太宰治「富嶽百景」を読む




昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。  甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しいなだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。

御坂峠、海抜千三百メエトル。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。





(1)甲州の山と御坂峠

「甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。」


小島烏水の「日本山水論」では、甲斐の山に対してとても好意的に書いています。

「・・かくて自然は山に白水晶を生じ、・・・・甲斐に至りては火山以外に、優れたもの集め、山の拗ね者(風変り者)が多くて、俗を離れて悠々と遊んでいるようです。交通の便が悪いが、山を愛する者は、甲斐に来て遊んでほしい」


小島烏水日本山水論


尤物( ゆう‐ぶつ) :同類の中で、特にすぐれたもの。

萃 ー ▲萃まる: 人や物などが一つにまとまる。 寄りつどう。

拗ね者:ひねくれた者。風変わり者


仙游: 仙境に遊ぶこと。俗を離れて悠々と遊ぶこと。

げてもの:ゲテモノと一般にいう場合、一般的な価値観から外れた事物や属性を指す傾向がみられるが、更にそれら俗語的な用法の範疇では、一般には食用に供しにくかったり見た目で食品とみなし難い食べ物や、それを食べることをゲテモノなどという場合もある。


国書データベース 小島烏水「日本山水論」145pより引用


この文から「山の拗ね者」をとりだし、「山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさ」と「甲州の山々は、あるひは山の、げてもの」を加えると、甲州の山のイメージが悪くなり、ゲテモノの山々が、虚し気にうろうろしている雰囲気になります。「へん虚しいなだらかさ」とはどのようななだらかさなのでしょう。

小島烏水の日本山水論が甲斐の山に対して好意的なのに、太宰治は甲斐の山に対して反感を持っているように書いているのは、水晶のためと推察します。

日本山水論で「かくて自然は白水晶を生じ」とあり、明治のころより甲斐の特産品として有名です。
しかし、太宰治は「九月十月十一月」に「水晶の飾り物を、むかしから好かない。」と書いてます。理由は書いていません。


井伏氏は、甲府のまちを歩いて、どんなことを見つけたであらうか。いつか、ゆつくりお聞きしよう。井伏氏のことだから、きつと私などの氣のつかぬ、こまかいこまかいことを發見して居られるにちがひない。私の見つけるものは、お恥かしいほど大ざつぱである。甲府は、四邊山。日影が濃い。いやなのは水晶屋。私は、水晶の飾り物を、むかしから好かない。


太宰治「九月十月十一月」 「國民新聞 第16898号~第16900号」1938(昭和13)年10月9日~11日発行-青空文庫-より引用



(2)御坂峠天下茶屋

「太宰治は御坂峠から甲州の山を仙游しようと思っている。」と書いていますが、実際は風流人を気取って仙遊するようなのんきな旅ではないようです。ここでは太宰治、井伏鱒二と実在の人物が登場しますが、実際にいた井伏夫人の登場せず、すべて実際に有ったことを描いている「私小説」ではないようです。


「彼は『姨捨』の原稿料で質屋の蔵に入っていた、夏の和服一揃を出して着かざり、その鞄一つを提げて御坂峠の天下茶屋に登ってきたのである。
I先生が太宰を励まして新しい出発を決意させてくださったのであることはいうまでもない。下宿での毎日がよくない。東京を離れて山中に籠って、長篇にとりくんでみるようにと、この茶店を紹介してくださり、書き上げたら竹村書房から上梓してもらう内諾も、とってくださっていた」

「回想の太宰治」の「御坂峠」津島美知子著 講談社文庫(人文書院初版1978(昭和5年刊)から引用



御坂峠のトンネルの富士河口湖町側は「天下第一」の表示板があり、その横に天下茶屋が有ります

富士山が見える、その2階の部屋で長編に取り組み完成させることと見合いが最大の目的であったようです。



 現在の天下茶屋 御坂峠の木柱  天下第一と御坂隧道


 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739にある天下茶屋(2015.5.17撮影)。天下茶屋・御坂峠の柱 左横に太宰治がいた二階の部屋。
 天下茶屋2階に、富士山と河口湖を一望できる6畳間に、太宰治が逗留していた部屋を復元しています 。
 トンネルの表示板。富士河口湖町側は「天下第一」笛吹市御坂町側は「御坂隧道」






(3)御坂峠天下茶屋にいく前の太宰治

太宰治の御坂峠の逗留は、風流人の仙遊どころではありません。文学的には1932年に左翼活動家から完全離脱、その後芥川賞を三回とも受賞出来ず、文学的苦悩に溢れています。人生的には御坂峠に逗留する前に、4回自殺未遂、心中未遂を行っています。1930年に田部シメ子と心中未遂してシメ子は死亡。その後パビナール中毒治療のため精神病院に入院、この時の検査で左側肺結核にり患していると診断される。その間に妻初代の不倫があり、それによる心中未遂があり初代と離婚しています。また、兄津島文治が選挙違反に問われて10年間の公民権停止となり、同時期に太宰の姉が病死し、甥が自殺した。

普通に考えると、身も心も破壊されたような状態で天下茶屋に逗留したことになります。太宰治の文学的才能を見込んでか、新しい生活の出発として見合いの進展、長編小説の執筆を図った井伏鱒二は素晴らしい師匠です。



御坂峠に行く前の太宰治の経歴、小説発表など



 西暦  和暦 満年齢  経歴、小説発表など
1909年  明治42年
 6月19日 
・青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
・六男。本名津島修治
津島家は県下有数の大地主。。
1927年 昭和2年 4月
      9月
 18歳 ・弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)文科甲類に入学。
・青森の芸妓・小山初代(15歳)と知り合う
1929年 昭和4年 12月  20歳 ・自己の出身階級に悩みカルモチンで自殺を図る。
1930年  昭和5年4月
      5月

       11月
 21歳 ・東京帝国大学仏学科入学
・井伏鱒二のもとに出入りするようになる。
・カフェの女給・田部シメ子(19歳)と鎌倉の小動岬で心中未遂。相手・シメ子のみ死亡
1931年  昭和6年2月  22歳 ・小山初代と東京五反田で同棲
1932年 昭和7年7月  23歳 ・昭和5年から行っていた非合法運動から離れる。
1933年 昭和8年2月
     4月
 24歳 ・サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。
・同人雑誌「海豹」に「魚服記」を発表。
1934年 昭和9年12月  25歳 ・檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊し「ロマネスク」を発表するも、創刊号のみで廃刊。
1935年  昭和10年3月
      8月
       9月
 26歳 ・都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。
・第1回芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まる。太宰の「逆行」は次席となった。
・佐藤春夫に師事する。東大を除籍。
1936年 昭和11年1月
      6月
      7月
      8月
     10月
 27歳 ・第二回芥川賞受賞を懇願する手紙を佐藤春夫に送る。しかし受賞できず。
・最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。
・「文学界」に「虚構の春」発表。

・第三回芥川賞には候補にも入らず。
・パビナール中毒治療のため精神病院の武蔵野病院に入院。1カ月後根治退院

 この時の検査で左側肺結核にり患していると診断される。
1937年 昭和12年3月

      4月

      6月
 28歳 ・小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを知る。
・初代と心中未遂(偽装心中説もあり)、離別。

・兄津島文治が第20回衆議院議員総選挙で選挙違反に問われて10年間の公民権停。
・太宰の姉が病死し、甥が自殺。初代との不貞問題を起こした小舘善四郎も自殺未遂

・新潮社から「虚構の彷徨」刊行。
1937年  昭和13年9月  29歳 ・「姥捨」を「新潮」に、「満願」を「文筆」に発表。
1937年  昭和13年9月
     10月
     11月
 29歳 ・山梨県御坂峠天下茶屋に逗留。「富嶽百景」の舞台。
・長編「火の鳥」執筆に専念。しかし、この小説は未完に終わる。
・石原美知子と見合い、婚約。
1938年  昭和14年1月
    2月3月

    9月1日
 30歳 ・石原美知子と結婚、山梨県甲府市御崎町の新居に移る。
・「富嶽百景」文体で発表。
・東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居
 -1945年  昭和20年8月  36歳 「女生徒」「走れメロス」「東京八景」「新ハムレット」「右大臣実朝」「津軽「お伽草紙」
 1948年  昭和23年6月  39歳 「 パンダらの匣」「冬の花火」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「如是我聞」「人間失格」「桜桃」「グッド・バイ」
1948年  昭和23年6月  39歳  愛人の山崎富栄と玉川上水の急流にて入水心中
  
太宰治 - Wikipedia、 角川文庫「富嶽百景」などから引用