太宰治「富嶽百景」を読む









10 富士には月見草が良く似合ふ





 私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、
「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。

 ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふと、思ひ込んだ事情があつたからである。御坂峠のその茶店は、謂はば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村といふ文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらゐの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気の良い日を選んで行く。ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をして呉れない。それでもときどき、思ひ出したやうに、甚だ散文的な口調で、あれが三ツ峠、向ふが河口湖、わかさぎといふ魚がゐます、など、物憂さうな、呟きに似た説明をして聞かせることもある。


河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。

けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。

 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。




(1)変哲もない三角の山

「一せいに車窓から首を出して変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。」

見合いの席で富士山の写真に助けられて「あの富士は、ありがたかつた。」、初雪の後の冠雪した富士山を見て「御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた」と書いた直ぐあとに、富士山を「変哲もない三角の山」と書く。その場に合わせて富士山の表現が変わる。三角の富士山は、東京で暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いてみたみじめな富士山です。この後月見草と対峙する富士山は立派な冨士山のほうが良いと思うが、みじめな三角の富士山を持ってきました。


(2)私のとなりの御隠居

「けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い、憂悶でもあるのか他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず」

ここで、「濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆」は、なぜか「御隠居」になる。しかし、その後「その老婆に」、「老婆に」、「老婆と」、「老婆も」と4回老婆になる。一回だけ「御隠居」にする意味は何か、わからない。「富士には一瞥も与へない」態度に感銘して、尊敬して「御隠居」にしたならば、その後は「老婆」ではなく「御隠居」と書くべきと思うが、「御隠居」は一回だけです。

「私の母」は作品「津軽」で「気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与へてはくれなかった」と書いている。


(3)富士には一瞥も与へず

けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い、憂悶でもあるのか他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、・・・私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ・・・ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。

老婆はいつも見ている富士山なので興味を示さないだけかもしれないのに、なぜかこの場面を太宰好みの設定にもっていき、これまで他人に対して愛想のない態度をとっていた太宰らしからぬ、あえて言えば太宰が嫌いな挙動を示す。気品高くおだやかな立派な母に似た老婆に対して「共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。」

太宰治が、実際にこのような動きをしたとは思えない。ここら辺から、月見草を見るための脚本を読んでいるような気持ちになる。


(4)「おや、月見草。」

「老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、「おや、月見草。」 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。」

青白い端正の顔の、六十歳くらゐの老婆が、甘えかかるように寄り添ってきた太宰治に「おや、月見草。」と実際に言ったとは思えない。

「黄金色の月見草」とありますが月見草は白い可憐な花で、黄色い花はオオマツヨイクサかマツヨイクサではないかと植物学者は推測しています。このバスを使って天下茶屋周辺に暮らしている60歳の老婆であれば、道端の黄色の花が月見草でないことは知っていると思います。その花を隣の席の見知らぬ人に指さして「おや、月見草。」とは言わないと思います。月見草を見るための脚本です。見合いの席で実際にはいなかった井伏鱒二が言った「おや、富士」と似ています。

走っているバス席の高い位置から夕方に咲いている8センチほどの花弁を見ることができるでしょうか、老婆が指さした方を見る間にバスは黄色の花から相当離れていると思います。
見えたとしても黄色の点が見えるだけでしょう。「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。」は疑問です。




ツキミソウ
マツヨイグサ  御坂新道のバズ
ツキミソウ

ツキミソウ - Wikipediaより引用
 マツヨイグサ

マツヨイグサの花wikimediaより引用
 御坂新道のバズ
御坂国道バスと御坂峠と太宰治 : 峡陽文庫
より引用




(5)「三七七八米の富士の山と」


「富嶽百景」で太宰治が御坂峠に逗留したのは1938年(昭和13年)9月ですので、その時点での富士山の標高は3776mです。

1887年(明治20年)参謀本部測量局 が富士山の標高3778m 、1926年(大正15年)参謀本部測量局が富士山の標高3776.29m としました。

地理院地図1894-1915年で剣ケ峯 3778、地理院地図1920-1945年で剣ケ峯 3776.3となり、1938年では3776mです。

「富嶽百景」の題名の小説で、富士山の標高を最新の数値にしなかったのは少し惜しまれます。


この原因は、「富嶽百景」の種本とした石原初太郎「富士山の自然界 」で富士山の標高を3778mとしたためと思います。学生の頃覚えた「富士山3776m」も記憶に残っていたかもしれません。

大正15年刊石原初太郎「富士山の自然界 」だけでなく、富士山の専門書石原初太郎「富士の研究: 富士の地理と地質」でも、富士山の標高3778mとしているのは問題です。富士山の標高3776mに異議があったのかもしれません。



富士山の標高

富士山の高さは以下の様にその都度変わっています.
1887年(明治20年)3778m 参謀本部測量局
1926年(大正15年)3776.29m 参謀本部測量局
1962年(昭和37年)3775.63m 国土地理院
1991年(平成3年)3,775.63m 国土地理院
1993年(平成5年)3774.97m 大成建設
2017年(平成17年)3775.51m 国土地理院
(剣が峰近くの二等三角点の基準点の標高)となっていますので,1938年の執筆当時では,1926年の測量後ですからすでに12年前に3776mの測定値が出ていたことになります.当時の事情はよく分かりませんが,太宰が覚えていた値は1887年時の測量値3778mでそれが富嶽百景に使われた値となります。

富士山の標高は3776mですが,昔は3778メートルだった - 山河海空 (hatenablog.com)より引用


富士山標高の詳細は日本の測量史 富士山の測量 (coocan.jp)

 地理院地図1894-1915年  剣ケ峯 3778

地理院地図1894-1915年  剣ケ峯 3778
 地理院地図1920-1945年  剣ケ峯 3776.3

地理院地図1920-1945年  剣ケ峯 3776.3
 
富士山の自然界 富士山の自然界



 石原初太郎「富士山の自然界 」P115、p155大正14年・宝文閣、新書版- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





山頂の最高峰は云ふまでもなく剣ケ峯三七七八米。が東南隅に聳えている。

富士山の最高点は三七七八米。


石原初太郎富士の研究: 富士の地理と地質」p66p81昭和3年刊(浅間神社社務所), 第 5 巻66p-Google bookより引用




(6)富士には、月見草がよく似合ふ。


このもっとも有名な一文がよくわからない。小説を読む前から知っていたが、その時は富士山の前に月見草が生えていて、秀麗な冠雪している富士山と可憐な黄色の月見草の組み合わせがよく調和しており素晴らしい光景を表現したと思っていた。


富士山と月見草


富士山と月見草    月見草は月見草 無料テンプレート美里音より引用


しかし、「富嶽百景」では富士山と月見草の間には太宰治が乗っているバスが有る。
バスの中の太宰治は富士山を見ないで、一瞬であるが月見草を見て次の様に書きます。


三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。

富士には、月見草がよく似合ふ。」



富士山とバスと月見草



一般大衆の称賛を浴びて聳える富士山と相対峙して、可憐な月見草がバスの坂道に咲いている。富士山に比べ、とても小さい存在であるが、月見草はそのようなことに関わりなく、自分というものをしっかり持って。けなげにすつくと立つて咲いている。その姿は、富士山に比べても見劣りしません。太宰治はそのような俗でない月見草に共感したようです



   月見草


みぢんもゆるがず、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草



しかし、「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書くと、今までの展開からこの文の意図を次の様に思ってしまう。

➀太宰治も日本の文壇で、月見草のように生きていきたい。まだ駆け出しの状態だが、自分というものをしっかり持っていれば、日本の文壇の権威と比べても見劣りしない文士になれる。

②太宰治は日本の文壇で、月見草のように生きている。自分というものをしっかり持って、日本の文壇の権威と相対峙している。


ここまで書いて、➀、②の検討を行なおうとしたが、次の事柄を思い出して、先に進めない。

2015年3月、実践女子大学准教授・河野龍也氏が佐藤春夫の親族が保管していた佐藤春夫あての太宰治の手紙を想い出します。
1935年(昭和10年) に第一回芥川賞で次席で落ちた太宰治は、選考委員の佐藤春夫に第二回目の芥川賞を懇願する手紙を送っている。

「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書いた太宰が、この4年前に書いたとは信じられない芥川賞受賞懇願の手紙です。

次の様に書いており、文壇の権威に相対峙する姿ではありません。文壇の権威に懇願、平伏する姿です。


「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」

「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」

「私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます。」



太宰治書簡佐藤春夫宛1936年1月28日(封筒欠 毛筆 巻紙[18.8cm×404.0cm])の抜粋


いまにいたつて、どのやうな手紙さしあげても、なるやうにしかならないのだと存じ、あきらめてじつとして居りましたが、どうにも苦しく、不安でなりませぬゆゑ、最後のお願ひ申し述べます。

芥川賞は、この一年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました。関心の外に追ひ出さうとしても、それは、不自然で、ぎごちなく、あがけばあがくほど、いよいよ強くつながつて行くやうなややこしい状態にさへなつてしまひました。御賢察のほどお願ひ申しあげます。ことしにはひつてからは、毎日毎日、うちにゐて、うろうろして居ります。「狂言の神」といふ作品が、やうやく、このほど、ノオトの中でまとまり、二月から、ゆつくり清書にとりかからうと存じて居ります。第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私は、きつと、佳い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ。昨年後半期、七月から十二月までに小説を四篇発表いたしました。

 芥川賞当選のときには、それと同時に、「思ひ出」といふ八十枚の舊稿に手を加へたものを文藝春秋に発表したいと思つて、すでに編輯部の鷲尾洋三氏の手許へお送りしてございます。「思ひ出」には、可成りの自信を持つて居ります。こんどの芥川賞も私のまへを素通りするやうでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません。

 私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます。恥かしいやら、わびしいやらで、死ぬる思ひでございますが、かうしてお手紙さしあげるのも、生きて行くための必要な努力なのだ、と自身に言ひきかせて、一心にこの手紙したためました。あきらめず、なまけず、俗なことにもまめまめしく、甲斐甲斐しく眞面目につとめるのは、決して恥づべきことでなく、むしろ美しいことでさへあると信じましたものですから。


  太宰治
 佐藤春夫様


新資料 太宰治の手紙──佐藤さん、私を忘れないで下さい - Hatena::Diaryより引用



そのため、「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書いた意図を➀か②かを推察することを諦めました、どちらを選んでも実際の太宰治と違いすぎます。

「富士には、月見草がよく似合ふ。」と共鳴した太宰治は、「富嶽百景」の太宰治です。➀、②どちらでも問題はありません。

実際の太宰治は、けなげにすつくと立つている月見草にはなれなかったようです。








月見草について



なぜ「金剛力草


「金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」と書いていますが、「金剛力草」という花は無いようで、太宰治が勝手に作った花のようです。

「金剛力」というのは「金剛力士のような非常に強大な力」ですから、太い幹、大きな葉、大きな花弁を持った草花を連想し、「けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」と合いません。

「金剛力草とでも言ひたいくらゐ」を何故入れたかがわかりません。力強い精神力を示したのか。しかし仁王立ちする筋肉が盛りあがた姿の方がでてきます。
「けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」からは、細身ではあるが、芯がしっかりして気高い黄金色の花が連想されます。



金剛力士像        月見草


金剛力士 - Wikipediaより引用                                 





やはり「月見草」がいい


「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ」と書いたが、太宰治も黄金色の花が月見草でないことは知っていたと思います。しかし最後の一文を書くために月見草にした。

富士には、オオマツヨイクサがよく似合ふ


富士には、大待宵草がよく似合ふ


富士には、宵待草がよく似合ふ


私の推察ですが、これら三点は、語感が良くないとして次の様に書いた。

富士には、月見草がよく似合ふ






そしてこの一文が太宰の自筆稿本からとられ、天下茶屋横の文学碑に刻まれた。




富士には月見草が良く似合う


太宰治文学碑


碑の裏面には、井伏鱒二氏の次の刻文がある。

「惜しむべき作家太宰治君の碑のために記す、

太宰君は昭和十三年秋、
遇々この山上風趣の爽快に按し、
乃ち草亭に仮寓して創作に専念、
厳冬に至って坂を下り甲府に僑居を求めて
傑作富嶽百景を脱稿した

碑面に刻した筆跡はその自筆稿本より得た」




字は太宰自身のもので、つまり某社から返って来て津島家に保存されていた「右大臣実朝」の原稿の中から集字して写真に拡大し、それを碑面に刻銘したものである。今その写真原稿を見ると、「右大臣実朝」であるだけに、「富士」の二字は繋がったままのを発見できているのがおもしろい。「には」と「よく」--これも、ひと続きのがあったのもうなづけるが、あとは「月」「見」「草」「が」「似」「合」「ふ」--すべて一字ずつ拾ったものである。「太宰治」の三字だけは、「実朝」ではなく、それが絶筆の原稿になった「グット・バイ」の署名からとられた。
伊馬春部 角川文庫「走れメロス」の(「富嶽百景」)作品解説





石碑のあるところからの富士山


石碑のあるところからの富士山
 2015.5.17






 




「老婆」とは



「六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆」戦前は、60歳で老婆なのか、。2024年で1964年生まれの60歳女優を示します。

60歳と知って驚く女優(今年で「60歳」と知って驚く女性有名人ランキングTOP37 - gooランキング
➀山口智子②真矢ミキ③高山みなみ④YOU⑤エド・はるみ⑥高島礼子⑦薬師丸ひろ子・・・・・・
今、これらの女性を老婆と言ったら大炎上します。


「老婆」は年代で変わるのならばと調べると、1948・49年の新聞調査(9号3/老いをあらわすことば2.pdf )があります。

1948年で、なんと50歳で老婆です。

「富嶽百景」は1938年(昭和13年)です。六十歳は立派な老婆です。

「(例24)池上で老婆殺し…五十歳位の老婆が・・。('497.27『毎日』)
50代で老女、老婆、老農などとよばれている例がおおく、(例2)か らは五十
歳のはじめですでに老婆とよばれていたことがわかる。これらを新聞に登場した
人物の年齢の上限と下限でしめしてみる。
「老人」64歳~73歳
「老婆」(五十歳位)52歳~78歳
「老女」54歳~63歳
「老夫婦」61歳 (男)と 62歳 (女)」

私現在75歳、女性ならば「老婆」だが男性の場合老爺がない、「老人」64歳~73歳は73歳まで、76歳の男はどのように書かれていたか
1958・59年の同じ調査では「老人」53歳~87歳となっています。しかし、「老婆」の項目がない。

1986年以降「老婆」は朝日、毎日の新聞では全く使われていません。「老婆」は消えてしまいました。」

デジタル大辞線では出てきます。  ろうば 老婆 年とった女性。老女。老媼(ろうおう)。







  



川端康成にも懇願の手紙を送っています


くどくなる為、本文中には書きませんでしたが。佐藤春夫だけではなく、川端康成にも1936年8月の第三回芥川賞選考前に、受賞を懇願する手紙を送っています。「富士には、月見草がよく似合ふ」と書いた人が出した手紙とは思えません。この後、天下茶屋に逗留して「富嶽百景」の生活が始まります。


昭和10年(1935)、第1回の芥川賞の候補に太宰の作品が入った。
しかし、受賞したのは、石川達三の 「蒼氓」 だった。
太宰の作品は、選考委員の川端から「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる恨みがあった」と評された。
太宰はこれを読んで逆上し、『川端康成へ』との一文を記して、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さう思った。大悪党だと思った。」と怒りをぶちまけた。

それにもかかわらず太宰は、第3回芥川賞の選考の前に、作品集『晩年』に添えて川端に先のような手紙を送るのである。

その内容の一部を抜粋すると・・・

 「何卒 私に与へて下さい 一点の駆引 ございませぬ 深き敬意と 秘めに秘めたる 血族感とが
  右の懇願の言葉を 発せしむる様でございます」

 「困難の一年で ございました 死なずに 生きとほして来たことだけでも ほめて下さい」

 「最近 やや貧窮、書きにくき 手紙のみを多く したためて居ります よろめいて 居ります
  私に 希望を 与へて下さい 老母 愚妻を いちど限り 喜ばせて下さい 私に名誉を 与へて下さい」

 「ちゅう心よりの 謝意と、誠実 明朗 一点 やましからざる 堂々のお願ひ すべての 運を 
  おまかせ申しあげます」

へりくだり、懇願し、哀れみを誘い、それでいて自作への自負を捨てない。
しかし、こんな手紙が功を奏すると考える精神が、もはや尋常ではないと思う


太宰治の手紙 : 五風十雨 より引用