![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)甲州の山と御坂峠 「甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。」 小島烏水の「日本山水論」では、甲斐の山に対してとても好意的に書いています。 「・・かくて自然は山に白水晶を生じ、・・・・甲斐に至りては火山以外に、優れたもの集め、山の拗ね者(風変り者)が多くて、俗を離れて悠々と遊んでいるようです。交通の便が悪いが、山を愛する者は、甲斐に来て遊んでほしい」
この文から「山の拗ね者」をとりだし、「山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさ」と「甲州の山々は、あるひは山の、げてもの」を加えると、甲州の山のイメージが悪くなり、ゲテモノの山々が、虚し気にうろうろしている雰囲気になります。「へん虚しいなだらかさ」とはどのようななだらかさなのでしょう。 小島烏水の日本山水論が甲斐の山に対して好意的なのに、太宰治は甲斐の山に対して反感を持っているように書いているのは、水晶のためと推察します。 日本山水論で「かくて自然は白水晶を生じ」とあり、明治のころより甲斐の特産品として有名です。 しかし、太宰治は「九月十月十一月」に「水晶の飾り物を、むかしから好かない。」と書いてます。理由は書いていません。
(2)御坂峠天下茶屋 「太宰治は御坂峠から甲州の山を仙游しようと思っている。」と書いていますが、実際は風流人を気取って仙遊するようなのんきな旅ではないようです。ここでは太宰治、井伏鱒二と実在の人物が登場しますが、実際にいた井伏夫人の登場せず、すべて実際に有ったことを描いている「私小説」ではないようです。
御坂峠のトンネルの富士河口湖町側は「天下第一」の表示板があり、その横に天下茶屋が有ります。 富士山が見える、その2階の部屋で長編に取り組み完成させることと見合いが最大の目的であったようです。
(3)御坂峠天下茶屋にいく前の太宰治 太宰治の御坂峠の逗留は、風流人の仙遊どころではありません。文学的には1932年に左翼活動家から完全離脱、その後芥川賞を三回とも受賞出来ず、文学的苦悩に溢れています。人生的には御坂峠に逗留する前に、4回自殺未遂、心中未遂を行っています。1930年に田部シメ子と心中未遂してシメ子は死亡。その後パビナール中毒治療のため精神病院に入院、この時の検査で左側肺結核にり患していると診断される。その間に妻初代の不倫があり、それによる心中未遂があり初代と離婚しています。また、兄津島文治が選挙違反に問われて10年間の公民権停止となり、同時期に太宰の姉が病死し、甥が自殺した。 普通に考えると、身も心も破壊されたような状態で天下茶屋に逗留したことになります。太宰治の文学的才能を見込んでか、新しい生活の出発として見合いの進展、長編小説の執筆を図った井伏鱒二は素晴らしい師匠です。 御坂峠に行く前の太宰治の経歴、小説発表など
|