太宰治「富嶽百景」を読む




十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。私が、あらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。

おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。やつてゐやがる、と思つた。人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐といて笑ふといつたやうな感じである。諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。






(1)納得できない点 その1:十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかった。


ここでも納得できないことがあります。

「はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。私が、あらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた



下記の方法で十国峠の山頂部を求めましたが、その推察した山頂部の高さは実際の山頂部部とほぼ同じか少し高い所でした。「青い頂がすっと見えた」と有るので冠雪がない富士山と思いますがここでは一月の冠雪が有る富士山を使いました。


太宰治「富嶽百景」に書かれた方法で山頂を求めます。その1。

山体の中央あたりと思われるところから雲があり山頂が見えません。


山体の中央あたりと思われるところから雲があり山頂が見えません。

読者は、頂上がどのあたりか推察してください。



山体の中央あたりと思われるところから雲があり山頂が見えない十国峠からの富士山



山頂部を求めます

➀「その裾の勾配から判断して」に従い雲の下の裾の勾配をそのまま山頂まで伸ばします。赤線。
 山頂に平坦部が有るとして横線を引きます。その横線が山頂部です

② ➀の傾斜は山頂で大きくなるとして線を伸ばします。青線。
 山頂部の横線を引きます。山頂部を求めます




山頂推察その1


雲が薄く名なり山頂が鮮明に見えました


十国峠からの富士山山頂は➀、②の類推した高さとほぼ同じです。
三枚の写真に書いた「雲」の一番下の横線の下の所です。
読者の推察の高さはどこでした

上の方で勾配を急にした山頂部が実際の富士山より少し高いです。




山頂が見えた




太宰治「富嶽百景」に書かれた方法で山頂を求めます。その2。

山体のかなり低いところから雲があり山頂が見えません。

山体の下部あたりと思われるところから雲があり山頂が見えません。この状態で山頂を求めるのはかなり無理ですがやってみます。


下部に雲が有る十国峠からの富士山



山頂部を求めます

➀裾の勾配が不明ですので、富士山の傾斜の平均120度から求めた30度の傾斜で、裾からの線をを伸ばします。

裾野傾き30°

山頂に平坦部が有るとして横線を引きます。その横線が山頂部です

②裾の下部の傾斜は30度より低くして裾の線を引き、➀と同様に山頂部を求めます



山頂推察


雲が薄くなり山頂が鮮明に見えました


十国峠からの富士山山頂は➀、②の類推した高とほぼ同じです
勾配をすべて30°して推察した山頂部は実際の富士山より少し高いです。



山頂推察と実際の山頂部






太宰治が十国峠で推察した雲の中の富士山の山頂と山体を標示します。「私が、あらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。」から推察した高さです。

富士山頂角が141度になる平べったい富士山です。「富嶽百景」登等で示した裾野の傾き30°からかなり小さい傾き17-22°の富士山になります。
太宰治の文章は簡潔で無駄がないため、そこら辺の説明がないが、山頂部をどのように推察したか聞きたいです。





以上の検討から、「私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけ」たところが根拠のない所ということがわかりました。太宰は間違ったところに山頂の印をつけて、実際の山頂がその2倍も高い所に有ったので驚いています。


(2)納得できない点 その2:
十国峠からの富士山以外、高い富士山はないのか

太宰治は、十国峠からの富士山を次の様に記述して、高い富士山で、完全にたのもしい富士山としている。そのため、本文には書いていないが十国峠の富士山は高さを1.5倍にする必要はないようです。

「十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。・・・・・・・・やつてゐやがる、と思つた。人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。」

しかし、「けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」実際の富士は鈍角も鈍角で頂角は百十七度-百二十四度とあり、十国峠からの富士山の頂角は119度で、鈍角も鈍角にはいります。それでも完全にたのもしい富士山と書いている。

読者は迷います。太宰治は頂角について何を言いたいのか。


 
再度表示します 十国峠からの富士山  富士山の頂角119度

十国峠からの富士山  富士山の頂角119度




 十国峠からの富士山、富士山の高さは1.5倍   富士山の頂角96度

十国峠からの富士山、富士山の高さは1.5倍   富士山の頂角96度
 <font size="+1">十国峠からの富士山  富士山の頂角119度  十国峠からの富士山、富士山の高さは1.5倍   富士山の頂角96度



ここまで纏めると、「十国峠の富士山だけは高く完全にたのもしい富士山」だけど、その他の富士山は、「鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。印度人がどれほど感動するかわからない、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。」です。

そうすると、インド人に富士山を見せるには、ワシに頼んで十国峠に運んでもらうべきです。

また、太宰治は、何箇所から富士山を眺めたか聞きたくなります。東京と十国峠以外は何処から富士山を眺めましたか。

十国峠からの富士山は、何故高く完全にたのもしいのか。
十国峠からの富士山を見て、勝手に推察すると、➀頂角は120度以下で片側が58度以下、②山頂からの頂角を測定する裾の直線がながいこと ③なだらかな裾野を持たないこと。




上記推察から行くと、愛鷹連峰の越前岳からの富士山、達磨山高原レストハウスからの富士山も「高く完全にたのもしい富士山」にはいると思う。

この前に表示した富士市田子の浦の手前からの富士山(富士山の頂角115度)も「高く完全にたのもしい富士山」に入れても良いと思っている。
この富士山を見て「インド人もびっくり」と飛び上がり喜びます。昭和に育ってエスビ-カレ―を食べた人も喜びます。

太宰治は各地からの富士山を多く見ていないのではないか。それで、富嶽百景に「十国峠から見た富士だけは、高かつた。」と書いてはいけない。富士山愛好家から文句が出ます。「今まで見てきた富士山は少ないが、十国峠からの富士山は高かった」ぐらいが良いと思います。文学的には良い文章ではないが。





愛鷹連峰の越前岳からの富士山  富士山の頂角117度


愛鷹連峰の越前岳からの富士山富士山の頂角117度


達磨山高原レストハウスからの富士山、富士山の頂角115度


達磨山高原レストハウスからの富士山、富士山の頂角115度
   



「富嶽百景」の冒頭で富士山の頂角をもとに、広重、北斎も入れて、富士山の高さについて書いていますが、富士山がたのもしい高さか満足できない低さかはっきりしない。読者は太宰治が富士山の高さについて、何を言いたいかがわからず次に進むことになります。








納得できないこと その3





「おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。やつてゐやがる、と思つた。人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐といて笑ふといつたやうな感じである。諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。」


「人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。」とあるが、私は経験が無いため、この部分に納得できない。
太宰治の性格の特性か。

「恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。」とあるが、これも信用しないほうが良い。信用すると二人の関係が何処へ進んでいくか不明です。