新説:歌川広重「甲斐御坂越」の元絵は椿椿山「御坂嶺河口湖両景」






1 新説:歌川広重の「冨士三十六景甲斐御坂越」の元絵は、「甲斐叢記」の挿絵である椿椿山の「御坂嶺河口湖両景」

1.1 歌川広重の「冨士三十六景 甲斐御坂越」に関する新説を提示します。



歌川広重は御坂峠、河口湖を眺めたことはなく、「甲斐叢記」の挿絵である椿椿山の「御坂嶺河口湖両景」を元絵にして、「冨士三十六景 甲斐御坂越」を描いた。 





 




 図1 「甲斐叢記」の椿椿山の挿絵「御坂嶺 河口湖 両景」
  図2 歌川広重「冨士三十六景 甲斐御坂越
  図1 「甲斐叢記」の椿椿山の挿絵「御坂嶺河口湖両景」

甲斐叢記. 前輯5巻 12/58- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
  図2 歌川広重「冨士三十六景 甲斐御坂越

 歌川広重- ボストン美術館 - 浮世絵検索より引用



1.2 [甲州叢記]は1881年発刊で、「冨士三十六景」1859年発刊の8年前



「甲斐叢記」の椿椿山の挿絵「御坂嶺河口湖両景」は1851年に刊行
 
「甲斐叢記」は、甲斐一国の地誌で、「甲斐名所図会」ともいいます。内容は、甲斐を九筋の道路にわけて、道路毎に山川・村落・神祠・仏閣・名所・古跡についてまとめたもので、本書は10巻から成り、前輯5冊は嘉永4年(1851)に刊行されたが、著者の大森善庵・快庵が続けて没したため、後輯5冊は明治24年(1881)から同26年にかけて刊行されました。

甲斐叢記 | 日本古典籍データセット

甲州叢記の挿絵「御坂嶺河口湖両景」は前輯5冊の巻之五にあるので、1851年に刊行されています。


椿 椿山


椿 椿山(つばき ちんざん、享和元年6月4日(1801年7月14日) - 嘉永7年7月13日(1854年8月6日))は江戸時代後期の日本の文人画家である。江戸小石川天神に生まれる。主に花鳥画、人物画を得意とした。

はじめ金子金陵に就いて沈南蘋風の花鳥画を学んだが、金陵が死没してしまい、その師・谷文晁に一時入門する。17歳の頃、同門の渡辺崋山を慕い崋山塾に入門。崋山を終生の師とする。

作品『久能山真景図』作品紹介 - 山種美術館



図3 椿山自画像

図3 椿山自画像
椿椿山 - Wikipedia

挿絵「御坂嶺 河口湖 両景」の制作について

「椿椿山(1801~54)は江戸時代末期の画家。幕府槍組同心で、絵を金子金陵、後に谷文晁門下の渡辺華山に師事し、花鳥画や肖像画を得意とした。淡い色彩で描かれた本作も、その特色を反映するものである。椿山は『甲斐名勝志』の挿絵制作のために甲州を訪れたと言われている。」(「甲斐名勝志」は挿絵がないので「甲斐叢記」か」)

山梨県立博物館の収蔵資料詳細情報ページ





「冨士三十六景」は1858年に制作されています。「御坂嶺河口湖両景」は1951年に刊行の7年前です。その7年間で広重が甲州叢記の挿絵「御坂嶺河口湖両景」を眺めることは可能です。



 歌川広重「冨士三十六景 甲斐御坂越は1859年刊行
 
  歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
(*昭和の頃は「安藤広重でした」)

歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。

天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
歌川広重 - Wikipedia


不二三十六景(ふじさんじゅうろっけい)、および、冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)は、歌川広重による富士山を主題とした浮世絵風景画36作品のシリーズ。それぞれ、嘉永5年(1852年)に佐野屋喜兵衛、広重没後の安政6年(1859年)に蔦屋吉蔵より出版開始された。

「甲斐御坂越」は、[冨士三十六景]にあります。

不二三十六景 - Wikipedia


 
 図4 広重の死絵(3代豊国筆
図4 広重の死絵(3代豊国筆