実朝の和歌 |
何故十国峠か、 峠の山頂から十国(十州)が見えたため十国峠と呼ばれた江戸時代中期の天明3年(1783年)に、熱海村の里長により現在の日金山山頂の丸山(現在の十国峠山頂)に「十国観望の碑」が建立されました。 その石碑に、日金山頂から十国五島が観望できるという記述があります。これにより、山名が明治時代に日金山から十国峠に変っていったと思います
十国峠、その名称の変遷のまとめ「あたみ歴史こぼれ話(本編)」にあるように、十国峠は江戸時代には「日金山」で、その山頂は「丸山」です。十国峠と呼ばれるようになったのは、明治以降です。
上記文献などにより、日金山、丸山、十国峠に関する史料、絵画を集め、その名称の変遷を調べました。 ここでは、その資料の一覧表に基づき、要点のみ記載して名称の変遷をまとめました。史料の詳細は次のページでご覧ください。 (1)応神天皇時代(271-273年) 「日が峰」 応神天皇二年(271年)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。その様子は日輪のようで、峰は火を吹き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになりました。 同四年(273年)松葉仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。(山の名前は不明) (2)江戸時代(1603-1868年) 山全体は「日金山」、山頂は「丸山」 ❶元文4年(1739年)田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」に、日金山にある丸山が出てきます。その丸山からの各方角に眺められる山水や宿駅を詳しく述べています。 ❷その44年後の天明3年(1783年)に、現在の十国展望台付近に、熱海村の里長が十国観望の碑を建てました。 碑文には「伊豆国加茂郡日金山頂」とあり、「丸山」の記載は有りません。 ❸享和3 (1803年)司馬江漢画「西遊旅譚 5巻」で日金山頂で各方向の景色を描き、南乃方の画で「日金山頂丸山」と書いています。 几帳面な司馬江漢なので山頂を「丸山」と書きましたが、他の山頂からの画には「丸山」は記載されていません。 「あたみ歴史こぼれ話(本編)」では、日金山からの絵画がないと書いてありますが、山頂からの富士山の絵はこれを含め8点もあり、江戸時代の富士山写生ポイントになっていたように思います。 ❹文化元年(1804年)松崎復著「游豆小志・游記」 近世後期の儒学者松崎慊堂が、文化元年(1804)4月から5月にかけて伊豆に赴いた際の紀行文。「行記」「游記」「帰記」の三部と、要所で詠んだ漢詩から成る。 このなかで、「陪登日金山・・・日丸山、日金嶺也」と書いています。日金山に登り、丸山を日金嶺と言っています。江戸時代に丸山の別称が初めて出てきました。 ❺文化4年(1807年)の山本清渓著「熱海紀行」では、「日金山」の山頂は「丸山」です。 「日金山の北なる丸山」に「いしぶみあり」との記述から、日金山の山頂を「丸山」と呼んでいたようです。
❻東光寺の境内には日金山山頂」の石柱が有り、東光寺関係者や地元人は「日金山の山頂は東光寺であり、その先の箱根方面にある山は丸山です」と言っていたかもしれません。 江戸時代、日金山には二つの山頂が有ったようです。。
(3)明治元年(1868年)~令和 日金山山頂は「丸山」から「十国峠」へ ❶明治11年(1878年)9月の大内青巒 著「豆州熱海誌」に始めて「十國峠」が出てきます。「日金山」の絶頂にある「丸山」の別称です。「丸山(十國峠)」。 「日金山 伊豆山村に属すその絶頂を丸山と称し又十國峠(こくとうげ)という」 天明3年(1783年)の「十国観望の碑」建立から100年ほどたってます。山頂の形状にピッタリした山名「丸山」にかなり愛着があったようです。 ❷明治11年(1878年)の成島柳北の紀行文「澡泉紀遊」で「十国嶺(トウゲ)」で出てきます。「丸山」は別称でも出てきません。 「日金山の頂上は十國嶺(トウゲ)ですが、土人(土地の人)は東光寺のあるところが日金山で、十國嶺は別地と考えるている」と書いている。 尚、「十国峠」ではなく「十國嶺(トウゲ)」としています。「峠」と「嶺」については後で述べます。 ❸明治27年(1994年) 野崎城雄著「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編<」では十國峠(丸山)です。 日金山のなかに十国峠(丸山)があるのか、日金山とは別に十国峠(丸山)があるのか、わからない記述です。
❹明治27年(1894年)頃から日金山本体と頂上部の区別があいまいになり、頂上部の名称がはっきりしません。 ・明治36年(1903年)年の「二世の契」で泉鏡花は、「日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)」と別の山のように記載しています。 「但件の停車場に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)を頂いた」。「十国峠」 ・明治39年(1909年)の高頭式「日本山岳志」では「日金山の絶頂を丸山と称し、又十国峠とも云う」。「丸山(十國峠)」 ・明治43年(1910年)-大正4年(1915年)田山花袋「新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2」では「堂より更にこと八町、禿山の頂上に達す。これを丸山即ち十國峠と称す」。「丸山(十國峠)」 ・昭和4年(1929年)薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」で「十国峠は一名丸山とも書かれて」と、「日金山」が出てこないのに、「丸山」が出てきます。 ・その後は、山全体もしくは山頂部が十国峠になって「丸山」は出てきません。 (4)明治39年(1909年)~日金山から十国峠へ ❶明治39年(1909年)の高頭式著「日本山岳志」に、「日金山【別称 十國嶺(ジッコクタウゲ)】」と記載されています。十國嶺が初めて日金山本体の別称となりました。 また、「日金山の絶頂を丸山と称し、又十国峠とも云う。」の記載もあります・ 「山の名前は日金山(十國嶺)で山頂は丸山(十國峠)」という奇妙な表現です。 ❷明治39年(1909年)の中村巷著「記事文例-十國峠の眺望」では「十國峠」単独で記載し、「丸山」も「日金山」も出てきません。 「十國峠の頂上まで」と書いているので、山全体(従来に日金山)を十國峠としているようです。 従来の記載は「日金山の頂上である十国峠」です。 ❸大正7年(1918年)箱根保勝会 編「箱根めぐり 」 箱根保勝会の観光案内書では「十國峠」だけになり、「日金山」は出てきません。 ❹昭和25年(1927年)徳富蘇峰著「蘇峰先生伊豆遊記」の附録の題目が「日金山十國峠」 「日金山十國峠」とは奇妙な題名です。読者は「日金山の頂上にある十國峠」、「日金山、別称十國峠」、「日金山十国峠という山」か判断に迷う。蘇峰先生も戸惑うほど、世の中で日金山、丸山、十国峠の名称が統一されていなかったようです。 ❺昭和3年(1928年)の「地理院地図」では山全体が「日金山(十國峠)」 で「十國峠」が別称で記載されます。 ❻昭和31年(1956年) 駿豆鉄道株式会社により十国鋼索線 十国登り口 - 十国峠間(十国峠ケーブルカー)が開業。 十国峠十国鋼索線 - Wikipedia 十国峠ケーブルカーの開業により、世間一般で日金山とその山頂の丸山が十国峠の名称になったと思います。、 ❼昭和47年(1962年) 国土地理院の地理院地図で「十国峠(日金山)」の表記になり、山全体の名称が日金山から十国峠になりました。 ❽平成22年( 2010年)「山と高原地図・箱根」、「カシミ-ル3Ⅾ」の地図では、「十国峠(日金山)」の表記。 ❾平成23年( 2011年)佐古清隆「富士山が見える山」で平成以降の書物では珍しく「日金山(十国峠)」の表記。 ❿平成28年(2016年) 「十国峠(日金山)」が国指定文化財登録記念物になりました。 以上のように、現在では山全体が「十国峠」、「十国峠(日金山)」と記述され、山頂部の記述は有りません。
表 日金山から十国峠へ、その山名の変換
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