「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記 151













2 「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の江戸時代の表記





「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の江戸時代の表記と芭蕉の肖像画のまとめ 





芭蕉没前

(1)「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の初出は1868年「蛙合」。その表記は

 ①「古池や蛙飛こむ水のおと」


(2)同じ年の俳句集二つの「春の日」では、「蛙合」の表記と異なり、次の様になっています。

 ②「古池や蛙飛こむ水のをと」

 ③「古池や蛙とひこむ水のおと」


(3)また芭蕉真蹟と言われている三つの短冊でも以下に示すように句集の①②③と異なる表記です。

 ⑩「婦る池や蛙飛込水の音」 

 ⑫古池や蛙飛び込む水の音 

 ⑬婦る池や蛙飛こ無水の音



(4)以上のように、芭蕉は句集の編者が芭蕉の表記と異なる表記を行うことを認め、自分でも短冊にはそれぞれ異なる表記を行っています。
俳句は「詠む」ものであり、音で感じるものであるとしたためか、その表記の制限はありません。


(5)俳句のとても短い十七音の表記は、作者の意図を表す大切な手段であると思っていた筆者にとって、とても意外でした。
そして、芭蕉は表記に無頓着ではなく、聞き手の心のなかの場景を大きく広げるために、無駄な情景、感情の表現を除き、更に表記の制限までも除いたと推察しました。



芭蕉没後

(1)芭蕉没後の句集「俳諧七部集」、俳画等では盛んに新しい表記が行われています。「江戸名所図会」では、画と文で「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記が異なります。各自勝手にやりますというかんじです。編集者も読者も気にしていないようです。

(2)闇雲の検索で集めた20の江戸時代の 「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記に、15種の異なった表記がありました。
江戸時代の句集編者、俳画作者、書物の著者などは、 「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の新しい表記を行なうことを競い合っていたようにも思えます。



芭蕉肖像画

芭蕉の肖像画も多く残されていますが、描く人、時代によって異なります。俳句の表記と合わせて肖像画の多様性も検討しました。

(1)芭蕉の肖像画では、やはり芭蕉の時代に生きて、芭蕉を眺めていた杉風、許六、破笠の肖像画が、芭蕉の雰囲気を良く描いているように思いました。




(2)芭蕉没後の肖像画は、北斎、崋山、蕪村等の著名な画家が、各自が持っている芭蕉像を描いておりとても興味深く眺めました。










「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の江戸時代の表記と芭蕉の肖像画を史料により検討





(1)「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」
の初出は「蛙合」。①「古池や蛙飛こむ水のおと」



「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の初出の表記は ①「古池や蛙飛こむ水のおと」

「古池や蛙飛びこむ水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は、松尾芭蕉の発句。芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句である

初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化(せんか)で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。
  古池や蛙飛びこむ水の音 - Wikipediaより引用




「蛙合」での表記です。このような句会の時、芭蕉は自分で書いた句の紙を仙化に渡し、仙化はその書をもとに「可般図」を作成したと思います。それで、この表記は芭蕉が行った表記と考えます。*可般図(かわず)








杉風画「松尾芭蕉肖像」と「蛙合」初版の芭蕉の句「古池や」



仙化は江戸時代前期の俳人。松尾芭蕉の門人。貞享3年(1686)「蛙合(かわずあわせ)」を編みました。
上図で、一番の左が芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」、一番の右が仙化の「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」。


最初の句から難しい問題が出てきます。「蛙合」原文に出てくるは、平仮名の
「の」か、漢字の「乃」か。

日本古典籍くずし字データセットで調べると平仮名
「の」   、漢字「乃」

「蛙合」原文に出てくるは、平仮名「の」でも漢字「乃」でも問題ないと思われる。江戸時代の俳人は平仮名か漢字かなどと区別していなかったかもしれません。しかし、このコラムは俳句の表記を扱ってい有すので、この表記をどちらにするかは問題です。


次の二点から平仮名「の」を採用しました。
①「おと」を平仮名にして「の」を漢字にするのは不自然。
②1824年の「蛙合」改版では=「の」を用いている
③史料の選択、評価に厳しい 日本俳書大系. 第2巻 蛙合 90/342で「古池や蛙飛こむ水のおと」と「の」を採用。



なお、俳句の表記と同じように、芭蕉の肖像画も各種ありそれぞれ異なります。その肖像画の違いも見ていきます。
①~⑬は、当方が勝手に肖像画と句の画像を合成したものです。そのため、句の表記と肖像画の関係は全くありません。
⑭~⑲は一つの作品ですので、その作者が表記して、肖像画を描いています。

この肖像画の作者は、芭門十哲の杉山 杉風ですので実際に芭蕉を見ていた者の肖像画です。芭蕉は50歳まで生きたのでその頃の印象を描いたと思います。







「蛙合」
の表記   飛
          


「蛙合」の表記         


「蛙合」の表記         乃



「蛙合」の表記  お


原文の崩し文字から現代の活字文字への変換検討はくずし字データベース検索(ひらがな(変体仮名)・カタカナ・漢字) | 日本古典籍くずし字データセット で検討。

俳句;仙化編【蛙合】(かわずあわせ)、別書名(かわず)1686年(貞享3年) 3/21-国文学研究資料館より引用

仙化 :江戸時代前期の俳人。松尾芭蕉の門人。貞3年(1686)「蛙合(かわずあわせ)」を編む。芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」に対してよんだ「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」の句がある。

肖像画
杉山 杉風, 作「亡師芭蕉翁之像」-早稲田大学より引用
*杉山 杉風(すぎやま さんぷう、1647年- 1732年))は、江戸時代前期から中期の俳人。蕉門十哲の一人。






(2)俳諧撰集「春の日」での表記②「古池や蛙飛こむ水のをと」、③「古池や蛙とひこむ水のおと」








森川許六作「奥の細道行脚之図」の芭蕉(左)と曾良及び「春の日」の芭蕉の句「古池や」



          
 
森川 許六(もりかわ きょりく 1656年-1715年)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。
画 松尾芭蕉 - Wikipedia、 文,森川許六 - Wikipediaより引用

春の日 荷兮 編 1686年(貞享三年) 14/19-早稲田大学大学より引用
春の日 荷兮 編 1686年(貞享三年 13/18-県立長野図書館・新日本古典籍総合データベースより引用




1686年(貞享3年)閏3月刊行の「蛙合」が出た年の8月に「春の日」が刊行されて「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」が掲載されています。芭蕉の句が3句しかないのに「俳諧七部集」に入っているとは意外です。

「春の日」は下記の本によると三種の版(発行元、西村、不明、寺田)が出ているようですが、初版がどれかははっきりしません。ネットで閲覧できる二種の版で検討しました。
木村三四吾著「俳書の変遷: 西鶴と芭蕉 」1998年刊の「春の日初版本考」: 284p



どちらの「春の日」も荷兮編ですが、「蛙合」の①「古池や蛙飛こむ水のおと」と異なり、②「古池や蛙飛こむ水のをと」、③「古池や蛙とひこむ水のおと」になっています。荷兮 は芭蕉の信頼を得て「冬の日」に続き「春の日」を編纂しています。そのような関係で、荷兮は「春の日」初版で句の表記を意図的に変えて掲載し、芭蕉も容認していることになります。また、「春の日」の改版でもさらに初版から句の表記を変えています。


「蛙合」①「古池や蛙飛こむ水のおと」から変化した表記を赤字で示すと春の日②では「古池や蛙飛こむ水の
と」、春の日③では「古池や蛙とひこむ水のおと」になり、その変化はわずかです。しかし、わずかであれ11文字からなる作品の一部を変えることに、とても不可思議さを感じました。


山本荷兮編 「春の日」

春の日

江戸時代中期の俳諧撰集。山本荷兮 編。1巻。貞享3 (1686) 年刊。『俳諧七部集』の一集で,『冬の日』に次ぐもの。尾張国の俳人が中心で,松尾芭蕉が一座した連句がなく,発句も3句しかとられていないが,『阿羅野』の芭蕉序文により,『冬の日』の続編として芭蕉指導のもとに成ったとみることができる。俳風は平板であるが,穏やかで,蕉風の志向を暗示する。
春の日とは - コトバンク より引用


山本荷兮 (やまもと-かけい 1.8.25-1648)

江戸前期の俳人。名古屋の人で医を業としたという。芭蕉七部集の最初の3集である『冬の日』『春の日』『阿羅野』の編者として著名。初期尾張蕉門の最年長者で,一時は尾張蕉門のリーダーとして活躍した。しかし保守的な性格で,作為を凝らした古風な俳風に対する好みを捨て切れず,新風を追求する蕉風の展開には批判的な態度をとり,松尾芭蕉とも疎遠になった。晩年は連歌師に転じ法橋に叙せられた。
山本荷兮とは - コトバンク より引用



荷兮が何のために「蛙合」の表記①を変えたのかがわかりません。芭蕉がどうしてその変化を容認したかがわかりません。

荷兮が「①の表記より②、③の表記の方が良いと思います」と言い、芭蕉が「今回は②、③の表記でいくか」と言ったのか。
俳句は「詠む」ものであり、音で感じるものであるとして、その表記はまったく無頓着であったのか。
「おと」と「をと」の違いが判りません。


この画「奥の細道行脚之図」も蕉門十哲の森川許六が描いています。奥の細道の旅たちは、1689年(元禄2年)ですので芭蕉は46歳の時です
杉風画「松尾芭蕉肖像」より少しふっくらとして穏やかな感じですが、目鼻立ちは似ていると思います。句を作るきは上図のように厳しい顔つきになるようです。





(3)「俳諧七部集」ではそれぞれ異なる五つの表記。新たに二つの表記。⑥「古池や蛙とひこむ水の音」、⑦「古池やかはつとひこむ水のおと」


佐久間柳居編「俳諧七部集」

江戸時代中期の俳諧撰集。佐久間柳居編。 12冊。享保 17 (1732) 年頃成立。松尾芭蕉一代の撰集のうち代表的なもの7部,『冬の日』『春の日』『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』『続猿蓑』を編集したもの。蕉風の経典とされ,これにより蕉風俳諧の推移の跡をほぼうかがうことができる。俳諧七部集とは - コトバンク)より引用

佐久間柳居 (さくま-りゅうきょ 1686-1748) 江戸時代中期の俳人。
幕臣。貴志沾洲の門にはいるが,江戸座の俳風にあきたらず,中川宗瑞らと「五色墨」をだす。のち中川乙由の門下となり,蕉風の復古をこころざし,松尾芭蕉の五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰した。佐久間柳居とは - コトバンク より引用




「蛙合」、「春の日」の46年後に刊行された「俳諧七部集」の「春の日」に掲載された「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記です。

①「蛙合」、②、③「春の日」の表記と同じ⑧、④、⑤に対して、⑥「古池や蛙飛こむ水の音」、⑦「古池やかはつとひこむ水のおと」が新しい表記です。
「水の音」と「かはつ」が新規に出てきました。
柳居 が何のために「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記を変えたのかがわかりません。


江戸時代の俳句集三冊(「蛙合」、「春の日」、「七部集」)で「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の五つの表記が出てきました。




「芭蕉の像」は画狂人北斎の「北斎漫画七編」の作品です。北斎漫画は1812年からですので、この作品は芭蕉没後130年以上後になり、北斎の持っていた芭蕉のイメージ画になります。俳諧七部集の句を画面左に並べると「よくぞこんなに異なる表記を作ったものぞ」と芭蕉が感嘆しているように見えます。
筆者の個人的感想ですが北斎の芭蕉は、筆者の芭蕉のイメージとは異なります。








葛飾北斎作「北斎漫画7編 芭蕉像」と「俳諧七部集・春の日」の芭蕉の句「古池や」



俳諧七部集 春の日  ④、⑤ のどちらが初版か゚は不明
⑤  ⑦   ⑧
柳居編
1732年
(享保一七頃)
 柳居編
1732年
(享保一七頃)
 
校正七部集 柳居編
1732年
(享保一七頃)

 
贅亭夏成美校正
「隨齋」用箋
に書写
1808年(文化5年)再刻
1774年(安永3年)発刻 


 







 








 


  




 


  


俳諧七部集18/345-日本古典籍データベースより引用 俳諧七部集 12/204-新日本古典籍データベースより引用  俳諧七部集 12/108-日本古典籍データベースより引用  俳諧七部集29/309
-新日本古典籍データベース
 より引用
俳諧七部集文化5[1808]11/103-早稲田大学より引用 

      
 

 
 こ
芭蕉像は 【みんなの知識 ちょっと便利帳】葛飾北斎・北斎漫画《七編》より引用




)1799年「幽蘭集」では新規表記⑨古池やかはつ飛こむ水乃音」

①では「水のおと」なのに、⑨で何故「水乃音」にしたか。「の」→「乃」。
芭蕉の次の句「芦のわか葉にかゝる蜘の巣 其角」の「の」はですが、芭蕉の句は「」なので、この句集だけ漢字の「乃」にした。





山東京伝画「三俳聖図 部分」と幽蘭集と加藤 暁台編「幽蘭集」



山東京伝画・村岡黒駱賛 三俳聖図(部分)

山東京伝が芭蕉・其角・千代女の坐像を描き、それに合わせて村岡黒駱がそれぞれの句を添えています。
 其角は、芭蕉門下を代表する俳人の一人、千代女は、加賀国松任(現・石川県白山市)の女性俳人。千代女の着物には、「千代」の文字がみえます。
奥の細道むすびの地記念館の所蔵品を紹介します【芭蕉・俳諧関係資料】 | 大垣市公式ホームページより引用



俳句加藤 暁台編「幽蘭集」 幽蘭集七編29/43-早稲田大学より引用





(5)1824年の「蛙合」改版では1686年の初版と同じ表記。


1824年の「蛙合」改版では1686年の初版と同じ表記です。
1693年「俳諧深川集」初版の芭蕉の句「青くても有へきものを唐辛子」が、1736年の「俳諧深川集」改版で「青くても有へきものを唐からし」と表記が変わっています。改版で表記が同じと安堵するのは著作権になじんだ現代人の感覚か。






崋山画[芭蕉肖像真蹟]と芭蕉翁俳諧四部録の「蛙合」改版の句



          
俳句;芭蕉四部作蛙合-早稲田大学より引用

肖像画
崋山画[芭蕉肖像真蹟] 渡辺崋山 1793-1841 江戸時代後期の画家,蘭学者
芭蕉肖像真蹟 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用





(6)四つの短冊は全て新規表記、そのうち三つは芭蕉真蹟とされている。


四つの短冊は、全て新規の表記です。そのうち三つ⑩。⑫、⑬は芭蕉真蹟とされています。


 ⑩「婦る池や蛙飛込水の音」

 ⑪「不る池やかはつ飛込水の音」

 ⑫古池や蛙飛び込む水の音

 ⑬婦る池や蛙飛こ無水の音



これらが本当に芭蕉真蹟とすると芭蕉自身が「蛙合」初版と異なる表記で短冊を作製したことになります。芭蕉本人が、俳句の表記は、書く人がその時の気持ちで新しい表記を行なっても良いと認めていることになります。

短冊を眺めていると、芭蕉が短冊を作るとき依頼元の要望、その時の芭蕉の心情などから、短冊として見栄えの良い表記にしたように思えてきました。
⑩。⑫、⑬に使われている「婦」、「不」、「無」は、通常の句集本には使われておらず、短冊様の表記として使われたと思います。


⑩の芭蕉像は作者与謝蕪村は芭蕉没後22年後の誕生ですので、生前の面影を周囲の人から聞いて描いたと思います。しかし、他に比べて豪快な印象の芭蕉です。

⑪の芭蕉像の作者建部巣兆は芭蕉没後67年後誕生ですので、巣兆が持つ芭蕉のイメージで描いたと思います。

⑫、⑬は芭蕉を眺めていた人の肖像画です。二人の描いた芭蕉の雰囲気は似ています。



    
短冊の は崩し字DBの  

   

どちらでも同じ形の崩し字がある。

ここでは短冊用に
「婦」を意識してを用いたとして、表記としては「婦」を採用。同じ表現は、これ以降の表記も「婦」とする。

お=
短冊の  崩し字DBの

 
 

短冊の字は所有元の記述と異なる「不」を採用

句の表記

(伊丹市指定文化財)この句は、芭蕉開眼の句として古来有名なため、偽筆も多いが、本点は稀にみる真蹟。本点は、温雅悠揚たる筆致で、落款「はせを」や「婦」「や」「込」に貞享後期の特色がよく出ており、伝存する「ふる池」短冊中の白眉とされる。著書『芭蕉の筆蹟』で岡田利兵衞(柿衞)は芭蕉筆蹟学の礎を築いたが、本点はその代表的資料といえる。
 
芭蕉筆「ふる池や」句短冊 (色違打曇-)-公益財団法人柿衞文庫より引用


肖像画は与謝蕪村(よさぶそん ) 作品の一部
Basho by Buson02 - Matsuo Bashō - Wikimedia Commonsより引用


与謝 蕪村(與謝 蕪村 (1716年- 1784年1月17日)は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。
独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。与謝蕪村 - Wikipedia
 
句の表記

芭蕉筆「ふる池や」句短冊 (色違打曇)

金泥の霞が引かれた布目紙の短冊に書かれており、その書風より貞享年間後期の筆と考えられています。
「ふる池やかはつ飛込水の音」

「ふる池や」発句短冊|収蔵品の紹介「出光コレクション」|出光美術館 (idemitsu-museum.or.jp)


芭蕉像は建部巣兆(たけべ そうちょう)作
建部巣兆(1761年-1814年)は江戸時代中後期の俳人、絵師。
与謝蕪村の俳画を指向して江戸蕪村と渾名された。俳諧では化政期を代表する俳人の1人で、松尾芭蕉も欽慕し、足立区立郷土博物館所蔵「松尾芭蕉像」に「蕉下希子」、『寅歳関屋帖』に「武陵蕉門」と名乗る。建部巣兆 - Wikipedia


くずし字入門講座 俳諧
今回、教材として取り上げられたのは俳句。まず俳句で分かりやすいのは五・七で構成されていること。これでこの文章が何文字で構成されているのかがまず分かります。一題目は、松尾芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」。これがくずし字で短冊に書かれているのですが、これを活字にすると次のようになります。
「不留池や可者川飛込水の音」

くずし字の特徴のひとつに「ひらがなを表すときに漢字で書く」ということがあげられます。たとえば「ふ」は不、婦、風、布などと書きました。これは明治時代の教科書にも出ているそうです。現在のようにひらがなの「ふ」を「ふ」と統一的に書くようになったのは明治20年以降のことだそうで、それまではひらがなに漢字を当てるというのはごくごく当たり前のことだったとか。そのため、上記の教材例では冒頭の「不留池」を「ふるいけ」と、また「蛙」は「可者川(かはつ)」と読むのだそうです。  くずし字入門講座 -帝国データバンク史料館より引用





  
短冊の  崩し字DBの = 
短冊の  崩し字DBの


短冊の句の表記
芭蕉翁真筆のレプリカ



芭蕉像は小川破笠 おがわ-はりつ作
1663-1747 江戸時代前期-中期の俳人,蒔絵(まきえ)師。
江戸で俳諧(はいかい)を福田露言,松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。

芭蕉翁関連商品 | 俳聖 松尾芭蕉 – 芭蕉翁顕彰会
より引用
 
句の表記
「芭蕉翁真跡集 完」栗田ニ三編 天青堂 大正14年、明和元序刊の複製。これに掲載の表記のため芭蕉の真蹟する。
芭蕉翁真跡集 10/53- 国立国会図書館より引用

芭蕉像は杉風筆岷摸写
杉山 杉風(すぎやま さんぷう、1647年- 1732年))は、江戸時代前期から中期の俳人。蕉門十哲の一人。①と同じ人物。
芭蕉の全貌 4/454- 国立国会図書館より引用





また、句集本での作者名は「芭蕉」ですが、短冊では「はせを」になっており、真蹟とされる⑩。⑫、⑬は⑪と比べると共通点が多い気もします。



        

 

 
 
      崩し字DB 


以上、全くの素人の推察です。俳句関係者、筆跡鑑定者の見解が欲しいです。





(7)江戸時代の「江戸名所図会. 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」

 ⑭「古池や蛙飛こむ水の音」、⑮「古池や蛙とひこむ水のをと」

画と文で「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記が異なります。各自勝手にやりますという感じです。編集者も読者も気にしていないようです。

雪旦画の⑭「古池や蛙飛こむ水の音」、は俳諧七部集の⑥と同じ表記です。

長秋文の⑮「古池や蛙とひこむ水のをと」は新しい表記です。







江戸名所図会. 巻之1-7 十八/ 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画 1836年(天保7年)刊

江戸名所図会 十八 24,25/84-早稲田大学より引用







(8)俳画4点のうち3点は新規表記。


俳画は、俳句を賛した簡略な絵)のことで、一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれます。
芭蕉没後の俳画で、肖像画も句の表記も、作者の好みで行っているように見えます。

俳句集では⑥でしか使われていない「水の音」が短冊では三点、俳画では四点すべてに使われています。

⑯「俳諧百一集」では左から句が書かれています。肖像画の体が画面で左向きの時は左から、体が右向きの時は右から書いているようです。


蕪村七部集の俳画 ⑱で、「古いけ」
「とひ込」と「池」、「飛」を平仮名で表記しています。この表記は違和感がありますが、蕪村が画面の構成上、平仮名のほうが良いと思ったとしか言えません。




 

八椿舎康工編俳諧百一集1765年(明和2年)の俳画
  

高桑闌更筆「芭蕉肖像並賛」
図の賛

「いかなる意味や有りけん、吟じて涙を流し、唱てさびしみ自然とあらはる。 中々申までもなし。凡慮の及ぶ所にあらず。玄々妙々のして独歩也。信ずべし。仰ぐべし。」
芭蕉の全貌170/454 - 国立国会図書館

尾崎康工 (おざき-こうこう1701-1779) 
江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)14年生まれ。中川乙由(おつゅう)にまなび,のち芭蕉の影響をうけ諸国を歴遊した。明和2年俳人100名の画像と代表句一句をあげた「俳諧百一集」を刊行した。

  俳諧百一集5/58 - 国立国会図書館より引用

  高桑闌更(1727-1799年) [筆] 江戸中期
江戸中期の俳人。別号は二夜庵,半化房(坊),芭蕉堂など。金沢の商家に生まれ,俳諧を加賀蕉門の重鎮であった希因に学ぶ。30代のなかばごろから俳諧活動が活発になり,蕉風復古を志して芭蕉の資料を世に紹介するとともに,独自の蕉風論を唱える。

闌更筆はせを像-早稲田大学より引用










几董 [編] 蕪村七部集の俳画 1808年(文化6年)
  


横井 金谷の俳画(1820年)

蕪村七部集
芭蕉(ばしょう)関係の『俳諧七部集』以後の流行に乗じて本屋がかってに編集したもの。「其雪影(そのゆきかげ)」「明烏(あけがらす)」「一夜四唫(一夜四歌仙)」「花鳥篇」「続一夜四歌仙」「桃李(ももすもも)」「続明烏」「五車反古」の八部を集録


蕪村七部集8/152-早稲田大学より引用
 

横井 金谷(よこい きんこく、1761年 - 1832年)
江戸時代後期の浄土宗の僧侶、絵仏師、文人画家。近江国の生まれ。横井金谷は紀楳亭と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない

横井金谷俳画 - Wikipediaより引用




(9)文暁編「翁反故 : 花屋日記」1810年(文化7年) ⑳「古池や蛙とひ込水の音」は新規表記


「花屋日記」は現在偽書とされているが、正岡子規、芥川龍之介に大きな感銘を与えた。


はなやにっき【花屋日記】
江戸後期の俳諧書。2巻。藁井文暁編。文化8年(1811)刊。最初「芭蕉翁反古文ばしょうおうほごぶみ」の書名であったが、天保年間(1830〜1844)の再版で現書名となった。芭蕉の門人の手記や手紙を集めた形をよそおった偽書。
花屋日記とは - コトバンク










井上士朗筆「芭蕉坐像」「と「花屋日記」の「古池や」



 井上士朗が描いた芭蕉坐像。坐像の上部には、芭蕉の句「春もややけしきととなふ月と梅」が添えられています。
 作者の井上士朗は、名古屋の医師で俳人としても活動し、「尾張名古屋は士朗(=城)で持つ」とうたわれるほどの名声でした。

井上士朗筆「芭蕉坐像」 | 大垣市公式ホームページより引用

新芭蕉花屋日記18/51-日本古典籍総合データベース より引用





(9)小築庵春湖輯「芭蕉翁古池真伝」江戸時代最後の年⑳「古池や蛙飛込む水のをと」は新規表記


⑳「古池や蛙飛込む水のをと」は新規表記です。意外にも「飛込む」と送り仮名「む」を付けたのは、これ以前にはありません






小川破笠画「松尾芭蕉肖像」と 小築庵春湖輯「芭蕉翁古池真伝」の芭蕉の句「古池や


小川破笠 :1663-1747 江戸時代前期-中期の俳人,蒔絵(まきえ)師。⑫と同じ作者
江戸で俳諧(はいかい)を福田露言,松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。

小川破笠画「松尾芭蕉肖像」-早稲田大学

小築庵春湖輯「芭蕉翁古池真伝」1868年(慶応4年)刊
芭蕉がその禅の師である仏頂を訪れて禅問答を行い、そこで「ふるいけや」の句想を得た、というような伝説の基になった書物
芭蕉翁古池真伝8/14-早稲田大学より引用



(10)芭蕉像


荻原著「芭蕉の全貌」に 風貌の描写、肖像画の批評が有ります。





うす‐いも【薄痘痕〘名〙 =うすあばた(薄痘痕)

芭蕉の全貌 445/454- 国立国会図書館

著者も昭和の俳人ですので、芭蕉の肖像画では、やはり芭蕉の時代に生きて、芭蕉を眺めていた杉風、許六、破笠の肖像画が、芭蕉の雰囲気を良く描いていると書いています。筆者も同感です
のでその肖像画を纏めて示します。






「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の江戸時代の表記
  (
赤字は新規表記)



江戸時代の書物・短冊・俳画
などの表記の
同じ
表記
刊行年
制作年
出典
古池や  蛙飛こむ   水のおと 新規1 1686年
貞享3年
仙化編集【蛙合】 。芭蕉の門人
「ふるいけや」初出
古池や  蛙飛こむ   水のをと  新規2 1686年
貞享3年
山本荷兮編集「春の日」
 尾張の芭蕉門人
どちらが初本かは不明

古池や  蛙とひこむ   水のおと  新規3 同上
古池や  蛙飛こむ   水のをと   ②と同 1732年
享保7年
柳居編集
「俳諧七部集・春の日」
 
 どちらが初本かは不明
古池や  蛙とひこむ   水のおと ③と同 同上
古池や  蛙飛こむ   水の音   新規4 同上  柳居編集
「校正七部集・春の日」
古池や  かはつとひこむ 水のおと  新規5  不明 贅亭夏成美校正
「俳諧七部集・春の日」

古池や  蛙飛こむ    水のおと   ①と同 1774年安永3年 「俳諧七部集・春の日」
1808年(文化5年)再刻
古池や  かはつ飛こむ  水乃音  新規6 1799年
文政7年
加藤 暁台編「幽蘭集」
   古池や  蛙飛こむ   水のおと  ①と同 1824年
文政7年
芭蕉翁俳諧四部録 内
「蛙合」改版
婦る池や 蛙飛込    水のおと 新規7 1686年-
1694年
短冊(伊丹市指定文化財)
芭蕉真蹟
不る池や かはつ飛込  水の音 新規8 1688年-
1690年
 短冊(出光コレクション)
古池や  かはつ飛込  水の音 新規9 1686年-
1694年
短冊(芭蕉翁記念館))
芭蕉翁真筆
婦る池や 蛙飛こ無   水の音 新規10 1686年-
1694年
栗田ニ三編「芭蕉翁真跡集 」の短冊大正14年刊、明和元序刊の複製。
古池や  蛙飛こむ   水の音 ⑥と同 1836年
天保7年
「江戸名所図会. 十八」
長谷川雪旦 画
古池や  蛙とひこむ   水のをと 新規11 同上 「江戸名所図会. 十八」
斎藤長秋 編輯
古池や  蛙飛こむ   水の音 ⑥と同 1765年
明和2年
八椿舎康工編
「俳諧百一集」の俳画
古池や  かはつ飛込  水の音 と同 1750年-
1799年
高桑闌更筆「芭蕉肖像並賛」
古いけや 蛙とひ込   水の音 新規12 1808年
文化6年
几董 編「蕪村七部集」
内の俳画
古池や  蛙飛込    水の音 新規13 1820年
文政3年
 横井 金谷の俳画
  古池や  蛙とひ込   水の音 新規14 1810年
文化7年
 文暁編「翁反故 : 花屋日記」
古池や  蛙飛込む   水の音 新規15  1868年
慶応4年
<小築庵春湖輯「芭蕉翁古池真伝」




江戸時代の「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の上五、中七、下五に出てくる表記



時代 上五   中七  下五
江戸時代

1686年
 -1868年
古池や   (18)
婦る池や  (2)
不る池や  (1)1
古いけや  (1)
蛙飛こむ    (8)
蛙とひこむ    (3)
かはつとひこむ  (1)
かはつ飛こむ  (1)
蛙飛込     (2)

かはつ飛込   (3)
蛙飛こ無    (1)
蛙とひ込     (2)
蛙飛込む    (1)
水のおと   (7)
水のをと   (3) 
水の音   (11)
水乃音   (1)