歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す











2. 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」


2.1 二十丁目の富士見台

二十丁目の富士見台に到着。2013.1.18には、中央の展望地点まで行けました。




大山20丁目の富士見台からの富士山の写真




そのあと展望地点の崩落があり、今回2018.1.27には、「この先危険滑落注意」と張り紙があり、綱が張ってあります。この画面の右側に行き富士山を撮影します。



二十丁目の富士見台からの富士山




 富士見台の右側から、枝葉を避けて撮影した富士山。三ノ塔、ニノ塔、大野山、高松山などの丹沢山地に囲まれた富士山は、左のすそ野を愛鷹山と箱根山の間に伸ばします。



富士見台の右側から、枝葉を避けて撮影した富士山




富士見台の右側から、枝葉を避けて撮影した富士山の山座同定




2.2 二十丁目の富士見台は「来迎谷」
の表示板


この二十丁目富士見台に、次のような説明板があります。

大山観光青年専業者研究会は昭和63年頃結成されたので、この説明板はそのあと設置されたことになります。




富士見台   

大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、
浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 

大山観光青年専業者研究会




二十丁目富士見台の説明板



大山来迎谷を描いた浮世絵は、歌川広重(1792-1858年) 「不二三十六景 相模大山来迎谷」があります。

「不二三十六景」は嘉永5(1852)年に出版されています。明治元年が1868年ですので、江戸時代末期で黒船が来る1年前です。
『不二三十六景』(1852)は、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれていると言われています。
そのほか、富士山を描いた広重の作品集は、「富士三十六景」(1859)。「富士見百図」(1859)があります。




2.3 歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」


両側から山が迫った峡谷の真ん中の奥に、山並みがあり、その上に富士山がいます。右側の急峻な崖の上に、鳥居があり、参詣者が一人描かれています。

「不二三十六景 相模大山来迎谷」という題名ですので、相模大山の来迎谷というところから眺めた富士山か、来迎谷と富士山を描いていることになります
しかし、上に示した富士見台からの景観とはかなり異なっています。富士見台からの景観では、右側に傾斜が付いた尾根が見られますが、左側には傾斜が付いた尾根が見られません。谷という景観ではありません。



歌川広重(1792-1858年) 「不二三十六景 相模大山来迎谷」


歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」


  作品名::『不二三十六景 相模大山 来迎谷』
作者:歌川広重(初代)
種別:浮世絵
解説: 山頂手前の谷から西方の富士
時代:江戸時代
出版年、撮影日等:嘉永5(1852)年   
大きさ:18.5×25.5cm
所蔵:個人蔵、産業能率大学提供




歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」 | 神奈川デジタルアーカイブ」より引用



インタ-ネットにある「不二三十六景 相模大山来迎谷」の解説と歌川 広重の人物・略歴を示します。

  ■歌川広重「不二三十六景  相模大山来迎谷(さがみおおやまらいごうだに)」

江戸時代に富士と並んで信仰が盛んであった大山。本図は大山の山頂付近からの富士の眺望である。絶壁のように切り立った峡谷からの富士を真正面に見据えるが、これは極端に誇張したもので、実景では緩やかな山の向こうに富士を遠望する。山頂の石尊社まで参拝が許される6月27日から7月17日の夏の景であろう。山岳信仰の大山から霊峰富士を遥拝するというふたつの信仰を具現する図ということができる。

※大山(神奈川県伊勢原市)
…大山は丹沢山地の東部にそびえ、古代以来、山岳信仰の霊場となり、不動明王を本尊とする雨降山大山寺及び石尊社(大山阿夫利(あふり)神社)の境内であった。古くから雨乞や海上安全、豊漁祈願の信者が集まり、江戸時代には関東一円に大山講が組織された。本図は、蓑毛と坂本からの登山道が交わる山頂付近の来迎谷から富士を望む。鳥居は山頂に鎮座する石尊社と考えられる。明治元年(1868)、大山寺は山号を廃止されて阿夫利神社の境内となり、坂本の来迎院に移転し統合された。


  山梨県立博物館-博物館資料のなかの『富士山』-歌川広重 「不二三十六景相模大山来迎谷」
の解説文を引用

  


■歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」

広重が富士山をメーンテーマに制作した揃物《不二三十六景》の中の一枚です。中判横型の画面各図に、富士山の見える36ヶ所の景色を収めたシリーズです。
両側にそばだつ険しい懸崖は、丹沢山地の南東部に位置する大山の来迎谷です。江戸時代、ここは富士山と並び山岳信仰の対象とされてきました。右上には雨や海を司る神を祭った阿夫利神社の鳥居が見えます。本図は大山山頂付近からの景色を描いたものですが、作者である広重自身が目にしたであろう実景に、心象風景を重ね合わせた作品だといえます。岩壁の急峻さはことさらに強調されており、大山の厳かさを印象付けているようです。その谷間からは晩夏の青い空と、白雲をまとった雄大な富士の霊峰を望むことができ、大山と富士という2つの崇高な霊山の競演が、広重の手によってドラマチックに演出されています。

  中山道広重美術館 :: 歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」の解説文を引用



■広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」  弘化4年~嘉永5年(1847~1852)

江戸時代の大山山内図からの推定ですが、大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷と呼ばれていたようです。

西の富士方向に日が沈みかかると、その光はまさに阿弥陀如来のご来迎という感じがします。

絵にあるように両側から谷がせまり、中心に富士が見えるという地点は、残念ながら未確認です。よく晴れ風が強い日には、冨士見台や山頂の西側から富士山がよく見えます。


  「大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の解説文を引用








■歌川 広重

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。

1833年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。


 「歌川 広重-ウィキペディア」より引用

  有名な葛飾北斎(1760-1849年)の「富嶽三十六景」は1830年から1834年にかけて刊行されました。大山の登り口近くの「相州大山ろうべんの瀧」(1833年)は描きましたが、70歳を過ぎると大山登山はきついためか、大山からの富士山は描いていません。とても残念です。広重の「不二三十六景」は北斎没後三年目の1852年に刊行されています。



作品解説から、「来迎谷」の場所を表にまとめました。「来迎谷」の場所は①二十丁目富士見台②山頂付近がありますが、いずれの場所も、明確な根拠がありません。


そこで、「不二三十六景 相模大山 来迎谷」が描かれた場所である「来迎谷」の探索を行いました。


 表 歌川広重(初代) 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」を描いた場所来迎谷の場所。

 出典 「来迎谷」を描いた場所来迎谷の場所 根拠 
神奈川デジタルアーカイの解説 山頂手前の谷から西方の富士 記載なし
大山観光青年専業者研究会の説明文 二十丁目富士見台が来迎谷 記載なし
山梨県立博物館の作品解説 大山の山頂付近
蓑毛と坂本からの登山道が交わる山頂付近の来迎谷
作品の鳥居が山頂に鎮座する石尊社の鳥居と推察
中山道広重美術館 の解説 大山山頂付近からの景色  記載なし
「大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り) | 伊勢原市」の説明文 大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道(二十六丁目ヤビツ峠分道)のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷  江戸時代の大山山内図からの推定




「来迎谷」の候補地