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8 見合い・富士噴火口
(1)ある娘さんと見合ひ 「富嶽百景」の文章をなぞります。
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井伏氏が、「おや、富士。」→富士山山頂→八葉蓮華→真っ白い睡蓮→見合い相手の娘さん→結婚を決意。
八神峰は、富士山頂にある8つの峰の総称。八神峰の他にも富士八峰や、仏教でいう八葉蓮華から由来した八葉という名称で呼ばれることもあります。蓮華は睡蓮の総称です。八葉蓮華:真言密教などでは胎蔵界曼荼羅の中央にこれを描き,中央に大日如来,8葉に4人の仏陀と4人の菩薩を配する。小説としては、清楚なまっしろい睡蓮の花を入れて、簡潔な文章で、見事な展開です。 富士山噴火口の写真が結婚を決める多きな要因となります。「あの富士は、ありがたかつた。」 と実物ではなく写真の富士山に感謝しています。 「富嶽百景」は富士の百景ではなく、冨士に関係した人の百景を描いた小説ですと繰り返します。 ここで、不思議と思われるのは、太宰治の再生の最も重要な見合いの娘さんの姓名と年齢が書かれていない。見合いをする男性の姓名も年齢も書かれていない。作者は太宰治で井伏鱒二が出てきて私小説風に書かれているので、見合いの男性は太宰治29歳とわかる。 文学通であれば、太宰治は妻初音さんと心中未遂して離婚したのに一年後に見合いをしている。その翌年、結婚してこの「富嶽百景」を書いている。なんというやつだと思う。しかし、すぐに、これは小説で心中の話は書かれていない。素直に、見合いの進行を見守るべきだと思い直す。 しかし、当時の一般読者は小説以外の太宰治の私生活など知らない。相手の娘さんは何歳かな、どのような家庭の人か知りたいと思う。太宰はその事柄に関してあえて書かないようです。見合いの相手はまっしろい睡蓮のような、天女のような娘さんと思ってほしかったようです。 (2)実際の見合の状況 井伏鱒二の記載 「井伏氏は、御坂峠を引きあげることになつて、私も甲府までおともした。」のではなく、ある娘さんと見合いをするために、斎藤夫人とで娘さんの甲府の家を訪ねたが実際です。 斎藤夫人と井伏鱒二は、直ぐに席をはずして家を出た。見合いの席は太宰とある娘さん(御母堂がいたか否かは不明)だけである。 その為「井伏氏が、 『おや、富士。』と呟いて」の所は太宰の創作です。
見合い相手の美和子さんの回想録。 庭にはバラの他青ブドウの房もあったようです。しかし、見合いでの太宰の印象などの記載はありません。
この当時でも当然見合い相手の写真は有り、太宰は見合の前にその娘さんの容姿の確認は行っていたとおもいます。見合いの席で井伏と富士の力を借りて初めて娘さんを見たとするのが太宰の筆力です。 (3)石原美和子さん結婚を決める 太宰治が結婚を決めた経緯はわかりましたが、見合い相手の娘さんである石原美和子さんが結婚を決めた経緯がわかりません。 石原美和子さんの「回想の太宰治」にある結婚に関する関連する文章は次の一文だけです。 「数え年で二十七歳にもなっていながら深い考えもなく、著作を二冊読んだだけで会わぬ先からただ彼の天分に幻惑されていたのである」 田辺シメ子と鎌倉の海で心中し、相手シメ子のみ死亡したことを描いた「虚構の彷徨-道化の華」、同棲していた小山初代との心中未遂(1935年3月)を描いた「姥捨」を読んだ後でも、美和子さんの気持ちは変わらなかったようです。 それと、「文筆」(昭和13年9月号)に載った「満願」は、今までとは異なり、爽やかで、慈愛に満ちた作品です。太宰はこのような作品も書ける作家であると認識したことも、結婚を決めた要因かも知れません。また、御坂峠に来る前に、このような作品が書ける、平静な精神状態の兆しがあったようです。
![]() 石原美和子さんが結婚を決めた経緯 石原美和子さんが結婚を決めた理由としては、 「回想の太宰治」津島美知子著 講談社文庫 1983年刊から次の文を引用した。 「会わぬ先からただ彼の天分に幻惑されていたのである」 しかし、より直接的な記述が有った。 「私には、はじめから私の覚悟があったのです。私は、人間太宰治と結婚したのではなくて、芸術家と結婚したのです。」 これは「回想の太宰治」津島美知子著 人文書院 1981年刊の冒頭にあるようです。講談社文庫にはありませんでした。 その為以下に引用させてもらいました。
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