太宰治「富嶽百景」を読む









12 タイピストと富士・富士は酸漿に似てゐた






 十一月にはひると、もはや御坂の寒気、堪へがたくなつた。茶店では、ストオヴを備へた。
「お客さん、二階はお寒いでせう。お仕事のときは、ストオヴの傍でなさつたら。」と、おかみさんは言ふのであるが、私は、人の見てゐるまへでは、仕事のできないたちなので、それは断つた。おかみさんは心配して、峠の麓の吉田へ行き、炬燵をひとつ買つて来た。私は二階の部屋でそれにもぐつて、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言ひたく思つて、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶつた富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条たる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱してゐることも無意味に思はれ、山を下ることに決意した。

山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶を啜つてゐたら、冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきやつきやつ笑ひながら歩いて来て、ふと眼前に真白い富士を見つけ、打たれたやうに立ち止り、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑ひながら、私のはうへやつて来た。

「相すみません。シャッタア切つて下さいな。」
 私は、へどもどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚もかさねて着てゐて、茶店の人たちさへ、山賊みたいだ、といつて笑つてゐるやうな、そんなむさくるしい姿でもあり、多分は東京の、そんな華やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、内心ひどく狼狽したのである。けれども、また思ひ直し、こんな姿はしてゐても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、きやしやな俤もあり、写真のシャッタアくらゐ器用に手さばき出来るほどの男に見えるのかも知れない、などと少し浮き浮きした気持も手伝ひ、私は平静を装ひ、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なささうな口調で、シャッタアの切りかたを鳥渡たづねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。

まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟の花ふたつ。ふたり揃ひの赤い外套を着てゐるのである。ふたりは、ひしと抱き合ふやうに寄り添ひ、屹とまじめな顔になつた。私は、をかしくてならない。カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。

「はい、うつりました。」
「ありがたう。」
 ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。



その翌る日に、山を下りた。まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿に似てゐた。

(昭和十四年二月―三月)



(1)十一月 これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱してゐることも無意味に思はれ、山を下ることに決意した。


「私は二階の部屋でそれにもぐつて、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言ひたく思つて、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶつた富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条たる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱してゐることも無意味に思はれ、山を下ることに決意した。」



(2)私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。


山を下ることにしたその前日に冬の赤い外套着た、若い知的の娘さんからカメラのシャッタアを切ることを頼まれた

その時に太宰治の行なったことが理解できない。

まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟の花ふたつ。ふたり揃ひの赤い外套を着てゐるのである。ふたりは、ひしと抱き合ふやうに寄り添ひ、屹とまじめな顔になつた。私は、をかしくてならない。」

何故、屹とまじめな顔になつた娘たち見て太宰治は「をかしくてならない」のか。

「カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」





まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟の花ふたつ 
ふたりは、ひしと抱き合ふやうに寄り添ひ、屹とまじめな顔になつた。
私は、をかしくてならない。
カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。
 
どうにも狙ひがつけにくくふたりの姿をレンズから追放して、
ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして
、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。 



何故、二人の娘をレンズから追放して富士山だけ写す非道の行為をしたのか。

何故、このような信じられないことをした後に、「富士山、さやうなら、お世話になりました」と言えるのか。


「ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。

何故、ひどい行いをした後に淡々と「二人が驚くだろう」と書けるのか。どのような気持ちで、二人の驚く姿を想像しているのか。


自分では答えられない、WEB及び評論などの説明を調べた。


WEBでは、高校の授業に「富嶽百景」が有るので「知恵袋」に質問と回答が多くありました。文学に関するブログにも多くありました。文芸表論が思ったより少ない。製本されたものは太宰治論や文芸誌の特集の中の一部で現在簡単に入手できるものは少ない。閲覧できる範囲での調査です

■いたずら、悪戯


➀ただのいたずらだと思いますが。

②これは太宰のいたずら心でしょうね。意気消沈して御坂峠へ来たが、いろいろあって何とか立ち直っていよいよここを去る。そんな時、若い娘たちに写真を頼まれたが、ついつい富士山に対する感謝の思いから富士山を主役にした写真を撮った。

③俗っぽいことが苦手な「私」らしい悪戯です。



■お茶目、何とも粋だ、面白い


➀太宰治本人はカメラ撮りを頼まれた娘さんを画面から外すことを、明るく生きていこうとするためのちょっとお茶目な行為と考えている。

②ここで太宰は、彼女たちの「屹つとまじめな顔」が「をかしくてならな」くなったため、「ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして」「パチリ」としたのである。そして、「はい、うつりました」とカメラを返すのである。心が荒みきっているのであれば、こんな茶目っ気のある対応はできないだろう。

③だが、富士の様々な顔を見ている内に愛憎が溶けてゆく。最後富士山をバック…じゃなくメインにカメラのシャッターを切るシーンが何とも粋だ!

④最後には「富士山との写真をとってほしい」と頼まれた主人公が、写真に富士山だけ収めるほどになっている点が面白いと思います。

⑤最後は、自分が山賊のようななりをしているのに、「シャッターを切ってください」と若い女性二人にお願いされ、自分でもシャッターを切れる人にくらいは見てもらえることが嬉しくなって、女性を入れないで富士山だけを写してしまうユーモアたっぷりの落ちがついています。



■富士山に感謝


➀写真撮影を依頼されたが、俗な二人は排除して富士だけを撮った。常に傍らにあって人生と芸術の再生の手がかり与えてくれた富士に感謝する思いがあったからだ。

②主人公は富士への敬意と感謝の気持ちで2人の女性をレンズから追放して、富士だけを撮った

③レンズをのぞいて笑ったのは、そのすべてを受け入れる富士に対してへの笑いかも知れません。
十国峠で雲の切れ間から富士の頂上を見たときも「私」は笑いました。それは、富士に対する信頼からの笑いであったはずです。「私」は改めて、富士に頼もしさを感じています。ふたりを外して撮った写真に、自分の感じた「富士山」のありのままを残したのです。そして、ここでは「富士」ではなく「富士山」としています。「山」を「さん」として親しみを込め、また感謝とともに撮影したのですね。


■美の発見

➀「罌粟の花」とは、いわば「広重の富士」「文晁の富士」などに近い、俗っぽく、華やかな美の象徴として描かれています。ここで「罌粟の花」を画角から外し、「ただ富士山だけ」を切り取ったということは、つまり、太宰が富士の美を認めたことを示しています

②真剣な表情。」このシーンに筆者は「非常に滑稽だ」と感じ、結局カメラを構えることができず、二人をカメラから遠ざけ、富士山の姿だけを捉えた。この行動は奇妙に思えるかもしれないが、実は作者が心の中で「単一の表現」の本当の意味を見つけたことを反映している。



■完璧の崩壊


➀冠雪した富士山と罌粟の花のような二人の娘の構図は、完璧すぎて俗である、その為完璧さを崩すため罌粟の花を画面から外す。

②大きな富士山をバックに、おそろいの赤いコートを着た娘2人がキメ顔で寄り添い、端には小さいけしの実が2つ配置されている――。「私」がカメラをのぞいて見たのは、そんな完璧な画でした。

その準備された美におかしさをこらえきれなくなった「私」は、あえて人物を画面から外すといういたずらを仕掛けたのです。これも、完璧を打ち砕く行為と言えます。
この肩の力が抜ける感じ、予想できない笑いが、太宰作品の魅力だと思います。



■罌粟の花は、麻薬の花


➀罌粟の花は、麻薬の花でもあるため、これからは麻薬と縁を切る決意を示すために画面から外す。



■酷いよ太宰!富嶽百景


「富士をバックにした写真を撮ってくれ」と頼まれて撮るが富士だけを撮ってしまうとか冗談通り越して酷いよ太宰!富嶽百景

太宰の「富嶽百景」を読む | なまけもの哲学


■富士山へ感謝

彼女たちが澄ました顔をするにつれて、写真に収めようという気が失せます。そして彼女たちを外して、富士山だけを写します。「富士山、さやうなら、お世話になりました」と感謝の気持ちを添えて。御坂峠に来る前、あれほど酷評していた富士山にです。見事に全快していますね。記念撮影が現像されて、自分たちの姿が映っていない女の子たちは可哀相ですが。でもほんと、彼女たちが出来上がった写真を見たらどう思うのでしょうね?
富嶽百景40 | 研伸館 中村公昭のブログ 「国語を勉強しよう!」より引用




■軽妙にしてかつ殊勝、おどけつつも真面目で、何より生き生きと動いています。

最後に登場する、「若い知的の娘さん」〈おどけた言い方です〉たちに頼まれたカメラを「わななきわななき」のぞきながら、ただ富士山だけをレンズ一杯に撮って、「富士山、さようなら、お世話になりました」と呼びかける「私の」すがたもまた、軽妙にしてかつ殊勝、おどけつつも真面目で、何より生き生きと動いています。


「太宰治」細谷博著 岩波新書 p64 1998年刊



■富士という聖域から侵入者を排除

戸惑いながらレンズをのぞくと、大きな富士山が入ります。そこで「私」は悪戯をやってしまいました。
娘さんたちを外して、富士山だけをレンズに収め、「富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。」
あとでフィルムを現像したとき、きっと娘さんたちは驚くでしょう。俗っぽいことが苦手な「私」らしい悪戯です。 

この小説は「主人公と富士との対話の物語」なので、旅行者タイピスト二人は「侵入者」である。富士という聖域で再生する主人公としては当然の事だが侵入者は排除である。タイピスト二人が富士と写真を取りたいという依頼に、二人を外してお礼と辞去を告げる行為からそれは明白だ。
   
   森晴彦「『富嶽百景』の創作方法-私小説的装置を駆使した作品世界の構築-」 より引用




■このユーモアは、みずみずしさの選択と、それを裏切る虚しさの二つの感受性の上に成り立っている。


タイピストらしいふたりの若い知的な娘を、「けしの花ふたつ」とみずみずしくとらえるが、それは、つぎの瞬間、平気でレンズから追放し、娘たちを裏切ることができる虚しさに重なり、独特のユーモアをつくりだしている。このユーモアは、みずみずしさの選択と、それを裏切る虚しさの二つの感受性の上に成り立っている。

   太宰治研究の太宰治「富嶽百景」大河原忠蔵より引用



■〈私〉の手の動きによって作品に「ずれ」が出現

そして、ほとんど感動的ですらあるのは、ファインダーから二人を消し去ってしまう、まさにその動きである。その瞬間、話者である〈私〉の手の動きによって作品に「ずれ」が出現するのである。

差異の百景 : 太宰治「富嶽百景」論 - 武田 信明 - 島根大学著者一覧 - 島根大学学術情報リポジトリ より引用




■人物を「追放」することによって、例の構図を崩している


 あるいはまた、富士を眺めて休む花嫁を、「くすぐったい程、ロマンチック」だと言うのだが、ここにも、吉田の「興あるロマンス」の月夜富士と同じく、その言わば乾燥されそうになった富士と人物の構図を、ここでは花嫁の「欠伸」によって崩している。
 これもまた、「タイピストであろうか、若い知的の娘さん」カメラのシャッターを頼まれた時、人物を「追放」することによって、例の構図を崩している。即ち、「大きい」「真白い」富士と「小さい」赤い罌粟の花の構図を、である。

    「富嶽百景」論 --太宰治の〈距離のとり方〉--- 三谷憲正より引用




■ここは「富嶽百景」全体を通しての圧巻であり、太宰でなければ書けない流麗さである。

たしかに、この最後の場面は非常に優れた描写であり、太宰特有の表現を見出すことができる。つまり「笑いをこらへてレンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、二人の姿をレンズから追放して、ただ富士山だけをレンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ」という場面に関連したところである。

ここは「富嶽百景」全体を通しての圧巻であり、太宰でなければ書けない流麗さである。そして、罌粟の花をレンズからはずしたところがより一層生きている。流麗な語り口もあまり真面目では味気ない。それは虚構であり、それも事実と信じこませるような巧みな表現でなければならない。

〈リアルな私小説は書きたくなくなりました〉と宣言しているように事実をありまママに書くことの反省の上にたっている。虚構を施しながらも事実に似せて書くうまさが、太宰の狙ったフィイクションの方法ではなかったか。一見、エッセイっ風にみえ、事実の記録に見える「富嶽百景」こそ実は太宰の虚構の宝庫であり、太宰の才が発揮された名作に違いないのである。

矢島道弘「太宰治-法衣の俗人」p106 明治書院 平成6年刊




などなど、いろんなことがWEBなど書かれていますが、ひとつを除き、どの解釈も私は納得できない。


「富嶽百景」のここまでのあらすじは、4回の自殺未遂、芥川賞の落選などで、日常生活に行き詰まり、苦悩の渦の中に生きて、心に苦しみを抱えた「私」が、師である井伏鱒二の誘いにより御坂峠に逗留し、天下茶屋の娘さんたちの親身な対応、甲府の娘さんとの見合い、婚約、地元の文学青年たちなどとの温かい交流を通して、ささやかな生きる希望を見出し再生していこうと思い、その間に俗でおあつらいむきと嫌っていた富士も、好ましい富士に変わっていくというものです。

その時に、冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんが、どてらを二枚かさねて着て山賊みたいと言われたむさくるしい姿の太宰治にカメラのシャッタア切つて下さいとたのんだことは、一般の人から見てもそれほど警戒すべき人のようには見られておらず、とても良い雰囲気になっている。頼まれたままに、娘二人と富士山の写真を撮り、富士山、さやうなら、お世話になりましたと言って、御坂峠を下りれば、その後の生活は明るく過ぎていくと考える。

しかし、せっかく御坂峠での滞留生活で取りもどした、世間の人との平穏な付き合いを平然と壊す行為、二人の娘を画面から外し富士山だけの写真を撮るという非道の行為を行う。

上欄のその説明が有る。

■いたずら、悪戯、■お茶目、何とも粋だ、面白い■軽妙にしてかつ殊勝

太宰治を信用して撮影を端んだ娘二人に対するいたずら、それがお茶目で、粋で面白いと言えるか。


■富士山に感謝■美の発見

富士山により太宰治は再生の希望出てきた、また富士山が単一表現の美である事にきずいたその感謝のため富士山だけを写した。娘二人はどうなる。


■罌粟の花は、麻薬の花

麻薬と縁を切る手段に富士山を使ってはいけない。そのような安易な気持ちでは麻薬との縁は切れない。


■完璧の崩壊、■作品に「ずれ」が出現、■例の構図を崩している

富士山に罌粟の花のような娘二人が入ると完璧となるのでそれを崩壊する。自分のカメラで行ってほしい、太宰治に頼んだのカメラで行ってはいけない。


富士という聖域から侵入者を排除

富士山はそんな度量の小さくないです。すべての人を受け入れます。


■このユーモアは、みずみずしさの選択と、それを裏切る虚しさの二つの感受性の上に成り立っている。

みずみずしさの選択と、それを裏切る虚しさの感受性の上に成り立つ「ユーモア」がなんであるかわからない。


■ここは「富嶽百景」全体を通しての圧巻であり、太宰でなければ書けない流麗さである。

この非道の行為が「富嶽百景」全体を通して何故圧巻になるのかがわからない。



酷いよ太宰!富嶽百景

この一文だけに私は同感します。太宰治と「富嶽百景」も否定してます。説明はありません。説明がいらないほど非道の行いです。

こんな非道な行為をしたら富士山も怒ります。富士山は自分に対する軽蔑の言葉には全く動じませんが、富士山を愛する人々へ対する非道な行いには怒ります。


この自分を裏切り、他人を裏切る行為により、今まで積み上げてきた太宰治の再生が崩壊したように感じます。このような、どてらを二枚重ねてきて怪しげな雰囲気を持つ太宰治に写真撮影を頼む明るい娘さんのお願いを何の躊躇もなく裏切る行為を行う太宰治が甲府の街で再生の人生を行うことはできないと思ってしまいます。

ここまで太宰治の立ち直りとして読んでいましたが、赤い罌粟の花の文節により「富嶽百景」における太宰治の本質がわからなくなりました。そのため「富嶽百景」は、私には共感できない作品となります。

ここで述べているのは実際の太宰治ではありません。小説「富嶽百景」の中の太宰治です。



(3)酸漿に似てゐた

酸漿というと赤い実の酸漿がうかびます。甲府からの富士山は、この季節冠雪のため、真っ白になっています。冠雪に夜明けの朝日が当たりほんの数分赤みが出てきます。この紅富士が見れるのはかなり幸運と言えます。「富嶽百景」では、朝起きたら、ごく自然に赤い富士山が見えたように書いてあるところに違和感があります。白い富士が赤くなる変化がほしかった。

甲府からの富士山は三峰構造をとり見方によっては酸漿のように見えたかもしれない。
しかし、赤い罌粟の花を花を除去した太宰が、甲府からの富士山を酸漿のように見えたか、南瓜のよう見えてたk、どちらでもいいようにに思ってしまいます。





山梨盆地からの 富士山 |写真素材なら「写真AC」無料(フリー)より引用着色





しかし、御坂山地の富士山に変えて酸漿の実を載せますと

酸漿は富士山よりお日様のように見えます。

「甲府の宿から見る日の出は酸漿に似てゐた」




酸漿の袋ではないと思います。












だそくのほそく



娘さん4人


「富嶽百景」には娘さんが4人登場します。登場する順番に示します。1.見合いの娘さん、2.天下茶屋の娘さん 3.最後に出てくるタイピスト風の娘さん二人です。

何れも富嶽百景で重要な役割になっています。

私小説風に書いているのに、何故、天下茶屋の娘さんや、見合いをした娘さんの名前を書かないのでしょうか。名前を書いているのは、文学関係者の男性の名前だけです。女性の名前は書かないと決めて話を進めたのでしょうか。名前を書かないことで小説の印象が良くなるとは思えません。太宰治の意図が有るようですが、わかりません

また、見合い相手として最も知りたい年齢が書いていません。太宰治の意図がわかりません。




番号  娘さん  登場場面 「娘さん」
記載
年齢     モデルの年齢  関連する花
 見合いの娘さん 8 見合い 11 遊女と富士 14 無記載    津島(旧姓石原)美知子27歳 まつしろい睡蓮
天下茶屋の娘さん  9 天下茶屋 10 月見草 11 遊女と富士 23 15歳    古谷(旧姓中村)たかの17歳  無記載
3  タイピストの娘さん 12 タイピストと富士  3 無記載  (推定20-22歳) 赤い罌粟の花ふたつ



天下茶屋の娘さんや、見合いをした娘さんの名前を書かない理由を書いた論文、書物が有りました。私はよく理解できませんでしたが参考に表示します。





また、もう一方に、〈娘たち〉がいます。一人はもちろん見合い相手の「娘さん」、そうしてもう一人は茶店の十五の「娘さん」です。茶店の娘も、なかなか重要な人物で、その素朴なはげましは、「私」にとって、「人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援」とうつるのです。

下界の見合い相手のしっかりした娘と、峠の上の幼い喜怒をあらわす娘が、無造作に並べられて、どちらもただそっけなく「娘さん」と呼ばれていることにも、何かほっとさせるような素朴さの味わいがあります。あるいは、読み方によれば、一瞬両者を混同させ、色気を加味するウィットとも感じられるでしょう。

「太宰治」細谷博著 岩波新書 p641998年刊より引用


(1)見合いの娘さん

、この「富嶽百景」のあらすじ。、東京での日常生活に行き詰まり、心に苦しみを抱えた「私」が、師である井伏鱒二の誘いにより御坂峠の天下茶屋に逗留し、この峠での三カ月にわたる生活で、、天下茶屋の娘さんたちの親身な対応、甲府の娘さんとの見合い、婚約、地元の文学青年たちなどとの温かい交流を通して、ささやかな生きる希望を見い出し再生のため峠を下りる。

ここで生きる希望を見い出す最も重要な事柄は、娘さんとの見合いが順調に進み婚約まで進むことです。太宰治は、娘さんを真っ白い睡蓮に例えて即結婚を決めます。娘さんも御母堂も全くの良い人で、太宰の過去、実家との絶縁なども気にしません。読者が不思議がるほどの温かい対応で、見合い、婚約が順調に進みます。これにより、太宰治の再生はほぼ約束されます。

「娘さん」の記載は14回ですが、見合いにの席での発言はありません。二回目の訪問時の会話も「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」という意味のない会話だけです。見合いの娘さんは、年齢不詳、性格温厚で木花咲耶姫のような不可思議な娘さんで、「富嶽百景」で太宰治の再生のために存在します。


実際には、「見合いの娘さん」は山梨県立都留高等女学校(現・山梨県立都留高等学校の前身の一つ)の教諭である石原美知子さん27歳です。美知子さんはこの見合いの後、太宰治を訪ねて御坂峠に来ています。その時の訪問については回想の太宰治」の「御坂峠」 津島美知子著 講談社文庫 1981年刊に書かれていますが、見合いの件、太宰治についてはくわしくは記述していません。
結婚を決めた文章は次の一文だけです「著作を二作ほど読んだだけで会わぬ先からただ彼の天分に幻惑されていたのである。」現在日本を代表する文学者とも言われる太宰治の天分を最も早く見出したのは「見合いの娘さん 石原美知子」かもしれません。

また、太宰治は結婚するにあたり井伏鱒二宛に誓約書を書いてます。
「再び私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全な狂人として、棄ててください。」(部分
「太宰治」細谷博著 岩波新書 p641998年刊より引用



(2)天下茶屋の15歳の娘さん

記載数は24回で、太宰治の天下茶屋での生活に最も登場します。
少女の純真な気持ちで、太宰治の生活を見つめて、富士山の初雪に共に感動し、疲れた肩を叩いたり、太宰がぼんやり煙草を吸ってばかりしていると、「お客さん悪くなったね」と注意して真剣に、叱ります。太宰治はこれをありがたいと思います。この娘さんとのやり取りが、太宰治の精神的な再生の最も大きな力となります。

しかし、付き合いに慣れて親しくなった頃、茶屋で二人きりになったとき娘さんの傍らにより、「退屈だね」と胡rをかけた時、恐怖の情に震え、泣きべそをかいている娘さんがいた。純真な娘さんの中に異性を意識する女性がいるのに太宰は気が付きました。

だが、すぐその後に天下茶屋にきた花嫁さんの大きな欠伸を見つけて、ふたりででおおらかに語ります。
茶屋の娘さんには関連する花はありません。このように場面場面で態度、感情が変わるため、一つの花では象徴することができなかったと思います。

天下茶屋の15歳の娘さんのモデルは、天下茶屋のおかみの娘ではなく妹の古屋(旧姓中村)たかのさんで、当時17歳です。
太宰治は、15歳ころの複雑な感情を持つ少女が好きなようで天下茶屋の娘さんを15歳にして太宰の再生の相手にしたようです。


太宰治の作品に登場する13-16歳の少女

❶この小説の中でも、僧安珍を追ひかけて、日高川を泳いだ14歳の清姫の話が出てきます。最後には鐘に隠れた案珍を大蛇に変身した案珍を焼き殺します。太宰治が15歳の娘と対応する伏線として入れたと思います。

❷昭和8年に「雑誌「海豹」には掲載され、太宰治24歳の処女作と言われている「漁服記」の主人公スワも13-15歳です。北津軽の山奥に住む炭焼きの父と滝横の売店のスワの物語です。スワは近親相姦により、滝壺に身を投げて小さな鮒になり、滝壺に吸い込まれていきました。
津軽の婚姻風習で考えれぱ、娘は「十三歳」で「女」になり、性的成熟期に達する。さらに「十五歳」になると「一人前」と見なされ、結婚適齢期といえる。
「漁服記」は「晩年」に収録。WEBでは魚服記 -あおぞら文庫

❸「文学界」昭和14年4月号に掲載された「女生徒」は、女性読者有明淑(当時19歳)から太宰のもとに送付された日記を題材に、14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っている。父親が2.3年前に他界し、母と14歳の娘の日記形式で書かれた一日の記録です。事件は何も起こりません。その日の少女の行動と感情を記述したものです。少女の感情の揺らぎを読み取る小説です。
よくぞ、14歳の気持ちの動きをここまでよどみなく書けるものと太宰治の才能に感心しました。。
75歳の私が気に留めたところは「ブリッジの階段をコトコト昇りながら、ナンジャラホイと思った。ばかばかしい。」と、戦前の娘が「ナンジャラホイ」と言うところだけです。また、生涯務めていた日立製作所のおおもとになる日立鉱山の創業者である久原房之介が出てきて、『「久原房之介」」の話、おかしい、おかしい』とあります。どこがおかしいのか調べたがわからなかった。

❹昭和20年5月に執筆した「お伽草紙の「カチカチ山」ではウサギを十六歳の處女に置き換えている。対するタヌキは、そのウサギに恋をしているがゆえに、どんな目にあってもウサギに従い続ける愚鈍大食な中年男として書かれている。
「この兎は十六歳の處女だ。いまだ何も、色氣は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も殘酷なのは、えてして、このたちの女性である。」
泥船で河口湖に沈められた狸は『「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな惡い事をしたのだ。惚れたが惡いか。」と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。』
「古來、世界中の文藝の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年來の、頗る不振の經歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。」


 

カチカチ山(天上山)に登る途中にあるナカバ平肩の富士山と太宰治の石碑「惚れたが悪いか」 2015.12.05 名セリフです。


(3)タイピストらしき娘さん

冬の赤い外套着た、若い知的の娘さんからカメラのシャッタアを切ることを頼まれた
「カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」

酷いよ太宰!富嶽百景と思います。富士山は自分に対する軽蔑の言葉には全く動じませんが、富士山を愛する人々へ対する非道な行いには怒ります。
ここまで太宰治の立ち直りとして読んでいましたが、赤い罌粟の花の文節により「富嶽百景」における太宰治の本質がわからなくなりました。そのため「富嶽百景」は、私には共感できない作品となります。

この頃のタイピストは、現在の女性IT技術者のようなものか。察するに東京から河口湖観光に来たと推察する。
「昔の新聞を見ていると、記事内容はもちろん、新聞広告も当時の社会風俗を表していて面白いんですよね。私が気になったのは、大正期末~昭和初期に「タイピスト募集」の広告が多いこと。タイピストとは、パソコンやワープロが普及するずっと以前に、印刷機のタイプライターでデータを打ち込むのを職業としていた人のこと。1931(昭和6)年の記事を見てみると、タイピストが女性にとって人気の職業だったことがよくわかります。なんといっても「女性のほこり」ですから!」
職業婦人のさきがけとは? - ことばマガジン:朝日新聞デジタル (asahi.com)


本筋には関係しないが、次の描写が気になった。

「山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶を啜すすつてゐたら、冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきやつきやつ笑ひながら歩いて来て、ふと眼前に真白い富士を見つけ、打たれたやうに立ち止り、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑ひながら、私のはうへやつて来た。」

若い娘さんはどうやって御坂峠に来たか。バスだとすると、天下茶屋の手前辺りにバス停があり、そこで降りるとトンネルに行く前に左手に富士山が見える。自家用車で来たとしても同じである。では、甲府側から歩いてきたか、これは大変な脚力が必要で、赤いコートではなく赤い登山服を着ていることになる。バス停、駐車場がトンネルの甲府側にあり、そこから歩いてトンネルを越えてきたか。バス停、駐車場は今と同じように富士山が見える天下茶屋近くにあったと思う。

そこで、上の記述では「若い娘さん」は鷲にさらわれストンとトンネル中央に落とされて、御坂峠側に歩いてきたことになる。そのため、太宰は警戒して、二人をレンズから外して富士山だけを写したのであります。


角川文庫「走れメロス」の伊馬春部さんによる「富嶽百景」の作品解説で、女子大生らしき女性が、母が太宰治さんから撮ってもらった写真ですと、「雪の富士を背景に、オーバーを着た二人のおとめが抱き合うようにして寄り添い、にこりとほおえんでいる写真」を示したとあります。太宰治の「富嶽百景」の最後の場面で、主人公が「若い知的の娘さん二人」から... - Yahoo!知恵袋
実際には、太宰治は娘さんの頼みにすなおに応じて、罌粟の花二つを富士山の中央ににおいてシャッターを切ったようです。これから、「富嶽百景」の太宰治とは異なり、御坂峠での実際の太宰治の再生は順調に進んだようです。これにより甲府での結婚生活、文筆活動もある時期まで順調に進みました。


ここで、なぜ「富嶽百景」で赤い罌粟の花二つを外して、富士山だけをとったのか。「酷いよ太宰!富嶽百景」という批判が出ることは太宰は十分知っていながらあえて富士山だけ撮ったと思います。


富嶽百景の中では、太宰治はまだ再生していないことを示したのか。御坂峠に来るまでに、4回の自殺、心中未遂をして相手の田部シメ子は死亡した。バキナール中毒で精神病院で入院中に、妻初音の不倫があり、その後初音と心中したが二人とも生き残り、離別した。このような男が、一年後、師の温かい設定、見合い相手の娘さん、茶屋屋の娘さん、文学青年たちの親身な対応あったといえ、三カ月で簡単に再生してはいけない。まだ十分に再生していない太宰治が峠を下るのです。


「そんなものではないです、もっと深く追求してください、それにより、「富嶽百景」の世界が深まります」と、太宰治が耳元で囁いています。
「富嶽百景」は小説の中の太宰治と実際の太宰治が絡み合って進む不可解な小説です。






だそくのほそく  だそくのほそく



自分は人間としは死に、作家としてのみ生きよう



太宰治が「富士百景」を書いた前後の生活と精神状態と文学活動を奥野健男が解説しています。

作家太宰治の精神の転換期について、説得力のある解説です。そこで、前に描いた自作と合併させてもらいました。

『「富嶽百景」は芸術的に寸分のすきもない整った見事な短編』には納得していませんが、「富嶽百景」はこの精神の転換期の記念すべき作品です。



自分は人間としは死に、作家としてのみ生きよう。


太宰はすべてに絶望し、初代と水上温泉で心中をはかるが、またも未遂に終わった。宰治は書く気力も失って最下級の下宿で荒廃、虚無の日を送る。

昭和十三年、太宰治は甲州天下茶屋にこもり、再出発を志す。この世にはこの世の限度というものがある。自分だけの主観的真実に純粋に生きることはむりなのだ。文学と実生活を一致させることは不可能なのだと、あきらめ、悟ったのである。

そして自分は人間としては死に、作家としてのみ生きよう。実生活ではなく、文学の中だけに表現者として真実に生きようと決意したのである。井伏鱒二の媒酌できちんとした見合結婚をなし、まともな一家のあるじ健全な小市民の暮らしを志す。


作風も今までの「晩年」「虚構の彷徨」「二十世紀旗手」などの八方破れの大胆な方法の実験的な前衛的小説から、「満願」「女生徒」「富嶽百景」など、芸術的に寸分のすきもない整った見事な短編に転ずる。今までの自己破壊をめざす息苦しいまでの過度の倫理的姿勢から開放されたためか、太宰治の文学的才能はのびのびと自由に開花する。

戦争に向かう悪気流の中で「走れメロス」「駆込み訴え」「女の血統」「風の便り」「清貧譚」など知性と感覚と思想とが結合した日本文学には珍しい格調高い好短編を、次々に発表する。


                奥野健男 「走れメロス」新潮文庫の解説 昭和42年発行。「富嶽百景」も含む短編集。





富嶽百景 出発






太宰治「富嶽百景」を読む 完






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