新説:歌川広重「甲斐御坂越」の元絵は椿椿山「御坂嶺河口湖両景」




蛇 足 の 補 足





蛇足の補足



大嵐村外六ヶ村絵図 1837年


実際の富士山と河口湖の景色と広重「甲斐御坂越」が多くの点で異なることを指摘し、その絵は広重が河口湖、御坂峠に行かないで、「甲斐叢記」の椿山「御坂嶺 河口湖 両景」をもとに描いたと推察した。

この「甲斐御坂越」を描く時に、椿山「御坂嶺 河口湖 両景」の他に参考となる資料がなかったのかと思い、Webで探し、見つけました。
  

大嵐村外六ヶ村絵図です。天保8年(1837年)とありますので、「甲斐御坂越」安政5年(1858年)の21年前に描かれた絵図です。江戸時代には、「絵図」は普通の地図の呼称です
この絵図から次の四点が読み取れます

①河口湖の南側の岸辺は中央に凸(つばく)んでいる。
②河口湖の東西に小山があるが、南側の岸辺の上に小山や山並みはない。
③鵜島と産屋嵜はほぼ同じ水平方向にある。
④富士山の山体の特徴は、山頂の右上から左に流れる吉田大沢である。

広重が、これを参考にして「甲斐御坂越」を描けば、実景に即した「「甲斐御坂越」になった。
しかし、この絵図は大嵐村外六ヶ村周辺でしか見ることはできなかった。大嵐村は現在の富士河口湖町大嵐にあたります。江戸にいる広重は見ることはできなかったと思います。

江戸時代にこのような正確な河口湖の絵図が有ったこと、吉田大沢を山体に描いた富士山が有ったことに驚き引用させてもらいました。

江戸時代前までは、富士山の形はほとんど「三峰の富士山」です。江戸時代になり、宋紫石、北斎が山頂が平坦な富士山を描いていますがこれほど吉田大沢を見事に描いた富士山はありません。写実を主張して実際に眺めた富士山を描くとした司馬江漢の富士山にもないと思います。

 

大嵐村外六ヶ村絵図

大嵐村外六ヶ村絵図の解説

世界遺産富士山 口絵2より引用







現在の富士山と河口湖の地図









大嵐村外六ヶ村絵図と元地図の河口湖












大嵐村外六ヶ村絵図の富士山、黒岳からの富士山の横幅0.7に圧縮、黒岳からの富士山









  




御坂峠からの逆さ富士



4 三景の相違点で次の様に書きました。

図37d 「甲斐御坂越」の河口湖南岸の上には、人家4軒と林があり、その上に二重の山並みが描かれています。しかし、「実景」、「御坂嶺 河口湖 両景」では山は有りません。これにより、富士山のすそ野の先に河口湖があるという、景観の基本が変わっています。広重が河口湖を実際に見ていない証拠です。

   


しかし、「広重が河口湖を実際に見ていない証拠です。」は正しくは有りません。ここで、補足しておきます。
正確には次のような何を言いたいのかわからない文章になります。
「広重が河口湖を実際に見ていないか、実際に見て山がないのを知りながら景観向上のため山を書き加えたと考えます。」



正しくない理由を書きます。

広重は犬目峠を歩いた記録を、「甲州日記」に書いていますが、犬目峠からは実際に見ることができない桂川を描いています。桂川は犬目宿から約4㎞の距離、高さで250m下にある川での、峠と桂川が一緒に見えるところは有りません。江戸時代の観光名所図はここまで許されていたようです。



   「富士三十六景 甲斐犬目峠」
 
「不二三十六景 甲斐犬目峠」  > 「犬目峠と思われる付近からの富士山」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年)  
 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠
|静岡県立美術館|
より引用
甲斐犬目峠  - 国立国会図書館
デジタルコレクション
より引用
 
歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その犬目峠はどこにある




また、「不二三十六景 相模大山来迎谷」 で大山を描いていますが大山の何処からも、このように谷に囲まれた富士山を見ることはできません。広重が大山に来たか否かは不明です。

     歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」
20丁目富士見台からの富士山    歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」 

歌川広重の絵を見て、その題名にある景色を話すことはやめた方がいいようです。何処か知らないが、素敵な景色の絵として、眺めて楽しむことが必要です。






   




御坂峠からの逆さ富士




実際の御坂峠の紹介文を読むと河口湖の湖面に逆さ富士映っていたようにおもってしまいます。しかし、これまで御坂峠からの逆さ富士の写真は見たことが有りません。また、富士山全体を写すには河口湖の湖面が左側だけなので、富士山全体は映らなかったと思います。現在は、樹木のため湖水も一部分しか見えていません。



1851年(嘉永四年)の「甲斐叢記」では
 「富士の山・・・・其影湖水の面に浮かびて、白雪青漣に涵せり。」
 甲斐叢記 前輯5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション


1903年(明治36年)の「中央線鉄道案内」では
 「嶺上ヨリ南ヲ望メバ富士山巍峨トシテ天際に突出シ河口湖其下ニアリテ山上ノ白雪影ヲ碧水ニ寫シ絶景云フベカラズ」
 中央線鉄道案内- 国立国会図書館デジタルコレクションp96より引用


1906年 (明治39年) 「日本山嶽志」では
 「河口湖は眼下に属して、一碧鏡の如く、富嶽は南方に聳えて、其影湖面に映じ、白扇泉地に泛ぶの観をなす等、真に書画も及ばずの好風景なり」





  日本山岳志-GoogleBoooksより引用


924年(大正14年)の「富士山の自然界」では
 「御坂峠は、北面富士の代表観望臺で、脚下の河口湖には倒富士を映じ、・・・・・」
 富士山の自然界 148/190- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用







    
    



峠の上の三人



歌川広重は、峠には何故か人物三人描きます。椿椿山は一人です。

歌川広重の三作品の富士山、右の岸の山並み、峠、湖の構図はほとんど同じです。

塩尻峠の一つは登り坂、一つは下り坂です。塩尻峠に山頂と同じ景色が見える下り道があったかもしれません。



 

「冨士三十六景・甲斐御坂越」1858年
 

「冨士三十六景・信濃塩尻峠」 1858年
 

 「富士見百図 木曽街道塩尻峠」  1858年
 

「甲斐叢記」の「御坂嶺 河口湖 両景」
 

図51 歌川広重の「冨士三十六景・甲斐御坂越」
   

   図52 歌川広重の「冨士三十六景・信濃塩尻峠」
 歌川広重の「冨士三十六景・甲斐御坂越」1858年

甲斐御坂越- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
 
   歌川広重の「冨士三十六景・信濃塩尻峠」 1858年

  信濃塩尻峠  - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用
 
   
歌川広重 富士見百図 木曽街道塩尻峠  1858年

歌川広重「富士百図」-ARC古典籍ポータルデータベース
より引用
 
「甲斐叢記」の河口湖の挿絵「御坂嶺 河口湖 両景」

甲斐叢記. 前輯5巻 12/58- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用 










    
      




塩尻峠と諏訪湖と富士山




「塩尻峠」の同じような山道を、登り道か下り道かわからない描き方をしているので、広重は実際、塩尻峠を越えて諏訪湖に行き、富士山を眺めたのかという疑問が出てきました。そこで塩尻峠と諏訪湖の浮世絵を眺めてみました。木曽路名所図や、北斎、栄泉の作品をもとに、「塩尻峠」と「諏訪湖」を描くことはできそうです。

「木曽路名所図会」の「諏訪湖」と「塩尻」は、諏訪湖を描いています。「塩尻」には広重の「富士見百図 木曽街道塩尻峠」の山道に似た山道が描かれています。
広重ならこの図を元絵にして富士見百図 木曽街道塩尻峠 を制作できそうです。

しかし、「木曽路名所図会」をもとにして描いたという証拠はつかむことはできませんでした。諏訪湖までの旅をしたか否かもはっきりしません。

ここではそれらに関する作品を掲載するだけです。見る方は、各浮世絵師の「諏訪湖」の描き方を見るだけになります。


 西暦  和暦  作者  連作名 作品名   
1805年 文化2年  西村中和  木曽路名所図会  塩尻  塩尻
1805年 文化2年  西村中和  木曽路名所図会   諏訪湖  諏訪湖
 1831-1834年 天保2-5年 葛飾北斎 富士三十六景 信州諏訪湖  信州諏訪湖
 1835年  天保6年  溪斎栄泉 木曽街道六十九次 木曽道中塩尻峠
 諏訪湖ノ湖水眺望
木曽道中塩尻峠
 1852年 嘉永5年 歌川広重 不二三十六景 信濃諏訪湖  信濃諏訪湖
  1858年 安政5年  歌川広重 冨士三十六景 信濃塩尻峠 信濃塩尻峠
 1858年 安政5年  歌川広重 冨士三十六景 信州諏訪湖  信州諏訪湖
 1859年 安政6年  歌川広重 富士見百図 木曽街道塩尻峠  木曽街道塩尻峠
  1859年 安政6年 歌川広重  富士見百図 信州諏訪湖  信州諏訪湖
 不明   歌川広重 肉筆画
冨士十二景
 信濃諏訪湖  信濃諏訪湖
 2021年  令和3年 カシバード    塩尻峠下の道  塩尻峠下の道
 2021年  令和3年      塩尻峠横の小山  塩尻峠横の小山

 

「木曽路名所図会」の「諏訪湖」と「塩尻」は、諏訪湖を描いています。
「塩尻」には広重の「富士見百図 木曽街道塩尻峠」の山道に似た山道が描かれています。

広重ならこの図を元絵にして富士見百図 木曽街道塩尻峠 を制作できそうです。



「木曽路名所図会 塩尻」の山道の部分 


 図1 「木曽路名所図会 塩尻」の山道の部分





 「木曽路名所図会 塩尻」の諏訪湖のの部分

 図2a「木曽路名所図会 塩尻」の諏訪湖の部分



 図2 木曽路名所図会 塩尻

 図2 木曽路名所図会 塩尻



図3 木曽路名所図会 諏訪湖

図3 木曽路名所図会 諏訪湖


木曽路名所図会-大日本名所図会. 第2輯 第1編- 国立国会図書館デジタルコレクションp318,p334



北斎の「富嶽三十六景 信州諏訪湖」は中央に日本の松がある大胆な構図です。松の左側に富士山と高島城が描かれています


図4 北斎「富嶽三十十六景 信州諏訪湖」

図4 北斎「富嶽三十十六景 信州諏訪湖」

i富嶽三十六景 信州諏訪湖- Wikipediaより引用

木曽海道六十九次は、天保6- 8年(1835-1837年)頃、浮世絵師・渓斎英泉および歌川広重により描かれた浮世絵木版画の連作。
図版の表記は「街道」ではなく「海道」。塩尻嶺からの眺望は栄泉の作品。美人画で有名な浮世絵師ですが、風景画も格調が高く、北斎、広重に匹敵するような作品と思います。塩尻峠を登っていく山道からの諏訪湖と富士山です。


図5 栄泉「木曾街道塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望」


図5 栄泉「木曾街道 塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望」

木曽海道六十九次 - Wikipediaより引用

図6 広重「不二三十六景 信濃諏訪湖」

図6 広重「不二三十六景 信濃諏訪湖」

広重 不二三十六景 - WEB錦絵美術館より引用




図7 歌川広重の「冨士三十六景・甲斐御坂越」 > 図8 歌川広重の「冨士三十六景・信州諏訪之湖」
   
図7 歌川広重の「冨士三十六景・信濃塩尻峠」 1858年

  信濃塩尻峠  - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用
 
 図8 歌川広重の「冨士三十六景・信州諏訪之湖」

   信州諏訪湖-国立国会図書館デジタルコレクションより引用
 







図9 歌川広重 富士見百図 木曽街道塩尻峠


図9 歌川広重 富士見百図 木曽街道塩尻峠


歌川広重「富士百図」-ARC古典籍ポータルデータベース






図10 歌川広重 富士見百図 信州諏訪湖


図10 歌川広重 富士見百図 信州諏訪湖

歌川広重「富士百図」-ARC古典籍ポータルデータベース







「甲府冨士道、100㎞の奇跡」と言いたくなる塩尻峠までの地形図です。


図11 塩尻峠下の道からのカシバード画像 100㎞の距離


図11 塩尻峠下の道からのカシバード画像 100㎞の距離


図11 塩尻峠下の道からのカシバード画像 100㎞の距離

図11 塩尻峠下の道からのカシバード画像 100㎞の距離




 図12塩尻峠横の高ボッチ山からのカシバード画像
 





図13塩尻峠横の小山からのカシバード画像


図13 塩尻峠横の小山からのカシバード画像





新説:歌川広重「甲斐御坂越」の元絵は椿椿山「御坂嶺河口湖両景」  








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