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6 新説の傍証三点 6.1 歌川広重が御坂峠、河口湖に来た記録はない。 広重は1841年に幕絵制作のため甲州街道を経て甲府を訪れた。しかし、その時の旅日誌「甲州日記」に御坂峠や河口湖の記述はなく、スケッチ帳「旅中 心おほえ」にも御坂峠、河口湖のスケッチはない。他に、甲州を訪れた記録はない。
6.2 御坂峠、河口湖の作品が一作品しかない。 広重は同じ場所の絵を下表に示すように各連作集で何枚も描いています。諏訪湖は塩尻峠からと岸辺からで6枚も描いています。実際に眺めたところの景色は、作品名、構図を変えて複数枚描いているようです。 しかし、御坂峠、河口湖を描いた作品は、「甲斐御坂越」一枚です。御坂峠からと岸辺から二枚は描くところですが、そのどちらかわからない作品を描いたため一枚だけです。これは実際に景色を眺めていないためと、御坂峠に関する作品は「御坂嶺河口湖両景」しかないので二枚目は描けないと推察します。 北斎「御坂水面」は河口湖からの富士山で御坂峠は出てきません。
6.3他の作品でも多くの元絵が確認されている
①元絵がある連作物で有名なのは広重の「六十余州名所図会」です。 1922年頃には、浮世絵研究者から「六十余州名所 図会」に元絵があることが指摘され、次に引用したように 、現在では写生に基づく作品は関東とその周辺の数図とされています。
著作権が無い江戸時代には、浮世絵の名所図などは現地に行かないで描くことも多く、先に出版された絵を参考に自分の描き方で作成することが多く行われていたように思えます。広重の「六十余州名所図会」は先に刊行された有名な「名所図会」の挿絵などを元絵に用いており、作品名も元絵の作品名をそのまま使っています。連作の風景画を描くときの基本姿勢であり、世の中公認の行為であったような気がします。 先人の作品を元絵にして作品を制作することは、浮世絵の風景画としては一般的な制作方法であったようです 「六十余州名所図会」の制作は1853-1856年で、冨士三十六景の制作は、1958年です。 「冨士三十六景・甲斐御坂越」は、そのような状況の中で、「御坂嶺河口湖両景」を元絵として制作された作品と推察します。 ①「六十余州名所図会 河内 牧方 男山」の元絵は、1801年(完成3年)発行の淵上旭江著の山水奇観「河内枚方」。 山水奇観「河内枚方」を、横方向に70%程に縮めて、全体のバランスを整えると、「六十余州名所図会 河内牧方男山」になります。元絵としては最もわかりやすい作品です。しかし、横長の山水奇観「河内枚方」を、縦長の「六十余州名所図会 河内牧方男山」の素晴らしい作品に仕上げる広重の力量には圧倒されます。
広重「石部 目川ノ里」は、遠景の山を除けば東海道名所図会 「石部」の挿絵「目川」とほぼ同じで、作品名もほぼ同じです。東海道名所図会を元絵にしたことを隠そうとはしていません。かえって、これを元絵にして書きましたと言っているような作品です。
③広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩」の元絵は、葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」 縦長の図61 葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽海道 小野ノ瀑布 」を上から押しつぶして横長画面にすると図60 広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩」になります。景色も人物配置もほぼ同じです。 広重「木曽海道六拾九次之内 39 上ヶ枩」の完成が1839年とすると、北斎「 木曽海道 小野ノ瀑布 」は1833年販売で、1849年北斎死没ですので、6年前に世に出た北斎作品とほぼ同じ作品を、北斎が生きている間に制作販売したことになります。名所絵図だけではなく、同じ浮世絵師が描いた作品を元絵にすることが許されていたのでしょうか。私は、広重は北斎を風景画の先輩として尊敬していたと思っていますので、「北斎先生に捧げる一枚」という気持ちで描いたと考えます。 広重の「冨士三十六景」で、登場人物が富士山を眺めている作品は「甲斐御坂峠」だけと指摘しましたが、「上ヶ枩」でも登場人物は小野ノ瀑布を眺めていない。登場人物が指さしているのは滝の左側で、道の奥にある茶屋の上の方です。この作品を眺めているものは、どこを見ればいいのか迷ってしまいます。見る者の視線を滝に向かわせようとする気持ちが全く感じられません。北斎の登場人物5人はすべて真剣に小野ノ瀑布を眺めていますので、それを見ている私も滝を見ます。広重がどのような気持ちで登場人物を描いているか聞いてみたいです。
なお、北斎は図62 木曽路名所図会(1805年) 「磨針嵿」を元絵にしたかもしれません。
これがきっかけとなり、「歌川広重の風景画の元絵」を書きました。広重の名所絵に元絵が多いのに驚き、「冨士三十六景」と「不二三十六景」に元絵の指摘がないのが意外でした。 |
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