![]()
附録1:もう一枚の歌川広重「相模大山来迎谷」 1.歌川広重が描いた大山の「来迎谷」は三枚 歌川広重が描いた大山の「来迎谷」は、三枚の作品が残されています。 (1)「不二三十六景 相模大山来迎谷」嘉永5(1852)年 (2)「大山道中張交図絵」の「石尊山来迎ヶ谷」安政5(1858)年 (3)「富士十二景の内、相模大山来迎谷」肉筆画:嘉永年間(1848-1854年)末~安政年間(1854-1860年)初 (1)、(2)の浮世絵の作品をもとに、「来迎谷」の場所、作品の制作過程を調べて次の推論を得た。 描いた場所「来迎谷」は、登山道の「二十六丁目来迎谷」の石柱付近で、そこからの景観の左側に丹沢山地の山を加えて見事な大渓谷を創り「不二三十六景 相模大山 来迎谷」、「石尊山来迎ヶ谷」を制作した。
(3)「富士十二景 相模大山来迎谷」は、肉筆画ですが、インターネット上で見られるのは、その復刻版画です。 赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年には「富士十二景」に関する記載はない。また「ウィキペディア歌川」広重」の肉筆画にも「富士十二景」の記載がない。そのため、肉筆画「富士十二景」は広重の作品として認定されておらず、昭和の時期に、「富士十二景 相模大山来迎谷」が復刻版画として勝手に制作されたものかと思い今回の検討から外しました。 そのあと、インターネット上で調べると以下に示すように「富士十二景 相模大山来迎谷」の肉筆画は現存しているようです。 昭和18年に国宝社から発行された「安藤広重筆 江都八景及富士十二景 」があります。その作品所蔵者は青木藤作氏で、氏の遺族が所蔵品を寄贈して設立されたのが「那珂川町馬頭広重美術館」です。 12枚の画像はこちらに掲載 美術館の HPには書かれていませんが、「那珂川町馬頭広重美術館」は、この「富士十二景」の肉筆画をすべて所有していると思います。 「那珂川町馬頭広重美術館」のHPに掲載されているのは何故か「富士十二景 両国橋下」一作だけですが、google art 那珂川町馬頭広重美術に「杉田梅林」「駿河不二ノ沼」「両国橋下小金井堤」が絹本着色の作品として掲載されています。 那珂川町馬頭広重美術館の「広重没後160年記念 大広重展 -肉筆浮世絵と錦絵の世界-平成30年」の後期目録1に「13 富士十二景 相模大山来迎谷 歌川広重 絹本着色 馬頭広重美術館」があります。 平成30年2月に「広重 復刻版画 富士十二景 三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館主催」が開かれています。 「富士十二景 相模大山来迎谷」を示します。 この作品によって、(1)、(2)で行った推察は変わりません。かえってこの作品は、本文の推察を補完します。 「富士十二景 相模大山来迎谷」は、両側から山が迫る谷はなく、右側に鳥居が置かれた断崖があり、その左側に重なり合う山並みがあり、その上に富士山がいます。鳥居の下ですが御中道らしき道が描かれています。 「不二三十六景 相模大山 来迎谷」を描く前にこのような景色を眺め、左側に断崖を加えたと推察しましたが、実際にその過程をたどります。 ![]() 歌川広重(初代)(直筆の複製版画) 「相州大山 来迎谷」 「相州大山 来迎谷:神奈川県郷土資料アーカイブ」より引用
この重なり合う、山並みと、その上にいる富士山は、大山の登山道で見ることができます。鳥居がある「27丁目鳥居」からの御中道を左に進んだところからの富士山の写真があります。丹沢山地の山並みの上に富士山がいます。この御中道と丹沢山地の間に渓谷があります。この右側に鳥居がある山腹があると「富士十二景 相模大山来迎谷」の構図になります。 「
![]() 「27丁目鳥居」からの御中道を左側に進んだ富士山展望地からの丹沢山地と富士山 鳥居がある「27丁目鳥居」の下側にある「二十六丁目来迎谷」付近からは、樹木が多く富士山が見れれません。そこで、「二十六丁目来迎谷」付近から鳥居のある登山道と富士山のカシバード画像を制作しました。 ![]() 「二十六丁目来迎谷」付近から鳥居のある登山道と富士山のカシバード画像 画面右側の横幅を70%縮小します。右側の登山道は、険しい崖の参詣道になりました。「富士十二景 相模大山来迎谷」とほぼ同じ構図になっています。 ![]() 画面全体の横幅を70%縮小したカシバード画像 上のカシバード画像をもとにして、「富士十二景 相模大山来迎谷」を制作します。 まず、御中道も加えて鳥居の参詣道を描きます。大山からヤビツ峠に下る山腹部には樹木を描き簡潔化し、鳥居のある崖と合わせてV字状の構図にします。そのV字状の空間に丹沢山地と富士山を描きます。下の図は、見えたままの丹沢山地と富士山を描いていますが、丹沢山地が込み入っており富士山が小さい。 そこで、丹沢山地を簡潔化して、富士山を大きくし、その間に雲を浮かべて、遠近感を出します。これで、「富士十二景 相模大山来迎谷」が完成します。 ![]() 「二十六丁目来迎谷」付近からの景観から「富士十二景 相模大山来迎谷」及び「不二三十六景 相模大山来迎谷」を制作する過程のまとめ。
「富士十二景 相模大山来迎谷」の制作年ははっきりしませんが、「不二三十六景 相模大山来迎谷」の前に描かれていた、また、描かれていなくともこの構図は頭の中にあったと思います。作品の出来は、自分としては 「富士十二景 相模大山来迎谷」がかなり優れているように思えます。山の上から富士山を描いた絵画は少ないが、「富士十二景 相模大山来迎谷」はその中での最高傑作の一つと思います。それなのに、何故、左側に丹沢山地の崖を加えて、実際には見ることができない峡谷を形成して、「不二三十六景 相模大山来迎谷」を制作したのかが理解できません。 構図を変えた理由として考えられるのは、「富士十二景 相模大山来迎谷」は肉筆画であり、微妙な墨の濃淡により、景観の雰囲気を作っていることです。そのため、そのままの色調、構図では「不二三十六景」の連作として制作するのは難しい。 しかし、上記作品は復刻版画ですが、墨の濃淡を見事に再現しています。また、次に示すように、「富士十二景」の他の肉筆画では、ほぼ同じ構図で「不二三十六景」の版画作品にしています。版画にすることにより、画面が簡潔化され、肉筆画より鮮やかな作品になっているとも言えます。
版元の佐野屋喜兵は大山の名所「来迎谷」からの富士山を描くように依頼しましたが、、「来迎谷」と富士山が見えるところに、両側から崖が迫る谷は見えません。もし、富士山が大山と丹沢山地の間から見えると両側から崖が迫る谷の間からの富士山になります。 そこで、広重は、大胆にも、富士山の前にある丹沢の山を90度回転し、大山の左側に置き見事な大渓谷を創りました。
しかし、「不二三十六景 相模大山 来迎谷」は、阿弥陀如来が山を越えて来迎する雰囲気がありません。 「富士十二景 相模大山来迎谷」は、御中道と丹沢山地との間に渓谷があり、日暮になると丹沢山地の上の富士山に阿弥陀如来が舞い降りてくる崇高な雰囲気があります。 「富士十二景 相模大山来迎谷」はその富士山と同化した阿弥陀如来を参詣者が指さして、眺め、礼拝している光景と感じます。 ![]() 2.更にもう一枚の「来迎谷」 「カナロコ by 神奈川新聞」に大山阿夫利神社の令和二年の御朱印帳の照会があります。「19年10月中旬には、新たな御朱印帳の頒布も始めた。表紙のデザインには、江戸末期の浮世絵師・歌川広重が描いた、大山の山頂付近で富士山が拝める場所「来迎谷(らいごうだに)」を採用。「大山を訪れた思い出に」と、左上に小さく大山も描かれている。」とあります。 しかし、御朱印帳の右ページの右側の部分はほぼ「富士十二景 相模大山来迎谷」と同じですが、左ページは全く異なります。左側上部にあるのが富士山のようです。その富士山は「富士十二景 相模大山来迎谷」の富士山に比べるとかなり小さく、大山から眺める富士山よりも小さいようです。その右側に新たに描かれた山は、美しい三角形の山容から大山のように見えます。大山の東部の標高500m地点から眺めると、大山と富士山はこのように見えます。 これから、次のように推察したが、どちらかが正しいかは不明です。 ①この「御朱印帳 来迎谷」は、広重が大山阿夫利神社のために「富士十二景 相模大山来迎谷」と異なる肉筆画を描き、阿夫利神社に残されている。 ②令和を記念して、「富士十二景 相模大山来迎谷」に大山を書き加えたデザインを作り、御朱印帳を作成した。 この後、大山阿夫利神社に参拝した際に神社の方に聞いたところ、②ですと返答されました。大山とっ富士山を入れて「富士十二景 相模大山来迎谷」の雰囲気に合った景観になっています。 |