![]() |
||||||||||||||||||
9 天下茶屋からの富士・ 吉田の夜の富士
(1)西の御坂峠の故事が、天下茶屋の御坂峠で起こったことになっている。 6 御坂峠の富士で指摘したが、西の御坂峠の故事が、天下茶屋の御坂峠で起こったことになっている。 「御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。」 「むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」 富士三景は昔日本武尊が歩いた西の御坂峠で、ここで能因法師が歌を詠みました。この箇所も太宰家にあった 『富士山の自然界』から写したようです。 この西の御坂峠の故事が出てくると、太宰治が西の御坂峠で起こったことと知りながら書いていると思い、読む方の気持ちが白けてしまいます。
(2)新田、田辺で登場する二人の青年。 「富嶽百景」で名前で登場するのは、太宰と井伏鱒二と佐藤春夫以外は、新田と田辺の二人だけです。二人とも実名です。 「茶店のハチといふ飼犬」は除きます。 「新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。」 「新田と、それから田辺といふ短歌の上手な青年と、二人は、井伏氏の読者であつて、その安心もあつて、私は、この二人と一ばん仲良くなつた。」
新田は次の様に言った 「太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし」 この小説は 『芥川賞 憤怒こそ愛の極点』のようです。
『或る文学青年像』には太宰治に対して「ひどいデカダン」、「性格破産者」はないが、「我儘な人間」、「虚栄心」、「被害妄想」などが出てくる。 この小説は第一回芥川賞に出した「道化の華」が落選し、その落選の経過を佐藤春夫と絡ませて太宰治が「創成記」を書いたが、佐藤春夫はそこに 書いてあることはすべて妄想であると反論した小説です。 太宰治「道化の華」:人間失格の主人公と同姓同名の大庭葉蔵が登場する話。太宰本人が1930年に田部シメ子と自殺未遂をし、太宰だけが助かったことが下敷きとされている。「道化の華」-青空文庫 太宰治「創成記」-青空文庫:
(3)新田の態度の感銘して富士山を褒めたか 郵便局につとめている新田は「太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説」に書いてあるが「まじめな、ちやんとしたお方だと」 わかった、と言います。太宰がちゃんとした人であることを強調するために、「富嶽百景」では佐藤春夫の小説にはない「ひどいデカダン」、「性格破産者」を入れたと思います。 その後、太宰治は二階の部屋からの富士山を眺めて、実際の富士山をはじめて褒めます。この前に、褒めたのは三ツ峠からの富士山の写真と富士噴火口の写真です。新田青年に「まじめな、ちやんとしたお方だと」言われため富士山を褒めた展開になっています。褒められるとうれしくなる「念々と動く自分の愛憎が恥づかしく」、富士山のように常に堂々としていたいという褒めかたです。 『私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。 「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。』 天下茶屋のおかみさんたちの親身な対応、縁談の好調な展開、そして文学好き青年の尊敬を込めた訪問など、世間の温かい交流によりこの先の生活に明るさが見えてきた。そのため、俗だと軽蔑してきた富士山が、立派に見えてきた。 しかし、意外と簡単に富士山に対する態度が変わります。変わって悪いとは思いませんが、このページの最初に書いてある「それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。」と富士山の評価が一致しません。九月、十月、十一月の間、富士山が好きなのか、好きでないのかわかりません。 なお、新田が最初に天下茶屋を訪ねたのは、13年10月2日で田辺ら男三人女一人による訪問で、新田単独での訪問ではなく、この訪問の場面も太宰の創作です。 (4)太宰治の苦悩の告白 「皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁わら一すぢの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる。わがままな駄々つ子のやうに言はれて来た私の、裏の苦悩を、一たい幾人知つてゐたらう。」 文学好きの青年たちとの交流の中で、太宰治の苦悩が語られます。太宰治のこの苦悩は人生と文学に対する苦悩と思いますが、この作品全体に流れています。御坂峠に来た時から、見合いの席でも、冨士を見ている時でも、その心には苦悩があり、常に意識されます。しかし、その裏の苦悩の本当の姿はわからないだろうと言っているようです。 (5)文学好き青年たちとの楽しく、活発な会話 太宰治の吉田を訪ねた時の楽しいい時間です。太宰治が最初青年たちに、話かけます。内容は相当複雑で過激な男女の話です。吉田の水を眺めながら話したためか、すべて水が出てきます、男女と水と死の話です。 「モウパスサンの小説に・・・日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居・・・朝顔の大井川・・・清姫。安珍を追ひかけて・・・清姫は、あのとき十四だつたんだつてね」 「モウパスサンの小説」の小説の題名は「従卒」か。老大佐の夫人の手紙に、夫人があいびきのために将校の待つ島まで泳いでゆくことにしたとの告白あり。相当複雑で不倫、自殺が出てくる男女関係の話です。 (太宰治の「富嶽百景」に「モーパッサンの小説に. | レファレンス協同データベース 備考の欄 ) 太宰治「富岳百景」のモウパスサン - えとるた日記 「日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居」芝居の題名『妹背山婦女庭訓』か.
「朝顔の大井川」は「人形浄瑠璃 生写朝顔日記 大井川の段」のようです。(人形浄瑠璃 文楽|生写朝顔話) 「安珍を追ひかけて・・・清姫は、あのとき十四だつたんだつてね」は安珍・清姫伝説。紀州道成寺にまつわる伝説のことで、思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。安珍・清姫伝説 - Wikipedia (6)吉田で新田と田辺と飲んだあとの夜の富士山は幻想的な富士山です。 「おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛くずの葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。ほたる。すすき。葛くずの葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。」 幻想の富士を見ながら鬼火、狐火、が飛び交う夜道を歩いたようです。私も夜の三ツ峠山から眺めた富士山に感激したので、太宰治の幻想の富士山を想像して描いてみました。 この青い富士山の彷徨で行きに落とした財布を、戻るときは拾っています。御坂峠に来る前の乱れた生活で失った精神の重要な何かを取り戻したのか。富士に化かされて再生の兆しが見えてきたのか。 ![]() (7)吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰つて来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑つて、十五の娘さんは、つんとしてゐた。 意外にも天下茶屋のおかみさんと十五の娘さんが出てくるのはここが初めてです。この文章を素直に読むと十五の娘さんはおかみさんの子供のようです。茶屋には、そのほか老爺と六歳の男の子と飼い犬のハチがいるようです。おかみさんに声をかけるときは「をばさん」です。 吉田に一泊したので、不潔なことをしてきたのかも、という二人のの対応です。それに対して饒舌になって反論します。太宰治と茶屋のおかみさん、娘さんとの距離が縮まり親しみが出てきます。 実際に天下茶屋にいたのは、おかみさんの外川ヤエ子(30歳)、その妹中村たかの(17歳)、長男元彦(3歳)です。夫(外川政雄)が出征しているため、妹が手伝いに来ていた。小説では、仲の良い母娘が太宰治の世話をしています。おかみさんの年が書いてないので、「をばさん」とよんでいて、太宰より10歳以上年上のようになっていますが、同年齢ですので、「をばさん」とは呼ばなかったと思います。 天下茶屋のおかみさんのや外川ヤエ子:太宰治への旅 第5回 「満願」「富嶽百景」 - YouTube X Post「富嶽百景」の茶屋の「娘さん」 coma on X: "「富嶽百景」の茶屋の「娘さん」が百歳で亡くなったと本日の地元紙に掲載。 この天下茶屋での15歳の娘さんとお太宰のはなしが中心となります。 (8)初雪で冠雪した富士山を前の態度を簡単に翻して褒めます。 『「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。 娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。だまつて空を指さした。見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。 「いいね。」 とほめてやると、娘さんは得意さうに、 「すばらしいでせう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としやがんで言つた。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。 「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。』 逗留して1カ月以上たつと思うが「太宰さん」ではなく「お客さん」とよぶのに少し違和感、またほかに客はいないのか。 「見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。」 この文は太宰治の正直な感想のように思えます。 ![]() 初雪で冠雪した富士山の富士山 再掲 また、親身に世話をしてくれる純真な娘さんの感動に対応して「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」と言ったのか、本当にそう思ったのか。どっちにとっていいのか迷ってしまいます。 迷ってしまったまま次に進みます。
|