太宰治「富嶽百景」を読む







9 天下茶屋からの富士・ 吉田の夜の富士





 井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、ふたたび御坂にひきかへした。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。

 いちど、大笑ひしたことがあつた。大学の講師か何かやつてゐる浪漫派の一友人が、ハイキングの途中、私の宿に立ち寄つて、そのときに、ふたり二階の廊下に出て、富士を見ながら、
「どうも俗だねえ。お富士さん、といふ感じぢやないか。」
「見てゐるはうで、かへつて、てれるね。」
 などと生意気なこと言つて、煙草をふかし、そのうちに、友人は、ふと、
「おや、あの僧形のものは、なんだね?」と顎でしやくつた。

 墨染の破れたころもを身にまとひ、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼつて来る五十歳くらゐの小男がある。
「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」私は、その僧をなつかしく思つた。「いづれ、名のある聖僧かも知れないね。」
「ばか言ふなよ、乞食だよ。」友人は、冷淡だつた。
「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」

 私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。
「おい、見給へ。できてないよ。」
 能因法師は、茶店のハチといふ飼犬に吠えられて、周章狼狽であつた。その有様は、いやになるほど、みつともなかつた。
「だめだねえ。やつぱり。」私は、がつかりした。
 乞食の狼狽は、むしろ、あさましいほどに右往左往、つひには杖をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなはずと退散した。実に、それは、できてなかつた。富士も俗なら、法師も俗だ、といふことになつて、いま思ひ出しても、ばかばかしい。



 新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。二階の私の部屋で、しばらく話をして、やうやく馴れて来たころ、新田は笑ひながら、実は、もう二、三人、僕の仲間がありまして、皆で一緒にお邪魔にあがるつもりだつたのですが、いざとなると、どうも皆、しりごみしまして、太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし、まさか、こんなまじめな、ちやんとしたお方だとは、思ひませんでしたから、僕も、無理に皆を連れて来るわけには、いきませんでした。こんどは、皆を連れて来ます。かまひませんでせうか。
「それは、かまひませんけれど。」私は、苦笑してゐた。「それでは、君は、必死の勇をふるつて、君の仲間を代表して僕を偵察に来たわけですね。」
「決死隊でした。」新田は、率直だつた。「ゆうべも、佐藤先生のあの小説を、もういちど繰りかへして読んで、いろいろ覚悟をきめて来ました。」

 私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。
「よくやつてゐますか。」新田には、私の言葉がをかしかつたらしく、聡明に笑つてゐた。
 新田は、それから、いろいろな青年を連れて来た。皆、静かなひとである。皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁わら一すぢの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる。わがままな駄々つ子のやうに言はれて来た私の、裏の苦悩を、一たい幾人知つてゐたらう。新田と、それから田辺といふ短歌の上手な青年と、二人は、井伏氏の読者であつて、その安心もあつて、私は、この二人と一ばん仲良くなつた。いちど吉田に連れていつてもらつた。おそろしく細長い町であつた。岳麓の感じがあつた。富士に、日も、風もさへぎられて、ひよろひよろに伸びた茎のやうで、暗く、うすら寒い感じの町であつた。道路に沿つて清水が流れてゐる。これは、岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな工合ひに、町ぢゆうを清水が、どんどん流れてゐる。富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じてゐる。吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚い。水を眺めながら、私は、話した。



「モウパスサンの小説に、どこかの令嬢が、貴公子のところへ毎晩、河を泳いで逢ひにいつたと書いて在つたが、着物は、どうしたのだらうね。まさか、裸ではなからう。」
「さうですね。」青年たちも、考へた。「海水着ぢやないでせうか。」
「頭の上に着物を載せて、むすびつけて、さうして泳いでいつたのかな?」
 青年たちは、笑つた。
「それとも、着物のままはひつて、ずぶ濡れの姿で貴公子と逢つて、ふたりでストオヴでかわかしたのかな? さうすると、かへるときには、どうするだらう。せつかく、かわかした着物を、またずぶ濡れにして、泳がなければいけない。心配だね。貴公子のはうで泳いで来ればいいのに。男なら、猿股一つで泳いでも、そんなにみつともなくないからね。貴公子、鉄鎚だつたのかな?」
「いや、令嬢のはうで、たくさん惚れてゐたからだと思ひます。」新田は、まじめだつた。
「さうかも知れないね。外国の物語の令嬢は、勇敢で、可愛いね。好きだとなつたら、河を泳いでまで逢ひに行くんだからな。

日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居があるぢやないか。まんなかに川が流れて、両方の岸で男と姫君とが、愁嘆してゐる芝居が。あんなとき、何も姫君、愁嘆する必要がない。泳いでゆけば、どんなものだらう。芝居で見ると、とても狭い川なんだ。ぢやぶぢやぶ渡つていつたら、どんなもんだらう。あんな愁嘆なんて、意味ないね。同情しないよ。朝顔の大井川は、あれは大水で、それに朝顔は、めくらの身なんだし、あれには多少、同情するが、けれども、あれだつて、泳いで泳げないことはない。大井川の棒杭にしがみついて、天道てんだうさまを、うらんでゐたんぢや、意味ないよ。あ、ひとり在るよ。日本にも、勇敢なやつが、ひとり在つたぞ。あいつは、すごい。知つてるかい?」
「ありますか。」青年たちも、眼を輝かせた。
「清姫。安珍を追ひかけて、日高川を泳いだ。泳ぎまくつた。あいつは、すごい。ものの本によると、清姫は、あのとき十四だつたんだつてね。」


 路を歩きながら、ばかな話をして、まちはづれの田辺の知合ひらしい、ひつそり古い宿屋に着いた。
 そこで飲んで、その夜の富士がよかつた。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰つていつた。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛くずの葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そつと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでゐる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思つた。ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。ずゐぶん自分が、いい男のやうに思はれた。ずゐぶん歩いた。財布を落した。五十銭銀貨が二十枚くらゐはひつてゐたので、重すぎて、それで懐からするつと脱け落ちたのだらう。私は、不思議に平気だつた。金がなかつたら、御坂まで歩いてかへればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た路を、そのとほりに、もういちど歩けば、財布は在る、といふことに気がついた。懐手のまま、ぶらぶら引きかへした。富士。月夜。維新の志士。財布を落した。興あるロマンスだと思つた。財布は路のまんなかに光つてゐた。在るにきまつてゐる。私は、それを拾つて、宿へ帰つて、寝た。
 富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿呆であつた。完全に、無意志であつた。あの夜のことを、いま思ひ出しても、へんに、だるい。

 吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰つて来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑つて、十五の娘さんは、つんとしてゐた。私は、不潔なことをして来たのではないといふことを、それとなく知らせたく、きのふ一日の行動を、聞かれもしないのに、ひとりでこまかに言ひたてた。泊つた宿屋の名前、吉田のお酒の味、月夜富士、財布を落したこと、みんな言つた。娘さんも、機嫌が直つた。


「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
 娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。だまつて空を指さした。見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。
「いいね。」
 とほめてやると、娘さんは得意さうに、
「すばらしいでせう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としやがんで言つた。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。




(1)西の御坂峠の故事が、天下茶屋の御坂峠で起こったことになっている。


6 御坂峠の富士で指摘したが、西の御坂峠の故事が、天下茶屋の御坂峠で起こったことになっている。

「御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。」

「むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」

富士三景は昔日本武尊が歩いた西の御坂峠で、ここで能因法師が歌を詠みました。この箇所も太宰家にあった 『富士山の自然界』から写したようです。

この西の御坂峠の故事が出てくると、太宰治が西の御坂峠で起こったことと知りながら書いていると思い、読む方の気持ちが白けてしまいます。


石原初太郎「富士山の自然界 」

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*富士見西行:

日本画の
画題の一。笠・旅包みなどをわきに置いて富士山を眺める西行の後ろ姿を描くもの。





(2)新田、田辺で登場する二人の青年。



「富嶽百景」で名前で登場するのは、太宰井伏鱒二と佐藤春夫以外は、新田と田辺の二人だけです。二人とも実名です。
「茶店のハチといふ飼犬」は除きます。

新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。」

「新田と、それから田辺といふ短歌の上手な青年と、二人は、井伏氏の読者であつて、その安心もあつて、私は、この二人と一ばん仲良くなつた。」


「富嶽百景」の時代を簡潔に記した名文です


「太宰が甲州御坂峠の茶屋に滞在していたとき、富士山登山口の吉田郵便局に勤める二人の青年、新田精治さんと田部隆重さんが訪ねてきた。
・・・
吉田の二青年のその後は---田辺さんは緒戦に召集され、戦地から便りも届かぬうちに新妻を遺して戦死した。新田さんは結核が有るため応召は免れたが妻帯もせず陋巻に窮死した。弾丸に当たって死ぬか、結核で死ぬかと言われた不幸な世代の、まさに典型ともいうべきおふたりであった。」

「回想の太宰治」の「紋付とふだん着」津島美知子著 講談社文庫(人文書院の初版は1978年(昭和53年)より引用


新田は次の様に言った

太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし」

この小説は 『芥川賞 憤怒こそ愛の極点』のようです。



『芥川賞 憤怒こそ愛の極点』(のちに『或る文学青年像』に改題)が該当する小説であることがわかった。 また、太宰治への苦言は書かれているが、「ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ」という記述はなかった。




『或る文学青年像』には太宰治に対して「ひどいデカダン」、「性格破産者」はないが、「我儘な人間」、「虚栄心」、「被害妄想」などが出てくる。
この小説は第一回芥川賞に出した「道化の華」が落選し、その落選の経過を佐藤春夫と絡ませて太宰治が「創成記」を書いたが、佐藤春夫はそこに
書いてあることはすべて妄想であると反論した小説です。

太宰治「道化の華」:人間失格の主人公と同姓同名の大庭葉蔵が登場する話。太宰本人が1930年に田部シメ子と自殺未遂をし、太宰だけが助かったことが下敷きとされている。「道化の華」-青空文庫

太宰治「創成記」-青空文庫


自分の言ひたいところは唯第一回芥川賞で、太宰は候補に挙がつたが石川氏の当選によつて太宰は遂に落選になつた周知の如き事実である。

人、衆人は知るまいが、太宰はなまなか候補になつて当選しなかつたといふ事実を恰も恥を与へられたかのやうに感じてゐるらしいといふ奇妙な事実である。我儘な人間にとつては事の如何に拘はらず思ひ通りにならなかつたといふほど心外なものはない。

太宰は一度候補になつたばかりにどうしても一度は賞を獲らなければならないと執着しはじめたものらしい。芥川賞の当選せぬ候補になつた事は彼にとつては決して彼の名誉ではなく、重大な不名誉でもあつたと見える。彼が常人とものの受取方の違ふのはこんなところにもある。それは彼の並々ならぬ我儘とも虚栄心とも推測出来る。当選はせずとも候補になることによつて直接或は間接に名誉と利益とを得てゐる筈だからそれでも幾分満足して置いていいといふのが常人の考へ方であらうが、太宰はそんな余裕のある考へ方は出来ないらしい。

候補になつたのを人前へ恥をかかされるために引つぱり出されたやうに感じてゐるかも知れない。非常に贅沢な被害妄想である。余事はさておいて自分は今にしてその当時川端が太宰を評して才ありて徳なしといふ風に断じた眼識に服する事日一日と深くなることを告白して置かなければならない。



初出:「改造 第十八卷第十一號」1936(昭和11)年11月1日発行 ※初出時の表題は「芥川賞」です。※初出時の副題は「――憤怒こそ愛の極點(太宰治)――」です。




(3)新田の態度の感銘して富士山を褒めたか
 

郵便局につとめている新田は「太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説」に書いてあるが「まじめな、ちやんとしたお方だと」
わかった、と言います。太宰がちゃんとした人であることを強調するために、「富嶽百景」では佐藤春夫の小説にはない「ひどいデカダン」、「性格破産者」を入れたと思います。


その後、太宰治は二階の部屋からの富士山を眺めて、実際の富士山をはじめて褒めます。この前に、褒めたのは三ツ峠からの富士山の写真と富士噴火口の写真です。新田青年に「まじめな、ちやんとしたお方だと」言われため富士山を褒めた展開になっています。褒められるとうれしくなる「念々と動く自分の愛憎が恥づかしく」、富士山のように常に堂々としていたいという褒めかたです。

『私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。』

天下茶屋のおかみさんたちの親身な対応、縁談の好調な展開、そして文学好き青年の尊敬を込めた訪問など、世間の温かい交流によりこの先の生活に明るさが見えてきた。そのため、俗だと軽蔑してきた富士山が、立派に見えてきた。

しかし、意外と簡単に富士山に対する態度が変わります。変わって悪いとは思いませんが、このページの最初に書いてある「それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。」と富士山の評価が一致しません。九月、十月、十一月の間、富士山が好きなのか、好きでないのかわかりません。

なお、新田が最初に天下茶屋を訪ねたのは、13年10月2日で田辺ら男三人女一人による訪問で、新田単独での訪問ではなく、この訪問の場面も太宰の創作です。



(4)太宰治の苦悩の告白

「皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁わら一すぢの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる。わがままな駄々つ子のやうに言はれて来た私の、裏の苦悩を、一たい幾人知つてゐたらう。」

文学好きの青年たちとの交流の中で、太宰治の苦悩が語られます。太宰治のこの苦悩は人生と文学に対する苦悩と思いますが、この作品全体に流れています。御坂峠に来た時から、見合いの席でも、冨士を見ている時でも、その心には苦悩があり、常に意識されます。しかし、その裏の苦悩の本当の姿はわからないだろうと言っているようです。


(5)文学好き青年たちとの楽しく、活発な会話

太宰治の吉田を訪ねた時の楽しいい時間です。太宰治が最初青年たちに、話かけます。内容は相当複雑で過激な男女の話です。吉田の水を眺めながら話したためか、すべて水が出てきます、男女と水と死の話です。

「モウパスサンの小説に・・・日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居・・・朝顔の大井川・・・清姫。安珍を追ひかけて・・・清姫は、あのとき十四だつたんだつてね」

「モウパスサンの小説」の小説の題名は「従卒」か。老大佐の夫人の手紙に、夫人があいびきのために将校の待つ島まで泳いでゆくことにしたとの告白あり。相当複雑で不倫、自殺が出てくる男女関係の話です。
(太宰治の「富嶽百景」に「モーパッサンの小説に. | レファレンス協同データベース 備考の欄 )  太宰治「富岳百景」のモウパスサン - えとるた日記

「日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居」芝居の題名『妹背山婦女庭訓』か.
恋する歌舞伎:第3回「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の三段目「吉野川の場」
雛鳥(ひなどり)と久我之助(こがのすけ)は相思相愛の仲。ところが親同士は領地争いが原因で、敵対関係にある。その隔たりを表すがごとく、2人の家の間には吉野川という川が流れ、直接会う事ができない。向こう岸には愛しい人がいるのに、手を握ることさえできないもどかしさ 三段目「吉野川の場」 - OZmall

「朝顔の大井川」は「人形浄瑠璃 生写朝顔日記 大井川の段」のようです。(人形浄瑠璃 文楽|生写朝顔話)

「安珍を追ひかけて・・・清姫は、あのとき十四だつたんだつてね」は安珍・清姫伝説。紀州道成寺にまつわる伝説のことで、思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。安珍・清姫伝説 - Wikipedia



(6)吉田で新田と田辺と飲んだあとの夜の富士山は幻想的な富士山です。

「おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛くずの葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。ほたる。すすき。葛くずの葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。」

幻想の富士を見ながら鬼火、狐火、が飛び交う夜道を歩いたようです。私も夜の三ツ峠山から眺めた富士山に感激したので、太宰治の幻想の富士山を想像して描いてみました。

この青い富士山の彷徨で行きに落とした財布を、戻るときは拾っています。御坂峠に来る前の乱れた生活で失った精神の重要な何かを取り戻したのか。富士に化かされて再生の兆しが見えてきたのか。



幻想的な富士山
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(7)吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰つて来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑つて、十五の娘さんは、つんとしてゐた。

意外にも天下茶屋のおかみさんと十五の娘さんが出てくるのはここが初めてです。この文章を素直に読むと十五の娘さんはおかみさんの子供のようです。茶屋には、そのほか老爺と六歳の男の子と飼い犬のハチがいるようです。おかみさんに声をかけるときは「をばさん」です。

吉田に一泊したので、不潔なことをしてきたのかも、という二人のの対応です。それに対して饒舌になって反論します。太宰治と茶屋のおかみさん、娘さんとの距離が縮まり親しみが出てきます。


実際に天下茶屋にいたのは、おかみさんの外川ヤエ子(30歳)、その妹中村たかの(17歳)、長男元彦(3歳)です。夫(外川政雄)が出征しているため、妹が手伝いに来ていた。小説では、仲の良い母娘が太宰治の世話をしています。おかみさんの年が書いてないので、「をばさん」とよんでいて、太宰より10歳以上年上のようになっていますが、同年齢ですので、「をばさん」とは呼ばなかったと思います。

天下茶屋のおかみさんのや外川ヤエ子:太宰治への旅 第5回 「満願」「富嶽百景」 - YouTube
X Post「富嶽百景」の茶屋の「娘さん」 coma on X: "「富嶽百景」の茶屋の「娘さん」が百歳で亡くなったと本日の地元紙に掲載。


この天下茶屋での15歳の娘さんとお太宰のはなしが中心となります。



(8)初雪で冠雪した富士山を前の態度を簡単に翻して褒めます。

『「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
 娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。だまつて空を指さした。見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。
「いいね。」
 とほめてやると、娘さんは得意さうに、
「すばらしいでせう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としやがんで言つた。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。』


逗留して1カ月以上たつと思うが「太宰さん」ではなく「お客さん」とよぶのに少し違和感、またほかに客はいないのか。

「見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。」
この文は太宰治の正直な感想のように思えます。



初雪で冠雪した富士山の富士山(わたしの作成図、初雪なので冠雪部は多くないと判断)


初雪で冠雪した富士山の富士山  再掲

6 御坂峠の富士でも書きましたが、9月の冠雪のない富士山を見て軽蔑した富士山が冠雪して更に「おあつらひむきの富士山、註文どほりの景色」になったのに、冠雪した富士山を褒めるるのはどうしてか、自分の信念を持って富士山を見ているのかと思ってしまいます。

また、親身に世話をしてくれる純真な娘さんの感動に対応して「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」と言ったのか、本当にそう思ったのか。どっちにとっていいのか迷ってしまいます。

迷ってしまったまま次に進みます。