実朝の和歌 |
1 源実朝の歌碑 「箱根路を わかこえくれはわかこえくれは い津のうみや おきの小島に 波乃与る游」姫の沢公園から十国峠へ行くところにあります。
![]() ![]() ![]() 碑陰:石碑の裏面に記した銘文 貫朝公:実朝と思うが、ネット検索ではでてこない。 2 源実朝の歌碑 「大海の 磯もとどろによする波 われて砕けて さけてちるかも」伊豆山の「走り湯」近くにある「ホテル ニューさがみや」の玄関横には『大海の 磯もとどろに よする波 われて碎けて さけて散るかも」の歌碑があります。 3 源実朝の二首を鑑賞源 実朝は鎌倉幕府の第3代征夷代将軍で歌人としても知られ家集として『金槐和歌集』(663首)があります。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名『鎌倉右大臣家集』といわれています。成立は、定家所伝本の奥書がある建暦3年(1213年)12月18日(実朝22歳)までとする説が有力です。 源 実朝は、満26歳で甥の公卿により鶴岡八幡宮で暗殺された。
歌人としては、松尾芭蕉、賀茂真淵、正岡子規、斎藤茂吉など一流の歌人、国学者などから、万葉風の歌人として高い評価を受けていけた。 下記欄に、1687年(貞享四年)刊の「金槐和歌集」、1927年(昭和二年)の佐々木信綱著金槐和歌集―校注」の二首を記載。 石碑も加え、用いる漢字はそれぞれ異なります。決まった表記はないようです。 「箱根路・・・」の校注に、賀茂真淵の評が出ています。 万葉集のもと歌「逢坂を 打出てみれば 淡海の海 白ゆふ花に 浪たちわたる」があるが「それよりもまされり」と言っています。 又、賀茂真淵は実朝の万葉風の歌を「大空に翔ける龍の如く勢いあり」とほめています。中でも、「もののふの」の歌は、「人麻呂のよめらん勢ひなり」と特にほめています。
4 正岡子規 「歌よみに与ふる書」正岡子規は、実朝を万葉集の時代から明治までのなかで最も優れた歌読みと絶賛してます。 上記二首については、私の読解力がなく、褒めているのか否かはっきりしません。
4 斎藤茂吉「源 実朝」斎藤茂吉は「源実朝」初版本(岩波書店1943年版)・実朝の歌七十首講 源實朝 で、上記二首次のように評しています。 赤線部のように二首とも絶賛しています。茂吉以降はこの評価が基準となったようです。
5 高校生であった私も感動しました。高校生のころと思いますが、源実朝のこの二首に感動しました。 二首とも単なる景観ではなく、景観に動きのある映像として目の前に現れてきました。 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ 山道を登りきった時に現れた雄大な伊豆の青い海、その中に小島があり、その磯に白い浪が打ち寄せる、それが続きます。山道を登った疲れが飛んでいき、心身に爽やかさが満ちてくる感じです。雄大で明るく爽快な歌です。 大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも さすが、鎌倉幕府の将軍の歌、荒磯にとどろくように打ち付ける浪を「 われて くだけて 裂けて 散るかも 」と豪快にとらえて、リズムよく表現しています。体から元気が湧き出てくるような、雄大で力強い歌です。 しかし、私のこの二首に対する解釈はまちがいであることを、小林秀雄の「実朝」を読んで実感した。 それにより二首に対するそれまでの感動は、われてくだけて裂けて散った。 6 小林秀雄「実朝」小林秀雄「実朝」は、次の文章で始まります。 江戸時代に、松尾芭蕉が西行と実朝を二大歌人として評価したことで実朝が蘇ったことを紹介します。 そのあと、権謀術策が渦巻く鎌倉幕府での実朝の生涯を記述して、「金槐集」の和歌の鑑賞に進みます。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ 私が、心身に爽やかさが満ちてくる、雄大で明るく爽快な歌と思っていた「箱根路を・・・」を、「大変悲しい歌」として「この歌の姿は、明るくも、大きくも 強くもない。」と書いています。びっくりしました。 しかし、確かに悲しい心を持つ人でなければ、次のような情景を詠めないであろう思いました。 「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さい島が見え又その中に更に小さく波が寄せ、又その先に自分の心が見えて来るという風に歌は動いている。」
大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも 小林秀雄は「こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。」といい、この歌は実朝の「孤独」な心が詠んだ歌であり、その実朝の「独創的な孤独」が「この 様な緊張した調を得た」と書いてます。 この歌を「体から元気が湧き出てくるような、雄大で力強い歌」と思っていた私の歌の鑑賞眼は、見事に打ち砕かれました。
上記の二首だけでなく、更に二首追加します。 実朝の歌は、万葉集の習得と技巧の展開などによりできた歌ではなく、「実朝の天稟」によって生まれたものであり「言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。」と書いています。
7 「源実朝」吉本隆明吉本隆明は、源 実朝の和歌を「途方もないニヒリズムの歌」としています。 「悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。」 そのように書かれると、歌の評価に自信を無くした私はそのように思ってしまいますが、心のなかでは納得していません。「悲しい歌」とは思いますが、無感情の貌がみえるニヒリズムの歌ではないと思います。
8 実朝の「金槐和歌集」の評価のまとめ令和の時点では実朝の歌は最高級の評価を受けていますが、その作風、評価内容は確定されていません。 歌の評価が分かれるのは当然と思います。それが名歌たる所以です。代表な評価を次に示します。 1 賀茂真淵-正岡子規-斎藤茂吉、万葉調の歌 2 小林秀雄、悲しく、独創的な天稟を持つ人の読む歌 3 吉本隆明、途方もないニヒリズムの歌 4 その他太宰治、三谷幸喜などの見解 私が高校生の頃持っていた実朝の歌の評価は、多分に1の万葉調の雄大な歌という説に影響されていたと思います。 それならば、小林秀雄の「実朝」で自分の鑑賞眼が砕かれたことは、最も多くの人が経験したことでありそれほど珍しい経験ではありません。 しかし、しばらくの間、歌を鑑賞することに躊躇していました。 その後、歌に限らず多くの著作物、絵画などの作品を自分の感性で評価することが重要と思い励むことにしました。 文中の参考文献の引用は、当然ながら高校時代の記憶ではなく、今回のコラム作成時に調べて記載したものです。そのため、「モーツァルト・無常ということ」小林秀雄著 新潮文庫は二度目の購入です。デジタル化の時代ということでkindle判を購入しました。手軽に読める利点はありますが、コピー数に制限があります。ほぼ2頁以下です。また、コピーした字の間に空間ができます。引用文献などの作業には問題があります。 ![]() 三谷幸喜脚本「鎌倉殿の十三人」
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実朝は早熟な歌人であった。 時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ は、彼の廿歳の時の作である。 ・・・・ 不思議は、ただ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまま彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだろうか。 ・・・・ 彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。 |
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