十国峠(日金山)あれこれ



十国峠に登る

十国峠の読み方

何故十国峠か&
山名の変遷まとめ

山名の変遷
応神天皇~江戸時代

山名の変遷
明治~令和

何故「山」から
「峠」に

広瀬台山画
「日金山頂望富岳図」

葛飾北斎画
「豆州日金山眺望絵巻」

富岡鉄斎画
「富士遠望図」

実朝の和歌







何故十国峠か&山名の変遷のまとめ








何故十国峠か、 峠の山頂から十国(十州)が見えたため十国峠と呼ばれた



江戸時代中期の天明3年(1783年)に、熱海村の里長により現在の日金山山頂の丸山(現在の十国峠山頂)に「十国観望の碑」が建立されました。
その石碑に、日金山頂から十国五島が観望できるという記述があります。これにより、山名が明治時代に日金山から十国峠に変っていったと思います



十国観望の碑

伊豆国加茂郡日金山頂
  所観望者、十国五島、
   自子至卯(「ね」(北)より「う」(卯)にいたる)、
   相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国、
   自辰至申(「たつ」(南東)より「さる」(南西)にいたる)、
   其国所隷之五箇島及と遠江国、
   自酉至亥(「とり」(西)より「い」(北西)にいたる)、
   駿河国・信濃国・甲斐国
  天明三年八月、東都林居
  士諸鳥出雲光英・源清候
  等、応熱海里長渡辺房求
  之需、建之、



※この石碑に刻まれている十二支は、方角を表しています。
  (「子」=北から時計回りに「亥」=北北西まで)
  「辰」、「申」、「亥」は、厳密には東北東、西南西、北北西を
  指しますが、このページでは分かりやすくそれぞれ南東、南西、
  北西としました。

 この碑の中にある伊豆の五島というのは、初島・大島・利島・三宅島・ 神津島を指しています。

 この碑は、山頂に建てられたものとしてはおそらく登山史上最初の碑であり、 「十国峠」という名称も、これによって明治以降に言い慣わされるように なったものと思われます。


十国観望の碑

十国観望の碑文

十の国(伊豆、相模、駿河、遠江、甲斐、安房、上総、下総、武蔵、信濃)が見えたことからその名がついたといわれる十国峠。


   十国の名称







十国峠、その名称の変遷のまとめ




「あたみ歴史こぼれ話(本編)」にあるように、十国峠は江戸時代には「日金山」で、その山頂は「丸山」です。十国峠と呼ばれるようになったのは、明治以降です。


あたみ歴史こぼれ話23話

上記こぼれ話の補足として丸山と記載された絵図(出典:『熱海温泉図考』)が掲載されています。描かれた年代は不明です。東光寺からの山道の頂(現在の十国峠らしきところ)に「丸山」があります。
>


上記文献などにより、日金山、丸山、十国峠に関する史料、絵画を集め、その名称の変遷を調べました。

ここでは、その資料の一覧表に基づき、要点のみ記載して名称の変遷をまとめました。史料の詳細は次のページでご覧ください。


(1)応神天皇時代(271-273年) 「日が峰」

応神天皇二年(271年)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。その様子は日輪のようで、峰は火を吹き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになりました。

 同四年(273年)松葉仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。(山の名前は不明)



(2)江戸時代(1603-1868年) 山全体は「日金山」、山頂は「丸山」

❶元文4年(1739年)田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」に、日金山にある丸山が出てきます。その丸山からの各方角に眺められる山水や宿駅を詳しく述べています。


❷その44年後の天明3年(1783年)に、現在の十国展望台付近に、熱海村の里長が十国観望の碑を建てました。
碑文には「伊豆国加茂郡日金山頂
とあり、「丸山」の記載は有りません。


❸享和3 (1803年)司馬江漢画「西遊旅譚 5巻」で日金山頂で各方向の景色を描き、南乃方の画で「日金山頂丸山」と書いています。
几帳面な司馬江漢なので山頂を「丸山」と書きましたが、他の山頂からの画には「丸山」は記載されていません。
「あたみ歴史こぼれ話(本編)」では、日金山からの絵画がないと書いてありますが、山頂からの富士山の絵はこれを含め8点もあり、江戸時代の富士山写生ポイントになっていたように思います。


❹文化元年(1804年)松崎復著「游豆小志・游記」
近世後期の儒学者松崎慊堂が、文化元年(1804)4月から5月にかけて伊豆に赴いた際の紀行文。「行記」「游記」「帰記」の三部と、要所で詠んだ漢詩から成る。
このなかで、「陪登日金山・・・日丸山、日金嶺也」と書いています。日金山に登り、丸山を日金嶺と言っています。江戸時代に丸山の別称が初めて出てきました。


❺文化4年(1807年)の山本清渓著「熱海紀行」では、「日金山」の山頂は「丸山」です。
「日金山の北なる丸山」に「いしぶみあり」との記述から、日金山の山頂を「丸山」と呼んでいたようです。



熱海紀行

   司馬江漢作
 
❶元文4年(1739年)
田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」
❸享和3 (1803年)
司馬江漢画「西遊旅譚 5巻」
❹文化元年
「游豆小志」
 


  
❻東光寺の境内には日金山山頂」の石柱が有り、東光寺関係者や地元人は「日金山の山頂は東光寺であり、その先の箱根方面にある山は丸山です」と言っていたかもしれません。
江戸時代、日金山には二つの山頂が有ったようです。。











日金山東光寺

東光寺境内にある「日金山頂上」の標示柱  
日金山東光寺 東光寺境内にある「日金山頂上」の標示柱





(3)明治元年(1868年)~令和  
日金山山頂は「丸山」から「十国峠」へ


❶明治11年(1878年)9月の大内青巒 著「豆州熱海誌」に始めて「十國峠」が出てきます。「日金山」の絶頂にある「丸山」の別称です。「丸山(十國峠)」。
 「日金山 伊豆山村に属すその絶頂を丸山と称し又十國峠(こくとうげ)という」
 天明3年(1783年)の「十国観望の碑」建立から100年ほどたってます。山頂の形状にピッタリした山名「丸山」にかなり愛着があったようです。


❷明治11年(1878年)の成島柳北の紀行文「澡泉紀遊」で「十国嶺(トウゲ)」で出てきます。「丸山」は別称でも出てきません。
「日金山の頂上は十國嶺(トウゲ)ですが、土人(土地の人)は東光寺のあるところが日金山で、十國嶺は別地と考えるている」と書いている。
尚、「十国峠」ではなく「十國嶺(トウゲ)」としています。「峠」と「嶺」については後で述べます。


❸明治27年(1994年) 野崎城雄著「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編<」では十國峠(丸山)です。
日金山のなかに十国峠(丸山)があるのか、日金山とは別に十国峠(丸山)があるのか、わからない記述です。



日金山
 丸山(十國峠)
日金山
十國嶺
日金山
十國峠(丸山)
❶明治11年(1878年)
内青巒 著「豆州熱海誌」
❷明治11年(1878年)
成島柳北「澡泉紀遊」
❸ 明治27年(1994年)
野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編
 
❶明治11年(1878年)大内青巒 著「豆州熱海誌」

明治11年(1878年)成島柳北「澡泉紀遊」
  
明治27年(1994年)野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編



❹明治27年(1894年)頃から日金山本体と頂上部の区別があいまいになり、頂上部の名称がはっきりしません。

・明治36年(1903年)年の「二世の契」で泉鏡花は、「日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)」と別の山のように記載しています。
「但件の停車場に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)を頂いた」。「十国峠」

・明治39年(1909年)の高頭式「日本山岳志」では「日金山の絶頂を丸山と称し、又十国峠とも云う」。「丸山(十國峠)」

・明治43年(1910年)-大正4年(1915年)田山花袋「新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2」では「堂より更にこと八町、禿山の頂上に達す。これを丸山即ち十國峠と称す」。「丸山(十國峠)」

・昭和4年(1929年)薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」で「十国峠は一名丸山とも書かれて」と、「日金山」が出てこないのに、「丸山」が出てきます。


・その後は、山全体もしくは山頂部が十国峠になって「丸山」は出てきません。



(4)明治39年(1909年)~日金山から十国峠へ


❶明治39年(1909年)の高頭式著「日本山岳志」に、「日金山【別称 十國嶺(ジッコクタウゲ)】」と記載されています。十國嶺が初めて日金山本体の別称となりました。
また、「日金山の絶頂を丸山と称し、又十国峠とも云う。」の記載もあります・
「山の名前は日金山(十國嶺)で山頂は丸山(十國峠)」という奇妙な表現です。


❷明治39年(1909年)の中村巷著「記事文例-十國峠の眺望」では「十國峠」単独で記載し、「丸山」も「日金山」も出てきません。
「十國峠の頂上まで」と書いているので、山全体(従来に日金山)を十國峠としているようです。
従来の記載は「日金山の頂上である十国峠」です。


❸大正7年(1918年)箱根保勝会 編「箱根めぐり 」
箱根保勝会の観光案内書では「十國峠」だけになり、「日金山」は出てきません。


❹昭和25年(1927年)徳富蘇峰著「蘇峰先生伊豆遊記」の附録の題目が「日金山十國峠」
「日金山十國峠」とは奇妙な題名です。読者は「日金山の頂上にある十國峠」、「日金山、別称十國峠」、「日金山十国峠という山」か判断に迷う。蘇峰先生も戸惑うほど、世の中で日金山、丸山、十国峠の名称が統一されていなかったようです。


❺昭和3年(1928年)の「地理院地図」では山全体が「日金山(十國峠)」 で「十國峠」が別称で記載されます。


❻昭和31年(1956年) 駿豆鉄道株式会社により十国鋼索線 十国登り口 - 十国峠間(十国峠ケーブルカー)が開業。 十国峠十国鋼索線 - Wikipedia
十国峠ケーブルカーの開業により、世間一般で日金山とその山頂の丸山が十国峠の名称になったと思います。、


❼昭和47年(1962年) 国土地理院の地理院地図で「十国峠(日金山)」の表記になり、山全体の名称が日金山から十国峠になりました。


❽平成22年( 2010年)「山と高原地図・箱根」、「カシミ-ル3Ⅾ」の地図では、「十国峠(日金山)」の表記。


❾平成23年( 2011年)佐古清隆「富士山が見える山」で平成以降の書物では珍しく「日金山(十国峠)」の表記。


❿平成28年(2016年) 「十国峠(日金山)」が国指定文化財登録記念物になりました。


以上のように、現在では山全体が「十国峠」、「十国峠(日金山)」と記述され、山頂部の記述は有りません。


日金山(十國嶺)
丸山(十國峠)
十國峠
十國峠
日金山
日金山(十國峠)
十国峠(日金山)
❶明治39年(1909年)
高頭式「日本山岳志」
❷明治39年(1909年)
中村巷「記事文例
-十国峠の眺望」
❸大正7年(1918年)
箱根保勝会 編「箱根めぐり 」
❺❻❼ 国土地理院の地理院地図
変遷
日本山岳志の日金山 十国峠の眺望の文 箱根めぐり の文 ;明治27年1894年

国土地理院の地理院地図 日金山

昭和3年 1928年

国土地理院の地理院地図の日金山

昭和31年 1956年
十国峠ケーブルカー開通

昭和47年 1972年

国土地理院の地理院地図の十国峠



表 日金山から十国峠へ、その山名の変換



年代 西暦 文献・絵画作品 の著者・作者 山全体の名前  山頂の名前  リンク
応神天皇2年  271年 日金山東光寺HP 日が峰 - 東光
応神天皇4年 273年 同上; 開山
山の名前は不明
- 東光
江戸時代
元禄16年
1703年 藤原某画「豆州熱海十景 日金暮雪」 日がねの山  熱海
江戸時代
宝永4年
1707年 富士山東南中腹の宝永大噴火 - - Wiki
江戸時代 
元文4年
1739年 田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」 日金山 丸山 早稲25/37
>
江戸時代
明和4年
1767年 河村岷雪画「百富士・日金峠 豆州」 (日金峠:日金山か別個にある峠か不明です) - 静岡
江戸時代
安永6年
1777年  中山高陽画「八州勝地図」 日金峰 - 静岡
江戸時代
-1786年 宋紫石画 「日金山眺望富士山図」 日金山  - 文化
江戸時代
天明3年
1783年 現在の十国展望台付近に、熱海村の里長により十国観望の碑建 日金山 - 熱海
江戸時代
寛政11年
1799年 広瀬台山画「日金山頂望富岳図」> 日金山 ;- 文化 
江戸時代
享和2年
1802年 谷文晁画「日金山絶頂真景図」 日金山 - 国立74/241
江戸時代
享和3
1803年 司馬江漢 画「画西遊旅譚 5巻. ・丸山からの東西南北図」 日金山 丸山 国立10/27
江戸時代
文化元年
1804年 松崎復著「游豆小志・游記」 日金山 丸山
(日金嶺)
東大11/24
江戸時代
文化4年
1807年  山本清渓「熱海紀行」 日金山 丸山 熱海89p
江戸時代
天保4年 
1833年  葛飾北斎画「豆州日金山眺望絵巻
(部分)
日金山  - Twi
江戸時代
天保10年
1839年 大岡雲峰画「日金山富嶽眺望図」 日金山 - 静岡
明治11年 1878年 大内青巒 著「豆州熱海誌」 日金山 丸山
(十國峠)
国立25/40
明治11年  1878年 成島柳北「澡泉紀遊」 日金山 十國嶺(トウゲ) 国立
9/97
>明治17年 1884年 「新編相模国風土記稿・足柄下郡」 日金峠:
(詳細不明ですが記載あり)
-
明治27年
-大正4年
1894
-1915年
「地理院地図」 日金山 ;- 今昔
関東
明治27年 1894年< 野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編」 日金山 十国峠 
(丸山)
Go
明治35年 年  国木田独歩「湯河原より」 十國峠(山全体か山頂か不明) あお
明治36年 1903年 泉鏡花 「二世の契」 日金山 十国峠 あお
明治38年 1905年 富岡鉄斎 「富士遠望図」 日金山山頂からの大観とされる。 兵庫
明治38年 1908年 田山花袋著「箱根紀行」
- 日金峠
明治39年 1909年 高頭式「日本山岳志」 日金山
(十國嶺(ジッコクタウゲ))
丸山
(十國峠)
国立
382
/718
日金嶺
(十国嶺)
-
明治39年 1909年 中村巷「記事文例-十国峠の眺望」 十國峠 - 国立132/159
明治43年 1910年 田山花袋「新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2」 日金山 丸山
(十國峠)
国立262/298
大正元年 1912年 大町桂月「箱根山」 日金山 丸山
(十國峠)
Go
大正7年 1918年 箱根保勝会 編「箱根めぐり 」 十國峠 - 国立
46/55
昭和2年 1927年 徳富蘇峰「蘇峰先生伊豆遊記」 日金山十國峠 国会34/42
昭和3年
-昭和20年
1928年-1945年 「地理院地図」 日金山
(十國峠)
今昔
関東
昭和4年 1929年 薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」 - 十国峠
(丸山
)
国会159/193
昭和7年 1932年 箱根峠-熱海峠間十国自動車専用道完成.箱根ー熱海間バス営業開始 - - 十国
昭和13年 1938年 十国峠展望台完成

- 十国峠 十国
昭和31年
1956年 駿豆鉄道株式会社により十国鋼索線 十国登り口 - 十国峠間が開業 -
十国峠 Wiki
昭和63年-平成20年
1988年-2008年 「地理院地図」 十国峠
(日金山)
- 今昔
  関東
平成22年 2010年 山と高原地図・箱根 十国峠
(日金山)
-
平成22年 2010年 杉本智彦「カシミ-ル3Ⅾ」
実業之日本社刊の地図
十国峠
(日金山)
-
平成23年 2011年 佐古清隆「富士山がいえる山える山」山と渓谷社刊 日金山 
(十国峠)
-
令和4年
2022年 「地理院地図」 十国峠
(日金山)
- 今昔
関東













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