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1 富士の頂角
(1)「富嶽百景」冒頭の文章」 「富嶽百景」の冒頭の文章です。富士山の紹介が広重などが描いた浮世絵の富士山頂角、陸軍の実測図による東西及南北の富士山頂角を具体的な数値で解説して、読者の心をぐいとひきつけます。「富嶽百景」の題名と呼応した見事な文章と言われています。 しかし、これらの文章は、この後の小説全体の展開を崩壊する問題のある記述です。 ①この文章が、殆ど石原初太郎『富士山の自然界』大正14年刊の書き写しである。 しかし、昭和の文士が富士山を描く場合、いずれの文章にも、元となる文章があると思います。その文章からの変更が少なく太宰治が頂角を測定したように書いてあることは問題ですが、そこは強く責めるところではありません。 ②「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、」がでたらめです。 これは、石原初太郎『富士山の自然界』の文をそのまま記述したためです。この文章ですと、広重の富士山はすべて八十五度、もしくは全作品の平均値が八十五度となります。広重はすべての富士山を八十五度に描いてはいません。広重の富士山の頂角の平均値は、富士山の作品数が膨大でそのような測定は不可能です。そのため、この文は読者を惑わすだけで何の意味も持たない記述です。 広重の描いた富士山の頂角を示す場合、次の様に個々の作品名を書かないといけません。「広重の『冨士三十六景』の『三保の松原』の富士山の頂角は85度。 文晁の富士の頂角も同様で、作品名の記述が必要です。 ③ 「けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」 この記述は間違っています。正解は正反対の「東西縦断は頂角、百十七度となり、南北は百二十四度である。」です。太宰治が、石原初太郎『富士山の自然界』を信じてそのまま書き写したための間違いです。 これにより、太宰治は「富嶽百景」で」自分で調べて確信したことを描くのではなく、誰かが書いたこと、誰かが言っていたこと、観たことをその場面に合わせて都合良く書いているのではないかと思ってしまいます。この後、「富嶽百景」を読み進めるときにそのことが頭から離れません。後で述べますが、実際にそのような記述が多くあります。 ④「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。」この文を読み、北斎を尊敬する私は憤慨します。 「広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度」では、浮世絵などの富士山が全体の構図の要求から鋭角になるという記述ですが、この「北斎にいたつては、・・・エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ」は罵りの言葉のように思えます。北斎の富士山を全面的に否定する書き方です。「その頂角、ほとんど三十度くらゐ」と、北斎の作品名を書かずに、実際にその作品を見たように書いています。しかし、その作品名の記述はありません。 太宰治が、北斎の「富嶽百景」に感銘して、その題名を自分の作品に付けたと思っていたので、北斎を尊敬する私は憤慨します。なぜ、「富嶽百景」という題名にした。北斎に失礼です。 「天下茶屋からの富士山」でいいのではないか。ここで「御坂峠からの富士山」と言わないのは、あとで述べますが、その題名は御坂峠に対して失礼に当たるからです。 (2)「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、」 「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、」がでたらめです。これは、石原初太郎『富士山の自然界』の文をそのまま記述したためです。太宰治の妻美知子さんもそのように言ってます。
美知子は「富嶽百景」の中で、太宰治とお見合いをして、その後結婚する女性です。 美知子の父である石原初太郎は東京帝国大学理科大学地質学科で地質学を専攻していました。
妻の美知子が盗用したという『富士山の自然界』の箇所を示します。 石原初太郎の文章ですと、広重の富士山はすべて八十五度、もしくは全作品の平均が八十五度となります。広重はすべての富士山を八十五度に描いてはいません。広重の富士山の頂角の平均とすると、富士山の作品数が膨大でそのような測定は不可能です。そのため「広重の富士は八十五度」は読者を惑わすだけで何の意味も持たない記述です。 次の様に、個々の作品名を書かないといけません。「広重の『冨士三十六景』の『駿河三保の松原』の富士山の頂角は85度。」 広重の富士山の頂角 広重は富士山を多く描いているため、富士山頂角の検討は難しい。しかし、石原初太郎も太宰治も、絵画の富士山では広重の富士山を出さないといけないと思い、読者を惑わす「富士の頂角、広重の富士は八十五度」を書いてしまったと推察します。 広重の富士山で、読者が思うのは、「東海道五十三次 1833年刊」、「不二三十六景 1852年刊」、「名所江戸百景 1856年刊」、「冨士三十六景1859年刊」で、そのほかにも多くの作品があります。 適当に作品を選び測定した富士山の頂角の値を示します。 初期の「東海道五十三次 原 朝之冨士」」では、頂角78度とかなり鋭角の富士山を描いています。北斎の「富嶽三十六景」の影響とおもいます。 20年後の富士山の頂角は84-112度と鈍になり、私にはこちらの富士山が広重の富士山と見ていました。頂角112度は実物の富士山の頂角117度に近づいています。検討が一部の作品のためその平均は不明です。 以上の検討から、「富士の頂角、広重の富士は八十五度」が不適切な表現であることは明らかです。
広重が初期に描いた「東海道五十三次 原 朝之冨士 1833年」 頂角が小さい富士は、北斎の富嶽三十六景1831-34年の富士山を意識しているようです。枠からはみ出す富士山でも有名です。
1852年以降に描いた富士山とその頂角測定
谷 文晁の富士山の頂角 太宰治の「富嶽百景」では、文晁の作品名が無いため特定の作品の検討ができません。文晁の富士山も多くあり、読者は文晁のどの富士山が八十四度かと戸惑います。 盗作したという石原初太郎「富士山の自然界 」も同様で作品名がありません。その三年後に刊行された石原初太郎「富士の研究: 富士の地理と地質」に「日本名山図会にある富士は八十四度ぐらい」とありますので、まず、その作品を検討します。 私が行った検討「日本名山図会にある富士」の頂角は87度です。「富士の地理と地質」と3度異なりますが頂角の赤線の引き方による誤差とします。 二作目は頂角が小さい「河口湖富士真景図」を選びました。富士山の頂角66度です。 以上の検討から「富嶽百景」冒頭の「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ」は不適切な表現であることは明らかです。
(2)「陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」 この記述は間違っています。太宰治が、石原初太郎『富士山の自然界』1925年(大正14年)刊を信じてそのまま書き写したための間違いです。 正解は全く逆の「東西縦断は頂角、百十七度となり、南北は百二十四度である。」。 『富士山の自然界』刊行の3年後に刊行された石原初太郎「富士の研究: 富士の地理と地質」(浅間神社社務所), 第 5 巻 1928年(昭和3年)刊では「東西に切りたる断面一一七度」「南北に切りたる断面一二四度」「富士山は南又は北より見た方が、東又は西より見たより頂角は鋭タル所以」と『富士山の自然界』と逆の記述になっています。 太宰治は専門書である「富士の研究: 富士の地理と地質」を見なかったと思います。家にあっても、一般読者用で新書版の『富士山の自然界』を参考にしたようです。
石原初太郎『富士山の自然界』1925年刊と「富士の研究: 富士の地理と地質」1928年刊の頂角の記述が逆になった原因の推察。 ➀「富士山の自然界」は、単純な、書き間違い。又は、測定が正確でない。 「富士山の自然界」154-155pの富士山の体積の所にに東西、南北の断面図があります。 150pの頂角の所で東西縦断(自須走至猪之頭)は頂角は124度と書き、断面図にも124°と書いてある。しかし実際に破線をもとに測定すると116度です。 南北縦断(自小御岳至吉原)は頂角は117度と書き、断面図には記入無しで、測定値は120度です。 頂角測定の破線が不正確か、その測定が不正確か定かではないが、東西の頂角は測定値は117度なのに頂角でのぺージ、断面図では124度になっている。根本的に不正確な記述です。 ![]() 東西は自須走至猪之頭の頂角測地 ![]() 南北は自小御岳至吉原 ![]() ②「富士の地理と地質」では、頂角を五合目以上位から引いた線の交差する処で測る基準を作りそれで地図で測定し、写真で検証した。 この頂角の問題は、三谷憲正『「富嶽百景」論』でくわしく論じられている。断定はしていないが、「富士山は南又は北より見た方が、東又は西より見たより頂角は鋭」を支持している。「富嶽百景」が元文としたのは『富士山の自然界』としている。
田代博は「富士山展望百科 」で標高3700mと2500mの等高線の間隔を定規で測りその傾斜角を求めた。 真北からの頂角は118.4°、真西からの頂角は124.9°である。
私も、カシ-ミ‐ルで富士山を東西と南北に切断した断面図で頂角を測定した。
実際の撮影した写真での頂角測定。写真が水平であるかは不明ですので右左それぞれの頂角は信頼できない。 ほぼ真北の新道峠からの冨士山の頂角は116度、ほぼ真西の弘法山からの富士山の頂角はは126度 「富士山は南又は北より見た方が、東又は西より見たより頂角は鋭」です。 私が登った富士山展望の山で最も頂角が大きいと思っている山は鉄砲木ノ頭です。その頂角は129度で、近い距離から見ることもあり、また両側に宝永山、小御岳が出っ張っているためかなり鈍な山に見えました。ドンベイサンと声をかけたくなる富士山です。 (3)「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。 けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」 「広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度」では浮世絵の富士山が全体の構図の要求から鋭角になるという描きかたですが、北斎の富士の記述は 「北斎にいたつては、・・・エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ」と太文字の部分に罵りの気持ちがみえます。北斎の富士山を全面的に否定するような書き方です。 太宰治が、北斎の「富嶽百景」に感銘して、その題名を自分の作品に付けそれにふさわしい作品を描いたと思っていたので、北斎を尊敬する私は憤慨します。なぜ、「富嶽百景」という題名にした。「天下茶屋からの富士山」でいいのではないか。 元となる文章である石原初太郎「富士山の自然界」、「富士の研究: 富士の地理と地質」では北斎についての記述は無く秋里籬嶌の東海道名所図会を書いているが、それを書かずにわざわざ北斎の富士山について書いている。自分の本の題名にしたので、「頂角三十度の北斎の富士山」を実際に確認したように書いている。しかし、その作品名は書いていない。太宰治が見た「頂角三十度くらゐの富士山」の作品はどこにあるかが問題です。この「富嶽百景」の評価を左右するほどの重要さを持つと、私+は考えます。
北斎も富士山の絵を無数に描いているので完全に調べることは無理とは思いますが、著名な作品を検討します。 「富嶽三十六景」の46作品で最も頂角が小さいと思われる「山下白雨」頂角は76度でした。他の作品は測定はせず、「山下白雨」の重ねて比べました。 「神奈川沖浪裏」、「凱風快晴」、「甲州犬目峠」、「青山園座松」はほぼ同じ頂角で60度以下の頂角を持つ富士山はありません。 広重が初期に描いた「東海道五十三次 原 朝之冨士 1833年」の頂角は78度で、北斎の「山下白雨」を参考にしたと推察します。
「富嶽百景」は頂角が小さい富士山が多いと思いましたが、それほど小さい頂角はありません。 代表的作品の「快晴の不二」の頂角は77度で、最も頂角が小さいと思われる「夕立の富士」は70度です。
肉筆画が最も頂角が小さいです。北斎の絶筆と言われている「富士越龍の富士山」の頂角は、63度です。富士と笛吹童図」絹本着色 もほぼ同じです。
北斎漫画には頂角が小さい富士山はなし。 今のところ頂角30度の頂角の富士山の作品はでてこない。最も頂角が小さい「富士越龍の富士山」の頂角は、63度です。 頂角30度の富士山を「山下白雨」で作成した。異様な富士山です。変わった富士山が好きな北斎ですが、このような富士山は描かなかったと思います。「太宰治さん何処で見た、なんという作品ですか」と聞きたくなります。 もし、実際に見ていないで誰かが言ったことを書いた、もしくは読者の気を引くために書いたとするなら、「富嶽百景」の題名は北斎に対して失礼であり、私は「富嶽百景」を駄作とします。
![]() 日本画で頂角30度の作品を探しました。 頂角50度以下だとかなり異様な富士山になります。著明な富士山の作品で頂角30度以下の作品はありません。
頂角の大きい富士山。
与謝蕪村 「富嶽列松図」が114度、月僊上人 富士の図が115度で、広重不二三十六景「武蔵多満川」1852年の112度を越えました。 江戸時代までの絵画作品で、富士山の頂角が42-115度を見つけました。 とくに江戸時代の 寂照寺の月僊上人「富士の図」が素直な描き方で頂角115度の富士山を描いていたのに驚きました。
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