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実朝の和歌







実朝の和歌








1 源実朝の歌碑 「箱根路を わかこえくれはわかこえくれは い津のうみや おきの小島に 波乃与る游」



姫の沢公園から十国峠へ行くところにあります。
















碑陰:石碑の裏面に記した銘文  貫朝公:実朝と思うが、ネット検索ではでてこない。


2 源実朝の歌碑 「大海の 磯もとどろによする波 われて砕けて さけてちるかも」


伊豆山の「走り湯」近くにある「ホテル ニューさがみや」の玄関横には『大海の 磯もとどろに よする波 われて碎けて さけて散るかも」の歌碑があります。




3 源実朝の二首を鑑賞


源 実朝は鎌倉幕府の第3代征夷代将軍で歌人としても知られ家集として『金槐和歌集』(663首)があります。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名『鎌倉右大臣家集』といわれています。成立は、定家所伝本の奥書がある建暦3年(1213年)12月18日(実朝22歳)までとする説が有力です。
源 実朝は、満26歳で甥の公卿により鶴岡八幡宮で暗殺された。




源 実朝

源 実朝(みなもと の さねとも󠄁)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍(鎌倉殿)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は初め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。

朝廷に重んじられ官位の昇進も早く、若くして公卿に補任され、武士として初めて右大臣に任ぜられた。しかし、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された(満26歳)。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。



源実朝 - Wikipedia より引用



歌人としては、松尾芭蕉、賀茂真淵、正岡子規、斎藤茂吉など一流の歌人、国学者などから、万葉風の歌人として高い評価を受けていけた。


下記欄に、1687年(貞享四年)刊の「金槐和歌集」、1927年(昭和二年)の佐々木信綱著金槐和歌集―校注」の二首を記載。

石碑も加え、用いる漢字はそれぞれ異なります。決まった表記はないようです。


「箱根路・・・」の校注に、賀茂真淵の評が出ています。
万葉集のもと歌「逢坂を 打出てみれば 淡海の海 白ゆふ花に 浪たちわたる」があるが「それよりもまされり」と言っています。

又、賀茂真淵は実朝の万葉風の歌を「大空に翔ける龍の如く勢いあり」とほめています。中でも、「もののふの」の歌は、「人麻呂のよめらん勢ひなり」と特にほめています。






4 正岡子規 「歌よみに与ふる書」


正岡子規は、実朝を万葉集の時代から明治までのなかで最も優れた歌読みと絶賛してます。

上記二首については、私の読解力がなく、褒めているのか否かはっきりしません。


正岡子規 歌よみに与ふる書  

歌よみに与ふる書


 仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。

とにかくに第一流の歌人と存候。強人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚て韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。

人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。

真淵まは力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之べく候。

たび歌よみに与ふる書


一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外にり候べく候。

山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人小舟の綱手かなしも

大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

 箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。
 新古今に移りて二、三首を挙げんに

なごの海の霞のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白波
実定

 この歌の如く客観的に景色を善く写したるものは、新古今以前にはあらざるべく、これらもこの集の特色として見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句がにて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑しく、し間ありともそれはこの趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。
 正岡子規 歌よみに与ふる書-あおぞら文庫より引用

正岡子規「歌よみに与ふる書」現代語訳|上河内岳夫はこのサイト



4 斎藤茂吉「源 実朝」



斎藤茂吉は「源実朝」初版本(岩波書店1943年版)・実朝の歌七十首講 源實朝 で、上記二首次のように評しています。

赤線部のように二首とも絶賛しています。茂吉以降はこの評価が基準となったようです。



斎藤茂吉 「源 実朝」
   
「源実朝」初版本(岩波書店1943年版)
実朝の歌七十首講 源實朝 / 齋藤茂吉著
斎藤茂吉『源実朝』手稿及び初版本デジタルライブラリ より引用





5 高校生であった私も感動しました。



高校生のころと思いますが、源実朝のこの二首に感動しました。

二首とも単なる景観ではなく、景観に動きのある映像として目の前に現れてきました。


箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ
 
 山道を登りきった時に現れた雄大な伊豆の青い海、その中に小島があり、その磯に白い浪が打ち寄せる、それが続きます。山道を登った疲れが飛んでいき、心身に爽やかさが満ちてくる感じです。雄大で明るく爽快な歌です。


大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも

 さすが、鎌倉幕府の将軍の歌、荒磯にとどろくように打ち付ける浪を「 われて  くだけて  裂けて  散るかも 」と豪快にとらえて、リズムよく表現しています。体から元気が湧き出てくるような、雄大で力強い歌です。



しかし、私のこの二首に対する解釈はまちがいであることを、小林秀雄の「実朝」を読んで実感した。
それにより二首に対するそれまでの感動は、われてくだけて裂けて散った。



6 小林秀雄「実朝」



小林秀雄「実朝」は、次の文章で始まります。
 
江戸時代に、松尾芭蕉が西行と実朝を二大歌人として評価したことで実朝が蘇ったことを紹介します。
そのあと、権謀術策が渦巻く鎌倉幕府での実朝の生涯を記述して、「金槐集」の和歌の鑑賞に進みます。


小林秀雄「実朝」 

実 朝  

 芭蕉は、弟子の木 節 に、「 中頃 の 歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたそうである(「俳諧一葉 集」)。言うまでもなく、これ は、有名な真淵の実朝発見より余程古い事である。それだけの話と言って了えば、それまで だが、僕には、何か其処に、万葉流の大歌人という様な考えに煩わされぬ純粋な芭蕉の鑑識が光っている様に感じられ、興味ある伝説と思う。必度、本当にそう言ったのであろう。僕等は西行と実朝とを、まるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである。

「モーツァルト・無常ということ」の「実朝」 小林秀雄著 新潮文庫 2013年刊 
「実朝」は「文学界」昭和十八年二月号、同五月号~同六月号)



箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

私が、心身に爽やかさが満ちてくる、雄大で明るく爽快な歌と思っていた「箱根路を・・・」を、「大変悲しい歌」として「この歌の姿は、明るくも、大きくも 強くもない。」と書いています。びっくりしました

しかし、確かに悲しい心を持つ人でなければ、次のような情景を詠めないであろう思いました。
「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さい島が見え又その中に更に小さく波が寄せ、又その先に自分の心が見えて来るという風に歌は動いている。」





小林秀雄「実朝」 

    ( 箱根の山をうち出でて見れば浪のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、
      伊豆の海となむ申すと答へ侍りしを聞きて)
 
  箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

  この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書にさえ、彼の孤独が感られる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。それにしても、歌には歌の独立した姿というものがある筈だ。この歌の姿は、明るくも、大きくも 強くもない。この歌の本歌として「万葉集」巻十三中の一首「あふ坂を家出て見ればあふみノ海白木綿花に浪立ちわたる」が、よく引き合いに出されて云々されるが、僕には短歌鑑賞上の戯れとしか思えない。

(中略)

 大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さい島が見え又その中に更に小さく波が寄せ、又その先に自分の心が見えて来るという風に歌は動いている。こういう心に一物も貯えぬ秀抜な情景が、自ら示す物の見え方というものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示しているように思えてならぬ。



大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも


小林秀雄は「こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。」といい、この歌は実朝の「孤独」な心が詠んだ歌であり、その実朝の「独創的な孤独」が「この 様な緊張した調を得た」と書いてます。


この歌を「体から元気が湧き出てくるような、雄大で力強い歌と思っていた私の歌の鑑賞眼は、見事に打ち砕かれました。


小林秀雄「実朝」 

 大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

  こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか。恐らくこの歌は、子規が驚嘆するまで(真淵はこれを認めなかっ た)孤独だっただろうが、以来有名になったこの歌から、誰も直かに作者の孤独を読もうとはしなかった。

勿論、作者は、新技巧を凝そう として、この 様な緊張した調を得たのではなかろう。又 第一、当時の歌壇の誰を目当に、この 様な新工夫を案じ得たろうか。自ら成っ た歌が詠み捨てられたまでだ。いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあったと いうより寧ろ彼の孤独が独創的だったと言った方がいい様に思う。

自分の不幸を非常によく 知っていたこの不幸な人間には、思いあぐむ種はあり余る程あっ た筈だ。これが、ある日悶々として波に 見入っ ていた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落にすぎまい。そういう彼を荒磯にひとり置き去りにして、この歌の本歌やら類歌やらを求めるのは、心ない技と思われる。
 


上記の二首だけでなく、更に二首追加します。

実朝の歌は、万葉集の習得と技巧の展開などによりできた歌ではなく、「実朝の天稟」によって生まれたものであり「言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。」と書いています。


小林秀雄「実朝」
実朝は早熟な歌人であった。

  時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ

 は、彼の​廿歳の時の作である。定家について歌を学んでいる廿歳やそこらの青年に、この様な時流を抜いた秀歌があるとは、いかにも心得難い事で、詞書に建暦元年とあるのは、或は書き誤りではあるまいか、という様な説さえ現れた程だが(斉藤茂吉「金槐集私鈔」)、それよりもまず実朝自身に、これが時流を抜いた秀歌という様なはっきりした自覚があったかどうかを疑ってみる方が順序であり自然でもあると思う。

勿論、彼は、ただ、「あめやめ給へ」と一心に念じたのであって、現代歌人の万葉集学という様なものが、彼の念頭にあった筈はない。当り前の事だ。そして、これをそういう極く当り前な歌としてそのまま受取って何の差支えがあろうか。何流の歌でも何派の歌でもないのである。又、殊更に独創を狙って、歌がこの様な姿になる筈もない。

不思議は、ただ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまま彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだろうか。何を訝り、何を疑う要があろう。これは単純な考え方だ。併し、「建暦元年七月、洪水漫天土民愁歎せむ事を思ひて、一人奉向本尊聊致祈念云」という詞書と一緒にこの歌を読んでいると、僕は、自ら、そういう一番単純な考えに誘われて行くのである。僕は、それでよいと思っている。

 玉くしげ箱根のみうみけけれあれや二国かけてなかにたゆたふ

彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念も交えず透き通っている。決して世間というものに馴れ合おうとしない天稟が、同じ形で現れ、又消える。彼のような歌人の仕事に発展も過程も考え難い。彼は常に何かを待ち望み、突然これを得ては、又突然これを失う様である。


*みうみ 御海。芦ノ湖のこと 
*けけれあれや 心があるからなのか。「けけれ」は心の上代東国方言。 
*二国 相模の国(現神奈川県)と駿河の国(現静岡県)





7 「源実朝」吉本隆明





吉本隆明は、源 実朝の和歌を「途方もないニヒリズムの歌」としています

「悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。

そのように書かれると、歌の評価に自信を無くした私はそのように思ってしまいますが、心のなかでは納得していません。「悲しい歌」とは思いますが、無感情の貌がみえるニヒリズムの歌ではないと思います。




吉本隆明 「源実朝」  
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとゞろによする波われてくだけて裂けて散るかも
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや二山にかけて何かたゆたふ
旅をゆきし跡の宿守をれをれにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
わたつ海のなかに向かひて出(いづ)る湯の伊豆のお山とむべもいひけり


いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。


                  吉本隆明著『源実朝』日本詩人選 12 筑摩書房 1971 より
 
  斎藤茂吉『源実朝』の吉本隆明著「源実朝」より引用
吉本隆明「実朝論」  

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ

(万葉集のもと歌と比べ)・・・・実朝の場合の、箱根路を越えくればっていう場合には、そういう心のはずみとか、驚きとかいうものよりも、やはり依然として、わりあいに、冷静に事実としての自分の心が目の前に展開した、伊豆の海と島の風景をみているという位相のなかに、わりあいに冷静に、事実としての心が投げだされているというふうに読めるわけです。

 だから、ほんとうは、これは、万葉集をもと歌としていますし、また、いろいろな描写の位相としても、音数律の構成としても、ほんとうに、万葉調っていうのが、真似られていないことはないのですけれど、まるで、それをつくっている詩人の心っていうのは違いますし、また、心のはたらかせ方っていうものも違うんだっていうふうにいえると思います。

 つまり、そういう意味でみていきますと、あんまり、万葉調なんだっていうふうにいったらいけないんだと思います。つまり、もと歌にくらべれば、やはり、かなり複雑で、修練を得た心っていうものがでてくるわけです

大海の 磯もとゞろに よする波われてくだけて 裂けて散るかも

っていうような歌があるんですけど、真淵からはじまって、子規に至るまで、そういう評価の仕方っていうのは、こういう歌が、非常に勇壮な歌だっていうわけで、そんなことはないと思います。

 つまり、わりあいに冷静なわけです。「大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも」っていうのは、ものすごく冷静でして、事実を事実としてみる心っていうようなものが、そこにあるのであって、けっして、寄せてきては散っている波がしらっていうのをみて、自然描写をして、その自然描写のなかに、自分の感情の動きっていうのが自然に入っていくっていうような、そういう方法をとっているのではなくて、いってみれば、きわめて分析的でもありますし、きわめて意識的でもありますし、また、事実だから、もう一歩、心が離れていれば、「われてくだけて 裂けて散るかも」なんていうのは、ようするに、ニヒリズムの歌だっていうふうにもいえるほど、わりあいに、事実なんかと、繰り返し、繰り返し、べつに、感情の動きそのものじゃなくて、事実として取り出しうる自分の心の動きっていうのだけが、こういう言葉のなかにでてきているっていうふうにいえば、そういったほうがいいと思いますし、

詩人としての実朝が、ほんとうによみがえった、はじめっていうのは、江戸時代であって、つまり、芭蕉がいちばん、はじめなんです。芭蕉の評価のあとに、真淵系統の国学者の評価っていうので、実朝の詩人としての価値っていうのは高められた、つまり、よみがえってきたっていうふうにいうことができるわけです。
 吉本隆明の183講演  「実朝論」- ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)より引用

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとゞろによする波われてくだけて裂けて散るかも
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや二山にかけて何かたゆたふ
旅をゆきし跡の宿守をれをれにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
わたつ海のなかに向かひて出(いづ)る湯の伊豆のお山とむべもいひけり


いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。


吉本隆明著『源実朝』日本詩人選 12 筑摩書房 1971 より

斎藤茂吉『源実朝』の吉本隆明著「源実朝」より引用




8 実朝の「金槐和歌集」の評価のまとめ



令和の時点では実朝の歌は最高級の評価を受けていますが、その作風、評価内容は確定されていません。
歌の評価が分かれるのは当然と思います。それが名歌たる所以です。代表な評価を次に示します。

1 賀茂真淵-正岡子規-斎藤茂吉、万葉調の歌
2 小林秀雄、悲しく、独創的な天稟を持つ人の読む歌
3 吉本隆明、途方もないニヒリズムの歌
4 その他太宰治、三谷幸喜などの見解


私が高校生の頃持っていた実朝の歌の評価は、多分に1の万葉調の雄大な歌という説に影響されていたと思います。
それならば、小林秀雄の「実朝」で自分の鑑賞眼が砕かれたことは、最も多くの人が経験したことでありそれほど珍しい経験ではありません。
しかし、しばらくの間、歌を鑑賞することに躊躇していました。

その後、歌に限らず多くの著作物、絵画などの作品を自分の感性で評価することが重要と思い励むことにしました。

文中の参考文献の引用は、当然ながら高校時代の記憶ではなく、今回のコラム作成時に調べて記載したものです。そのため、「モーツァルト・無常ということ」小林秀雄著 新潮文庫は二度目の購入です。デジタル化の時代ということでkindle判を購入しました。手軽に読める利点はありますが、コピー数に制限があります。ほぼ2頁以下です。また、コピーした字の間に空間ができます。引用文献などの作業には問題があります。







         その1





三谷幸喜脚本「鎌倉殿の十三人」




2022年の大河ドラマは三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」です。


その中で鎌倉幕府の三代将軍源実朝が登場します。実朝(1192-1219年)は同性愛者として話が進み、幼いころから親しくしていた北条義時の長男泰時(1183-1242年)に恋します。
実朝は泰時に和歌を送り、返歌を要求します。その歌は

   春霞 たつたの山の 桜花 おぼつかなきを 知る人のなさ

これは、『金槐和歌集』371番、 恋部の冒頭に「初恋のこころをよめる」という詞書とともに収められている歌です。

泰時は実朝が送った歌を、「鎌倉殿は間違えておられます。これは恋の歌ではないのですか?」と返却。それを聞いた実朝は、複雑な表情を浮かべながら「そうであった。間違えて渡してしまったようだ」と、代わりに次の歌を泰時に渡しました。

   大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて さけて散るかも

この有名な歌が、恋心が砕け散った歌になっています。

歴代の一流の歌人、評論家が評価した歌を、三谷幸喜はそれらと全く異なる解釈をして大河ドラマに登場させました。
実朝が同性愛者という説も、歴史学的には否定されていない設定です。「鎌倉殿の13人」には突飛で驚くような展開がありますが、歴史的に確定されてない部分を三谷幸喜の想像力で埋めていったドラマと思います。毎週のように登場人物が殺されていく血なまぐさい時代を鮮やかにまとめました。

「大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて さけて散るかも」を失恋の歌にしたことに、ドラマの展開で違和感は有りません。見事な解釈です。
最近大河ドラマを見るのは、三谷幸喜脚本だけです。









         その2



実朝の富士山の歌



箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ  実朝


この歌は十国峠を越えた時に眺めた小島(初島)による浪を詠んだ歌と思います。今もとても良い歌と思いますが、十国峠に登ったのに何故富士山をうたわなかったのか。
実朝は、二所詣で何回か十国峠を越えたのにそこからの富士山の歌が有りません。常に曇っていたため、富士山が見えなかったのか、十国峠からの富士山には感動しなかったのか不明です。


金槐集に富士山が出てくる歌は次の二首あります。

見わたせば雲井はるかに雪しろし富士の高根の曙の空

金槐和歌集 : 校注 冬部 - 国立国会図書館デジタルコレクション

曙の富士山の美しさを描いていますが、特に実朝の名作とは思いません。曙の富士山は、山肌の色の変化が素晴らしいのですが、「雪しろし」と有るので冬の朝方の鮮明な富士山で色の変化は詠んでいません。


富士のねのけぶりも空に立つものをなどか思いの下にもゆらむ


金槐和歌集 : 校注 戀部- 国立国会図書館デジタルコレクション


富士の煙は空に立っているのに、どうして私の思いは下の方で燃えているのか。戀部に置かれているので告白できない恋の歌jか。
その1の「鎌倉殿の十三人」に使えそうな歌ですが、誰に対する恋の歌なのか。



ちなみに、実朝の父鎌倉幕府第一代将軍頼朝も富士山の歌があります。

道すがら 富士の煙も 分かざりき 晴るる間もなき 空の景色に

『新古今和歌集』巻第十 羇旅歌(975)

道を行く間、富士山の噴火の煙も分からないほどずっと曇っていた。

この歌は「鎌倉殿の十三人」で、政子が実朝に贈った和歌集に載っており、父頼朝の歌と教えています。



二人の歌に「富士の煙」が出てくるので、鎌倉時代の富士山は活火山のようです。
鎌倉時代(1185-1333年)は青木ヶ原ができた貞観大噴火(864~866年)と宝永山ができた宝永大噴火(1707年)との間です。


実朝の富士山の歌は、鎌倉から眺めた富士山かも知れません。実朝は鶴岡八幡宮の太石段で公卿に暗殺されましたが、その階段の上の山の尾根に勝上巘展望台があり、そこから大きな富士山が見えます
今富士山中腹の左側にに見えている宝永山は、実朝の時代にはまだできていません。



鎌倉からの富士山









         その3



中島みゆきの「時代」


小林秀雄の「実朝」に次の記述があります


実朝は早熟な歌人であった。

  時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ

 は、彼の​廿歳の時の作である。

・・・・
不思議は、ただ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまま彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだろうか

・・・・
彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。


20歳の若さで洪水などの災害に対して、このような祈願の歌を素直に詠めるのは「彼の天稟」であるといっています。


これを読んで、頭に浮かぶのは中島みゆきの「時代」です。1975年に中島みゆきが23歳に作詞作曲した歌です。


今はこんなに悲しくて涙も枯れはてて もう二度と笑顔にはなれそうもないけど


そんな時代もあったねといつか話せる日が来るわ


100年後にも歌い継がれると思われる素晴らしい作品を、中島みゆきが23歳で作れたのは、「彼女の天稟」の開放です。
技巧を凝らして作ったものではなく、心に出てくる気持ちを素直に言葉としたものです。
この歌は災害を扱った歌ではありません。しかし、現在日本の災害にあった人々を励ます最高の歌になっています。これは中島みゆきが持つ詩人の予言性のためです。
しかも作詞だけではなく、作曲もして自分で歌っています。

時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)



中島みゆきが札幌の藤女子大学文学部国文学科にいた時、私は4歳上ですが2㎞ほど離れた北海道大学で剣道と麻雀にいそしんでいました。同世代の輝く星です。







十国峠(日金山)あれこれ 完





  

 





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