太宰治「富嶽百景」を読む









11 遊女と富士・花嫁と富士



十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁の腹雲、二階の廊下で、ひとり煙草を吸ひながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血の滴るやうな真赤な山の紅葉を、凝視してゐた。茶店のまへの落葉を掃きあつめてゐる茶店のおかみさんに、声をかけた。
「をばさん! あしたは、天気がいいね。」
 自分でも、びつくりするほど、うはずつて、歓声にも似た声であつた。をばさんは箒の手をやすめ、顔をあげて、不審げに眉をひそめ、
「あした、何かおありなさるの?」
 さう聞かれて、私は窮した。
「なにもない。」
 おかみさんは笑ひ出した。
「おさびしいのでせう。山へでもおのぼりになつたら?」
「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」
 私の言葉が変だつたのだらう。をばさんはただ曖昧にうなづいただけで、また枯葉を掃いた。



 ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。くるしいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかへつて私の楽しみでさへあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術といふもの、あすの文学といふもの、謂はば、新しさといふもの、私はそれらに就いて、未だ愚図愚図、思ひ悩み、誇張ではなしに、身悶えしてゐた。

 素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。



 朝に、夕に、富士を見ながら、陰欝な日を送つてゐた。十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五台に分乗してやつて来た。私は二階から、その様を見てゐた。自動車からおろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝書鳩のやうに、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまつてうろうろして、沈黙のまま押し合ひ、へし合ひしてゐたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。茶店の店頭に並べられて在る絵葉書を、おとなしく選んでゐるもの、佇んで富士を眺めてゐるもの、暗く、わびしく、見ちや居れない風景であつた。二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。

 富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのであるが、私は、さう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなつて茶店の六歳の男の子と、ハチといふむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。トンネルの冷い地下水を、頬に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた。



 そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであつた。私のふるさとからは、全然、助力が来ないといふことが、はつきり判つてきたので、私は困つて了つた。せめて百円くらゐは、助力してもらへるだらうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもつて、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当つての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思つてゐた。けれども、二、三の手紙の往復に依り、うちから助力は、全く無いといふことが明らかになつて、私は、途方にくれてゐたのである。このうへは、縁談ことわられても仕方が無い、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺ひした。さいはひ娘さんも、家にゐた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆しつかいの事情を告白した。ときどき演説口調になつて、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたやうに思はれた。娘さんは、落ちついて、
「それで、おうちでは、反対なのでございませうか。」と、首をかしげて私にたづねた。
「いいえ、反対といふのではなく、」私は右の手のひらを、そつと卓の上に押し当て、「おまへひとりで、やれ、といふ工合ひらしく思はれます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑ひながら、「私たちも、ごらんのとほりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
 私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思つた。

 かへりに、娘さんは、バスの発着所まで送つて来て呉れた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
 きざなことを言つたものである。
「いいえ。もう、たくさん。」娘さんは、笑つてゐた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます。」
 私は何を聞かれても、ありのまま答へようと思つてゐた。
「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」
 私は、その質問に拍子抜けがした。
「降りました。いただきのはうに、――」と言ひかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。
「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるぢやないか。ばかにしてゐやがる。」やくざな口調になつてしまつて、「いまのは、愚問です。ばかにしてゐやがる。」
 娘さんは、うつむいて、くすくす笑つて、
「だつて、御坂峠にいらつしやるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思つて。」
 をかしな娘さんだと思つた。




 甲府から帰つて来ると、やはり、呼吸ができないくらゐにひどく肩が凝こつてゐるのを覚えた。
「いいねえ、をばさん。やつぱし御坂は、いいよ。自分のうちに帰つて来たやうな気さへするのだ。」
 夕食後、おかみさんと、娘さんと、交る交る、私の肩をたたいてくれる。おかみさんの拳こぶしは固く、鋭い。娘さんのこぶしは柔かく、あまり効きめがない。もつと強く、もつと強くと私に言はれて、娘さんは薪まきを持ち出し、それでもつて私の肩をとんとん叩いた。それ程にしてもらはなければ、肩の凝りがとれないほど、私は甲府で緊張し、一心に努めたのである。

 甲府へ行つて来て、二、三日、流石に私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまへに坐つて、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸ひ、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、といふ唱歌を、繰り返し繰り返し歌つてみたりしてゐるばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかつた。




お客さん。甲府へ行つたら、わるくなつたわね。」
 朝、私が机に頬杖つき、目をつぶつて、さまざまのことを考へてゐたら、私の背後で、床の間ふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましさうに、多少、とげとげしい口調で、さう言つた。私は、振りむきもせず、
「さうかね。わるくなつたかね。」
 娘さんは、拭き掃除の手を休めず、
「ああ、わるくなつた。この二、三日、ちつとも勉強すすまないぢやないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろへるのが、とつても、たのしい。たくさんお書きになつて居れば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそつと様子を見に来たの、知つてる? お客さん、ふとん頭からかぶつて、寝てたぢやないか。」

 私は、ありがたい事だと思つた。大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。



 十月末になると、山の紅葉も黒ずんで、汚くなり、とたんに一夜あらしがあつて、みるみる山は、真黒い冬木立に化してしまつた。遊覧の客も、いまはほとんど、数へるほどしかない。茶店もさびれて、ときたま、おかみさんが、六つになる男の子を連れて、峠のふもとの船津、吉田に買物をしに出かけて行つて、あとには娘さんひとり、遊覧の客もなし、一日中、私と娘さんと、ふたり切り、峠の上で、ひつそり暮すことがある。私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまはり、茶店の背戸で、お洗濯してゐる娘さんの傍へ近寄り、
「退屈だね。」
 と大声で言つて、ふと笑ひかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔を覗いてみて、はつと思つた。泣きべそかいてゐるのだ。あきらかに恐怖の情である。さうか、と苦が苦がしく私は、くるりと廻れ右して、落葉しきつめた細い山路を、まつたくいやな気持で、どんどん荒く歩きまはつた。

 それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないやうにつとめた。茶店にお客でも来たときには、私がその娘さんを守る意味もあり、のしのし二階から降りていつて、茶店の一隅に腰をおろしゆつくりお茶を飲むのである。



いつか花嫁姿のお客が、紋附を着た爺さんふたりに附き添はれて、自動車に乗つてやつて来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。そのときも、娘さんひとりしか茶店にゐなかつた。

私は、やはり二階から降りていつて、隅の椅子に腰をおろし、煙草をふかした。花嫁は裾模様の長い着物を着て、金襴の帯を背負ひ、角隠しつけて、堂々正式の礼装であつた。全く異様のお客様だつたので、娘さんもどうあしらひしていいのかわからず、花嫁さんと、二人の老人にお茶をついでやつただけで、私の背後にひつそり隠れるやうに立つたまま、だまつて花嫁のさまを見てゐた。一生にいちどの晴の日に、――峠の向ふ側から、反対側の船津か、吉田のまちへ嫁入りするのであらうが、その途中、この峠の頂上で一休みして、富士を眺めるといふことは、はたで見てゐても、くすぐつたい程、ロマンチックで、そのうちに花嫁は、そつと茶店から出て、茶店のまへの崖のふちに立ち、ゆつくり富士を眺めた。脚をX形に組んで立つてゐて、大胆なポオズであつた。余裕のあるひとだな、となほも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞してゐたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸をした。
「あら!」
 と背後で、小さい叫びを挙げた。娘さんも、素早くその欠伸を見つけたらしいのである。やがて花嫁の一行は、待たせて置いた自動車に乗り、峠を降りていつたが、あとで花嫁さんは、さんざんだつた。

「馴れてゐやがる。あいつは、きつと二度目、いや、三度目くらゐだよ。おむこさんが、峠の下で待つてゐるだらうに、自動車から降りて、富士を眺めるなんて、はじめてのお嫁だつたら、そんな太いこと、できるわけがない。」
「欠伸したのよ。」娘さんも、力こめて賛意を表した。「あんな大きい口あけて欠伸して、図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらつちや、いけない。」
 私は年甲斐もなく、顔を赤くした。私の結婚の話も、だんだん好転していつて、或る先輩に、すべてお世話になつてしまつた。結婚式も、ほんの身内の二、三のひとにだけ立ち会つてもらつて、まづしくとも厳粛に、その先輩の宅で、していただけるやうになつて、私は人の情に、少年の如く感奮してゐた。

 
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(1)何気なく「富士山」初登場



夕焼け赤き雁の腹雲

十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁の腹雲、二階の廊下で、ひとり煙草を吸ひながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血の滴したたるやうな真赤な山の紅葉を、凝視してゐた。茶店のまへの落葉を掃きあつめてゐる茶店のおかみさんに、声をかけた。
「をばさん! あしたは、天気がいいね。」


うろこ雲

うろこ雲(巻積雲 - Wikipedia)に着色


「夕焼け赤き雁の腹雲」とは、どうゆう意味か

「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」ということわざがある。夕焼けの発生は西には雲がない状態と考えられ、日本では特に春から秋にかけて移動性高気圧と温帯低気圧が交互にやってくることが経験則となったものである。

「雁の腹雲」は、雁の腹に似た雲で気象学的には巻積雲(いわゆる「うろこ雲」)と考えられる。この雲は、低気圧の接近に先だって現れ、天気が下り坂に向かうことを示す。「雁の腹雲三日ともてね(時化のもと)」このことわざは津軽海峡沿岸の各地にある。【時化の予測】 (adeac.jp) 
津軽地方にある諺なので、太宰治はあまり聞かない言葉「雁の腹雲」を知っていたようです。

明日の天気、夕焼けからは晴れ、雁の腹雲からは曇り、しかし雁の腹雲による天気の下り坂は時間がかかる。その為、太宰の予測は晴れ、御坂峠ではどのように
予測するかと思い、突然「をばさん! あしたは、天気がいいね。」と声をかけた。と推察します。

太宰の文章は簡潔で、説明は省く、各自それなりに受け取るが、深読みをして、間違った方に行く場合が多くなりそうです。


何気なく「富士山」初登場

おかみさんとの会話はかみ合わず、おかみさんは次の様にいう

「おさびしいのでせう。山へでもおのぼりになつたら?」
「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」
 私の言葉が変だつたのだらう。をばさんはただ曖昧にうなづいただけで、また枯葉を掃いた。


「富嶽百景」には「富士」84回、「富士山」は6回登場します。ここではじめて「富士山が登場します。」(太宰治の会話))

会話の中なので「富士山」か。違います。これまでは会話の中でも「富士」です。
初雪が降った時娘さんは「御坂の富士は、これでも、だめ」、太宰は「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」

この後で「富士山が」5回出てきます。


11 遊女と富士・花嫁と富士で
遊女が来たとき。「富士に頼もう」の続きで「のっそり立っている富士山」が2番目。(太宰治の思い)
見合いの娘さんが「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」が3番目(見合いの娘さんの言葉)

12 タイピストと富士・富士は酸漿に似てゐたで
「ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、」が4番目(場面の描写)
「富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」が5番目(太宰治の思い))
「富士山だけが大きく写つてゐて」が6番目(富士山写真の描写)

富士山の初登場が、何気なく行われています。富士山に感動する場面ではありません。その他五つの「富士山」は重要なところで出てきます。お願いの富士山、見合いの娘との富士山、赤い罌粟の富士山。
太宰治の文章は、重要なことを何気なく描くのが上手です。油断できません。

富士には月見草が良く似合うと気づいた後、批判もするが、おかみさんとの会話で素直に富士山と呼べるようになり、仲間の一員のように親しみを感じるようになったのか。
後半三つの「富士山」は、お世話になった富士山への感謝の気持ちを表しているのか。

「のか」を二つ使ってしまった。これは書いた文に自信が持てないためなのか。すべての文に「のか」を付けたいのを我慢してここまで書いてます。


本文に関係ないが
夏目漱石「三四郎」で富士山4回 富士1回 不二山2回
夏目漱石 三四郎 あおぞら文庫



何気なく太宰治の性格

「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」>
言われてみれば「もっともだ」と思う人もいるかもしれない。しかし、太宰は坂峠に来た時
「私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。」
仙遊とは、仙境に遊ぶことなので茶屋の二階で煙草を飲んで悶々とすることではなく、周りの山々を歩き草花を愛で、キノコなどを採集することです。

山に登っても、また降りるなら登りたくない。何処から見ても富士山は同じ富士山。無駄なことはしたくない。太宰は、基本的にこのような性格と思います。
富士山の見える多くの山に登り、それぞれ異なる富士山を眺めることを最大の楽しみにしている私にとって、冨士山が見える山歩きをしないのはもったいない。「どの山へのぼつても、おなじ富士山」という人には、小説に「富嶽百景」の題名を付けてもらいたくないと個人的な感想を述べます。

また、富士山ではなく、「娘さん」とした場合、各場面で異なった印象を与えているのに、富士山だけはどこの山からも同じ富士山というのは、文学者として問題があるように思います。


(2)「単一表現」の美しさ


「ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。」と富士は「水の精」まで気高くなっています。


ここで文学上の表現と富士山の容姿が比較されます。太宰治が目指す「単一表現」の美しさが富士なのかもしれないと、富士山への見方が素直になってきますが、棒状の素朴さを持つほていさまの置物が出てきて、富士を最後までは肯定できません。

「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。」


「単一表現」をそのまま出すと、文学者の個性がない。棒状ではなくねじり棒にして提出する工夫が必要だ。しかしし、多くの人がそれに失敗している。太宰はそれを追求して、未だ愚図愚図、思ひ悩み、誇張ではなしに、身悶えしてゐるようです。


自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること
天下茶屋からの富士山
単一表現の美しさ 布袋様の置物
天下茶屋からの富士山 富嶽百景
から
布袋様の置物

布袋様 -「写真AC」無料(フリー)より引用




(3)遊女の一団・富士にたのもう

「十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五台に分乗してやつて来た。」

一見のどかに見える「富嶽百景」ですが、峠の下の現実的な世界からの遊女の登場です。

この時代は農村の疲弊から娘の身売りが多くなり、農村出身の兵隊を媒体として青年将校の心情に訴え、昭和7年に五・一五事件が起こります。その後、次の様に昭和11年に二・二六事件、昭和12年に日中戦争が始まり、昭和13年に国家総動員法が公布され、その3年後第二次大戦に突入するします。御坂峠での遊女の登場の背景には、軍部が主導権を握っていく時代背景があります。天下茶屋の主人も出征中で、茶屋にはでてきません。
出版などの規制も厳しくなって言った。具体的には、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、治安維持法(1925年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論、出版、集会、結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動は強く規制されていた
羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』等、発禁処分(1933年)
天皇機関説事件(1935年)美濃部達吉著『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』が発禁処分となった。

文学に対する規制もきびしくなり、昭和13年3月石川達三「生きている兵隊」掲載の中央公論発売禁止、昭和18年には細雪」が連載中止になります。

昭和7.5.15     五・一五事件事件
昭和8        羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』発禁処分
昭和10       天皇機関説事件:美濃部達吉著『憲法撮要』『日本国憲法ノ基本主義』などが発禁処分
昭和11.2.26     二・二六事件
昭和12.7.7      盧溝橋事件(日中戦争勃発)
昭和13.4.1     国家総動員法公布
昭和13.9-11月  「富嶽百景」御坂峠逗留
昭和16.12.8    日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発
昭和18年     谷崎潤一郎「細雪」優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止


遊女の一団が御坂峠に来て、太宰治の個人的な苦悩に、戦争中、遊女の存在という」社会の大きな苦悩が絡みつきます。遊女の境遇に共感するが、無力な太宰治は富士にたのもうと言います。富士は社会的な苦悩と関係していきます。太宰が富士山を社会的苦悩と関係させどてら姿の大親分にさせます。

「二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。

富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである」


太宰の執筆活動はこのような時代に行われていました。



御坂峠に行く前の太宰治の経歴、小説発表など に軍国主義に進む社会情勢と出版の規制を追加

 西暦  和暦 満年齢  経歴、小説発表など
1909年  明治42年
 6月19日 
・青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
・六男。本名津島修治
津島家は県下有数の大地主。。
1927年 昭和2年 4月
      9月
 18歳 ・弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)文科甲類に入学。
・青森の芸妓・小山初代(15歳)と知り合う
1929年 昭和4年 12月  20歳 ・自己の出身階級カルモチンで自殺を図る。
1930年  昭和5年4月
      5月

       11月
 21歳 ・東京帝国大学仏学科入学
・井伏鱒二のもとに出入りするようになる。
・カフェの女給・田部シメ子(19歳)と鎌倉の小動岬で心中未遂。相手・シメ子のみ死亡
1931年  昭和6年2月  22歳 ・小山初代と東京五反田で同棲
1932年 昭和7年5月
昭和7年7月
 23歳 ・五・一五事件
・昭和5年から行っていた非合法運動から離れる。
1933年 昭和8年2月
     4月
昭和8年
 24歳 ・サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。
・同人雑誌「海豹」に「魚服記」を発表。
・羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』発禁処分
1934年 昭和9年12月  25歳 ・檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊し「ロマネスク」を発表するも、創刊号のみで廃刊。
1935年  昭和10年3月
      8月
       9月
昭和10年
 26歳 ・都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。
・第1回芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まる。太宰の「逆行」は次席となった。
・佐藤春夫に師事する。東大を除籍。
・天皇機関説事件:美濃部達吉著『憲法撮要』『日本国憲法ノ基本主義』などが発禁処分
1936年 昭和11年1月
昭和11年2月
      6月
      7月
      8月
      10月
 27歳 ・第二回芥川賞受賞を懇願する手紙を佐藤春夫に送る。しかし受賞できず。
・二・二六事件
・最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。
・「文学界」に「虚構の春」発表。

・第三回芥川賞には候補にも入らず。
・パビナール中毒治療のため精神病院の武蔵野病院に入院。1カ月後根治退院

 この時の検査検査でされる左側肺結核にり患していると診断
1937年 昭和12年3月

      4月

      6月

昭和12年7月
 28歳 ・小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを知る。
・初代と心中未遂(偽装心中説もあり)、離別。

・兄津島文治が第20回衆議院議員総選挙で選挙違反に問われて10年間の公民権停。
・太宰の姉が病死し、甥が自殺。初代との不貞問題を起こした小舘善四郎も自殺未遂

・新潮社から「虚構の彷徨」刊行。

・盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1937年

昭和13年3月
昭和13年4月

      9月
29歳 ・石川達三「生きている兵隊」掲載の中央公論発売禁止
・国家総動員法公布

・「姥捨」を「新潮」に、「満願」を「文筆」に発表。
1937年  昭和13年9月
     10月
     11月
 29歳 ・山梨県御坂峠天下茶屋に逗留。「富嶽百景」
・長編「火の鳥」執筆に専念。しかし、この小説は未完に終わる。
・石原美知子と見合い。
1938年  昭和14年1月
    2月3月
 30歳 ・石原美知子と結婚、山梨県甲府市御崎町の新居に移る。
・「富嶽百景」を「文体」で発表。
1940年
1942年
昭和16年12
昭和18年
32歳
34歳
・日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発
・谷崎潤一郎「細雪」優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止
 -1945年  昭和20年8月  36歳 「女生徒」「走れメロス」「東京八景」「新ハムレット」「右大臣実朝」「津軽「お伽草紙」
1948年  昭和20年6月  39歳 「 パンダらの匣」「冬の花火」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「如是我聞」「人間失格」「桜桃」「グッド・バイ」
1948年  昭和23年6月  39歳  愛人の山崎富栄と玉川上水の急流にて入水心中
  
太宰治 - Wikipedia、 角川文庫「富嶽百景」などから引用





(4)ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。母堂から母へ

「そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであつた。私のふるさとからは、全然、助力が来ないといふことが、はつきり判つてきた」ので、それを娘さんと母堂に話した。その返答は「ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
 私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思つた。」

ここで御母堂と読んでいた見合い相手の母親は「御母堂」から「母」にかわります。」

「富嶽百景」で、「御母堂」は4回、すべて見合い相手の「母親」です。
「母」は2回。
上記以外の「母」は10 富士には月見草が良く似合ふでと突然出てくる実の「母親」です。
「私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、」


実際① この母堂の返答は見合の娘さんの家で聞いたのではなく、母堂の手紙から構成したものです。そのため、「この母に、孝行しようと思つた」のは天下茶屋の二階かもしれません

実際② 故郷からの助力は結婚後もあったようです

文治は病院を訪問、井伏も同行し大宰と面談、前記した「修治氏更生に関する約束書」(S11.11.11付)を交わした。翌12日、パビナール中毒は完治して退院した。
仕送りの月90円は、井伏宅に30円づつ3回に分けて送金され、それが太宰に渡された。3年間の約束だったが、実際には井伏経由の送金は数年間続き、その後は太宰への接送金となり、太宰が疎開を終わって帰京する時まで続いた。太宰治(人生と作品)より引用


*戦前を通じて収入のひとつの基準になっていたのは 「月収百円」

実際③ 「だつて、御坂峠にいらつしやるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思つて。」 をかしな娘さんだと思つた。
見合いの娘さんの純な気持ちを表した会話ですが、この会話は「富嶽百景」では削除された娘さんの妹との会話のようです。(森晴彦「『富嶽百景』の創作方法-私小説的装置を駆使した作品世界の構築-」

実際の出来事に色々な変更を重ねて話は明るい方向へ進みます。



(5)バットを七箱も八箱も吸ひ


「甲府へ行つて来て、二、三日、流石に私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまへに坐つて、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸ひ、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、といふ唱歌を、繰り返し繰り返し歌つてみたりしてゐるばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかつた。」

、一日八箱は多い。睡眠食事トイレの時間を除くと14時間、その間にバット80本。10分30秒に1本バットを吸っています,。バットとは、ゴールデンバットのことで1906(明治39)年の発売以来、戦時中も途切れることがなく販売が続き、2022年11月まで販売が継続され人気があった煙草で、2016年4月の価格改定前まで日本で最も安価な紙巻きたばこです。
安いとはいえ煙草代がかかります。1936(昭和11)年11月、1銭値上がりして8銭に(note.com)8箱だと一日64銭、一か月約20円、相当な金額です。
兄文治が送ってくれる仕送り90円の2割以上です。


それ以上に、健康に悪い。「昭和11年(1936年)10月の東京武蔵野病院入院時の検査で左肺全般に乾湿性の音がしたため、太宰は左側肺結核にり患していると診断された。1941年11月、徴兵検査を受けた際には胸部疾患の既往があるとの理由で不合格となっている。戦後、結核の病状は深刻化していた。太宰のもとを尋ねた編集者が大量喀血の場面に出くわしたこともあった
太宰治と自殺 - Wikipedia1935-43年の間1939年を除いて,結核の死因順位はずっと首位の座に在った.死亡率(対10万)は1918年の257.1をピークとして下降をはじ1932年には179.4まで低下するが,以後再度上昇に転じ1943年には235.3となっている (tokyo.lg.jp)

「富嶽百景」では、結核についての話は無く、また実際にも殆ど気にかけてないのか、文学青年とも酒も飲んでいます。太宰治の写真では、1946年酒場で煙草をふかしいる写真が有名です。ゆったりした雰囲気があり酒とタバコの効果を感じます。天下茶屋でも酒とたばこが有るときはこのような雰囲気を出していたのでしょう。酒とたばこを飲んで結核で死ぬならそれも良しということだとしたら、これから、婚約、結婚へ進む希望の道はどのようなものか。理解できない太宰治の生き方の一つです。

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昭和11年
(1936年)10月


太宰は
左側肺結核
にり患
太宰治 御坂峠で

酒  タバコ


1946年、太宰治 銀座のバー「ルパン」にて、酒とたばこ太宰治 - Wikipedia







吉田の遊女の登場と一日80本の喫煙で、御坂峠に来た太宰治の苦悩の全貌がほぼ明らかになりました。「富嶽百景」には書かれていない太宰の苦悩もまとめて記載します。

太宰治は昭和13年9月に、御坂峠の天下茶屋に逗留します。「しばらくここで仙遊しようと思っている」と書いていますが。実際の太宰治をは苦悩の渦の中にいて仙遊どころではありません

➀時代背景として、昭和7年に農村の疲弊から五・一五事件、昭和12年に二・二六事件、昭和12年に日中戦争がはじまり、昭和13年に国家総動員法が出され軍部の支配が強くなっていきます。この3年後に真珠湾攻撃があり太平洋戦争に突入します。この時代、農村の疲弊から娘の身売りが多くなり、「富嶽百景」の御坂峠に遊女が登場します。太宰治の、「いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。」ので「富士山に頼もう」となります。

②太宰治本人のこれまでの人生は、苦悩の極にいます。御坂峠に来るまで、4回の自殺、心中未遂をしています。昭和5年の田部シメ子殿心中未遂では、シメ子は死亡しています。昭和12年にはバキナール中毒で精神病院で入院中に、妻初音の不倫があり、その後初音と心中したが二人とも生き残り、離別します。実家の兄津島文治が第20回衆議院議員総選挙で選挙違反に問われて10年間の公民権停止となり、姉が死亡し、甥が自殺します。初代との不貞問題を起こした小舘善四郎も自殺未遂。

③文学上では、狂ったように望んだ芥川受賞に三回失敗し、失意の底にいます。その中での、唯一誇れる苦悩の存在、単一表現の美しさの追及をおこないます。しかし、戦局が拡大していくと、政府による思想・言論の統制が強化され、国の政策に沿ういわゆる国策文学が主流を占めるようになり、羽仁五郎『幕末に於ける政治的支配形態』等、発禁処分。文学昭和13年3月石川達三「生きている兵隊」掲載の中央公論発売禁止、その後昭和18年に谷崎潤一郎の『細雪』が連載中に発禁処分になります。
その状況で、昭和14年に「富嶽百景」19年に「津軽」を出版したことは特筆されることです。

④作品の中では一切書かれていませんが、太宰は昭和11年左肺が結核にり患しています。この時代結核の死因順位はずっと首位の座に在った.死亡率(対10万)は1918年の257.1をピークとして下降をはじ1932年には179.4まで低下するが,以後再度上昇に転じ1943年には235.3となっている 。その後も結核はすすんでいるようですが、煙草は一日80本、酒も飲んでいます。見合いをして新しい人生を歩んでいこうとする人とは思えない行為です。



富嶽百景 苦悩の渦



 戦争へ突き進む時代背景の中で書かれた「富嶽百景」
「富嶽百景」は、自己を取りまく社会を、構造としては見ず、感情的に作用しあう個人としてみる太宰治の態度が、戦争へ戦争へと雪崩れ行く時代との緊張関係のゆえに、かえって一つの象徴的表現に達し得た作品といってよい。

昭和十四年二・三月「文体」に分載されたこの作品は、角度によってさまざまに変貌する日本の象徴富士の姿と自己の心象風景をかさねあわせたものだが、支那事変後すでに二年、ようやく戦時色濃厚な時代において、感覚的対象としての富士は、倫理的にはもう一つ別の意味を持っていた。

太宰治は制度や情勢について居丈高にものをいう作家ではない。だから、彼は目に見える富士を書いた。だが、それはもう一つ別な日本の象徴に対する太宰治の畏敬・愛着・やりきれなさ・期待等々の複雑な感情の表白であり、それに対する態度決定というひそかな動機が秘められていたものに違いないのである。

「この富士はやはりどこか間違っている」甲州御坂峠から、視界の全面に覆いかぶさるように迫るように迫る富士の姿を見てもたらされる感慨。あるいは何を悲しんでか遊覧バスに乗っておりながら富士を見ようとはせず、路傍の月見草にひたすらに視線をおとす老婆に対する共感。さらにもっとも虐げられた遊女の群れが富士見物に来ているのを見て、どうする事も出来ぬ他者の不幸に、「富士にたのまう」と呟く心の動き、それらすべては青年期に左翼運動に敗れた太宰治が。天皇制なる今ひとつの日本の富士に、問いかけ、批判し、あるいは期待したせいいっぱいの述懐と読める。

富士と月見草。それは太宰治の悲哀であり、現実にはたしえなかった志の、文学的象徴である。これはあるいは深読みかもしれぬが、社会を直接的に感情交流のある人間交流の集合として表象した太宰治なればこそなしえた象徴的表現であると、あえて私は解したい。


「太宰治研究 Ⅰその文学」の高橋和巳「滅びの使徒-太宰治」p222 奥野健男編 筑摩書房昭和53年初版 より引用




このような、苦悩の渦の中にいる太宰治に、師である井伏鱒二は見合いと長編小説出版の手配を行い天下茶屋に逗留させた。それから「富嶽百景」がはじまり、太宰治の人生の再生は順調に進んでここまできました。




(6)私は、娘さんを、美しいと思つた

甲府から天下茶屋に原稿を書かない太宰に対して、帰った後、「お客さん甲府へ行ったらわるくなったわね」といったね」と、真剣に起こっている。

「私は、ありがたい事だと思つた。大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。」



(7)娘さんはうつむき、泣きべそかいてゐるのだ。

十月末になり、山は冬木立に化した。おかみさんは男の子を連れて吉田へ買い物に行き、一日中、娘さんと二人きりになった。

「私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまはり、茶店の背戸で、お洗濯してゐる娘さんの傍へ近寄り、
「退屈だね。」
 と大声で言つて、ふと笑ひかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔を覗いてみて、はつと思つた。泣きべそかいてゐるのだ。あきらかに恐怖の情である。
 それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないやうにつとめた。」

天下茶屋の娘さんを、みずみずしい感性を持った少女としてみていた太宰治が、娘さんに女性を感じた瞬間です。娘さんは、太宰治を異性としてみています。周りから心中未遂をして相手の女性を死なせてしまったことなど、いろいろ聞いていると思います。その異性と二人きりになり、声をかけてきたら緊張することに太宰治が気が付いた時を描いています。

実際④ 太宰治「九月十月十一月」では、「異性」の意識がない娘さんと言っています。上記の娘さんは「富嶽百景」ように脚色された娘さんです。

「私は、有りがたく思つた。この娘さんの感情には、みぢんも「異性」の意識がない。大げさな言ひかたをすれば、人間の生き拔く努力への聲援である」
太宰治 九月十月十一月 -青空文庫より引用



(8)花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸をした

「店のまへの崖のふちに立ち、ゆつくり富士を眺めた。脚をX形に組んで立つてゐて、大胆なポオズであつた。余裕のあるひとだな、となほも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞してゐたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸あくびをした
「あら!」
 と背後で、小さい叫びを挙げた。娘さんも、素早くその欠伸を見つけたらしいのである。
・・・「欠伸したのよ。」娘さんも、力こめて賛意を表した。「あんな大きい口あけて欠伸して、図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらつちや、いけない。」

裾模様の長い着物を着て、金襴の帯を背負ひ、角隠しつけて、堂々正式の礼装の花嫁さんと富士山が並ぶ。その完成された構図を壊すように花嫁は大きな欠伸をした。太宰は完成された美しさは好まないため、花嫁に欠伸をさせる。
天下茶屋の娘は少女の明るさを取り戻す。御坂峠での太宰治の生活は、天下茶屋の娘さんにより明るく進んでいきます。