十国峠(日金山)あれこれ



十国峠に登る

十国峠の読み方

何故十国峠か&
山名の変遷まとめ

山名の変遷
応神天皇~江戸時代

山名の変遷
明治~令和

何故「山」から
「峠」に

広瀬台山画
「日金山頂望富岳図」

葛飾北斎画
「豆州日金山眺望絵巻」

富岡鉄斎画
「富士遠望図」

実朝の和歌







山名の変換 応神天皇~江戸時代








(1)応神天皇2年~



■最初その山は、応神天皇二年(271年)に「日が峰」と呼ばれ、やがて「日金山」と呼ぶようになった。

「日金山 東光寺」でも、「日金山」になった年月がわからないのか、「やがて日金山と呼ぶようになりました。」と書いている。




日金山 東光寺の由来



 応神天皇二年(271年)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。その様子は日輪のようで、峰は火を吹き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになりました。

 同四年(273年)松葉仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。

 推古天皇の頃(594年)走湯権現の神号を賜り、その後、仁明天皇の承和三年(836年)甲斐國の僧、賢安が、日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に遷したと言われています。(走湯山縁起云云)

 鎌倉時代は、源頼朝の篤い信仰に支えられ、現在本尊として祀られている延命地蔵菩薩像も、頼朝公の建立によるものです。

 地蔵菩薩は、地獄に其の身を置いて、地獄で苦しむ者を救ってくれる仏であることから、死者の霊の集まる霊山として篤い信仰があり、今も尚、春秋の彼岸には多くの人が登山して、神仏や先祖供養のために、卒塔婆供養をしています。





■ 「大日本地名辞書 」吉田東伍著富山房刊明治27年(1907年)

日金山山名の関連事項が次の様に書かれていますが、史料の真偽が不明なのでどれを信用していいのかわからない。
「火が峰(ヒガネ)」ならば、上記の「日が峰」も(ヒガネ)と読まれていたかもしれません。
いつ「日金山」という漢字の記述が行われたか、今のところわかりません。応神天皇2年(271年)から江戸時代安永6年(1739年)は長すぎるので、歴史研究者が探せば、即わかりそうです。

「日金は光(ヒカリ)の訛りにして、古書に光峰と云う」
「此日金山を走湯山縁起には久志良山と云ひ」
「火(ヒ)が峰(ネ)と称せしならむ」
「日金獄祭・・・・」


「松崎慊堂游記云 ・・・・・日丸山、日金嶺也」  江戸時代文化元年(1804年)に丸山を日金嶺と言っています。日金山にある日金嶺です。
松崎 慊堂(まつざき こうどう明和8年(1771年日) - 天保15年(1844年)は、江戸時代後期の儒学者。
この文献は採用して、年表に記載。

「日金嶺」は鈴木重胤著「日本書紀伝 - 第 4 巻」にも出てきますが詳細が不明のため、年表には記載しませんでした。
鈴木重胤(すずき しげたね)、文化9年(1812年) - 文久3年(1863年)は、江戸時代後期の皇学者である。



「大日本地名辞書 」吉田東伍著富山房刊明治27年(1907年)


「大日本地名辞書 」吉田東伍著富山房刊明治27年(1907年)





鈴木重胤著「日本書紀伝 - 第 4 巻」

鈴木重胤著「日本書紀伝 - 第 4 巻」


日本書紀伝 - Google Booksより引用   




(2)江戸時代



江戸時代は、山の名は「日金山」で、その山頂は「丸山」。十国峠はまだ出てきません。


■次の文から、江戸中期の1787年に、日金山山頂にある「丸山」に十国観望の碑ができて、明治時代から「十国峠」の名称が出てきたようです。


あたみ歴史こぼれ話第3話

上記こぼれ話の補足として丸山と記載された絵図(出典:『熱海温泉図考』)が掲載されています。描かれた年代は不明です。東光寺からの山道の頂(現在の十国峠らしきところ)に「丸山」があります。




■江戸時代元禄16年(1703年)藤原某「豆州熱海十景」で「日金暮雪」が出てきて「日がねの山」と書かれています。当調査では「日金」が初めて出てきます。




江戸時代元禄16年(1703年)藤原某「豆州熱海十景」


font size="+0">江戸時代元禄16年(1703年)藤原某「豆州熱海十景」br>

「日金暮雪」

 かきくもる 日がねの山は ふじに似て 木ずえにふかく 見ゆるしら雪










■江戸時代宝永4年(1707年)富士山東南中腹の宝永大噴火。日金山山頂丸山からの富士山の容姿が大きく変わります。
 宝永大噴火 - Wikipedia



十国峠から宝永火口

十国峠から宝永火口 2011.1.17.10.37




■さらに『熱海市史』によると、十国観望の碑が建てられる前の元文4年 (1739年)、田中伯元が、『熱海紀行』附録「丸山登覧方角」において、この碑が示す方角に 眺められる山水や宿駅を詳しく述べています。彼は丸山から箱根に通ずる 背通道に触れた後、「丸山登覧方角」について、以下のように書いています。




江戸時代 元文4年(1739年)田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」

田中伯元『熱海紀行』の附録「丸山登覧方角」


  右之方、戌亥(北西)にあたり富士山木立よりみゆる、甲州籠山・
  足高山・箱根二子山・駒ヶ嶽・山中茶店・列樹松・玉沢山・三島町・
  沼津町・狩野川・千本松原・吉原・田子浦・浮島ヶ原・柏原の池・
  富士川みゆる、川上高山、甲斐身延山続遠山、信濃山九月末より雪有、
  富士川向、蒲原山・薩埵山・庵原・袖師ヶ浦・三穂(保)崎、
  晴天成日は、駿府・久能山・遠州相良山まで見ゆる






■江戸時代明和4年(1767年)河村岷雪画「百富士・日金峠 豆州 」
「豆州 日金峠」とあるので、日金山と関連する峠で日金山周辺にあったか、又は日金山を日金峠と書いたか。




江戸時代明和4年(1767年)河村岷雪画「百富士・第四冊:諸州名勝地・日金峠 豆州 」

河村岷雪が各地から眺めた富士山の風景を百図にまとめたもの。それぞれに漢詩、発句、和歌を記しています。北斎の「富嶽三十六景」や『富嶽百景』の中にもこの作品と構図的に近いものがあり、本書からヒントを得ていたといわれています。

日金峠とはなにか、日金山との関係ははっきりしません。現在の十国峠付近では、このような富士山が見られるところは無いと思います。


  河村岷雪画「百富士・第四冊:諸州名勝地・日金峠 豆州 」






北斎漫画「伊豆日金峠」

北斎「北斎漫画」第7編に「伊豆日金峠」という作品があります。日金山なら富士山が描かれていると思いますが、富士山はいません。富士山横の足高山と駿河湾かもしれません。
日金山でなく日金峠となると何処にあるのか不明となります。

>北斎漫画「伊豆日金峠」





内容はよくわかりませんが、「新編相模国風土記稿」明治17年刊の足柄下郡に「日金峠」が出てきます。
「日金峠」が気になり明治の史料を出しました。しかし、どちらの「日金峠」の詳細は不明です。

「新編相模国風土記稿」明治17年刊の足柄下郡





■江戸時代安永6年(1777年)中山高陽画「八州勝地図」紙本墨画

「十国観望の碑」建立(1783年)の前ですので、控えめに「八州」としたか。
右上の文字列の一行目に「日金峰」とあるように見える。

富士山を中央にして、左に駿河湾、右に相模湾を描く大胆な構図はこの作品が始まりか。また、地名、島名が書いてありますが読み取れません。



江戸時代安永6年(1777年)中山高陽画「八州勝地図」紙本墨画

中山高陽画「八州勝地図」


中山 高陽(なかやま こうよう、享保2年(1717年) - 安永9年(1780年))は、江戸時代中期の日本の南画家、書家、漢詩人。画は南画の先駆者 彭城百川に師事する。はじめ土佐で画塾を構え盛況であったが、宝暦8年(1758年)に江戸に出て開塾。この頃土佐藩の御用絵師となる。宝暦11年(1761年)には土佐藩より三人扶持を給せられ名字帯刀を許される。
また彼が江戸に南画を伝えた功績は大きく、門弟を通じてやがて谷文晁が江戸南画を確立することになる。中山高陽 - Wikipedia






■江戸時代18世紀 宋 紫石画「日金山眺望富士山図」  宋 紫石(1715-1786)筆 絹本着色



江戸時代18世紀 宋 紫石画「日金山眺望富士山図」  宋 紫石(1715-1786) 絹本着色

長崎で熊代熊斐・清人画家宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗る。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。弟子に司馬江漢。宋紫石 - Wikipedia

左端の大瀬崎から駿河湾を経て愛鷹山、富士山とその中腹に宝永山、右に二子山。日金山(十国峠)から箱根越しに展望する景を立体的に表わしたものだ。自然な奥行きがすばらしい。宋紫石は、長崎から入った南蘋派の新画風を江戸に広めた重要な画家。


宋 紫石画「日金山眺望富士山図」




■江戸時代天明3年(1783年)

現在の十国展望台付近に、熱海村の里長により十国観望の碑が建てられた。


十国観望の碑



■江戸時代寛政11年(1799年) 広瀬台山画「日金山頂望富岳図」 


江戸時代寛政11年(1799年) 広瀬台山画「日金山頂望富岳図」

広瀬台山は津山藩士の子として大坂に生まれました。のち江戸詰となり、松平定信、谷文晁など大名や文人たちと交わるようになります。日金山(十国峠)から、富士山を中心に、駿河湾から相模湾までの東西ほぼ180度を細線を重ねた描写で描いています。

広瀬台山画「日金山頂望富岳図」





■江戸時代享和2年(1802年) 谷文晁画「日金山絶頂真景図」



江戸時代享和2年(1802年) 谷文晁画「日金山絶頂真景図」

谷 文晁(たに ぶんちょう) 江戸時代後期の日本の南画(文人画)家。

12歳の頃、父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃に中山高陽の弟子渡辺玄対に師事した。・・・・・・
古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した。その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び、画様の幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に関東南画壇の泰斗となった。谷文晁 - Wikipedia


谷文晁画「日金山絶頂真景図」







谷文晁画【名山図譜】富士山 


「そういえば、文晁が挿画を手掛けた河村寿庵「名山図譜」(文化二年、1805年刊)に見える富士山も、日金山から望む富士山に近い。」上記文献から引用。

宝永山が有り、駿河湾が有るがあるので日金山から望む富士山のようです。



谷文晁画【名山図譜】富士山








■江戸時代享和3年(1803年) 司馬江漢 作・画西遊旅譚 5巻.




江戸時代享和3年(1803年) 司馬江漢 作・画西遊旅譚 5巻


司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日)

江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。

司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」   江戸から九州に至る見聞紀行で、風景、草木花、踊り、祭、古墳など豊富な挿絵が加えられている。



日金山の東西南北からの景色を描いています。
「日金山山頂丸山より南乃方を望」と几帳面に日金山の山頂を「丸山」と記載してます。


  司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」


日金山山頂丸山より南の方。

「右は熱海網代下田海上大島新島三宅島見ゆる」
天城山に隠れて下田までは見えないか、しかしその先に下田があることは示している。
煙が上がっているのは1777年(安永6年)に噴火した三原山がある大島。その左に新島、三宅島があるように記述しているが、新島、三宅島は大島の右側で網代の後ろの方に見えます。手前の島は初島。

司馬江漢はひとり旅で名所案内人はいなかったか。


   日金山山頂丸山より南の方の実景図


  司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」南乃方


日金山山頂より東の方。

「富士山左ハ足高山右ハ二子山」
日金山山頂(十国峠)からは二子山は見えません。二つの山が見えるのは駒ヶ岳と神山です。この後で示す北斎の作品では「駒ヶ岳」としています。(十国峠からの富士山いる大展望)箱根の山として二子山が人気があったのか。

宝永山が描かれていないようです。


  司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」北乃方


日金山山頂より東の方。
「駿河湾、真鶴半島、江ノ島、房州上総」右の山は岩戸山か。


  司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」東乃方


日金山山頂より西の方。
「箱根山三島沼津狩野川富士川見える」
箱根山は東の方で、西には見えないと思います。見える山は、足高山の左側か、駿河州の山です。


  司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻西乃方



日金山からの東西何北図

司馬江漢作・画「西遊旅譚 5巻」東西南北











■江戸時代の文化元年(1804年)松崎復著「游豆小志(ユウトウ ショウシ)・游記」【写本】
近世後期の儒学者松崎慊堂が、文化元年(1804)4月から5月にかけて伊豆に赴いた際の紀行文。「行記」「游記」「帰記」の三部と、要所で詠んだ漢詩から成る。

このなかで、「陪登日金山・・・・日丸山、日金嶺也」と書いています。  日金山に登り、丸山を日金嶺と言っています。






■江戸時代の文化4年(1807年)の山本清渓著「熱海紀行」では、「日金山」で山頂は「丸山」です。

「日金山の北なる丸山」に「いしぶみあり」との記述から、日金山の山頂を「丸山」と呼んでいたようです。



九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository翻刻・山本清渓著「熱海紀行」文化4年(1807年)板坂, 耀子


「国書人名辞典」等によると、 山本清渓は京都の人で、 大炊御門家に仕え、 致仕後は江戸に下り同地で没した。名は正臣、 字は欽若・清渓。この紀行の冒頭によれば、四阿亭主人とも号したか。

山本清渓著「熱海紀行」


■江戸時代天保4年(1833)葛飾北斎画『豆州日金山眺望絵巻』(部分) 肉筆 信州小布施北斎館


江戸時代 天保4年(1833)葛飾北斎画『豆州日金山眺望絵巻』(部分) 肉筆 信州小布施北斎館

*「富嶽三十六景」で著名な葛飾北斎の肉筆画です。
パノラマ図の富士山の右側に「丸山ヨリ箱根道」との記載が有り日金山頂きにある丸山(十国峠)からの景観とわかります。
富士山右側の二山の重なった右側に「コマガタケ」
「富嶽三十六景」は1831-34年(天保2-5年)刊行です。何故、此の素晴らしい日金山からの富士山が「富嶽三十六景」に加わらなかったかが不思議です.
また、北斎の作品でこれほど実景に即した富士山の作品はあまりありません。


天保4年(1833)葛飾北斎画『豆州日金山眺望絵巻』(部分)






■江戸時代天保10年(1839年)大岡雲峰画「日金山富嶽眺望図」葛布地着色




天保10年(1839年)大岡雲峰画「日金山富嶽眺望図」葛布地着色

大岡 雲峰(おおおか うんぽう、明和2年〈1765年〉 - 嘉永元年〈1848年〉)とは、江戸時代の旗本、文人画家。
名は成寛、通称次兵衛。字は公栗。雲峰と号す。江戸の生まれで筑後柳河藩士牛田忠光の子として生まれる。のちに旗本大岡助誥の養子となり、天明8年(1788年)24歳のとき家督を継ぐ。寛政3年(1791年)には表右筆に任じられる。
絵では鈴木芙蓉の高弟で、のちにふたつ年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳とその娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると四谷南蘋と称され[1]、文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された[2]。



大岡雲峰画「日金山富嶽眺望図


静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:大岡雲峰】より引用





大岡雲峰画の賛




以上のように、江戸時代に「日金山」と「丸山」は出てきますが、「十国峠」はまだ出てきません。
また、日金山からの富士山は河村岷雪、谷文晁、司馬江漢、葛飾北斎など多くの著名な画家に描かれ富士山のビューポイントであったようです。










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