十国峠(日金山)あれこれ









山名の変換 明治~令和








(1)山名の変換 明治



 ■明治11年(1878年)9月の大内青巒 著「豆州熱海誌」に始めて「十國峠」が出てきます。
「日金山」の絶頂にある「丸山」の別称です。「丸山(十国峠)」

 「日金山 伊豆山村に属すその絶頂を丸山と称し又十國峠(こくとうげ)という」



 明治11年(1878年)8月の大内青巒 著「豆州熱海誌」真誠社


大内 青巒(おおうち せいらん、(1845年1918年)12月16日)は、明治期から大正期における仏教学者・思想家。
はじめ宮城郡東宮浜(現在の七ヶ浜町)[1]、後に常陸国水戸の曹洞宗[2]で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめた。



*
*明治18年の「熱海独案内」の文は上記と同じ、挿絵はここだけ




熱海独案内 8、28/43- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用




 ■明治11年(1878年)の成島柳北の紀行文「澡泉紀遊」で十国嶺(トウゲ)で出てきます。

日金山の頂上は十国嶺ですが、土人(土地の人)は東光寺のあるところが日金山で、十国嶺は別地と考えるていると書いている。
尚、「十国峠」ではなく「十国嶺(トウゲ)」としています。ここでは、「丸山」は出てきません。


 明治11年(1878年)9月の成島柳北の紀行文「澡泉紀遊」
成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837 - 1884年は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。


・十国峠からの壮大な眺めを描写し、「日金之勝、天下に聞ゆ」に始まる長歌を詠んでいます。

上記こ「あたみぼれ話」より引用


・日本名所風俗図会: Edo no makibooks.google.co.jp › books 1979

なお、日金山の頂上は十国峠で、また山の形状により丸山と呼ばれるが、日金山と十国峠とを別地と考える者もあった。成島柳北は『深泉紀遊』の中で、「十国嶺二抵ル、即チ日金山ノ絶頂ナリ。土人或ハ東光寺ノ在ル処ヲ日金山トシ、此地ヲハ単二十国嶺ト呼 ..



成島柳北の紀行文「澡泉紀遊」





■明治27年-大正4年1894年-1915年の「地理院地図」では山全体が「日金山」(図は後で掲載)


■明治27年(1907年) 野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編」

日金山のなかに十国峠(丸山)があるのか、日金山とは別に十国峠(丸山)があるのか、わからない記述です。



明治27年1907年  野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編」

野崎城雄「日本名勝地誌:東海道之部下. 第3編」



■明治35年(1902年)小説「湯河原より」で国木田独歩は「十国峠」単独で記載。「丸山」も「日金山」も出てきません。


1902年(明治35年)国木田独歩 小説「湯河原より」

お絹には出逢はなかつた。當り前である。僕は其翌日降り出しさうな空をも恐れず十國峠(じつこくたうげ)へと單身宿を出た。宿の者は總がゝりで止めたが聞かない、伴を連れて行けと勸めても謝絶。山は雲の中なか、僕は雲に登る積りで遮二無二に登つた。



■明治36年(1903年)年の「二世の契」で泉鏡花は、「日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)」とそれぞれ別の山のように記載しています。鶴巻山が次に掲載した「日本山岳志」の日金山の次に記載されていますが、現在の地図にはなく、検索しても出てきません。100年たつと山が消えてしまいます。


 明治36年(1903年)年1月 「二世の契」 泉鏡花 初出:「新小説」  



「炉の中の荊の葉が、かち/\と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」
 いかにも拭つたやうに野面一面。媼の頭は白さを増したが、桂木の膝のあたりに薄日が射さした、但件の停車場に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)を頂いた、三島の連山の裾が直に枯草に交るあたり、一帯の霧が細流のやうに靉靆て、空も野も幻の中に、一際濃やかに残るのである。




■明治38年(1905年)富岡鉄斎「富士遠望図」 京都国立近代美術館蔵 南伊豆賀茂郡日金山の山頂から見た大観



明治38年(1905年)富岡鉄斎「富士遠望図・寒霞渓図」右隻  京都国立近代美術館蔵

富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年- 1924年は、明治・大正期の文人画家、儒学者、教員。
日本最後の文人と謳われる。

「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。富岡鉄斎 - Wikipedia


「《富士遠望図》は、南伊豆賀茂郡日金山の山頂から見た大観。パノラマ的で普通の南画とは違う。賛は向かって右上の隅に書くのが、この場合適当だが、鉄斎は左上に書いている。鉄斎の鉄斎たる所以である。賛は自作の詩。「夢に希夷に謁して地仙を学ぶ。能く縮地を為して雲煙を踏む。腰間帯び得たり金壷の墨。瀉いで現す芙蓉白玉の巓。」(宋の仙人陳奇夷に夢で会い、その術を学んで白玉のように頂上の輝く富士をかいた)
『現代日本美術全集 1』(富岡鉄斎)座右宝刊行会/編集制作 集より引用
富岡鉄斎の「富士遠望図」が見たい。 | レファレンス協同データベース

しゅく‐ち【縮地】
[神仙伝壺公「費長房神術有り、能く地脈を縮む」]仙術によって地脈を縮め、距離を短くすること。「―の術」 広辞苑無料検索 より引用

*賛文にあるように縮地の術を使って描いた富士山のパノラマ図です。


 富岡鉄斎「富士遠望図・寒霞渓図」右隻



■明治38年(1908年)田山花袋著「箱根紀行」

十州五島を見るという日金峠(ひがねたうげ)の勝が」とあるので、「丸山」を日金峠と書いています。

 明治39年(1903年)年     田山花袋著「箱根紀行」

田山花袋著「箱根紀行」







■明治39年(1909年)の高頭式「日本山岳志」に、日金山【別称 十国嶺(ジッコクタウゲ)】として記載されています。

「日金山の絶頂を丸山と称し、又十国峠とも云う。

これを自分流に書き直すと次の様になります。

「日金山(別称十国嶺)、その絶頂は丸山と称し、また十国峠とも云う」

「山の名前は日金山(十国嶺)で山頂は丸山(十国峠)」という奇妙な表現です。上記の「日金山と十国峠とを別地」とも異なる表現です。
十国嶺と十国峠のちがいはなにか。後で考察します。


また、後半で日金嶺(一名十國嶺)が出てきます。日金山の別称でしょうか。


何はともあれ、明治39年にして初めて「日金山」の別称として「十国嶺(ジッコクタウゲ)」が出てきました。



明治39.2(1909年) 「日本山岳志」 高頭式
編 博物館 p200


高頭仁兵衛(たかとうにへえ)(1877―1958)

登山家。新潟県深沢村生まれ。本名式(しょく)。東京で漢文を学び、1898年(明治31)富士山に登り、志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』を読み、登山に意欲を燃やし、富士山、槍(やり)ヶ岳、木曽御嶽(きそおんたけ)など明治の登山の黎明(れいめい)期に多くの登山を行った。日本山岳会発足のときには財政面から強力な支持者となった。第2代日本山岳会会長、名誉会員。新潟県弥彦(やひこ)山頂には銅像がある。日本最初の山岳百科事典として知られる『日本山嶽志(さんがくし)』を著した。
高頭仁兵衛とは - コトバンク


  「日本山岳志」 高頭式編


  






■明治39年(1909年)の「記事文例-十国峠の眺望」で中村巷は「十国峠」単独で記載しt、「丸山」も「日金山」も出てきません。

「十國峠の頂上まで」と書いているので、山全体(従来の日金山)を十國峠としているようです。
従来の記載は「日金山の頂上である十国峠」です。

 明治39年(1903年)年     中村巷「記事文例-十国峠の眺望」



中村巷「記事文例-十国峠の眺望」





■ 明治43年(1910年)-大正4年(1915年)新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2 edited by 田山花袋 

上記文と似ていますが、「日金山」と別の所に「丸山即ち十国峠」があるような記述です。


新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2 edited by 田山花袋 1910年 明治43年


田山花袋 たやまかたい 1871〜1930
明治・大正時代の小説家。本名録弥。群馬県の生まれ。初め硯友社の影響をうけたが,明治30年代末より自然主義文学者として島崎藤村とともに活躍した。代表作に『蒲団 (ふとん) 』『生』『田舎教師』など。田山花袋とは - コトバンク
*著者がこの田山花袋と同じ人かは不明。



新撰名勝地誌: 東海道西部. 巻2 田山花袋 1910年 明治43年




(2)山名の変換 大正



■大正元年(1912年) 大町桂月「箱根山」


「日金山」の山頂が「丸山」で別称「十国峠」。

十国峠より箱根の神山、駒ヶ岳からの景色の方がが雄大と言ってます。

*紀行文で著名な大町桂月ですので、この時期(大正時代)の代表的な認識と思います。


大正元年(1912年) 大町桂月「箱根山」


おおまち‐けいげつ【大町桂月】

[1869~1925]詩人・評論家。高知の生まれ。本名、芳衛。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。のち、紀行文を多く書いた。詞華集「花紅葉」(共著)「黄菊白菊」、随想評論集「我が文章」など。




大町桂月「箱根山」



■(1918年)箱根保勝会 編「箱根めぐり 」出版者箱根保勝会事務所

「十国峠」だけで、「日金山、「丸山」」は出てきません。

箱根保勝会としては「十国峠」を宣伝したいため、観光案内書では「十国峠」だけになりました。




大正7年(1918年)箱根保勝会 編「箱根めぐり 」出版者箱根保勝会事務所

箱根保勝会 編「箱根めぐり 」






(3)山名の変換 昭和



■昭和2年(1927年)徳富蘇峰「蘇峰先生伊豆遊記」

「日金山十國峠」とは奇妙な題名です。読者は「日金山の頂上にある十國峠」、「日金山、別称十國峠」、「日金山十国峠という山」か判断に迷う。蘇峰先生も戸惑うほど、日金山、丸山、十国峠の名称が統一されていなかったようです。

「手を出せば、届きそうなり雪の富士」の句吟が無くなったのは残念です。十国峠から眺める富士山を良く表しています。作者はGoogle検索でも出てきません。


昭和2(1927年)徳富蘇峰「蘇峰先生伊豆遊記」

徳富蘇峰「蘇峰先生伊豆遊記」






■昭和3年-昭和20年1928年-1945年の「地理院地図」では山全体が「日金山(十国峠)」(図は後で掲載)
戦前は、「日金山(十国峠)」 が、正式名称か。(「地理院地図」が山などの名称の権威ある情報源とすると)


■昭和4年(1929年)薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」


「日金山」の記載はなく、十国峠を登る途中に「日金山東光寺がある」の記載だけです。観光地として「十国峠」の名前を強調しています。

十国峠のケーブル設置は昭和4年頃には出ており、戦後の昭和31年に開業しています。

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昭和4年(1929年)薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」

薄田嶄雲 編「熱海を語る : 逍遥半峰春城三翁座談録」




■昭和7年(1932年)箱根峠-熱海峠間十国自動車専用道完成



■昭和10年(1935年)の国語辞書「辞苑」

「十国峠」は単独。「日金山」は「十国峠の称」。辞書の世界では、元の「丸山」は「十国峠」となり、「日金山」からも独立したようです。





辞苑eTypisより引用




■昭和10年(1935年)寺田寅彦「箱根熱海バス旅行」


箱根峠-熱海峠間十国自動車専用道を使って十国峠へバス旅行。今のケーブルの所を階段で登る。十国峠の頂上には無線塔があった。
観光地「十国峠」で「日金山」、「丸山」はでてきません。


昭和10年(1935年)寺田寅彦「箱根熱海バス旅行」

十国峠(じっこくとうげ)までの自動車専用道路からの眺望は美しく珍しい。大きな樹木のないお蔭で展望の自由が妨げられないのがこの道路の一つの特徴であろう。右を見ると伊豆の国というものの大きさがぼんやり分かるようであり、左を見下ろすと箱根山の高さのおおよその概念が確定するような気がする。女車掌が蟋蟀こおろぎのような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩の昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。十国峠の無線塔へぞろぞろと階段を上って行く人の群は何となく長閑に見えた。




■昭和7年(192年) 箱根峠-熱海峠間十国自動車専用道完成、箱根ー熱海間バス営業開始
十国峠ケーブルカー
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■昭和13年(1938年) 十国峠展望台完成
十国峠ケーブルカー


■昭和16-7年(1941-42年) 与謝野晶子

「わが立つは 十國峠 十國の山山にある 雲もうつくしき」 推敲して「わが立つは 十國峠 光る雲 胸に抱かぬ 山山もなし」

 病床の与謝野晶子、最期の草稿…鉛筆書きで創作 | 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN




■昭和31年(1956年) 駿豆鉄道株式会社により十国鋼索線 十国登り口 - 十国峠間(十国峠ケーブルカー)が開業。
   十国峠十国鋼索線 - Wikipedia



■昭和47年(1962年) 国土地理院の地理院地図で「十国峠(日金山)」の表記になり、山全体の名称が日金山から十国山になりました。
その地図の明治27年からの変化もまとめて掲載します。現在も「十国峠(日金山)」の表記で日金山は消えていません。

昭和初期から、山頂からの十国観望を観光に宣伝することで、世間一般に使われる名称が、日金山、丸山から十国峠に移行して行き、昭和31年に十国峠ケーブルが開業したことで、山の名前は十国峠になったと思います。
少し遅いようですが、地理院地図でも昭和47年に「十国峠(日金山)」になり、その後殆どのメディアの記載がこのようになりました。
日金山東光寺があるため、()付きで日金山が残っていると思います。


明治27年-大正4年1894年-1915年 地理院地図 日金山

774.4



日金
日金山山頂に有る
「丸山」の記載は無し


十國峠の
記載も無し
昭和3年-昭和20年1928年-1945年  地理院地図 日金山 

(十國峠)

765.0




航空灯台






日金
(十國峠)
の記載 
昭和31年
1956年
十国鋼索線 (十国峠ケーブルカー)開通
山頂は十国峠駅
昭和47年-昭和57
1972年-1982年 
地理院地図 十国峠

(日金山) 


標高の
記載無し

(十国峠
ケーブルカ)




東光寺
十国峠が正式標示になる


十国峠ケーブルカーの記載
昭和63年-平成20年
1988年-2008年
>地理院地図 十国峠

(日金山) 


771

(十国峠
ケーブルカ)




東光寺 
令和4年
2022年
地理院地図 十国峠

(日金山) 


771

十国登り口駅

十国峠駅



東光寺  
陰影起伏図> ;地理院地図
十国峠は
山地の尾根の峰と峰との間の低い鞍部ではなく峰の頂上にあります
今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト・関東|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室) より引用



(4)山名の変換 平成


■平成11年(1999年)  鈴木澄雄「絶景!! 富士山と花を眺める百名山」講談社刊では「日金山」。
本文で「日金山は十国峠で知られているが・・・・」
此の山の名花:コウズリナ、ノギク

■平成22年(2010年) 山と高原地図・箱根  十国峠(日金山)



山と高原地図・箱根  十国峠(日金山)


■平成22年(2010年)版 カシミ-ル3Ⅾの地図  十国峠(日金山)


カシミ-ル3Ⅾの地図  十国峠(日金山)



■平成23年(2011年)版 佐古清隆「富士山が見える山 ベストコース」山と渓谷社刊では  日金山(十国峠)

平成以降の書物では殆ど十国峠(日金山)ですが、この本では珍しく、121pに「日金山 別名十国峠」と記載。



■平成28年(2016年) 十国峠が国指定文化財登録記念物になりました。



2016.03.01(平成28.03.01)国指定文化財登録記念物
十国峠(日金山)は箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で,風衝(ふうしょう)によりハコネダケ,アズマササ,ミヤクマザサなどのササ類とハンノキ,アセビなどの低木林が優占している。日金山は古くからの信仰の地で,中世以降,伊豆山権現と箱根権現を結ぶ信仰の道の要所として,あるいは,「山中他界」として死者の集まる霊山として知られるようになった。

江戸時代後期における旅文化の発展に伴い,十国五島の景勝を望む好適地として知られるようになった。日金山からの眺望の特徴は,様々な絵画に描かれ,なかでも,葛飾北斎の『豆州(ずしゅう)日(ひ)金山(がねさん)眺望(ちょうぼう)絵巻(えまき)』(天保4年,1833)には周囲360度に広がる景色が一連のものとして表現されている。明治時代以降,数々の文学作品にも描かれて「十国峠」の名が普及し,伊豆・箱根地域を代表する観光地のひとつとして定着してきた。その地勢と植生の特徴から,富士山をはじめとした四周八方の景勝を望む好適地を成し,当地の歴史・伝統にゆかりの景勝地として親しまれてきた意義深い事例である。
国指定文化財登録記念物碑
国指定文化財等データベース より引用











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