太宰治「富嶽百景」を読む




 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。

好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。。





(1)天下茶屋はある御坂峠は「富士三景」の御坂峠ではない


「この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。」

この文章も、石原初太郎『富士山の自然界』の文をほぼそのまま書き写しているようです。ここでも、太宰は「おやじなら文句は言えまい」といったかもしれませんが、書き写すことはそれほど責められない。






御坂峠から河口湖













富士の研究: 富士の地理と地質(浅間神社社務所) - Google ブックスより引用

 富士山の自然界


「富士山の自然界」 大正14年刊 - 国立国会図書館デジタルコレクション  より引用

 石原初太郎の「御坂峠」に関する著書は2冊あり、

「富士山の自然界」は大正十四年に発行された一般読者向けの新書版です。西の御坂峠のできる7年前に刊行されています。

「御坂峠」の記載内容は「富士の地理と地質」とほぼ同じですが、三谷憲正氏は『「富嶽百景」論』で、「富嶽百景」は「富士山の自然界」に依拠していると書いてます。

「富士の地理と地質」を見ていれば、河口湖の形が天下茶屋からの河口湖と異なっていることがわかります


問題は、『富士山の自然界』に書いてある御坂峠は太宰治がいる天下茶屋の御坂峠ではないことです。太宰治がいる天下茶屋の御坂峠は、北面富士の代表観望台であると言はれむかしから富士三景の一つにかぞへられてゐる御坂峠ではありません。

御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するといわれています。(御坂峠 - Wikipedia


1931年(昭和6年)に昔からある御坂峠(西の御坂峠と呼びます)より2 kmほど東の位置に、御坂隧道(御坂トンネル:延長396m)を含む旧・国道8号(現在の国道20号)が開通した。後に御坂隧道を通り甲府と富士吉田を結ぶ路線バスも運行され交通の便は飛躍的に向上した。
そのため、御坂隧道の富士吉田側入り口地点(標高1300m)付近を新たに「御坂峠」(東の御坂峠と呼びます)とした。天下茶屋がある「東の御坂峠」の出現です。

しかしこの御坂峠の命名は、誰がしたかは不明。史料としては、「御坂峠頂上天下一茶屋発行」の絵葉書があるのみです。(御坂国道バスと御坂峠と太宰治 : 峡陽文庫
)絵葉書の裏面には記念スタンプが押されているが、その日付は天下茶屋に太宰治が滞在していた時期でもある、昭和13年11月3日となっている


更に問題とするのは、太宰治が、天下茶屋の御坂峠が富士三景の一つにかぞへられてゐる御坂峠ではないことを知っていて、「ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうである」と書いた事です。

太宰治が滞在した昭和13年の7年前にできた峠に御坂峠という名が付いていたとしても、「鎌倉往還の衝に当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐる」御坂峠ではないことを、天下茶屋のおかみさんや井伏鱒二等に聞いて知っていたと思います。自分で考えても「鎌倉往還」「冨士三景」の峠になるはずがありません。参考にした「富士山の自然界」は天下茶屋の御坂峠の出来る7年前に刊行された本です。

太宰治が滞在した1938年の地理院地理には御坂峠は西の御坂峠しかありません。天下茶屋が有る御坂隧道(御坂トンネル:延長396m)の記載もありまん。2024年にも富士河口湖町が承認していないので天下茶屋の峠には御坂峠の正式の表示はありません。


当HPの「御坂峠はどにある」に詳細記載。


地理院地図の御坂峠1928-1945年


太宰治が、天下茶屋の御坂峠が富士三景の一つにかぞへられてゐる御坂峠ではないことを知っていて、「ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうである」と書いたとすると、この私小説風に描かれた「富嶽百景」は歴史を捻じ曲げる小説です。太宰治に関することを捻じ曲げて書いてもいいが、昔からある御坂峠の歴史事実を天下茶屋の峠で起こった事にして書いてはいけません。架空の場所で見たこと、起こったことを実際に見て、起こったように描いている小説になってしまいます。また、本来の御坂峠(西の御坂峠)に失礼です。



太宰治は9 天下茶屋からの富士・吉田の夜の富士でも「富士三景の一つ」「能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つた」と西の御坂峠で起こった出来事を、東の御坂峠で起こったことにしています。


9 天下茶屋からの富士・吉田の夜の富士

(見合いをした後)

井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、ふたたび御坂にひきかへした。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。

(見合いをした後、友人が来た時)

 「おや、あの僧形のものは、なんだね?」と顎でしやくつた。
 墨染の破れたころもを身にまとひ、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼつて来る五十歳くらゐの小男がある。
「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」私は、その僧をなつかしく思つた。「いづれ、名のある聖僧かも知れないね。」
「ばか言ふなよ、乞食だよ。」友人は、冷淡だつた。
「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」
 私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。




太宰治は『富嶽百景』序で「私の文學が、でたらめとか、誇張とか、ばかな解釋をなさらず、私が窮極の正確を念じていつも苦しく生きてゐるといふ事をご存じの讀者は幾人あつたらうか。」と書いているが、今までの「富士山の頂角」、「御坂峠」についての記述は正確とは言えない。「御坂峠」に関しては故意に異なっている記述をしている部分もあると思います。


『富嶽百景』序 太宰治


 明治四十二年の初夏に、本州の北端で生れた氣の弱い男の子が、それでも、人の手本にならなければならぬと氣取つて、さうして躓いて、躓いて、けれども、生きて在る限りは、一すぢの誇を持つてゐようと馬鹿な苦勞をしてゐるその事を、いちいち書きしたためて殘して置かうといふのが、私の仕事の全部のテエマであります。戰地から歸つて來た人と先夜もおそくまで語り合ひましたが、人間は、どこにゐても、また何をするにしても、ただひとつ、「正しさ」といふ事ひとつだけを心掛けて居ればいいのだと二人が、ほとんど同時におんなじ事を言つて、いい氣持がいたしました。私の文學が、でたらめとか、誇張とか、ばかな解釋をなさらず、私が窮極の正確を念じていつも苦しく生きてゐるといふ事をご存じの讀者は幾人あつたらうか。けれども作者が、自分の文學に就いて一言半句でも押しつけがましい事をいふべきではない。ただ讀者の素直な心情を待つばかりであります。
昭和十七年冬

初出:「富嶽百景」昭和名作選集28、新潮社  1943(昭和18)年1月10日発行

l太宰治 『富嶽百景』序  あおぞら文庫より引用




この御坂峠からの富士を、富士三景にした理由の一つは、「私は、あまり好かなかつた。」を書くためと推察します。日本中が「富士三景」と認めた富士山を太宰治は「好ない」ことを強調するためです。



(2)御坂峠からの富士

「ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」


天下茶屋横の道からの富士山を表示します。9月で冠雪前の富士山です。立派な冨士山です。


御坂峠からの富士山



このような富士山を眺めて、富士見三景の御坂峠からの富士山を、風呂屋の看板であると本気で軽蔑して、恥ずかしがっています。


この文書を読んで次の様に思いました。

➀河口湖は左右の山すそに囲まれて「白く寒々とひろがって」いません。河口湖は狭く、閉じ込まれています。
②風呂場に描かれた富士山、その富士山を描いた職人に対して失礼な言い方です。
③この富士山は「風呂屋のペンキ画」の富士山に似ていません。そのため太宰治が恥ずかしがることはありません

銭湯の背景に富士山が描かれたのは、1812年(大正元年)に都内にあった「キカイ湯」の背景が最初です。静岡の海岸からの富士山と記憶してます。その後、昭和13年ごろの風呂屋の富士山の絵はネット検索では出てきませんが、現在の銭湯の富士山から類推すると。次のような富士山になると思います。



風呂屋の富士山:湖の上に富士山  風呂屋の富士山:海岸の上に富士山


    風呂屋の富士山:湖の上に富士山                        風呂屋の富士山:海岸の上に富士山            


下表のように、天下茶屋からの富士山は、風呂屋の富士山に全く似ていません。



番号  銭湯の富士山  太宰治が眺めた9月の富士山
 1  冠雪した富士山 冠雪無しの富士山
 2  広々とした明るい湖か海岸の上に富士がいる。 白く寒々として、 狭苦しい河口湖の左上に富士山がいる。
 3  風呂に入る人と、湖と海岸は同じ高さ。
そこから富士山を上に眺める。それにより、風呂に入った時、ゆったり感を味わう。
御坂峠からは河口湖を下に見る。
富士山は視角的には同じ高さ 。
風呂に入った時、絶景かなと言うが、ゆったり感は無い。
 4  紅葉時の富士山はタブー。
「紅葉」は「葉が赤くなり、落ちる」ことから「赤字」を連想させる。
画面は爽やかな緑に溢れる季節が多い。
 9月の初秋で1300mの御坂峠ですので、
まだ紅葉はないが爽やかな緑はない。






天下茶屋からの富士山は、街の風呂屋の背景画には使いたくない。高い山の温泉に入っている気分になります。










書割かどうかわかりませんが、歌舞伎の舞台の背景に見事に冠雪した富士山が一件有りました。やはり書き割りの富士山も冠雪していると思います。


また、天下茶屋からの富士山は、典型的な富士山ではなく、他の場所から眺める富士山にない特徴を持った富士山です。

北斎の富嶽三十六景の「甲州三坂水面」の逆さ富士は有名です。通常は線対称の逆さ富士ですが三坂水面は点対称の逆さ富士です。または、「菱富士」といって左右の山が河口湖を逆三角形に切り取り、三角形の富士と合わさって平行四辺形を描く美しい風景です。

北斎の富嶽三十六景の「三坂水面」  「甲州三坂水面」の点対称の逆さ富士
 北斎の富嶽三十六景の「甲州三坂水面」

富嶽三十六景 - Wikipediaより引用 
「甲州三坂水面」の点対称の逆さ富士


「青山円座松」では風景の中の松と家並みでこの点対称の逆さ富士を作っています。




北斎の富嶽三十六景の「青山円座松」  「青山円座松」の風景の中の点対称の逆さ富士
 北斎の富嶽三十六景の「青山円座松」
富嶽三十六景 - Wikipediaより引用 
 「青山円座松」の風景の中の点対称の逆さ富士


天下茶屋からの富士山では、河口湖の左右の山並みが点対称の富士山を作っています。拗ね者として仙遊している太宰治が好みそうな趣の異なる富士山と思いますが、日本の代表的な富士山で註文どほりの景色と言って恥ずかしがっています。



天下茶屋からの富士山と点対称の富士山


天下茶屋からの富士山と点対称の富士山  


天下茶屋からの富士山の逆さ富士河口湖の白い部分が冠雪部のようにも見えます


天下茶屋からの富士山の逆さ富士河口湖の白い部分が冠雪部のようにも見えます。




御坂峠の麓にある河口湖の太石公園からのなだらかなすそ野を持ち冠雪した富士山ならば、「あまりに、おあつらひむきの富士である。軽蔑する、恥ずかしい」と言ってもいいかもしれません。


太石公園からの富士山

河口湖大石公園からの富士山




ここの富士山なら街の風呂屋の背景画になります












しかし、これほど冠雪していない天下茶屋からの富士山を恥ずかしがっていた太宰治の好みが変わります。





9 天下茶屋からの富士・吉田の夜の富士


お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。 娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。だまつて空を指さした。見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。 「いいね。」とほめてやると、娘さんは得意さうに、 「すばらしいでせう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としやがんで言つた。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。



「見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。」
この部分は作中の゚太宰治の気持ちを素直に書いた文と思います。

『「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。』
この文も上の続きで太宰治の気持ちを描いたと思います


初雪で冠雪した富士山の富士山(わたしの作成図、初雪なので冠雪部は多くないと判断)


初雪で冠雪した富士山の富士山(わたしの作成図、初雪なので冠雪部は多くないと判断)



9月の冠雪のない富士山を見て軽蔑した富士山が、冠雪して更に「おあつらひむきの富士山、註文どほりの景色」になったのに、冠雪した富士山を褒めるるのはどうしてか、自分の信念を持って富士山を見ているのかと思ってしまいます。

更に、次の文章を読むと太宰治の好きな富士山はどっちだと言いたくなります。

「富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。」。ならば、天下茶屋から9月の明け方に岩肌が光る富士山を見ることができます。しかし、「富嶽百景」にその記述はない。

冠雪した富士山を「白扇さかしま」と軽蔑しています。ならば、「富嶽百景の雪が降った富士山を何故褒めたのか。」


所謂いわゆる「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
 富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹ようかん食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。


太宰治「 富士に就いて 」初出:「国民新聞 第一六八三五号」1938(昭和13)年10月6日発行 あおぞら文庫 より引用



お中道からの富士山山頂部 溶岩で構成されてます

お中道からの富士山山頂部 溶岩で構成されてます


心境の変化で、富士山の見方が変わる、それが「富嶽百景」の良いところですという評価があります。しかし、このように其の場の状況で評価が、簡単に変わっていく富士山の見方を私は好みません。









井伏鱒二と御坂峠

太宰治の師である井伏鱒二は天下茶屋から眺める河口湖と富士山を悪くないと思っていました

「私はここに来た当座、ここから見る河口湖や富士の風景を悪くないと思った。」

井伏鱒二は西の御坂峠を「御坂峠」、東の御坂峠を「旧御坂峠」と別個の峠として書いてます。「富士三景」の御坂峠は「旧御坂峠」であることは知っていたはずです。

都新聞でも昭和14年に西の御坂峠を「御坂峠」と書いています。昭和14年に公の新聞に「西の御坂峠」が「御坂峠」と書かれているのが意外でした。


「腹の虫」
 
けふもまた私は数人の令嬢たちに対して腹を立てた。今私は御坂峠頂上の茶店の二階に止宿しているが、数人の令嬢たちは二階の窓から見える崖ぎはの山百合や姫百合の花をむしりとった。この百合は私が窓から見て楽しむため、宿のおばあさんが三ツ峠から採取して来たものを大事に植えて置いたものである。
私はここに来た当座、ここから見る河口湖や富士の風景を悪くないと思った。しかしそれにも増して、机についていて窓から見える山ぎはの山百合とその匂いは、やがて私がここを引きあげるて行った後までも私を楽しませるものだろうと思っていた。

「腹の虫」1938年(昭和13年)10月1日「新女苑第三巻第十号(十月号)」


「大空の鷲」

御坂峠には八年前から一羽の鷲がいる。峠の頂上の空に突き出た屋根を中心に、南は黒岳、東は三ツ峠、北は笹子、大体その範囲を独りで縄張りにしているが、八年前この鷲がどこから移って来たかといふことも、この鷲が雄であるか雌であるかもだれもしらないのである、
・・・・・・・
クロは茶店の上空から、弓なりに旧御坂峠上の上空に、引返し、縹渺たる弧を描きながら黒岳の屋根に消え去った。

井伏鱒二 大空の鷲


「大空の鷲」1939年(昭和14年)7月1日発行「文藝春秋」第十七巻十三号(七月号)より引用


「猟見物」

今年の二月半ばすぎ、わたしは所用あって甲府市へ出かけたが宿屋で東京の新聞を見ていると、その地方版に御坂峠頂上の茶店の主人の談話が載っていた。「御坂峠の主人、凱旋す。元気いっぱい、左の如く語る」といふ記事で「敵将、蒋介石の首を取れなかったのは残念でした」といふ意味の談話であった。私は大いに喜んで、早速宿を引きあげて御坂峠に直行した。

「猟見物」1939年(昭和14年)2月15日、16日、17日発「都新聞」に発表。


井伏鱒二全集第七巻 1997年初版 筑摩書房 より引用






 




読書感想文はここでおしまい…の予定でした


「太宰治『富嶽百景』を読む」を書こうとした主な目的は、次の四点です。

➀富士山の頂角、広重、文晁、北斎の富士山の頂角、東西、南北の頂角の正確ではない記述を指摘する。

②十国峠からの富士山だけは何故高いかを考察する

③天下茶屋がある御坂峠は、「富士三景の御坂峠」ではないことを指摘する。

④天下茶屋からの富士山は、「風呂屋のペン画」と異なる富士山であることを指摘する。


その為、ここまで書いて、「富嶽百景」の読書感想文は終了の予定でした。しかし、この小説は太宰治が御坂峠で苦悩に満ちた生活から再生する物語です。再生の基本となる「見合いの場面」、とっても有名な「富士には月見草がよく似合う」を抜かしてはいけないと思い、さらに書き進めて、うかつにも、足早ですが、最後までいってしまいました。高校を卒業してからの唯一の読書感想文です。



  




『富嶽百景』の読書感想文はとても難しい


「富嶽百景」の感想文はとても難しい。

師である井伏鱒二が「可成り在りのままに書いている作品」といって、一般的に、事実をそのまま描いたと思われている。


しかし、私は吉本隆明の「私は私小説の仮装をもってかかれた〈語り物と思う」の方が正しいと思います。

矢島道弘は「一見、エッセイっ風にみえ、事実の記録に見える「富嶽百景」こそ実は太宰の虚構の宝庫であり、太宰の才が発揮された名作に違いないのである

さらに、佐藤春夫は「作品全部が妄想的で、悪夢である」と書いている。(「富嶽百景」前の作品についてですが)

そのような小説を読んで感想を述べる場合、二通りの方法が有る➀書かれていることをそのまま信じて感想を書く②その事項に関して調べた結果、事実と思われることを考慮して書く。

私の読書感想文は、虚構と事実を手際よく処理できず、「富嶽百景」の太宰治と実際の太宰治を分離できず、➀、②が混沌とした状態で書かれていると反省します。そのように読んでください。




「富嶽百景」は私小説か、仮想をもって書かれた〈語り物〉か

それまでの作品もだが、太宰の作品は身辺雑記の場面設定をするため、私小説として受容されてしまう傾向にあった。それは作者自身の狙いなのだが、作者の思惑は今は措き、師である井伏鱒二が「可成り在りのままに書いている作品」と評するなど、虚構よりは私小説と解される。「太宰の作品のなかで最も心境小説に近い」(鳥居邦朗、昭四〇)や「『私』性がよくあらわれ、虚構性の少ないものとして中期は注目すべき作品」(饗庭孝男、昭五六)等に代表されるように、私小説肯定論が根強くあった。

一方、部分的な作品の虚構に関しての指摘もなされており、早く吉本隆明氏は「こういう作品を〈私小説〉として読むことは、全く危険だとかんがえられる。私は私小説の仮装をもってかかれた〈語り物〉と思う」




尚、本文で「富嶽百景」の事実と異なる記述を指摘していますが、殆ど上記文献によります。






事実の記録に見える「富嶽百景」こそ実は太宰の虚構の宝庫

〈リアルな私小説は書きたくなくなりました〉と宣言しているように事実をありまママに書くことの反省の上にたっている。虚構を施しながらも事実に似せて書くうまさが、太宰の狙ったフィイクションの方法ではなかったか。一見、エッセイっ風にみえ、事実の記録に見える「富嶽百景」こそ実は太宰の虚構の宝庫であり、太宰の才が発揮された名作に違いないのである。

    矢島道弘「太宰治-法衣の俗人」p106 明治書院 平成6年刊






太宰の作品は全部妄想的で、悪夢である

太宰の作品は「創生記」に限らず全部妄想的に出來てゐる。みな一つの夢である。悪夢である。夢のなかに眞實を還元して計算するには一定の用意が必要である。書かれてゐることすべて事實と見ることは夢の全部を眞實と思ひ込むやうな幼稚に愚劣な錯覺である。

尤も太宰ははこれを奇貨として妄想を事實と思ひ込ませるやうな仕組みで書き上げてゐる。それとも太宰自身が自分の妄想を自分で眞實と思ひ込んでゐるかも知れない。困った者だと自分がいふのは主としてこの點である



佐藤春夫「或る文学青年像」 「改造」-「芥川賞―憤怒こそ愛の極點(太宰治)―」1936(昭和11年発行)改題 より引用