![]() |
2 椿椿山の「甲斐叢記」の「御坂嶺河口湖両景」 2.1 椿椿山の「御坂嶺河口湖両景」 嘉永4年(1851年)の制作 御坂峠からの富士山に関連する絵画作品として図3の「甲斐叢記(かいそうき)」の挿絵があります。「御坂峠」のページではなく、二つ後の「河口湖」の挿絵です。しかし、目録には「河口湖并図」とあり、挿絵には「御坂嶺河口湖両景」とあります。 甲斐叢記の挿絵の作者に椿椿山(つばきちんざん)の名があるので、この落款は「椿山」だと思います。 しかし、この落款印は、「甲斐叢記」の中には、この挿絵「御坂嶺河口湖両景」にしかないようで、江戸の画家が甲斐まで来たのに、挿絵を一枚しか描かないとは不思議ですが、この稿では、椿山の作品としてその制作過程を検討します。題名の他、「産屋嵜」、「鵜島」の文字が絵の中に書かれています。 2.2 椿椿山の「御坂嶺河口湖両景」を描いた場所を探す 広重の「甲斐御坂越」を描いた場所の探索は、下記サイトで行われています。この詳細検討を参考にして椿椿山「御坂嶺河口湖両景」の描いた場所の探索を行いました。 甲斐御坂越(冨士三十六景) - 富士山はどの場所の視点から描かれているのか?-fujigoko.TV 「御坂嶺河口湖両景」は、標高がかなり高いところ処からの鳥瞰図として、富士山と河口湖を描かれています。 絵の中の寸法は実際の景色とは異なると思いますが、絵の中にある産屋嵜(うぶやさき)、富士山、鵜島(うしま)の位置関係は正しく描いたと仮定して、この挿絵を描いた場所を探します。 *現在「産屋嵜」は「産屋ヶ崎(うぶやがさき)」、「鵜島」は「鵜の島(うのしま)」。「うの島」と表記されていますが、ここでは椿山の表記を使います。 描いた場所は、感覚的に産屋嵜と鵜島の間の中心から少し右側と思いますが、数値を基に求めます。 産屋嵜と富士山との間の長さ:富士山と鵜島の間の長さ=114:100 ![]() 図4 「御坂嶺河口湖両景」の産屋嵜、富士山、鵜島の長さ測定 カシミール地図の鵜島と産屋嵜との間の114:100となる地点に黒印をつけます。 ![]() 図5 産屋嵜-鵜島の114:100となる地点 産屋嵜-鵜島の114:100となる地点と富士山頂上の中心を結び河口湖の北側に伸ばします。この線上から眺めると、「産屋嵜と富士山との間の長さ:富士山と鵜島の間の長さ=114:100」となります、その線は広瀬と大石の長崎のトンネルの上の小山を通り御坂峠の少し西側を通過します。この線上のどこかから「御坂嶺 河口湖 両景」が描かれたことになります。 ![]() ![]() 図6 産屋嵜-鵜島の114:100となる地点と富士山頂上の中心を結ぶ線 この図6の赤線で示した地点で、椿椿山がいけるところは、長崎トンネル上の小山地点Aと、その下の湖の岸です。地点Aの少し上までは行けるとしても、更にその上には道がありません。そこで、椿椿山が眺めた景色として、長崎トンネル上の小山地点A付近と、その下の湖の岸および御坂峠及び付近の山道を調べます。 初めに、図5の長崎のトンネル上の小山の地点Aからのカシバード画像図7を示します。地点Aで対地高度2mの画像ですので、産屋嵜と鵜島の水平位置はほぼ同じです。河口湖の標高は831mで地点Aの標高はほぼ1000mですので河口湖から171m上からの撮影です。ここからは、湖全体が見渡せます。 図7で寸法測定を行います。 カシバード画像は「産屋嵜と富士山との間の長さ:富士山と鵜島の間の長さ=112:100」 椿椿山の挿絵は「産屋嵜と富士山との間の長さ:富士山と鵜島の間の長さ=114:100」 カシバード画像寸法比は「御坂嶺河口湖両景」の98%でかなり一致しています。カシバード画像で114:100になるように、視点位置を決めたので、この2%の誤差は、作業行程で生じた誤差と判断します。椿椿山「御坂嶺河口湖両景」は、産屋嵜が少し高い位置にありますがほぼ同じで、カシバード画像との違いは小さいです。実景と挿絵で、産屋嵜と鵜島の位置関係と長さがかなり一致しているようです。 ![]() 図7 産屋嵜-鵜島の114:100となる地点と富士山頂上の中心を結ぶ線じょうにある地点Aからのカシバード画像の寸法測定 ![]() 図8 産屋嵜-鵜島の114:100となる地点と富士山頂上の中心を結ぶ線じょうにある地点Aからのカシバード画像 Googleストリートビューで、長崎のトンネル付近の画像を探すと、道の記載は無いのですが長崎のトンネルの上の小山に丸印があり、そこからの写真画像図9が見られます。図5にその場所を記載しています。「御坂嶺河口湖両景」の景観を見るために設置したような撮影ポイントポイントです。 家並みなどは変化しているが、自然の景観は「御坂嶺河口湖両景」を描いた嘉永4年(1851年)とそれほど変わらないと思います。実景を見ると景観の雰囲気を見ることができます。 産屋嵜と富士山との間の長さ:富士山と鵜島の間の長さ=126:100です。 また、長崎トンネル下の河口湖の岸辺からの写真画像も示します。河口湖の北面の岸辺は水平線になり河口湖の形状はとらえることはできません。 ![]() 図9 Googleストリートビューの写真画像地点Aの上から 長崎公園 - Google マップ 観光で来る人は太石公園から河口湖と富士山を眺めます。長崎公園より右側になるので富士山は右側に移動します。ここからの富士山の左すそ野と空との境界線の長いなだらかさはとても素晴らしい。 この推察はfujigoko.TVの推察「船津今昔物語版より、歌川広重:甲斐御坂越、富士山道しるべ(1860)の三枚の同じ場所から描かれていて、長崎トンネル後方奥の小山」とほぼ同じです。図9の写真画像もfujigoko.TVの撮影したものと思われます。このコラムとの違いは、「歌川広重:甲斐御坂越」もここから広重が河口湖を眺めて描いたたか否かです。 御坂峠からの富士山と河口湖 河口湖の鳥観図「御坂嶺河口湖両景」を検討する前に椿椿山が甲府から御坂峠を越えて河口湖に来たとすると、眺めたと思われる御坂峠からの景色を記載します。 図11の2015年では樹木のため河口湖も富士山も見えません。 図12の2008年では河口湖川に下る道の上に冨士山が半分以上見えます。 図13のカシバード画像では、樹木がない状態を示しますので、河口湖の産屋嵜の付近の湖が見えます。 ![]() 図11 御坂峠頂上 2015.5.17撮影 ![]() 図12 「平成富嶽百景」2006年刊 東京新聞出版社 ![]() 図13 御坂峠頂上からの富士山と河口湖のカシバード画像 頂上からの河口湖がほんの少し広くなっています。 ![]() 図14 御坂峠の下山道からの富士山と河口湖のカシバード画像 図15の写真は、私が2014.12.27に登山した時の、御坂峠頂上手前15分ほどのところからの富士山です。手前の樹木の間から図13の河口湖の形状が見えます。 ![]() 図15 御坂峠の下山道からの富士山と河口湖 2014.12.27撮影 岡田紅陽の「富士百影作品集」に「御坂峠から見たる富士(海抜一五二五米)」撮影日時 昭和3年11月8日午前10時があります(図16)。
岡田紅陽は富士山撮影で著名で、旧5千円札と新千円札の裏に描かれている逆さ富士のデザインは、彼が1935(昭和10)年に本栖湖畔から撮影した作品「湖畔の春」を参考にしたといわれています。 この写真が峠頂上からか、峠下からは識別できません。峠から眺めると産屋嵜の位置が手前になって、その奥の湖が大きくなっています。 江戸時代の1851年頃に椿椿山もこの河口湖と富士山の景色を眺めたならば、鳥観図での富士山、河口湖、周辺の岸辺の位置関係をとらえたと考えます。 富士山は、吉田大沢、小御岳の凸部が山体の特徴となります。 2.3 椿椿山が「御坂嶺河口湖両景」を描く 「御坂嶺 河口湖 両景」は、河口湖手前の山道から眺めた景色と、その山道を上から眺めて描いてます。椿山は、地点Aからの眺めと周囲の景色、それと御坂峠山頂付近からの富士山と河口湖の景観を元にして、地点Aの上空に飛んでいき心眼で河口湖全体を眺めて鳥観図を描きます。 この上空からの鳥観図を描く技術は、北斎が得意とした技です。葛飾北斎の「富嶽三十六景」 で、江戸の上空上空2000mぐらいまで飛びあがり、江戸の富士山の後ろに山を描いています。葛飾北斎が「富嶽三十六景」を描いたのは天保元年(1830年)から天保6年(1834年)で、甲斐叢記が発刊されたのは嘉永4年(1851)ですので、椿椿山はこの上空からの鳥観図描きの技はかなり習得していたと思います。 当方は鳥観図を描く技術を持っていないため、カシバード画像で検討します。図17に標高1292mのB地点の250m上空からのカシバード画像を示します。 地点B-250mは長崎トンネル上の地点Aと御坂峠とのほぼ中間点ので地点で標高1292mで撮影ポイントは250m足して標高1542m。御坂峠の標高は1520mですので、ほぼ同じ標高になります。 河口湖の標高は831mですので地点B-250mの河口湖との標高差は711m、御坂峠と河口湖の標高差は689mです。 御坂峠からは河口湖全体が見えないためB-250地点を撮影地点としました。 湖全体が見えて、その湖の形も周りの山々となじんでいる。この高さでは、一枚の画像で全体が表示されます。この図が椿椿山が想像した景観として、これをもとに「御坂嶺河口湖両景」を描いていきます。 ![]() 図17 地点B-250m 河口湖と御坂峠との中間点Bの250m上空からのカシバード画像 ①富士山をは大きく描きます。 画面中央部に大きく描きます。実際に見えた富士山の山頂部を切り取り、高さを2倍、横幅を1.5倍ほどにします。この時代、富士山を大きく描く、稜線の傾きを急にするという描き方はほとんどの画家が行っています。富士山の後ろの山は消します。 ![]() 図17 「御坂嶺河口湖両景」を描く① ②河口湖の南の凸(つばく)む南岸の陸地を凹(へこ)ます。富士山全体も上に移動します。 図18に示すように、南岸の陸地を凹(へこ)ましたことにより河口湖は広くなり、南側の湖は円状の形状に近くなりました。 河口湖を描くうえで、大胆な変形です。地元の人たちは地点Aの小高い山に登り、図9 Googleストリートビューの写真画像のように鵜島と産屋嵜の間の陸地は湖に向かい凸むのが河口湖の特徴と思っている人たちはびっくりします。 江戸時代に黒岳を登る人は殆どいなかったと思いますが、図19に示すように黒岳からの河口湖の写真でもこの凸部ははっきりわかります。 ③新しくできた西側の岸から三ヶ所の突き出しを描きます。これも椿椿山が作った河口湖の特徴です。この②、③の変更は、広重「甲斐御坂越」の検討で重要になります。 ![]() 図18 「御坂嶺河口湖両景」を描く②、③ ![]() 図19 御坂黒岳展望台からの河口湖 ④鵜島を大きく描きます 河口湖唯一の島で、島には鸕鷀嶋神社があり、雨乞いの祈願として水の神、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)が祭神として祀られています。河口湖の景色の特徴となるため大きく描きます。 ⑤北側の湖も広げます。 北側の湖を広げ、東側はは狭くします。これで描く河口湖はかなり丸い湖になりました。 ②河口湖の南の凸(つばく)む南岸の陸地を凹(へこ)ましたのも、この丸い河口湖を作るためだったと推察します。これで、大きな富士山の下に丸く広い河口湖があるゆったりとして雄大な景観が出来上がりました。 ⑥北岸の小山に山道と松の木一本描きます。 山道には人物も描かれており、椿椿山がここから河口湖を眺めたということで描いたかもしれません。このような都合の良い山道と一本の松の木が実際にあったかは不明ですが、歌川広重の「冨士三十六景 甲斐御坂越」の制作には重要な部分となります。 ![]() 図20 「御坂嶺河口湖両景」を描く④、⑤、⑥ ⑦富士山の下に雲を描きます。 この雲があるためこの絵だけでは富士山の下になにがあるのかどうかわからなくなっています。 ⑧足和田山などの山並みを描きます。 富士山の右下の山が足和田山、左下の山が三つ峠の尾根にある天上山です。河口湖を描くときには欠かせない山です。 ⑨岸辺の樹木、人家、道などを描く。 左下の人家、道は広瀬の街並みです。南岸にも樹木と人家を描きます。椿椿山はここに人家があることを見ていたようです。 ⑩題名を記入して落款印を押します。 この挿絵の題名「御坂嶺河口湖両景」、当たり前の題名のようですが、この解釈が難しい。次の頁で検討します。 ![]() 図21 「御坂嶺河口湖両景」を描く⑦、⑧、⑨、⑩ ①~⑩の操作により「御坂嶺河口湖両景」が出来上がりました ![]() ![]() 図22 椿椿山 「御坂嶺河口湖両景」 |