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10 富士には月見草が良く似合ふ
(1)変哲もない三角の山 「一せいに車窓から首を出して変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。」 見合いの席で富士山の写真に助けられて「あの富士は、ありがたかつた。」、初雪の後の冠雪した富士山を見て「御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた」と書いた直ぐあとに、富士山を「変哲もない三角の山」と書く。その場に合わせて富士山の表現が変わる。三角の富士山は、東京で暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いてみたみじめな富士山です。この後月見草と対峙する富士山は立派な冨士山のほうが良いと思うが、みじめな三角の富士山を持ってきました。 (2)私のとなりの御隠居 「けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い、憂悶でもあるのか他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず」 ここで、「濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆」は、なぜか「御隠居」になる。しかし、その後「その老婆に」、「老婆に」、「老婆と」、「老婆も」と4回老婆になる。一回だけ「御隠居」にする意味は何か、わからない。「富士には一瞥も与へない」態度に感銘して、尊敬して「御隠居」にしたならば、その後は「老婆」ではなく「御隠居」と書くべきと思うが、「御隠居」は一回だけです。 「私の母」は作品「津軽」で「気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与へてはくれなかった」と書いている。 (3)富士には一瞥も与へず けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い、憂悶でもあるのか他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、・・・私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ・・・ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。 老婆はいつも見ている富士山なので興味を示さないだけかもしれないのに、なぜかこの場面を太宰好みの設定にもっていき、これまで他人に対して愛想のない態度をとっていた太宰らしからぬ、あえて言えば太宰が嫌いな挙動を示す。気品高くおだやかな立派な母に似た老婆に対して「共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。」 太宰治が、実際にこのような動きをしたとは思えない。ここら辺から、月見草を見るための脚本を読んでいるような気持ちになる。 (4)「おや、月見草。」 「老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、「おや、月見草。」 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。」 青白い端正の顔の、六十歳くらゐの老婆が、甘えかかるように寄り添ってきた太宰治に「おや、月見草。」と実際に言ったとは思えない。 「黄金色の月見草」とありますが月見草は白い可憐な花で、黄色い花はオオマツヨイクサかマツヨイクサではないかと植物学者は推測しています。このバスを使って天下茶屋周辺に暮らしている60歳の老婆であれば、道端の黄色の花が月見草でないことは知っていると思います。その花を隣の席の見知らぬ人に指さして「おや、月見草。」とは言わないと思います。月見草を見るための脚本です。見合いの席で実際にはいなかった井伏鱒二が言った「おや、富士」と似ています。 走っているバス席の高い位置から夕方に咲いている8センチほどの花弁を見ることができるでしょうか、老婆が指さした方を見る間にバスは黄色の花から相当離れていると思います。 見えたとしても黄色の点が見えるだけでしょう。「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。」は疑問です。
’(5)「三七七八米の富士の山と」 「富嶽百景」で太宰治が御坂峠に逗留したのは1938年(昭和13年)9月ですので、その時点での富士山の標高は3776mです。 1887年(明治20年)参謀本部測量局 が富士山の標高3778m 、1926年(大正15年)参謀本部測量局が富士山の標高3776.29m としました。 地理院地図1894-1915年で剣ケ峯 3778、地理院地図1920-1945年で剣ケ峯 3776.3となり、1938年では3776mです。 「富嶽百景」の題名の小説で、富士山の標高を最新の数値にしなかったのは少し惜しまれます。 この原因は、「富嶽百景」の種本とした石原初太郎「富士山の自然界 」で富士山の標高を3778mとしたためと思います。学生の頃覚えた「富士山3776m」も記憶に残っていたかもしれません。 大正15年刊石原初太郎「富士山の自然界 」だけでなく、富士山の専門書石原初太郎「富士の研究: 富士の地理と地質」でも、富士山の標高3778mとしているのは問題です。富士山の標高3776mに異議があったのかもしれません。
(6)富士には、月見草がよく似合ふ。 このもっとも有名な一文がよくわからない。小説を読む前から知っていたが、その時は富士山の前に月見草が生えていて、秀麗な冠雪している富士山と可憐な黄色の月見草の組み合わせがよく調和しており素晴らしい光景を表現したと思っていた。 しかし、「富嶽百景」では富士山と月見草の間には太宰治が乗っているバスが有る。 バスの中の太宰治は富士山を見ないで、一瞬であるが月見草を見て次の様に書きます。 「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。 富士には、月見草がよく似合ふ。」 ![]() 一般大衆の称賛を浴びて聳える富士山と相対峙して、可憐な月見草がバスの坂道に咲いている。富士山に比べ、とても小さい存在であるが、月見草はそのようなことに関わりなく、自分というものをしっかり持って。けなげにすつくと立つて咲いている。その姿は、富士山に比べても見劣りしません。太宰治はそのような俗でない月見草に共感したようです ![]() みぢんもゆるがず、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草 しかし、「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書くと、今までの展開からこの文の意図を次の様に思ってしまう。 ➀太宰治も日本の文壇で、月見草のように生きていきたい。まだ駆け出しの状態だが、自分というものをしっかり持っていれば、日本の文壇の権威と比べても見劣りしない文士になれる。 ②太宰治は日本の文壇で、月見草のように生きている。自分というものをしっかり持って、日本の文壇の権威と相対峙している。 ここまで書いて、➀、②の検討を行なおうとしたが、次の事柄を思い出して、先に進めない。 2015年3月、実践女子大学准教授・河野龍也氏が佐藤春夫の親族が保管していた佐藤春夫あての太宰治の手紙を想い出します。 1935年(昭和10年) に第一回芥川賞で次席で落ちた太宰治は、選考委員の佐藤春夫に第二回目の芥川賞を懇願する手紙を送っている。 「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書いた太宰が、この4年前に書いたとは信じられない芥川賞受賞懇願の手紙です。 次の様に書いており、文壇の権威に相対峙する姿ではありません。文壇の権威に懇願、平伏する姿です。 「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」 「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」 「私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます。」
そのため、「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書いた意図を➀か②かを推察することを諦めました、どちらを選んでも実際の太宰治と違いすぎます。 「富士には、月見草がよく似合ふ。」と共鳴した太宰治は、「富嶽百景」の太宰治です。➀、②どちらでも問題はありません。 実際の太宰治は、けなげにすつくと立つている月見草にはなれなかったようです。 ![]() 月見草について なぜ「金剛力草」 「金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」と書いていますが、「金剛力草」という花は無いようで、太宰治が勝手に作った花のようです。 「金剛力」というのは「金剛力士のような非常に強大な力」ですから、太い幹、大きな葉、大きな花弁を持った草花を連想し、「けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」と合いません。 「金剛力草とでも言ひたいくらゐ」を何故入れたかがわかりません。力強い精神力を示したのか。しかし仁王立ちする筋肉が盛りあがた姿の方がでてきます。 「けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」からは、細身ではあるが、芯がしっかりして気高い黄金色の花が連想されます。 やはり「月見草」がいい
「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ」と書いたが、太宰治も黄金色の花が月見草でないことは知っていたと思います。しかし最後の一文を書くために月見草にした。 富士には、オオマツヨイクサがよく似合ふ
富士には、大待宵草がよく似合ふ 富士には、宵待草がよく似合ふ 私の推察ですが、これら三点は、語感が良くないとして次の様に書いた。 富士には、月見草がよく似合ふ
そしてこの一文が太宰の自筆稿本からとられ、天下茶屋横の文学碑に刻まれた。 ![]() ![]() 碑の裏面には、井伏鱒二氏の次の刻文がある。 「惜しむべき作家太宰治君の碑のために記す、 太宰君は昭和十三年秋、 遇々この山上風趣の爽快に按し、 乃ち草亭に仮寓して創作に専念、 厳冬に至って坂を下り甲府に僑居を求めて 傑作富嶽百景を脱稿した 、 碑面に刻した筆跡はその自筆稿本より得た」
![]() 石碑のあるところからの富士山 2015.5.17 ![]() ![]() 「老婆」とは 「六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆」戦前は、60歳で老婆なのか、。2024年で1964年生まれの60歳女優を示します。 60歳と知って驚く女優(今年で「60歳」と知って驚く女性有名人ランキングTOP37 - gooランキング) ➀山口智子②真矢ミキ③高山みなみ④YOU⑤エド・はるみ⑥高島礼子⑦薬師丸ひろ子・・・・・・ 今、これらの女性を老婆と言ったら大炎上します。 「老婆」は年代で変わるのならばと調べると、1948・49年の新聞調査(9号3/老いをあらわすことば2.pdf )があります。 1948年で、なんと50歳で老婆です。 「富嶽百景」は1938年(昭和13年)です。六十歳は立派な老婆です。 「(例24)池上で老婆殺し…五十歳位の老婆が・・。('497.27『毎日』) 50代で老女、老婆、老農などとよばれている例がおおく、(例2)か らは五十 歳のはじめですでに老婆とよばれていたことがわかる。これらを新聞に登場した 人物の年齢の上限と下限でしめしてみる。 「老人」64歳~73歳 「老婆」(五十歳位)52歳~78歳 「老女」54歳~63歳 「老夫婦」61歳 (男)と 62歳 (女)」 私現在75歳、女性ならば「老婆」だが男性の場合老爺がない、「老人」64歳~73歳は73歳まで、76歳の男はどのように書かれていたか 1958・59年の同じ調査では「老人」53歳~87歳となっています。しかし、「老婆」の項目がない。 1986年以降「老婆」は朝日、毎日の新聞では全く使われていません。「老婆」は消えてしまいました。」 デジタル大辞線では出てきます。 ろうば 老婆 年とった女性。老女。老媼(ろうおう)。 ![]() ![]() ![]() 川端康成にも懇願の手紙を送っています くどくなる為、本文中には書きませんでしたが。佐藤春夫だけではなく、川端康成にも1936年8月の第三回芥川賞選考前に、受賞を懇願する手紙を送っています。「富士には、月見草がよく似合ふ」と書いた人が出した手紙とは思えません。この後、天下茶屋に逗留して「富嶽百景」の生活が始まります。
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