太宰治「富嶽百景」を読む


その翌々日であつたらうか、井伏氏は、御坂峠を引きあげることになつて、私も甲府までおともした。甲府で私は、或る娘さんと見合ひすることになつてゐた。井伏氏に連れられて甲府のまちはづれの、その娘さんのお家へお伺ひした。井伏氏は、無雑作な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着てゐた。娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた。母堂に迎へられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかつた。

井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、 「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻ぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた。まつしろい睡蓮の花に似てゐた。私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。





(1)ある娘さんと見合ひ

「富嶽百景」の文章をなぞります。




  井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、

ふと、井伏氏が、 「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。

私も、からだを捻ぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。





  富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた。

富士山山頂の噴火口、富士山頂部には「八葉」と呼ばれる8つの峰があります。→八葉蓮華、蓮華は睡蓮の総称)



富士山山頂の噴火口、八葉蓮華






  まつしろい睡蓮の花に似てゐた。



睡蓮の花





  私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。

まつしろい睡蓮の花のような、天女のような娘さんがいた






きめた。

多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。








井伏氏が、「おや、富士。」→富士山山頂→八葉蓮華→真っ白い睡蓮→見合い相手の娘さん→結婚を決意。
小説としては、清楚なまっしろい睡蓮の花を入れて、簡潔な文章で、見事な展開です。

八神峰は、富士山頂にある8つの峰の総称。八神峰の他にも富士八峰や、仏教でいう八葉蓮華から由来した八葉という名称で呼ばれることもあります。蓮華は睡蓮の総称です。八葉蓮華:真言密教などでは胎蔵界曼荼羅の中央にこれを描き,中央に大日如来,8葉に4人の仏陀と4人の菩薩を配する。


富士山噴火口の写真が結婚を決める多きな要因となります。「あの富士は、ありがたかつた。」 と実物ではなく写真の富士山に感謝しています。
「富嶽百景」は富士の百景ではなく、冨士に関係した人の百景を描いた小説ですと繰り返します。



ここで、不思議と思われるのは、太宰治の再生の最も重要な見合いの娘さんの姓名と年齢が書かれていない。見合いをする男性の姓名も年齢も書かれていない。作者は太宰治で井伏鱒二が出てきて私小説風に書かれているので、見合いの男性は太宰治29歳とわかる。

文学通であれば、太宰治は妻初音さんと心中未遂して離婚したのに一年後に見合いをしている。その翌年、結婚してこの「富嶽百景」を書いている。なんというやつだと思う。しかし、すぐに、これは小説で心中の話は書かれていない。素直に、見合いの進行を見守るべきだと思い直す。

しかし、当時の一般読者は小説以外の太宰治の私生活など知らない。相手の娘さんは何歳かな、どのような家庭の人か知りたいと思う。太宰はその事柄に関してあえて書かないようです。見合いの相手はまっしろい睡蓮のような、天女のような娘さんと思ってほしかったようです。



(2)実際の見合の状況


井伏鱒二の記載

「井伏氏は、御坂峠を引きあげることになつて、私も甲府までおともした。」のではなく、ある娘さんと見合いをするために、斎藤夫人とで娘さんの甲府の家を訪ねたが実際です。

斎藤夫人と井伏鱒二は、直ぐに席をはずして家を出た。見合いの席は太宰とある娘さん(御母堂がいたか否かは不明)だけである。

その為「井伏氏が、 『おや、富士。』と呟いて」の所は太宰の創作です。



森晴彦「『富嶽百景』の創作方法-私小説的装置を駆使した作品世界の構築(2013年)


森晴彦「『富嶽百景』の創作方法-私小説的装置を駆使した作品世界の構築-」
より引用






見合い相手の美和子さんの回想録。

庭にはバラの他青ブドウの房もあったようです。しかし、見合いでの太宰の印象などの記載はありません。



「回想の太宰治」津島美知子著

*小杉 放庵:明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。

「回想の太宰治」津島美知子著 講談社文庫(人文書院の初版は1978年(昭和53年)より引用




津島美知子     太宰治


津島美知子 津島美知子 - Wikipedia    昭和23年2月撮影 太宰治 - Wikipedia


石原美知子:1912年(明治45年)1月31日 - 1997年(平成9年)2月1日)
石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)に生まれる。
1933年(昭和8年)3月、東京女子高等師範学校を卒業。
同年8月4日、山梨県立都留高等女学校(現・山梨県立都留高等学校の前身の一つ)の教諭に就任。
地理と歴史を教える傍ら、翌1934年(昭和9年)9月15日から寮の舎監を兼任する。

1939年(昭和14年)1月8日、東京府東京市杉並区の井伏鱒二宅にて太宰と結婚式を挙げた




太宰治 美知子 昭和15年8月8日

太宰治 美知子 昭和15年8月8日 結婚後三鷹にて



この当時でも当然見合い相手の写真は有り、太宰は見合の前にその娘さんの容姿の確認は行っていたとおもいます。見合いの席で井伏と富士の力を借りて初めて娘さんを見たとするのが太宰の筆力です。




(3)石原美和子さん結婚を決める



太宰治が結婚を決めた経緯はわかりましたが、見合い相手の娘さんである石原美和子さんが結婚を決めた経緯がわかりません。

石原美和子さんの「回想の太宰治」にある結婚に関する関連する文章は次の一文だけです。

「数え年で二十七歳にもなっていながら深い考えもなく、著作を二冊読んだだけで会わぬ先からただ彼の天分に幻惑されていたのである」

田辺シメ子と鎌倉の海で心中し、相手シメ子のみ死亡したことを描いた「虚構の彷徨-道化の華」、同棲していた小山初代との心中未遂(1935年3月)を描いた「姥捨」を読んだ後でも、美和子さんの気持ちは変わらなかったようです。

それと、「文筆」(昭和13年9月号)に載った「満願」は、今までとは異なり、爽やかで、慈愛に満ちた作品です。太宰はこのような作品も書ける作家であると認識したことも、結婚を決めた要因かも知れません。また、御坂峠に来る前に、このような作品が書ける、平静な精神状態の兆しがあったようです。



     

回想の太宰治」津島美知子著 講談社文庫 1981年刊より引用



「満願」の一部 (とても短い短編です)

夫の病気で3年間禁じられていた夫婦の愛を、今朝、医者から許された。

「8月の終わりの朝、ワンピースを着た清潔な女のひとが、飛ぶように歩いているのを私は見ました。女のひとは、白いパラソルをくるくるっと回しました。医者の奥さんは、「今朝、おゆるしが出たのよ」と私に言います。」
 
太宰治「満願」-あおぞら文庫より引用





だそくのほそく



石原美和子さんが結婚を決めた経緯



石原美和子さんが結婚を決めた理由としては、 「回想の太宰治」津島美知子著 講談社文庫 1983年刊から次の文を引用した。

「会わぬ先からただ彼の天分に幻惑されていたのである」

しかし、より直接的な記述が有った


「私には、はじめから私の覚悟があったのです。私は、人間太宰治と結婚したのではなくて、芸術家と結婚したのです。」

これは「回想の太宰治」津島美知子著 人文書院 1981年刊の冒頭にあるようです。講談社文庫にはありませんでした。

その為以下に引用させてもらいました。



戦後、ずっと沈黙を守ってきた美知子夫人でしたが、実は、太宰の死後二十数年経った昭和53年に「回想の太宰治」という本を執筆しています。
それにより美知子夫人が太宰治とどう関わっていたのか、その一端を知ることができます。

冒頭で、美知子夫人は述べます。

「私には、はじめから私の覚悟があったのです。
私は、人間太宰治と結婚したのではなくて、芸術家と結婚したのです。
彼の文学のためならば、
私はあらゆる犠牲を惜しまないつもりでした。
そしてそのためには、私は自分が女であることをも否定して生きてきました。」


「回想の太宰治」津島美知子 - らんどくなんでもかんでもFC2より引用