歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す










6 『歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す』のまとめ



大山の阿夫利神社下社からの登山道にある二十丁目富士見台に、次のような説明板があります。

「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

大山の来迎谷を描いた浮世絵を、歌川広重が描き嘉永5(1852)年に刊行された「不二三十六景 相模大山来迎谷」とすると、富士見台からの景観とはかなり異なっています。
両側から山が迫った峡谷の真ん中の奥に、山並みがあり、その上に富士山がいます。右側は急峻な崖の上に、鳥居があり、参詣者が一人描かれています。富士見台からの景観では、右側に傾斜が付いた尾根が有りますが、左側には傾斜が付いた尾根は有りません。谷という景観ではありません。

現在の登山用地図には「来迎谷」の記載はなく、ネット上の「不二三十六景 相模大山来迎谷」の作品解説でも、「来迎谷」の場所はそれぞれ異なり、いずれの場所も明確な根拠がありません。

そこで、歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探索しました。


     歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」
20丁目富士見台からの富士山    歌川広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」 



(1)下図に示す江戸時代の山内図に「らい光たに」、「来迎谷」の記載があり、その場所は両方とも十六丁目本坂追分から二十八丁目山頂の間と推察されます。

寛政9年(1797年)東海道名所図会巻五、文政7年(1824)~天保12年(1841年)の新編相模国風土記稿の公の史料には「来迎谷」の記載はありません。「来迎谷」は公の地名ではなく、観光名所の名称のようです。

明治から現在までの山内図、地図などの資料には「来迎谷」の記載がありません。 明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づき十一面観音を本地仏とする大山の石尊権現が廃され、中腹にあった不動明王を本尊とする大山寺が破却されましたが、阿弥陀仏由来の名所「来迎谷」もこの時に消されたと考えます。


 「相刕大山繪圖に「らい光たに」     「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」に「来迎谷」
嘉永5年頃(1852)年 「相刕大山繪圖に「らい光たに」   安政5(1858)年 「相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景」に「来迎谷」



(2)「来迎谷」の場所を、二十丁目とする絵葉書と二十七丁目とする石柱があります。

しかし、両者ともその場所を特定するものは絵葉書と石柱だけであり、その特定する根拠も不明であるため、どちらが正しいかの断定はできません。

明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書に次のように「二十丁目来光谷」の記載があります。
『縁結の樹、頂上に至る二十丁目來光谷の傍にあり未婚の男女其戀ふ者の名を記したる紙を小指と栂指にて其樹に結付け其首尾よく結ばるを以て願叶へりとす』
江戸時代から現在まで、阿夫利神社下社から山頂までの登山道は二十八丁で、古い石柱からも、この二十丁目来光谷は現在の二十丁目富士見台と推察される。

②昭和41年に神奈川県が設置した丁目記載の石柱に「来迎谷 二十六丁目」の石柱があります。
絵葉書で「来光谷」になっていた二十丁目は「富士見台」になっています。その石柱の場所を特定する根拠があると思いますが不明です。


 大山の絵葉書  丁目記載の石柱
明治40(1907)年4月~大正7(1918)年3月発行の大山の絵葉書   昭和41年設置の丁目記載の石柱
富士見台二十丁目、二十六丁目来迎谷、二十七丁目お中道
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(3)「来迎谷」の名前にふさわしい場所を登山道(江戸時代の参詣道)から探します。

阿弥陀如来が山を越えて来迎する様を描いた「山越来迎図」から、阿弥陀仏が来迎するところは富士山で、その付近に谷がある場所が「来迎谷」であり、その谷は丹沢山地と大山が形成する谷と考えました。


 阿弥陀仏が丹沢山地の上の富士山に    丹沢山地と大山が大渓谷を形成
阿弥陀仏が丹沢山地の上の富士山に
夕暮れとともに阿弥陀仏が富士山に来迎する
  丹沢山地と大山が大渓谷を形成
大山から大渓谷を挟んで富士山を眺める



富士山と谷が見られる登山道としては、山頂裏の展望場所がありますが、江戸時代には御中道の名前がついていますので除外します。ヤビツ峠分道から御中道までの登山道は尾根道ですが、現在は堀道になり樹木が多いため、富士山を見ることはできません。しかし、樹木がなければ、尾根の上から富士山を見ることができ、丹沢山地と大山が形成する谷も見ることができます。江戸時代にこの尾根道に富士山と谷が見られる場所があり、「来迎谷」と呼ばれていたと推察します。この尾根道の中央に「二十六丁目 来迎谷」の石柱があります。
「二十丁目 富士見台」からは丹沢山地と大山が形成する谷を見ることができません。


 大山山頂裏の展望地からの富士山    「二十六丁目来迎谷」からの富士山r>
大山山頂裏の展望地(江戸時代の御中道)からの富士山
大山と丹沢山地の間に大渓谷がありその奥に富士山がいます
  「二十六丁目来迎谷」からの富士山
カシバード画像 左の山頂裏からの実景とほぼ同じ



(4)歌川広重 「不二三十六景 相模大山来迎谷」から描いた場所を探す

両側から断崖絶壁が迫る大渓谷の中央に富士山がいる 「不二三十六景 相模大山来迎谷」の景観は、大山の登山道から見ることはできません。広重が勝手に想像して描いた景観ですと、諦めては先に進めません。広重が「来迎谷」の地名に合わせて左の断崖絶壁を書き加え、渓谷の構図に変えたと考えて、左の断崖絶壁を除きます。右側の断崖絶壁を除くと富士山と丹沢山地だけになり大山から描いたという作品にならないので、鳥居のある右の断崖絶壁は残します。「不二三十六景 相模大山来迎谷」と同じ地点から描いたと思われる広重作「大山道中張交図絵 石尊山来迎ヶ谷」に鳥居下に参詣道があるので、それを加えます。富士山の形を実際の形に合わせるため、縦方向を60%に縮小します。


左側の崖がない「不二三十六景 相模大山来迎谷」

右の断崖絶壁を除き、鳥居下に参詣道、参詣者を加え、縦方向を60%に縮小した「不二三十六景 相模大山来迎谷」

現在の「二十七丁目御中道」に鳥居があります。急坂の登山道の上にあります。
カシバード画像により、 「二十六丁目来迎谷」から、二十七丁目の鳥居と大渓谷と富士山を眺めることができます。



「二十六丁目来迎谷」からの富士山

「二十七丁目御中道」に鳥居    「二十六丁目来迎谷」からの富士山。カシバード画像。



鳥居下の尾根の下部を除き、急坂のところを部分的に横に縮小します。断崖絶壁の雰囲気が出てきました。


「二十六丁目来迎谷」からの富士山



富士山が主役ですので、富士山部分を拡大して大山の横に置き、構図を簡略化します。 これで、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の構図に近づきました。


富士山を大きく



版元の佐野屋喜兵衛は大山の名所「来迎谷」からの富士山を描くように依頼しました。しかし、「来迎谷」と富士山が見えるところに、両側から崖が迫る谷は見えません。広重は、大胆にも、富士山の前にある丹沢の山を90度回転し、大山の左側に置き見事な大渓谷を創りました。
次に「不二三十六景」シリーズの横中判(29.3×19.0センチ)錦絵の大きさに合わせて、横幅だけを60%縮小します。右の崖の部分は実際の15%の幅になり急峻な崖に変身します。

富士山の形を整えます。宝永山と小御岳の凸部を削ってなだらかな富士山にします。鳥居下は樹木のない崖の部分を描き渓谷の険しさを強調します。
山頂の石尊社に行く大鳥居を描き、神域の雰囲気を高めます。富士山の周りに白い雲を浮かべ、「不二三十六景」と「相模大山来迎谷」を記入して完成です。


 大山と丹沢山地の間に大渓谷がありその奥に富士山がいます    
大山と丹沢山地の間に大渓谷があり、その奥に富士山がいます   不二三十六景の「相模大山来迎谷」

以上の検討から、

「不二三十六景 相模大山来迎谷」は「二十六丁目来迎谷」の石柱付近からの景観をもとに、画面左側に丹沢の山を加えて描かれたと推察します



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