![]() 芭蕉の富士山の句 『「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記151』というコラムを「富士山あれこれ」に書いている。しかし、「富士山あれこれ」のコラムであるのに、富士山が出てこない。 このコラムは、『大野山の「柚子胡椒」に胡椒が入っていない』のなかの一編である松尾芭蕉の「青くても有べきものを唐辛子」の続きとして書いたものです。しかし、書いていくとその量が膨れたため独立したコラムです。そのため、これだけの文章の中に「富士山」の単語がない。「富士山あれこれ」のコラムにするため、松尾芭蕉と富士山の関係を記述します。 (1)松尾芭蕉の富士山の俳句 富士山が出てくる句は7句有ります。しかし、意外ですが、その中に筆者が共鳴し、感銘した句はありません。十七音で富士山を描くのは相当難しいと思いました。
① 富士の山蚤が茶臼の覆かな 同じような句に「山の姿蚤が茶臼の覆かな」がある.。 また、「蚤」ではなく「蚕」で、「冨士の山蚕が茶臼の覆いかな」が正しい表記であるという記述がある。(*蚤(のみ) 蚕(かいこ)) 下記のサイトを参考にしたが、「蚤」か「蚕」か定かではない。しかし、「蚤」でも「蚕」でも句の中になぜこの語句をいれたのかがわからない。 句の意味は茶臼に覆いをかけた形に似ているということになります。 下記画像に示すように、江戸からの富士だと似ているといえます。しかし、この句は江戸から郷里伊賀の上野へ帰る旅の途中、富士山麓あたりで詠んだ句であれば、駿河からの富士山は茶臼に覆いの形には似ていないと思います。かえって全く異なる形と言えます。
② 雲を根に富士は杉形の茂りかな 富士山が杉のように鋭角になっている印象はなく、この句にも共鳴できない。 しかし、「杉形」が茶碗の形を表すとしたらすそ野の広がりを隠した富士山と似ているといえます。江戸時代に「杉形の茶碗」が一般化していたかどうかが問題です. また、富士山を茶椀の形になぞらえて表わすというのは趣に欠けると思います。 茶碗のかたちとすると、「杉の形のような茶碗の茂り」の意味は何かわからない。すそ野が雲に隠れると森林限界の上が多くなって、岩場がほとんどになり、樹木の茂りはなくなります
③ 富士の風や扇にのせて江戸土産 軽妙でしゃれてはいるが、富士山の美しさ、雄大さなどは出てこない。
④ 富士の雪慮生が夢を築かせたり
「慮生が夢」は一瞬の間で、「富士の雪」も一瞬の間である。その「富士の雪」が「慮生が夢」をどのように「築かせた」のかが分からない。 その前に、江戸時代は、「6月名残の雪が降って雪の季節を終えると、その晩には初雪が降るといわれている」とあるが、江戸時代の初雪の定義がわからない。 ネットで次の一首があり、残雪が消えた日に、また雪が降ったという歌が有りました。これが富士の雪が一瞬を示すと思います。この句と芭蕉の「富士の雪・・」の関連を述べた記述は有りませんが、芭蕉の時代にこの感覚が続いていたと考えます。
「富士の雪」が一瞬の間であることに、「慮生が夢」を結びつけたのはしゃれていますが、富士山の美しさ、雄大さなどは出てこない。 ⑤ 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 41歳の芭蕉が箱根の関を超えるとき、霧しぐれのため眼前に見えるはずの富士山は見えないが、見えないことがまた面白いと詠む。この「面白き」について読者は下記のようにいろいろ考察します。殆ど好意的に述べています。 ・心にその姿を思い描きながら旅をしていると、これもまた富士の眺望を楽しむ一つの方法 ・想像の余地があるぶんだけ、富士見はいっそう面白く、富士山の姿も一段と美しく思われるよ。 ・ここに世間の常識にはくみしない、俳諧・俳句独特の美意識、思想が示されている。 ちょっとひねくれた読者もいる。 この旅は、定型から脱し、芭蕉芸術を確立していく過程。定型にならざるを得ない富士の景色は敬して遠ざけたいところだが、幸い今日の富士は霧しぐれの中に隠れている 筆者は、山歩きの目的は富士山を見ることが半分以上なので、富士山が見えないときの落胆は大きい。雲の間から見えそうなときは、相棒さんに叱られながら2時間ほど頂上の一部が見えるのを待っている。そのため、70歳を過ぎても「富士をみぬ日ぞ面白き」とはなれない。
しかし、1996.12.12の48歳の筆者はまた異なった感想を持っていた。 40歳ころから再び風景スケッチを始めて、48歳の時十国峠にスケッチに出かけた。山登りはまだ行っていないため、ケーブルカーで登った。そこで箱根の駒ヶ岳をスケッチした。 重なり合う山並みの上に箱根の駒ヶ岳が悠然と構えている。それなりに描けたと満足していた。 この十国峠行きの目的は、富士山のスケッチでしたが、霧しぐれで富士山は霧の中、そのため「霧しぐれ冨士を見ぬ日ぞ駒ヶ岳スケッチ」となりました。 しかし、この駒ヶ岳スケッチに関しては富士山が見えなかったのが良かったと思っています。
十国峠からの富士山と駒ヶ岳は次の様に見えます。 この構図で、富士山と十国峠を描くとすると
一見、両山並び立つように見えますが、画面に富士山がいる場合、何故か視線は必ず初めに富士山にいきます。それから周りの風景を眺めます。その時、このような立派な駒ヶ岳を描くと絵を見る人はどちらを見たらよいのか戸惑います。風景作品としては失敗作になります。 1996年は富士山が見えなかったために駒ヶ岳を描くことができたと思っています。 「⑦目にかかる時やことさら五月冨士」に載せた北斎の富嶽三十六景「箱根湖水」で駒ヶ岳と富士山が出てきますが、主役は駒ヶ岳より小さいく描かれた富士山です。駒ヶ岳などの周囲の山湖は富士山に視点が行くような構成になっています。 富士山を主役にして絵画を描くのは相当な力量が必要となるため、私はいまだ描いたことはありません。 芭蕉が江戸で常に富士山を眺めていたのに、江戸で読んだと思われる富士山の句がない。旅先の句はあるが、富士山が主役となる句がとても少ない。これぞ芭種の富士の句と言われるのがない。芭蕉も富士山には苦労したように思います。 ⑥ 一尾根はしぐるる雲か富士の雪 この句を鑑賞するには「尾根」が何かを理解しなければならない。 「尾根とは、山の峰と峰とを結んで高く連なる所。 また、隣り合う谷と谷とを隔てて連なる突出部。 脊梁 せきりょう 。 稜線 りょうせん 。」と理解していたので、 、富士山そのものには尾根はないと思っていた。しかし、ウィキペディアに怪しげではあるが、富士山にも尾根があるように書いてある。それでは芭蕉の時代に富士山に尾根があったか否か、芭蕉が富士山の尾根を読んだか否かが問題となるが、今のところ不明です。
富士山を眺めて句を詠んだところは冨士市富士町の柚木の茶屋か、箱根付近かと言われている。その二つの地点からの富士山を示します。 冨士市富士町の柚木の茶屋からの富士山で検討。
以上のように、筆者としては、しぐれ雲がでることで富士山が一層美しく見えるようになるとは思えないので、「一尾根はしぐるる雲か富士の雪」を富士山の名句とは思わない。 少し強引ですが、北斎の富嶽三十六景「山下白雨」が「一尾根・・・」の句のイメージに合う。富士山の周りの山の一つに雲がかかり、その下は雨が降っている雲の上は晴れて白い峰の富士が聳えている。実に雄大な景色です。 しかし、この「山下白雨」は夏の富士山で、北斎が天上に駆け上り、富士山と同じ高さから眺めた景色です。また、北斎の富士山は芭蕉没後に描かれたので、芭蕉はこの絵を見ていない。 筆者も富士山を眺める山から、この山下白雨のような景色にはまだ出会っていないため、「一尾根・・・」の句に共鳴しません。
⑦ 目にかかる時やことさら五月富士
上記の記載から、5月11日に江戸を立ち、5月30日に箱根の関を越えところでみた富士山を詠んだ句です。芭蕉が曾良にあてた書簡では、箱根は雨で見れたとしても雨の合間のようです。 旧暦の5月、元禄六年(1693年)の5/30日は、日本の暦はグレゴリオ暦ですので、7/2になり、梅雨の真ん中あたりです。 雨が降っていなくても、富士山はもっともおぼろげに見える季節です・ 現在の五月晴れとは異なり、芭蕉の五月冨士はおぼろげに見える富士山を表していると思います。山頂の雪はほとんど消えて沢の残雪が一筋か二筋有るかどうかです。
箱根の関所を越えたところで見た富士山。
「目にかかるときやことさら五月富士」の筆者の見解。 現代の五月の感覚でこの句を詠むと、五月晴れの日に箱根の関を越えた時、目の前に突然現れた富士山のとりわけすばらしいいことよ。 と、北斎の富嶽三十六景「箱根湖水」のような、富士山を想像してしまいますが。実際は違っていたと思います。 梅雨の中、見えないと思っていた富士山が箱根の関を越えたところで現れた、ことさらにおぼろげに見える五月の富士山が素晴らしい、と思うのはかなり難しい。今日は残念だと思うのが普通です。また、快晴であったとしても、箱根の旧暦五月の富士山は雄大で真白き峰の鮮明な富士山ではありません。おぼろげな富士山は特に好みではなく、この句には共鳴できません。 上掲の北斎の「箱根湖水」は富士山としてはすばらしい。冠雪が山体を多い、富士が鮮明の見える現在の1-3月頃か。北斎としては箱根の景色をまともに描いているためか、評価は何故か低い。 ![]() 芭蕉は富士山を描きました。 芭蕉は富士山を描いていました。それなら、「蛇足の補足」のその1に書いても良いのですが、それがわかったのが、「蛇足の補足」のその4の⑤ 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白きが描かれている「野ざらし紀行」を調べた時です。次の記事「松尾芭蕉 直筆の「野ざらし紀行」挿絵付きの1冊見つかる。が有りました。2022年5月24日」 が有りました。その挿絵付きの「野ざらし紀行」に富士山の絵が有りました。
宝永大噴火は芭蕉没後の江戸時代中期1707年ですので、富士川のほろりからの富士山は宝永山の凸部はありません。冨士山頂部は丸い三峰構造です。 富士山が描かれた平安時代から室町時代には、頂上を三つの峰に描く「三峰型」が富士山を描く一つの型となっていました。江戸時代でも芭蕉の「野ざらし紀行」1684年の頃までが三峰構造が殆どどでしたb。
富士山の山頂部を三峰に描くのは芭蕉の時代伝統的な描き方でしたが、東海道で富士川の周辺からの富士山山頂部は実際に三峰構造になっていました。最も、三峰構造に見えるのは富士川の北側にある白鳥山付近です。この富士山の形状は駿河の富士山の代表的な形状で、 貞享元(1684)年秋なので冠雪はほとんどないと思いますが、優雅で、雄大な富士山です。 このような富士山を眺めて描いたなら、捨て子の句と共に、富士山の句を二句ほど詠んでほしかったと思います。残念です。
芭蕉の奥の細道や肖像画などを多く描いている蕪村は画家としても一流です。富士山の画も多く、富士山の画を集めた画集にも掲載されています。その中の一枚を示します。
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