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3 「東海道五十三次」の元絵
(1)現在の状況 広重の風景画の元絵で、複雑な状況にある揃い物は、1834年に刊行された「東海道五十三次 保永堂版」です。 広重は1832年に幕府の年間行事『八朔御馬献上』の行列に加わって東海道を旅して「東海道五十三次」保永堂版を制作したという説が有力でした。 しかし、現在では以下に示すように広重は実際は東海道を旅しておらず、広重が「東海道五十三次」を制作する以前に描かれた名所図などを元絵として、「東海道五十三次」を制作したという説が有力です。
「東海道五拾三次-解題/抄録 - 国立国会図書館デジタルコレクション」では、『東海道名所図会』ほかの多くの資料を元絵としたことを認めています。
歌川国貞の美人東海道の背景には、次の様に広重「東海道五十三次とほとんど同じ景色が描かれています。」この二作品の関係は未解決です。 また、對中如雲氏が1995年に広重「東海道五十三次」の元絵は、司馬江漢「東海道五十三次画帖」であるという説を出しました。この最も重要な提案に対して、美術界は反論を出さず、まだ決着はついていません。 (2)広重の上洛の有無と.『東海道名所図会』からの引用(元絵)の経過 戦前1930年の内田実の見解が、戦後180度変わっていきますが、2004年に鈴木重三の見解が出るまでに74年もの長い年月が有ります。 (1)1930年(昭和5年)の内田実著「広重」では、次の二点の記述がある。 ①天保の初年に八朔の御馬献上の一行に加わって京都に上り東海道を旅した ②保永堂版「東海道五十三次」や「木曾街道六十九次」のような大物を始め、その他の傑作と目すべきものには、まったく種本の影を見出し得ない。 (2)1961年(昭和36年)に、「世界名画全集 別冊 広重東海道五十三次」の「月報」で近藤市太郎が、数点「東海道名所図会」を種本としていることを報告。 (3)1965年(昭和40年)頃、鈴木重三氏が三条大橋の石橋を指摘して、「広重非上洛説」が出てきた。 (4)1983年 永田生慈氏、「広重非上洛説」に賛同する。 (5)1994年(平成 6年)五井野正氏(歌川派門人会会長)は、従来広重「東海道五十三次」の写しと言われていた歌川国貞の「美人東海道」を検討し、広重「東海道五十三次」の原画、あるいは共通モデルの存在を主張。歌川広重 「東海道五十三次旅せず描いた」読売新聞1994.7.14夕刊 (6)1995年(平成 7年)刊行 『広重「東海道五十三次」の秘密―新発見、その元絵は司馬江漢だった』 對中如雲 (著) (ノン・ブック)1995.10.1 ・1995-1997年芸術倶楽部誌上での討論、1997年 TV放映「天才広重は何を見た」などで賛否両論。その後、論争は殆ど無し。 ・~2011年大畠氏がWeb「広重江漢東海道五十三次 広重五十三次にはモデルがあった !」で、「元絵は司馬江漢」説を展開 (7)2004年(平成16年)1月23日付け「朝日新聞」夕刊で「広重東海道を旅せず」との見出し記事が掲載され、浮世絵研究の重鎮・鈴木重三氏が次の二点を明らかにした。 (「保永堂版 広重東海道五拾三次」鈴木 重三 、木村 八重子 , 大久保 純一 著岩波書店2004年発刊の紹介記事)。上記引用文の2名も著者。 ①広重が京都まで旅せず描いたのは確実。 ②55枚中26枚が三種の種本から描いた。「東海道名所図会」18枚、「伊勢参宮名所図会」2枚、「続膝栗毛」四編口絵から6枚。 (8)2020年(令和2年)25年ぶりに對中如雲氏が「東海道五十三次画帖」に関する書籍刊行し、再び「元絵は司馬江漢」説を展開。 「司馬江漢「東海道五十三次」の真実 」 對中如雲 著| 祥伝社 2020.9.30刊 広重非上洛説とこれまでに「東海道五十三次 保永堂版」の元絵として挙げられている三件について、検討しました。 ❶広重非上洛説 ❷広重「東海道五十三次」の二十年ほど前に描かれた司馬江漢の肉筆画「東海道五十三次画帖」 ❸歌川国貞の美人東海道(1834年) ❹先人が描いた各名所図会などにある10数図 3.2 広重非上洛説 (1)広重上洛説「1832年に幕府の年間行事「八朔御馬献上」の行列に加わって東海道を初めて旅した広重」 内田実氏の広重上洛説は、飯島虚心の「歌川列伝」にある次の記述によります。 「天保の初年広重幕府の内命を奉じ、京都に至り、八朔御馬進献の四季を拝観し、つぶさにその図を描きて上る。その往来行々山水の勝を探り深く観ぜる所あり。これより専ら山水を描くの志を起こせりとぞ、三世広重の話」 この記述は酒屋の主人が三世広重から聞いたという頼りないもので、実際に「御馬進献の儀」の同行した二代目広重の話と取り違えたいう説が有力です。 また、幕府には狩野派、土佐派といった立派な御用絵師がいましたから、一介の町絵師にすぎない(しかも当時はほとんど無名)広重を、写生目的で幕府の行事に同行させるなどということは、常識的に考えてまずありえないという説もあります。 (2)1961年(昭和36年)に、「世界名画全集 別冊 広重東海道五十三次」の「月報」で近藤市太郎が、数点「東海道名所図会」を種本としていることを報告。 その後の1965年(昭和40年)頃、鈴木重三氏が三条大橋の石橋を指摘して、「広重非上洛説」が出てきました。 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 京都到着 「京師 三條大橋」の元絵は、東海道名所図会 「平安城 三條橋」 三条大橋は豊臣秀吉が1589年(天正17年)に作った日本最古の石橋です。東海道名所図会 「平安城 三條橋」では石橋のように描かれていますが、広重「東海道五十三次・京師 三條大橋」では木造の橋として描いており、広重が京都に行っていないことの有力な証拠とされています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 京都到着 「藤川 棒鼻ノ図」の「お馬行列」 広重「東海道五十三次 藤川 棒鼻ノ図」の「お馬行列」には神社の御幣が描かれている。しかし、天皇は神様ではなく、御所は神社ではない。朝廷への贈り物に、御幣を立てるはずがない。 飯島虚心の記事: 江戸時代の八朔行事の内容が「紫の手綱」「馬に絹はから着せ」・・・など具体的に詳細に書いてあるが、「御幣を立てる」とは書いてない。 広重「藤川 棒鼻ノ図」の「お馬行列」は。東海道名所図会「吉田天王祭」などを参考にしたと推察する。
(4)その後、多くの元絵が確認され、2004年(平成16年)1月23日付け「朝日新聞」夕刊で「広重東海道を旅せず」との見出し記事が掲載され、浮世絵研究の重鎮・鈴木重三氏が次の二点を明らかにした。広重が実際に景色を眺めたのは大磯あたりであるというのが有力です。 ①広重が京都まで旅せず描いたのは確実。 ②55枚中26枚が三種の種本から描いた。「東海道名所図会」18枚、「伊勢参宮名所図会」2枚、「続膝栗毛」四編口絵から6枚。 近年は、専門家の間では「広重非上洛説」は、暗黙の了解事項となっているようです。 しかし、多くの書物、Webサイトでは上洛した後東海道五十三次を制作したとして、作品解説を行っています。 一例として、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「歌川広重」の解説。部分。 「天保3年,幕府八朔御馬 (はっさくおうま) 献上の一行に加わり東海道を旅行。このとき写生した道中の風景,風俗を基に翌年から保永堂版『東海道五拾三次』 55枚を発表,出世作となる。その後 37種類の東海道シリーズを描くが,保永堂版を凌駕する作品はない。」 3.3 広重「東海道五十三次 保永堂版」の元絵は、司馬江漢の肉筆画の「東海道五十三次画帖」 広重は実際は東海道を旅しておらず、『東海道五十三次』保永堂版(1833-1834年)は、その二十年ほど前に描かれた司馬江漢の肉筆画の「東海道五十三次画帖」を元に制作したという説があります。 伊豆高原美術館長の對中如雲が、55枚中50枚が広重「東海道五十三次」と同じ図柄であるその司馬江漢の画帖を発見したのが発端です。これが本当とすると一大事件ですが、美術界ではこの問題を真剣に追求していないためか、Webサイト上で司馬江漢の「東海道五十三次画帖」が偽物であり、広重「東海道五十三次」の元絵ではないという納得する説明が見つかりません。 そのため、司馬江漢作の画帖の真贋については、長い間決着がついていませんでしたが、2020年(令和2年)、25年ぶりに對中如雲氏が「東海道五十三次画帖」に関する書籍刊行し、再び「元絵は司馬江漢」説を展開してます。しかし、美術界からの公の反論はまだ無いようです。 参考書物と文献 ・1995年発刊、司馬江漢の肉筆画の「東海道五十三次画帖」を元に、広重が「東海道五十三次」を制作したという説 『広重「東海道五十三次」の秘密―新発見、その元絵は司馬江漢だった』 對中如雲 (著) (ノン・ブック)1995.10.1 ・2020年発刊、25年ぶりに刊行された最新の對中如雲の「東海道五十三次画帖」に関する書籍 ここで掲載した「東海道五十三次画帖」の画像は以下の書籍から引用しました。 「司馬江漢「東海道五十三次」の真実 」 對中如雲 著| 祥伝社 2020.9.30刊(以後 對中2020刊行本) ・大畠氏がWebで展開した「東海道五十三次画帖」を元に、広重が「東海道五十三次」を制作したという説 「広重江漢東海道五十三次 広重五十三次にはモデルがあった !」(以後 大畠HP) 「東海道五十三次画帖」を元に、広重が「東海道五十三次」を制作したという説制作したという研究論文 ・広重の版画と江漢作らしい油絵 - 人文系データベース協議会 第7回公開シンポジウム「人文科学とデータベース」 2001.11.17 (1)広重「東海道五十三次 庄野 白雨」と江漢「東海道五十三次 庄野」 どちらかが元絵です。 広重「東海道五十三次」保永堂版 「庄野 白雨」は、その連作集の中で最高傑作と言われている作品です。 「庄野」は三重県の地名で、「白雨」とは、夕立やにわか雨のことです。とくにこの場所が名所ではなく街道の一地点ですので、「東海道名所図会」などにも参考とする図はありません。そのなかで、このように、広重「東海道五十三次 庄野」と江漢「東海道五十三次 庄野」がほとんど同じ景色を描いています。駕籠舁きと旅人の配置は全く同じで、偶然の一致とは考えられません。 そのため、どちらかの作品が、先に描かれた作品を元絵として描いたことになります。 ①司馬江漢「東海道五十三次 庄野」を元絵として、広重が「東海道五十三次 庄野」を描いた。 ②広重「東海道五十三次 庄野」を元絵として、司馬江漢を騙る人物が「東海道五十三次 庄野」を描いた。 しかし、この作品からではどちらが先に描かれた決めることはできません。
(2)江漢「東海道五十三次」を元絵として広重が「東海道五十三次」を描いた。 司馬江漢「東海道五十三次」を元絵として広重が「東海道五十三次 」を描いたとする多くの作品から、三作品を示します。 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 6 「藤澤 遊行寺」 Ⓐ「藤沢」の遊行寺は、 1831(天保2)年 12月 27日に焼失し、再建は 5年後(大畠、藤沢市史)なので、広重は翌年の夏にも、五十三次刊行の前後にも見ることはできなかった。広重が江漢絵を真似た決定的な証拠の一つ。 Ⓑまた江漢は構図の関係で寺を高い位置に描いた(江漢には他にもこの種の変更の事例がある〉が、広重はこれを理解せず、実在しない階段を描き足してしまった。 Ⓒ逆に江漢は実在の寺門を小さく描いているが、広重は見落としている。これも広重画から江漢絵を真似たのではない、決定的な証拠の一つである。 (對中2020刊行本より)
■広重「東海道五十三次」保永堂版 12 「沼津 黄昏図」 江漢「沼津」を描いた場所は、大畠氏HPと對中2020刊行本で異なるが、どちらからも月が見えるのは早朝です。江漢「沼津」は月の光のもと、早朝に出発する三人の旅人の図です。三人の進む先は、天狗寺で知られる大雄山最乗寺(道了尊)です。 しかし、広重は、東海道として描くために改変を行う。白装束の金比羅詣り、ひしゃくを持った西国巡礼、黄瀬川橋らしき橋、その奥に宿場町を描き満月の黄昏時に宿場に急ぐ旅人の図にした。そのため、夕方、東の空にある満月が、西の空にある景色になってしまいました。 江漢「東海道五十三次」は東海道の街道、宿場を描くことが目的ではないため、「舞阪」でも街道から外れた舘山寺の光景を描いています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 15 「蒲原 夜之雪」 「蒲原 夜之雪」は、「東海道五十三次」保永堂版のなかでも突出した傑作と言われている作品です。 大畠氏は以下のことから、司馬江漢は実際の風景から蒲原の作品を描き、広重はそれを元絵として「蒲原 夜之雪」を描いたとしています。 「蒲原宿には、広重の写生場所を示す立派な「夜の雪」記念碑があるが、実際の風景とまるで違うことで有名です。蒲原は御殿山の山裾に沿った宿場で、空が見えないほど御殿山が大きい。広重図は、左の方に山が小さく描かれ空が広い。 カシミールで探した結果、蒲原宿から5kmも離れた蒲原駅付近の海岸寄りに、江漢図とそっくりな風景を発見した。 ①平方根記号のような丘 ②双頭の山 ③頂上が沢山ある山 ・・・など風景の要素が全部揃っており、議論の余地がない。」 大畠HPより引用 「蒲原 夜之雪」について、現実の蒲原にはこのような豪雪が見ることはできず、広重の創作した風景ではないかといわれています。 對中氏は「對中2020刊行本」で、1813年(文化十年)の初春に、蒲原にも雪が降り、江漢はその雪景色を描き、広重がそれを元絵にして「蒲原 夜之雪」を描いたという仮説を提出しています。
また、広重「東海道五十三次」には次のような謎がありますが、江漢「東海道五十三次」によりその謎が説明できます。(大畠HPで詳細な説明があります) ・東海道を旅せず、名所図会などにもない街道の景色を、広重は何故描けたか ・異摺りの謎:「大津」「池鯉鮒」に「山がない刷り」と「山がある刷り」が存在する。 ・「日本橋」「品川」「川崎」「神奈川」「戸塚」「小田原」に再刻版の謎がある。 初版刊行の3-4ヶ月後に、最初の版木を破棄して図柄を描き直してたもので、膨大な金と手間を掛けてまで図柄を変えた理由 (3)江漢「東海道五十三次」は、司馬江漢が描いたか。 次の二点から、江漢「東海道五十三次」は司馬江漢が描いたとする。 ①山形大学助教授(当時)の守屋誠二氏のコンピューター解析の結果、「京都」「関」「掛川」「神奈川」の四点で使われた「司馬江漢」印が、江漢真筆と認められている「春宮図」の印とほぼ完全に一致。 ②江漢から山嶺主馬あてに1813年6月付江漢書簡には,次のように書かれている。その中にの「日本勝景色富士」が江漢「東海道五十三次」であり、何らかの理由により保永堂と広重の元絵になったと推定する。 「去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。 この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。」 (4)江漢作と称する画帖そのものが、後世たぶん昭和以降に描かれた贋作であるという説(1995年発刊書に対して)があります。 司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について 次に示すように、「宮」で描かれているのは熱田神宮ではなく、伊勢神宮であることを指摘して、贋作の根拠としてます。 『いわゆる江漢図という中の「宮」では、熱田神宮の本殿が描かれています。 ところがこれはまったくおかしいのです。というのは、図では、伊勢神宮の本殿と同じ「神明造」という形式ですが、熱田神宮が「神明造」になったのは、明治26年であり、それ以前は「尾張造り」という建築様式だったからです「尾張造」というのは本殿・拝殿・門などが一直線に配置される構造に特徴があります。 一方神明造というのは、建物の上にA「千木」というV字形の飾りとB「鰹木(かつおぎ)」という丸太を横にしたような形の飾りが載っているものです。 熱田神宮の本殿には、千木も堅魚木もありません。従って、江戸時代の作なのに「神明造」で描かれていることから、この「江漢作と称する絵」は間違いなく贋作と結論づけられます。そして東海道の宿場を描いた連作ですから、一つが贋作なら後のすべても、当然贋作ということになるわけです。』
この贋作説に対して、對中は(對中2020刊行本)で、この図は神明造りの神宮で、熱田神宮ではなく、伊勢神宮外宮の拝殿であるとしてます。何故、熱田神宮から百キロも離れた伊勢神宮を描いたかについて次のように記述してます。 ・東海道五十三次」、「宮」とは江漢が命題したわけではない。近代以前、絵画に画家自らが題名をつける例はむしろ珍しい。 ・江漢が描こうとしたのは「かって日本にない蘭法で描いた「日本勝景色」の早春譜である。 ・画譜中に、東海道筋から離れた場所がしばしば登場しても、何ら不思議ではないのである。 ・広重「東海道五十三次」と江漢「東海道五十三次」で全く異なる作品が三点ある「京都」「宮」「赤坂」。 もし、江漢「東海道五十三次」が、後世の偽作であれば、わざわざ全然構図の違う三点も挿入するはずがない。このことからしても江漢「東海道五十三次」が広重より先行するすることは疑いないのである。 さらに、「京都」「宮」を描いたのは、江漢の秘められた勤皇論としています。 「京都」「宮」「赤坂」とまったく異なる図を描いたのは広重とすると、危険な勤皇論を含んだ江漢の「京都」「宮」を採用できないことは納得できます。 江漢の「赤坂」は隣の宿場「御油」同じ絵柄で面白みに欠けるため、旅籠の中の光景としてます。 以上の検討から、『「江漢「東海道五十三次」を元絵として、広重が「東海道五十三次」を描いた』と、私も考えています。 美術界の江漢「東海道五十三次」の真剣な検討と、討論が望まれます。 3.4 広重「東海道五十三次 保永堂版」と歌川国貞の「東海道五十三次之内(美人東海道)」 (1)広重の五十三次を背景に写して、国定が美人東海道を描いた 歌川国貞の美人東海道の背景には、次の様に広重五十三次とほとんど同じ景色が描かれています。 現在、展示している美術館の説明では国貞の「美人東海道」の刊行年は1836年、広重の「五十三次」の刊行年1835年より一年後で、「美人東海道」の背景に広重作品を写していると記載されている。従来と同じように、広重の五十三次を背景に写して、国定が美人東海道を描いたというのが現在の美術界の定説のようです。 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 「箱根 湖水図」と国貞「東海道五十三次之内(美人東海道) 箱根之図」
■広重「東海道五十三次」保永堂版 「金谷 大井川沿岸」と東海道五十三次之内(美人東海道) 金谷之図
「浮世絵に聞く!」では、その定説と同じく、国貞が広重の東海道の風景をそのまま転用したとして、各五十三次で両作品の検討を行っています。
(2)広重「東海道五十三次」の原画、あるいは共通モデルの存在 しかし、五井野正氏(歌川派門人会会長)は、1994年に広重「東海道五十三次」の原画、あるいは共通モデルの存在を主張しています。 「兄弟子格である国貞が弟弟子に当たる広重の作品をコピーするはずがない」というのが主な根拠です。 歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年〈1786年〉 - 元治元年〈1865年)は、江戸時代の浮世絵師でのちの三代目歌川豊国。歌川 国貞は歌川広重(1797年 - 1858年)より11歳年上で、同じ歌川門下の兄弟子となります。
また、對中如雲は、2020年発刊の『司馬江漢「東海道五十三次」の真実 』で次の様に記述しています。 『広重のみならず、当時格上の国貞も、広重を通して江漢「東海道五十三次」を元絵にしていたわけである。』
大畠氏はこれまでの定説のように、国貞が広重五十三次を単純コピーしたと記述しています。
大畠氏が述べた「実写によるオリジナルな部分がある」例として、「平塚 縄手道」検討を次に示します。 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 「平塚 縄手道」と司馬江漢「東海道五十三次」と「美人東海道 平塚之図」 中央の山は高麗山。高麗寺山から現在の高麗山になった。7世紀に滅亡した高句麗からの亡命者の一部がこの付近に定住し、寺院を建立してこの名をつけたと考えられている。 広重の描いた地点から富士山は高麗山の右側に見えます。司馬江漢はさらに進んだ富士山が見えない所から高麗山を描いています。広重は平塚までは実際にきて「平塚 縄手道」を描いており、司馬江漢の図を写してはいません。 この道を進んでも国貞「美人東海道」のように高麗山の左側に富士山は見えません。国貞「美人東海道」は、道にかかる橋まで広重「東海道五十三次」と同じで、この作品では司馬江漢作品ではなく、広重作品を元に「美人東海道 平塚」を描いています。美人との位置関係で富士山を高麗山の左側に移動したと思います。国貞は富士山の位置に無頓着で、「江戸日本橋」では司馬江漢図、広重図では描いていない富士山を日本橋の左上に描いています。
私は大畠説に賛同します。しかし、この頃の浮世絵師たちは、実景を忠実に描くことにさほどこだわりは有りません。司馬江漢「東海道五十三次 平塚」を元絵に平塚の背景を描き、どこかに富士山を入れたほうが良いとして、構図の関係から高麗山の左側に描いたかもしれません。 (3)「美人東海道」、画中にある「応需」 国貞が広重の東海道シリーズを元絵に「美人東海道」を描いた過程に、画中にある「応需」の解釈により、二つの説があります
「応需」の意味と、「美人東海道」の「応需」の見解
根拠はありませんが、次のように大胆に推察します。版元と歌川派の総領が,相乗効果により作品が売れることを期待して、歌川派にあった司馬江漢「東海道五十三次」をもとに、風景画と美人画を広重と国貞に描かせた。国貞は広重が描いた風景画を参考にして美人画に取り入れた。美人の配置により、広重と異なる風景となった作品もある。 国貞が美人東海道(1836)を刊行した18年後の、1854年( 安政元年)に、 歌川広重と三代豊国(歌川国貞)の合作『双筆五十三次』55枚揃物が刊行されています。 豊国(国貞)が人物を、広重が風景を描いたコラボ作品です。美人東海道(1836)を刊行した後も、二人の関係はよかった証拠です。 『双筆五十三次 平塚』では、広重は馬入川(相模川の河口付近)からの富士山と丹沢山地を描いています。 『双筆五十三次 箱根』では、広重は箱根湯本の三枚橋と双子山を描いています。
3.5 「東海道五十三次 保永堂版」(1832年)では、先に刊行された名所図会などにある10数図を元絵にしている。 平成16年(2004年)1月23日付け「朝日新聞」夕刊で「広重東海道を旅せずとの見出し記事が掲載され、浮世絵研究の重鎮・鈴木重三氏が、次の二点を明らかにした。 ①広重が京都まで旅せず描いたのは確実。 ②55枚中26枚が三種の種本から描いた。「東海道名所図会」18枚、「伊勢参宮名所図会」2枚、「続膝栗毛」四編口絵から6枚。 広重「東海道五十三次」の元絵は、浮世絵関連の文献、書物では掲載されていると思いますが、Webで明示しているサイトは「大畠HP」」だけです。そのサイトを参考に元絵検討を行いました。 私は、基本的には江漢「東海道五十三次」を元絵として、「東海道名所図会」なども参考にして制作したと考えます。 しかし、ここでは江漢「東海道五十三次」との関係は述べません。これを入れて検討するとかなり複雑で、より多くの説明が必要となります。 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 13 「原」の元絵は、東海道名所図会「吉原駅-田子の浦」。 東海道名所図会「吉原駅-田子の浦」では、何故か富士山に雲がかかっています。広重はこの雲を除き、富士山と愛鷹山が向かい合う姿を主題にしています。富士山左すそ野の後ろの山は毛無山です。さらに、富士山の山頂は枠内からはみ出して、その高さを強調しています。 東海道名所図会:著者は秋里籬島。円山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など約30人の絵師が200点を越える挿絵を担当。寛政9年(1797年)に6巻6冊が刊行された。 「原」の枠内からはみ出す富士山については、広重の大胆で斬新な発想と感心しました。しかし、これは20年ほど前に発行された「諸国道中金の草鞋. 2 海道の原-吉原 十返舎一九 著 ; 喜多川月麿 画」が元絵としてあったようです。そこでは、御嶽山もはみ出しています。広重は、このように名所図だけではなく、多くの刊行書籍を参考にしています。 広重、北斎の「はみ出す富士山」は「はみ出す富士山ー広重と北斎|太田記念美術館」で見られます。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 17 「興津 興津川」の元絵は、東海道名所図会 「「安倍川」 東海道名所図会 「安倍川」の登場人物が、広重「興津 興津川」に使われています。 広重「東海道五十三次」保永堂版の19に 「府中 安倍川」がありますが、東海道名所図会 「安倍川」の一部が変形して使われたかもしれません。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 17 「江尻 三保遠望」の元絵は、東海道名所図会 「久能山上望三保崎」 東海道名所図会 「久能山上望三保崎」では、三保の松原の奥にある伊豆半島の陸地まで描いていますが、広重「江尻 三保遠望」では伊豆の陸地を消して海だけ描いています。陸地を消して、帆船の大きさを変えていくことで、奥行きのある景色になっています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 23 「嶋田 大井川駿岸」の元絵は、東海道名所図会 「大井川」 ■広重「東海道五十三次」保永堂版 24 「金谷 大井川遠岸」の元絵は、東海道名所図会 「大井川」 大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄にもあるように、一朝雨が降ると水かさが増して川止めとなって渡ることが出来ませんでした。広重は、この島田と対岸の金谷ともに大井川の川渡しのさまを描いています。 大井川は駿河国と遠江国の境を流れる川で、嶋田は駿河国のため駿岸、金谷は遠江国のため遠岸。大名行列と一般庶民の川渡を二つに分けています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 25 「日坂 小夜ノ中山」の元絵は、東海道名所図会 「佐夜中山」 小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。その小夜の中山峠に夜泣き石(よなきいし)があり、夜になると泣くという伝説があり、遠州七不思議のひとつに数えられる
■広重「東海道五十三次」保永堂版 34 「吉田 豊川ノ橋」の元絵は、東海道名所図会 「「吉田豊川」 広重は、吉田城を改装中にして大きく描いています。改装中の城を近景に入れ、川を中景、山並みを遠景にして奥行きを出しています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 36 「赤阪 旅舎招婦ノ図」の元絵は、北斎 道中画譜 「関」 江漢「東海道五十三次 御油」では宿場風景ですが、赤坂も同じ宿場風景のため、広重「赤坂」は旅籠の光景になっています。 赤坂と御油、この二ヵ所は東海道五十三次の中で 、駅間距離16丁(1丁は約109m)と最も距離の少ない宿駅です。だから、宿泊客争奪戦が激しく、御油に勝つために赤坂は当代随一の風俗営業の多かった地として旅人にはつとに有名 になっっています。その競争を描くためか、御油の副題は「旅舎招婦ノ図」です。「招婦」は「飯盛り女」「宿場女郎」 広重「赤阪 旅舎招婦ノ図」の構図は、 北斎 道中画譜 「関」の構図と同じで、登場人物も風呂上り、あんま、寝転ぶというところは同じです。「関」は東海道五十三次の47番目のの宿場です。 副題になった「招婦」は、葛飾北斎「東海道五十三次」・御油の紅を拭く飯盛り女を元絵にしています。「手拭いで口紅を拭き取る」を見逃さずに描いた図は、後にも先にもこの2枚だけである。(大畠HP) 北斎は、享和から文化年間(1801~18)の中頃にかけて、7種の東海道五十三次のシリーズを描いています。 芭蕉の句「夏の月 御油より出でて 赤坂や」があります。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 38 「岡崎 矢矧之橋」の元絵は、東海道名所図会 「「吉田豊川」 岡崎は、家康ゆかりの地であり、矢矧川水運の基地として、西三河地方の経済、文化、交通の中心都市として栄えました。矢矧川に架けられた370メートルもある街道一長い橋の上を、大名行列が進みます。広重は、矢作川の近くに岡崎城を移動させています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 39 「池鯉鮒 首夏馬市」の元絵は、東海道名所図会 「池鯉鮒駅」 池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく/ちりゅうじゅく)は、東海道五十三次の39番目の宿場である。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。 馬市が立ったことで知られており、毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 広重「池鯉鮒 首夏馬市」では、馬がいる野原の景色のようですが、大きな木の下で売り手の馬飼と買い手の馬喰が競りを行います。 東海道名所図会 「池鯉鮒駅」馬を見ながら競りを行っており、馬市の雰囲気があります。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 42 「桑名 七里渡口」の元絵は、伊勢参宮名所図会 「桑名渡口」 桑名湊の渡り口で、広重「桑名 七里渡口」では、桑名城のやぐらの前に大きな帆船が2隻描かれています。伊勢参宮名所図会 「桑名渡口」の右側の景色とほとんど同じですが、城の横の海に陸地、城の横に水平線を加えて描き、奥行きのある景色にしています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 47 「関 本陣早立」の元絵は、伊勢参宮名所図会 「坂の下」 伊勢参宮名所図会 「坂の下」の雲の下の本陣を切り取って描いています。街道を行く参勤交代の大名諸侯や高貴な人が宿泊・休息した場所が、本陣と呼ばれる施設です。まだ明けやらない早朝、本陣での大名一行の早立ち支度の風景が描かれています。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 48 「阪之下 筆捨嶺」の元絵は、東海道名所図会 「筆捨山」 「坂之下 筆捨嶺」とあるので峠の茶屋が筆捨峠と思ったが、ここで「嶺」は山で左の山が「筆捨山」 筆捨山に 滝が描かれているが、じっさいは筆捨山には滝はない。 広重「阪之下 筆捨嶺」は、東海道名所図会 「筆捨山」の茶屋の部分を拡大して前景に描いている。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 51 「石部 目川ノ里」の元絵は、東海道名所図会 「石部」の「目川」 1961年(昭和36年)近藤市太郎氏の発見で、「広重、東海道を旅せず」問題の発端になった作品です。 広重「石部 目川ノ里」は、遠景の山を除けば東海道名所図会 「石部」の挿絵「目川」とほぼ同じで、作品名もほぼ同じです。東海道名所図会を元絵にしたことを隠そうとはしていません。かえって、これを元絵にして書きましたと言っているような作品です。 これほど、元絵として明らかな作品が、元絵がもっともありそうな東海道名所図会にあるにもかかわらず、1961年まで発見されなかったことが不思議でもあります。
■広重「東海道五十三次」保永堂版 52 「草津 名物立場」の元絵は、東海道名所図会 「草津の姥ヶ茶屋」 草津宿を出て矢倉村にあった立場茶屋の風景です。看板には「うばもちや」と書かれ、ここで提供されるのが「姥が餅」。 駕籠かきの図の元絵は、「続膝栗毛口絵」の「道中ゆきかい振り」にある十返舎一九画の駕籠かきの図です。
3.6 「東海道五十三次 保永堂版」の元絵のまとめ (1)広重は1832年に幕府の年間行事『八朔御馬献上』の行列に加わって東海道を旅して「東海道五十三次」保永堂版を制作したという説が有力でした。しかし、2004年に鈴木重三氏が、次の二点を発表し、現在はこの説が有力です。 ①広重が京都まで旅せず描いたのは確実。 ②55枚中26枚が三種の種本から描いた。「東海道名所図会」18枚、「伊勢参宮名所図会」2枚、「続膝栗毛」四編口絵から6枚。 <『江漢「東海道五十三次」を元絵として、広重が「東海道五十三次」を描いた』(2)江漢「東海道五十三次」を元絵として、下記により広重が「東海道五十三次」を描いたとする對中如雲説。私も同感です。美術界が対応しないため結論は出ていません。 ①守屋誠二氏のコンピューター解析の結果、江漢「東海道五十三次」の「司馬江漢」印が、江漢真筆と認められている「春宮図」の印とほぼ 完全に一致。 ②広重「東海道五十三次」55枚中50枚が江漢「東海道五十三次」と同じ図柄である。 ③東海道を旅せず、名所図会などにもない街道の景色を、広重は何故描けたか。 (3) 歌川国貞の美人東海道の背景には、次の様に広重五十三次とほとんど同じ景色が描かれています。 ①広重の五十三次を背景に写して、国定が美人東海道を描いたというのが現在の美術界の定説のようです。 ②版元と歌川派の総領が,相乗効果により作品が売れることを期待して、歌川派にあった司馬江漢「東海道五十三次」をもとに、 風景画と美人画を広重と国貞に描かせた。国貞は広重が描いた風景画を参考にして美人画に取り入れた。(当方の独断的見解) (4) 広重は、江漢「東海道五十三次」を主な元絵として、その他「東海道名所図会」、「伊勢参宮名所図会」なども参考にして、「東海道五十三次」を描いた。実際に眺めて、独自の構成で描いたのは「平塚」 ①山構図には「北斎画」、「月麿 画」なども使われている。 ②広重が旅したのは大磯までとされているが、その九次でも八次では江漢「東海道五十三次」と同じ構図です。 広重が実際に眺め自分の構図で描いたのは、八次目「平塚」だけと推察します。 ![]() 現在、平塚高麗山付近の道から富士山は見えます ![]() 広重「東海道五十三次」保永堂版 「平塚 縄手道」 東海道五十三次「平塚」 - Wikipediaより引用 大畠氏は「高麗山に吸い込まれる白富士。現在の平塚では、東海道を歩いても、家並みに邪魔されてこの風景を見るのは無理であるが、JR東海道線の車窓から見ることが出来る。」と書きましたが、、平塚の道からも「高麗山に吸い込まれる白富士」を見ることができました。 高麗山の横にある花水川と古花水橋の間で見える高麗山と富士山
「これより平塚宿」の榜示杭、立て札、道標をいれ、地名、山名を記入して平塚宿を描いた作品が、他に二枚あります。広重が平塚に来た証拠として次に示します。
また、河村岷雪「百富士」 (1767)の「平塚」が広重「平塚 縄手道」(1834年)と同じ場所から描いたと思われるます。300年ほど前の作品ですが、次の四点を除けば現在の花水橋付近の景色と一致します、①富士山が大きい ②大山が富士山と近すぎる③花水河は奥の方でゃなく右に流れている④富士山の後ろの山が見える。 河村 岷雪(かわむら みんせつ、生没年不詳)は、江戸時代中期の書画家。『百富士』(全四冊。1767年(明和4年))を版行。葛飾北斎の『富嶽三十六景』(1831 - 34年(天保2-5年)頃。以下、「三十六景」とする。)・『富嶽百景』(初編:1834年(天保5年))等、複数図から『百富士』との関連が見いだせる。北斎は『百富士』を絵として数枚の富士山を描いています(『三十六景』「深川万年橋下」、『百景』二編「七橋一覧の不二」など) 広重が、一画面に高麗寺山、富士山、大山を描くのは、この「百富士 平塚」を参考にしたかもしれません。 元絵とは関係ありませんが、河村岷雪は富士山の後ろの実際には見えない山を描くのが好きです。その影響からか、北斎も広重も実際には見えない富士山の後ろの山を描いています。花水川付近から富士山の後ろに、越前岳、悪沢岳が見えるのは、800m上空に飛び上がる必要があります。 ![]() 河村岷雪「百富士」 (1767)の「平塚」 富士山関係資料デジタルライブラリー 百富士 静岡県立中央図書館より引用 ![]() ![]() 花水橋右側の上空800mからの富士山と、富士山の後ろにある越前岳と悪沢岳のカシバード画像。大山は右側にあります。 以上により、広重は平塚に来て実際の景色を眺めて、「東海道五十三次 平塚 縄手道」を描いた。司馬江漢「東海同五十三次 平塚」は前景の縄手道を少し参考にしたかもしれない。国貞は、司馬江漢作品ではなく、広重作品をもとに「美人東海道 平塚之図」を描いたと推察します。 現在住んでいるところが平塚市の横の藤沢市のため、「東海道五十三次 平塚 縄手道」の必要でないことも、執拗に調べました。 次へ→ 4 「東海道五十三次・原」の元絵
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