎画の「都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋」 「都名所図会 嵐山法輪寺渡月橋」の渡月橋の箇所を縦長に切り取った構図です。その右側にあった戸無瀬(となせ)の滝を左側に移動して描いています。
百人一首の在原業平「千早振神代もきかず龍田川 からくれないに水くくるとは」で紅葉の名所になった龍田川。名所図絵では、和歌を入れて季節感を出しています。 広重は、「大和 立田山 龍田川」で紅葉を描き、秋の龍田川の景色にしています。色彩のある「六十余州名所図会」では、作品に季節感を加えることができます。
(3)「六十余州名所図会 河内 牧方 男山」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 河内枚方」 山水奇観「河内枚方」を、横方向に70%程に縮めて、全体のバランスを整えると、「六十余州名所図会 河内牧方男山」になります。元絵としては最もわかりやすい作品です。しかし、山水奇観「河内枚方」を、「六十余州名所図会 河内牧方男山」の素晴らしい作品に仕上げる広重の力量には圧倒されます。
(4)「六十余州名所図会 和泉 高師のはま」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 和泉高師濱」 「山水奇観 和泉高師濱」に砂浜を加えると、、「六十余州名所図会 和泉 高師のはま」になります。
元絵の3ぺ-ジに渡る横長画面から、高燈籠の部分を抜き出して縦長画面にしています。高燈籠の図は名所図のほうが正確です。広重の高燈籠は、スマートすぎて中央で折れてしまいそうです。
元絵にはない崖を画面両側に描き、峠の雰囲気を創っています。広重は峠を描くのを得意としています。画面中央に下り道を作り旅人を歩かせて、奥行きのある画面にしてます。
(8)「六十余州名所図会 志摩 日和山 鳥羽湊」の元絵は、淵上旭江著の「日本勝地山水奇観 志摩日和山」 山水奇観「志摩日和山」の右側をカットして、視点を画面左側に移動して描くと、「六十余州名所図会 志摩 日和山 鳥羽湊」になります。 「山水奇観」の図を元絵にする場合、構図を大幅に変えることなく、ほぼ最小の変更で作品を描いてることが多いです。
(9)「六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭」の元絵は、「尾張名所図会 六月十四日夜 津島試楽」 「六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭」の天王川と沿岸と巻藁船(提灯船)の色彩が見事です。
元絵の左の山の階段が長く続くところを抜き出しています。よく見ると下の道の横に滝もありました。意外と忠実に描いています。
元絵は三枚続きの横長の画面。右の二枚の横幅を縮めるとほぼ「遠江 浜名之湖 堀江舘山寺 引佐之細江」の構図になる。あと各部のバランスを調整して完成する。広重の横長画面を縦長画面に移行する一方法。
そのほか、元絵候補として「東海道名所図会 久能寺」、司馬江漢の「西游旅譚 久能寺観音山より富嶽を望図」もあります。 江戸時代の人気がある名所のため、多くの作品に描かれています。
歌川豊広は、伴蒿蹊の随筆 「閑田耕筆」の図(1901年)を元絵として、「浮牡丹全伝 挿絵 飛騨国荒城郡電通神通川籠渡図」(1809年)を描いた。、広重は、この図を元絵として、「飛騨 籠わたし」(1853-56年)を描いた。 渓谷の間に綱を渡し宙吊りにした籠を引いて移動させる「籠渡し」、「閑田耕筆」では一籠であるが、豊広は往復の二籠にして描いている。こんな危険な作業を数倍危険になる二籠では行わないと思う。二籠がぶつかると思う。しかし、豊広は往復の拡大図まで描いている。複線の籠渡しは実際あったのか。参考に、五箇山の籠私は単線です。 なお、豊広(1774-1830年)は広重の師匠です。師匠の死後、その絵を元絵として「六十余州名所図会」の一作を制作したことになります。 籠渡しとか金山の作業現場を、、元絵から取り入れ、縦型画面を生かして上方に山並みを描いて、奥行きのある風景画にすること34が多い。
日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29で紹介されています。スケッチとほぼ同じ構図で描いています。岩の形状などは「山水奇観 上野榛名山」を参考にしているかもしれません。スケッチがあっても、横幅を縮小する作業は行っています。 広重にとって、スケッチと先人の名所図は同じ位置づけにあった、と思ってしまいます。
手繰網による鰈魚の風景を、人物も含めてほぼ元絵を忠実に写しています。名所図だけではなく、各種図会を元絵としています。 「若狭鰈網」の鰈の振り仮名は「カレイ」ではなく「カレ」です。
「山水奇観 越前敦賀 其二」の右側を圧縮して縦長画面に取り入れ、着色すると「六十余州名所図会 越前 敦賀 気比の松原」。山水奇観を元絵とする場合、大きな変更はしない。
中央の巨岩が巌門、それを描いた横長の画面の横を縮小して縦長画面に再構成してます。勝手に桜を入れて春の風景にしています。 巨岩中央に口を開けて上を見上げる奇妙な生き物の頭部、右側に四本足の後ろ姿が見えるのは広重の遊びか、私だけの錯覚か。
(34)「六十余州名所図会 越中 富山 舩橋」の元絵は、「山水奇観 越中船橋」 64艙の舟を繋ぐ舩橋。両図とも数えてみたらそのぐらいありました。
「北斎漫画 三編 金山」の坑道の入り口付近を人物も含めてほぼ正確に写し、上部に遠くの山を加えている。 北斎が佐渡に行っていない場合、「日本山海名物図会 金山浦口」が「北斎漫画 金山」の元絵か。三ヶ所の鉱山入口と入口上の額「山神宮」が同じ。
鬼の架け橋は、兵庫県丹波市と丹波篠山市の市境の金山山頂付近、いわゆる鐘ケ坂峠に存在する自然石でできた奇勝で、2つの大岩の間に別の岩が倒れ込み、あたかも橋梁のような形状をなしている。このため、古くから大江山の鬼が架けた橋であるという民話が語り伝えられ、この構造物自体の名前になっているが、実際には15世紀中頃、地震により崩落した岩が偶然にこのような形状になったのであろうと考えられている。(文写真とも鬼の架け橋 - Wikipediaより引用 山水奇観「丹波鐘坂」の石梁の右横から切り出し横幅を少し縮めると「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」になります。 その石の橋梁は山水奇観では「石梁」と書かれ、六十余州名所図会でも「石梁」と書かれている。作品名「丹波 鐘坂」も山水奇観と同じであり、元絵の存在を隠そうとはしていない。かえって、この元絵により制作しました、と宣言しているようです。
「焚火の社」とは、現在の焼火(たくひ)神社のこと。弁天船の描き方は同じですが、構図は異なり、北斎漫画の乗員は火を振り海中に投げ入れていますが、広重は弊を振る乗員を描いています。
松の形状はスケッチから描いてます。砂浜の構図は「山水奇観 播磨舞妓濱」を参考にしているようです。 これ以前の「本朝名所 播州舞子之浜」でも同じ松の形状で浜辺を描いています。
元絵とは言いにくいが葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と北斎漫画「阿波の鳴門」を参考にして、「阿波 鳴門の風波」を描いたと思う。
(57)「六十余州名所図会 井豫 西條」の元絵は、「山水奇観 井豫 西條」 背後の山は四国最高峰、標高1982mの石槌山。山頂がこんなに平たいかと思い、カシミールで探すと平たい石槌山がありました。「山水奇観」の石鎚山に舟の帆を掛けて、雁の群れを飛ばすと、「井豫 西條」が出来上がります。
(58)「六十余州名所図会 土佐海上松魚釣」の元絵は、木村孔恭著、蔀関月画「日本山海名産図会. 」の「土佐鰹釣」 松魚(しょうぎょ)はカツオの別名。鰹節の切り口が松の木の年輪に似ていることが由来といわれています。船に乗っている漁師たちの人数も同じで、動作までよく似ています。 しかし、縦長画面を生かして、五隻の船を重ねて、その先に帆船を浮かべて奥行を出しています。
(64)「六十余州名所図会 肥後 五ヶの庄」の元絵は、葛飾北斎の「北斎漫画 肥後 五ヶの庄」 縦長画面を生かして、左の山を高く盛り上げて山深い雰囲気を出しています。
(67)「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 雙劍石」の元絵は、山水奇観「坊津其二」→伊東陵舎著「鹿児島風流(1845年)の「坊の津双剣石」 「広重の諸国六十余州旅景色」及び 日曜美術館「広重が描いた日本の絶景」 - チャンスはピンチだ。2017-04-29 などで「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 雙劍石」の元絵は、山水奇観「坊津其二」としていました。 山水奇観「坊津其二」の右側に「雙劍石」と書かれ二個の縦長の石が描かれています。広重はその雙劍石を拡大して「薩摩 坊ノ浦 雙劍石」に仕上げています。
(68)「六十余州名所図会 壱岐 志作」の元絵は、葛飾北斎の「北斎漫画 壱岐志作」。その元絵は司馬]江漢 の「 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺」
「壱岐 志作」の謎 其の一 作品名 司馬江漢→北斎→広重 江戸時代後期の風景画の三巨匠の豪華な組み合わせです。この組み合わせで「壱岐 志作」の作品名の謎が生じました。 「六十余州名所図会」の作品名は、国名のあとにはだいたい地名か、名勝、行事、時間などが補足のように付けられています。しかし壱岐には志作という地名はありません。長崎県松浦市志佐町であると指摘されています。 司馬江漢「 西遊旅譚 今福の方へ行路より眺」(1794年)では手前の山の麓付近が志作村で、右奥の島影が壱岐国です。北斎が北斎漫画七編(1817年)に写す際に「壱岐 志作」としたために、それを元絵とした広重の作品名が「壱岐 志作」となり壱岐の中に志作があるような作品名になったようです。 「壱岐 志作」の謎 其の二 雪景色 「六十余州名所図会」で冬景色は(16)「武蔵 隅田川 雪の朝」。(26)「上野榛名山 雪中」、(68)「壱岐 志作」の三作しかありません。六十余州の中では「武蔵」、「上野」は北に位置するので雪景色は妥当です。しかし、「壱岐」は温暖な気候で、雪が降ることはあっても広重が描いたように雪一色にはなりません。 万葉集に詠まれ、江戸末期に書かれた壱岐名勝図誌に壱岐の島(雪の島)の名にもなったと伝える「雪の島」が、壱岐島の北西、勝本町浦海海岸にあります。しかし、そこからの連想で雪景色にしたとは考えにくい。観光案内も兼ねる「六十余州名所図会」としては、問題な一作です。 「東海道五十三次 蒲原 夜の雪」でも、雪がほとんど積もらない温暖な気候の蒲原を、一面の雪で描いています。同じ雪景色の謎です。 「壱岐 志作」の謎 其の三 北斎漫画 風景画においてライバル視されている北斎の「北斎漫画」が次の5作品で元絵として使われている。 (36)「佐渡 金やま」 (44)「隠岐 焚火の社」 (55) 「阿波 鳴門の風波」 (64)「肥後 五かの庄」 (68)「壱岐 志作」 広重が、「富嶽三十六景 尾州不二見原」とほぼ同じ構図で団扇絵を描き、その絵に「葛飾翁の図にならいて」と記していたことから、広重は尊敬の念をこめて北斎の絵を元絵として使っていたと思います。) ![]() 「六十余州名所図会」目録と作品の「州」
「刕」について 「刕」が何故「州」かわからない。「そこで、笹原宏之早稲田大学教授の著書『国字の位相と展開』に当たってみたところ、ありました。「『州』はその書きづらさや形状・筆運びの単調さ、形の取りにくさから、点と縦画とを『立刀』と見なし、バランスを求めて再構成し、漢字『刕』と交替する例もある」とのこと。「刕」は古文書にもよく見られる字だそうで、『実習近世古文書辞典』にも「刂(リットウ)を刀(トウ)におきかえ、山型に三つ重ねた形」とありました。つまり「州」を3つの「刂」として、それが「刕」という形に変化したということになります。」 養蚕秘録 に出てくる「州」(25) 「州」と「刕」の各種崩し字が有ります。江戸時代の人は大変苦労したと思います。 ![]() |