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11 遊女と富士・花嫁と富士
(1)何気なく「富士山」初登場 夕焼け赤き雁の腹雲 十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁の腹雲、二階の廊下で、ひとり煙草を吸ひながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血の滴したたるやうな真赤な山の紅葉を、凝視してゐた。茶店のまへの落葉を掃きあつめてゐる茶店のおかみさんに、声をかけた。 「をばさん! あしたは、天気がいいね。」 「夕焼け赤き雁の腹雲」とは、どうゆう意味か 「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」ということわざがある。夕焼けの発生は西には雲がない状態と考えられ、日本では特に春から秋にかけて移動性高気圧と温帯低気圧が交互にやってくることが経験則となったものである。 「雁の腹雲」は、雁の腹に似た雲で気象学的には巻積雲(いわゆる「うろこ雲」)と考えられる。この雲は、低気圧の接近に先だって現れ、天気が下り坂に向かうことを示す。「雁の腹雲三日ともてね(時化のもと)」このことわざは津軽海峡沿岸の各地にある。【時化の予測】 (adeac.jp) 津軽地方にある諺なので、太宰治はあまり聞かない言葉「雁の腹雲」を知っていたようです。 明日の天気、夕焼けからは晴れ、雁の腹雲からは曇り、しかし雁の腹雲による天気の下り坂は時間がかかる。その為、太宰の予測は晴れ、御坂峠ではどのように 予測するかと思い、突然「をばさん! あしたは、天気がいいね。」と声をかけた。と推察します。 太宰の文章は簡潔で、説明は省く、各自それなりに受け取るが、深読みをして、間違った方に行く場合が多くなりそうです。 何気なく「富士山」初登場 おかみさんとの会話はかみ合わず、おかみさんは次の様にいう 「おさびしいのでせう。山へでもおのぼりになつたら?」 「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」 私の言葉が変だつたのだらう。をばさんはただ曖昧にうなづいただけで、また枯葉を掃いた。 「富嶽百景」には「富士」84回、「富士山」は6回登場します。ここではじめて「富士山が登場します。」(太宰治の会話)) 会話の中なので「富士山」か。違います。これまでは会話の中でも「富士」です。 初雪が降った時娘さんは「御坂の富士は、これでも、だめ」、太宰は「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」 この後で「富士山が」5回出てきます。 11 遊女と富士・花嫁と富士で 遊女が来たとき。「富士に頼もう」の続きで「のっそり立っている富士山」が2番目。(太宰治の思い) 見合いの娘さんが「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」が3番目(見合いの娘さんの言葉) 12 タイピストと富士・富士は酸漿に似てゐたで 「ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、」が4番目(場面の描写) 「富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」が5番目(太宰治の思い)) 「富士山だけが大きく写つてゐて」が6番目(富士山写真の描写) 富士山の初登場が、何気なく行われています。富士山に感動する場面ではありません。その他五つの「富士山」は重要なところで出てきます。お願いの富士山、見合いの娘との富士山、赤い罌粟の富士山。 太宰治の文章は、重要なことを何気なく描くのが上手です。油断できません。 富士には月見草が良く似合うと気づいた後、批判もするが、おかみさんとの会話で素直に富士山と呼べるようになり、仲間の一員のように親しみを感じるようになったのか。 後半三つの「富士山」は、お世話になった富士山への感謝の気持ちを表しているのか。 「のか」を二つ使ってしまった。これは書いた文に自信が持てないためなのか。すべての文に「のか」を付けたいのを我慢してここまで書いてます。 本文に関係ないが 夏目漱石「三四郎」で富士山4回 富士1回 不二山2回 夏目漱石 三四郎 あおぞら文庫 何気なく太宰治の性格 「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」> 言われてみれば「もっともだ」と思う人もいるかもしれない。しかし、太宰は坂峠に来た時 「私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。」 仙遊とは、仙境に遊ぶことなので茶屋の二階で煙草を飲んで悶々とすることではなく、周りの山々を歩き草花を愛で、キノコなどを採集することです。 山に登っても、また降りるなら登りたくない。何処から見ても富士山は同じ富士山。無駄なことはしたくない。太宰は、基本的にこのような性格と思います。 富士山の見える多くの山に登り、それぞれ異なる富士山を眺めることを最大の楽しみにしている私にとって、冨士山が見える山歩きをしないのはもったいない。「どの山へのぼつても、おなじ富士山」という人には、小説に「富嶽百景」の題名を付けてもらいたくないと個人的な感想を述べます。 また、富士山ではなく、「娘さん」とした場合、各場面で異なった印象を与えているのに、富士山だけはどこの山からも同じ富士山というのは、文学者として問題があるように思います。 (2)「単一表現」の美しさ 「ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。」と富士は「水の精」まで気高くなっています。 ここで文学上の表現と富士山の容姿が比較されます。太宰治が目指す「単一表現」の美しさが富士なのかもしれないと、富士山への見方が素直になってきますが、棒状の素朴さを持つほていさまの置物が出てきて、富士を最後までは肯定できません。 「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。」 「単一表現」をそのまま出すと、文学者の個性がない。棒状ではなくねじり棒にして提出する工夫が必要だ。しかしし、多くの人がそれに失敗している。太宰はそれを追求して、未だ愚図愚図、思ひ悩み、誇張ではなしに、身悶えしてゐるようです。
(3)遊女の一団・富士にたのもう 「十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五台に分乗してやつて来た。」 一見のどかに見える「富嶽百景」ですが、峠の下の現実的な世界からの遊女の登場です。 この時代は農村の疲弊から娘の身売りが多くなり、農村出身の兵隊を媒体として青年将校の心情に訴え、昭和7年に五・一五事件が起こります。その後、次の様に昭和11年に二・二六事件、昭和12年に日中戦争が始まり、昭和13年に国家総動員法が公布され、その3年後第二次大戦に突入するします。御坂峠での遊女の登場の背景には、軍部が主導権を握っていく時代背景があります。天下茶屋の主人も出征中で、茶屋にはでてきません。 出版などの規制も厳しくなって言った。具体的には、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、治安維持法(1925年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論、出版、集会、結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動は強く規制されていた 羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』等、発禁処分(1933年) 天皇機関説事件(1935年)美濃部達吉著『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』が発禁処分となった。 文学に対する規制もきびしくなり、昭和13年3月石川達三「生きている兵隊」掲載の中央公論発売禁止、昭和18年には細雪」が連載中止になります。 昭和7.5.15 五・一五事件事件 昭和8 羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』発禁処分 昭和10 天皇機関説事件:美濃部達吉著『憲法撮要』『日本国憲法ノ基本主義』などが発禁処分 昭和11.2.26 二・二六事件 昭和12.7.7 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 昭和13.4.1 国家総動員法公布 昭和13.9-11月 「富嶽百景」御坂峠逗留 昭和16.12.8 日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発 昭和18年 谷崎潤一郎「細雪」優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止 遊女の一団が御坂峠に来て、太宰治の個人的な苦悩に、戦争中、遊女の存在という」社会の大きな苦悩が絡みつきます。遊女の境遇に共感するが、無力な太宰治は富士にたのもうと言います。富士は社会的な苦悩と関係していきます。太宰が富士山を社会的苦悩と関係させどてら姿の大親分にさせます。 「二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。 富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである」 太宰の執筆活動はこのような時代に行われていました。 御坂峠に行く前の太宰治の経歴、小説発表など に軍国主義に進む社会情勢と出版の規制を追加
(4)ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。母堂から母へ。 「そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであつた。私のふるさとからは、全然、助力が来ないといふことが、はつきり判つてきた」ので、それを娘さんと母堂に話した。その返答は「ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」 私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思つた。」 ここで御母堂と読んでいた見合い相手の母親は「御母堂」から「母」にかわります。」 「富嶽百景」で、「御母堂」は4回、すべて見合い相手の「母親」です。 「母」は2回。 上記以外の「母」は10 富士には月見草が良く似合ふでと突然出てくる実の「母親」です。 「私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、」 実際① この母堂の返答は見合の娘さんの家で聞いたのではなく、母堂の手紙から構成したものです。そのため、「この母に、孝行しようと思つた」のは天下茶屋の二階かもしれません 実際② 故郷からの助力は結婚後もあったようです
実際③ 「だつて、御坂峠にいらつしやるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思つて。」 をかしな娘さんだと思つた。 見合いの娘さんの純な気持ちを表した会話ですが、この会話は「富嶽百景」では削除された娘さんの妹との会話のようです。(森晴彦「『富嶽百景』の創作方法-私小説的装置を駆使した作品世界の構築-」 実際の出来事に色々な変更を重ねて話は明るい方向へ進みます。 (5)バットを七箱も八箱も吸ひ 「甲府へ行つて来て、二、三日、流石に私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまへに坐つて、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸ひ、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、といふ唱歌を、繰り返し繰り返し歌つてみたりしてゐるばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかつた。」 、一日八箱は多い。睡眠食事トイレの時間を除くと14時間、その間にバット80本。10分30秒に1本バットを吸っています,。バットとは、ゴールデンバットのことで1906(明治39)年の発売以来、戦時中も途切れることがなく販売が続き、2022年11月まで販売が継続され人気があった煙草で、2016年4月の価格改定前まで日本で最も安価な紙巻きたばこです。 安いとはいえ煙草代がかかります。1936(昭和11)年11月、1銭値上がりして8銭に(note.com)8箱だと一日64銭、一か月約20円、相当な金額です。 兄文治が送ってくれる仕送り90円の2割以上です。 それ以上に、健康に悪い。「昭和11年(1936年)10月の東京武蔵野病院入院時の検査で左肺全般に乾湿性の音がしたため、太宰は左側肺結核にり患していると診断された。1941年11月、徴兵検査を受けた際には胸部疾患の既往があるとの理由で不合格となっている。戦後、結核の病状は深刻化していた。太宰のもとを尋ねた編集者が大量喀血の場面に出くわしたこともあった 太宰治と自殺 - Wikipedia1935-43年の間1939年を除いて,結核の死因順位はずっと首位の座に在った.死亡率(対10万)は1918年の257.1をピークとして下降をはじ1932年には179.4まで低下するが,以後再度上昇に転じ1943年には235.3となっている (tokyo.lg.jp) 「富嶽百景」では、結核についての話は無く、また実際にも殆ど気にかけてないのか、文学青年とも酒も飲んでいます。太宰治の写真では、1946年酒場で煙草をふかしいる写真が有名です。ゆったりした雰囲気があり酒とタバコの効果を感じます。天下茶屋でも酒とたばこが有るときはこのような雰囲気を出していたのでしょう。酒とたばこを飲んで結核で死ぬならそれも良しということだとしたら、これから、婚約、結婚へ進む希望の道はどのようなものか。理解できない太宰治の生き方の一つです。 >
吉田の遊女の登場と一日80本の喫煙で、御坂峠に来た太宰治の苦悩の全貌がほぼ明らかになりました。「富嶽百景」には書かれていない太宰の苦悩もまとめて記載します。 太宰治は昭和13年9月に、御坂峠の天下茶屋に逗留します。「しばらくここで仙遊しようと思っている」と書いていますが。実際の太宰治をは苦悩の渦の中にいて仙遊どころではありません ➀時代背景として、昭和7年に農村の疲弊から五・一五事件、昭和12年に二・二六事件、昭和12年に日中戦争がはじまり、昭和13年に国家総動員法が出され軍部の支配が強くなっていきます。この3年後に真珠湾攻撃があり太平洋戦争に突入します。この時代、農村の疲弊から娘の身売りが多くなり、「富嶽百景」の御坂峠に遊女が登場します。太宰治の、「いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。」ので「富士山に頼もう」となります。 ②太宰治本人のこれまでの人生は、苦悩の極にいます。御坂峠に来るまで、4回の自殺、心中未遂をしています。昭和5年の田部シメ子殿心中未遂では、シメ子は死亡しています。昭和12年にはバキナール中毒で精神病院で入院中に、妻初音の不倫があり、その後初音と心中したが二人とも生き残り、離別します。実家の兄津島文治が第20回衆議院議員総選挙で選挙違反に問われて10年間の公民権停止となり、姉が死亡し、甥が自殺します。初代との不貞問題を起こした小舘善四郎も自殺未遂。 ③文学上では、狂ったように望んだ芥川受賞に三回失敗し、失意の底にいます。その中での、唯一誇れる苦悩の存在、単一表現の美しさの追及をおこないます。しかし、戦局が拡大していくと、政府による思想・言論の統制が強化され、国の政策に沿ういわゆる国策文学が主流を占めるようになり、羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』等、発禁処分。文学昭和13年3月石川達三「生きている兵隊」掲載の中央公論発売禁止、その後昭和18年に谷崎潤一郎の『細雪』が連載中に発禁処分になります。 その状況で、昭和14年に「富嶽百景」19年に「津軽」を出版したことは特筆されることです。 ④作品の中では一切書かれていませんが、太宰は昭和11年左肺が結核にり患しています。この時代結核の死因順位はずっと首位の座に在った.死亡率(対10万)は1918年の257.1をピークとして下降をはじ1932年には179.4まで低下するが,以後再度上昇に転じ1943年には235.3となっている 。その後も結核はすすんでいるようですが、煙草は一日80本、酒も飲んでいます。見合いをして新しい人生を歩んでいこうとする人とは思えない行為です。 ![]()
このような、苦悩の渦の中にいる太宰治に、師である井伏鱒二は見合いと長編小説出版の手配を行い天下茶屋に逗留させた。それから「富嶽百景」がはじまり、太宰治の人生の再生は順調に進んでここまできました。 (6)私は、娘さんを、美しいと思つた 甲府から天下茶屋に原稿を書かない太宰に対して、帰った後、「お客さん甲府へ行ったらわるくなったわね」といったね」と、真剣に起こっている。 「私は、ありがたい事だと思つた。大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。」 (7)娘さんはうつむき、泣きべそかいてゐるのだ。 十月末になり、山は冬木立に化した。おかみさんは男の子を連れて吉田へ買い物に行き、一日中、娘さんと二人きりになった。 「私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまはり、茶店の背戸で、お洗濯してゐる娘さんの傍へ近寄り、 「退屈だね。」 と大声で言つて、ふと笑ひかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔を覗いてみて、はつと思つた。泣きべそかいてゐるのだ。あきらかに恐怖の情である。 それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないやうにつとめた。」 天下茶屋の娘さんを、みずみずしい感性を持った少女としてみていた太宰治が、娘さんに女性を感じた瞬間です。娘さんは、太宰治を異性としてみています。周りから心中未遂をして相手の女性を死なせてしまったことなど、いろいろ聞いていると思います。その異性と二人きりになり、声をかけてきたら緊張することに太宰治が気が付いた時を描いています。 実際④ 太宰治「九月十月十一月」では、「異性」の意識がない娘さんと言っています。上記の娘さんは「富嶽百景」ように脚色された娘さんです。 「私は、有りがたく思つた。この娘さんの感情には、みぢんも「異性」の意識がない。大げさな言ひかたをすれば、人間の生き拔く努力への聲援である」 太宰治 九月十月十一月 -青空文庫より引用 (8)花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸をした 「店のまへの崖のふちに立ち、ゆつくり富士を眺めた。脚をX形に組んで立つてゐて、大胆なポオズであつた。余裕のあるひとだな、となほも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞してゐたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸あくびをした 「あら!」 と背後で、小さい叫びを挙げた。娘さんも、素早くその欠伸を見つけたらしいのである。 ・・・「欠伸したのよ。」娘さんも、力こめて賛意を表した。「あんな大きい口あけて欠伸して、図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらつちや、いけない。」 裾模様の長い着物を着て、金襴の帯を背負ひ、角隠しつけて、堂々正式の礼装の花嫁さんと富士山が並ぶ。その完成された構図を壊すように花嫁は大きな欠伸をした。太宰は完成された美しさは好まないため、花嫁に欠伸をさせる。 天下茶屋の娘は少女の明るさを取り戻す。御坂峠での太宰治の生活は、天下茶屋の娘さんにより明るく進んでいきます。 |