その3






獺祭とは







「獺祭」に初めて出会ったのはこの書です。岩国市周東町の書家、山本一遊が書きました。

日本酒の宣伝で見ましたが、「獺祭」の意味もわからず、書の造形に圧倒されて、ジーと眺めていました。長く見ていても、いつまでも飽きません

その後、2012年、モンド・セレクション(ヨーロッパで最も権威のあるとされる食品コンクール)にて、「最高金賞」を受賞、同年、アメリカ・ロサンゼルスで行なわれたインターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティションで「金賞」を受賞、なかでも、「獺祭 二割三分」は出品されたお酒のトップに選出、2018年には、「クラマスター2018」で「獺祭 磨き その先へ」がプラチナ賞を受賞している、日本を代表する酒と知りました。

筆者は、遺伝的にアルコールを分解する「ALDH2(アルデヒド脱水素酵素2)」が少なく、おちょこ一杯の酒で顔が真っ赤になり、苦しくなります。そのため、「獺祭」は飲んだことはありません。

しかし、この「書」が酒の品質を表すものとしたら、世界最高峰のものであると感じます。





獺祭 岩国市周東町の書家、山本一遊 書














獺祭の蔵元|旭酒造株式会社より引用 





本コラムで、正岡子規が「獺祭書屋主人」と号したことから、「獺祭」の内容を調べました。


獺祭」について


獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。

弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。


獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。


獺祭の蔵元|旭酒造株式会社より引用 


獺祭

かわうそが魚を陳べる。そのように、詩文を作るときに、多くの典故の語をならべることをたとえる。〔五総志〕唐の李商隱、文を爲(つく)るに多く書史を検閲し、左右に鱗次(りんじ)堆積す。時に謂ひて獺祭魚と爲す。



【獺・川獺】かわ‐うそ かは‥

イタチ科の哺乳類。体長六〇~七〇センチメートルで、イタチに似る。四肢はきわめて短く、指には水かきがあって潜水がうまい。背面は光沢のある褐色で、腹面は淡褐色。川岸、海岸などの穴にすみ、夜、魚、貝、水鳥などを捕食する。毛皮はラッコに類似し、高価だったために乱獲された。ユーラシア大陸、北アフリカに広く分布し、ユーラシアカワウソとも呼ばれるが、生息数は各地で減少。日本産亜種ニホンカワウソは、かつては日本全土に棲息したが、現在では、四国の一部にごく少数残存するのみ。特別天然記念物。かわおそ。おそ。


獺祭忌

正岡子規の忌日。9月19日。名称は、子規の号「獺祭書屋(だっさいしょおく)主人」にちなむ。「糸瓜忌(へちまき)」ともいう。秋の季語。

 獺祭とは - コトバンク (kotobank.jp)より引用 

川端龍子 「獺祭」 (1949)  







 真ん中に僧侶の衣装を纏って座っているのは獺


 [フリー絵画] 川端龍子 「獺祭」 (1949) - パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集より引用 

獺と獺祭書屋主人 

 


コツメカワウソ

日本では、ニホンカワウソが生息していましたが、残念ながら1979年高知県で目撃されたのが最後となり、2012年環境省が絶滅種に指定しています。
下田海中水族館でも、昨年より2頭のコツメカワウソを展示しており、可愛い仕草で大人気です






俳句を思案している獺

正岡子規の俳句

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

松山や秋より高き天主閣

春や昔十五万石の城下哉

牡丹画いて絵の具は皿に残りけり

山吹も菜の花も咲く小庭哉

をとゝひのへちまの水も取らざりき

風呂敷をほどけば柿のころげけり

柿くふも今年ばかりと思ひけり

紫の蒲團に坐る春日かな

鶏頭の十四五本もありぬべし

赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり


 

正岡子規    獺祭書屋主人
5月の最終水曜日は世界かわうその日 | 下田海中水族館 正岡子規 - Wikipedia 






正岡子規の「獺祭書屋主人」らしい文章を示します。上記絵画正面の「獺」が正岡子規のように見えてきます。



「俳諧大要」正岡子規著 抜粋



第五 修学第一期


一、自ら俳句をものする側に古今の俳句を読む事は最必要なり。かつものしかつ読む間には著き進歩を為すべし。己の句に並べて他人の名句を見る時は他人の意匠惨澹たる処を発見せん。他人の名句を読みて後自ら句をものする時は、趣向流出し句調自在になりて名人の己に乗り遷りたらんが如き感あるべし。

一、自ら著く進歩しつつあるが如く感じたる時、あるいは何とはなけれどただ無闇に趣向の溢れ出るが如く感じたる時は、その機を透かさず幾何にても出来るだけものし見るべし。かかる時はたしかに一段落をなして進歩すべき時機にして、仏教の大悟徹底、基督キリスト教の降神とその趣を同じくし、心中に一種微妙の愉快を感ぜん。但しかかる事は俳句修学の上に幾度もある事なり。一度ありたりとて自ら已に大悟徹底したるが如く思はば、野狐禅に堕おちて五百生の間輪廻を免れざるべし。志は大にすべき事なり。

一、古人の俳句を読まんとならば総じて元禄、明和、安永、天明の俳書を可とす。就中なかんずく『俳諧七部集』『続七部集』『蕪村七部集』『三傑集』など善し。家集にては『芭蕉句集』(何本にても善けれど玉石混淆しをる故注意すべし)、『去来発句集』『丈草発句集』『蕪村句集』などを読むべし。但しいづれも多少は悪句あるを免れず。中にも最も悪句少きは『猿蓑』(俳諧七部集の内)、『蕪村七部集』『蕪村句集』位ぐらいなるべし。(『故人五百題』は普通に坊間に行はれて初学には便利なり)

一、古俳書など読むも善し、あるいはこれを写すも善し、あるいは自ら好む所を抜萃するも善し、あるいは一の題目の下に類別するも善し。



正岡子規 俳諧大要-青空文庫要 より引用 









 


      その4






芭蕉の富士山の句





『「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記151』というコラムを「富士山あれこれ」に書いている。しかし、「富士山あれこれ」のコラムであるのに、富士山が出てこない。

このコラムは、『大野山の「柚子胡椒」に胡椒が入っていない』のなかの一編である松尾芭蕉の「青くても有べきものを唐辛子」の続きとして書いたものです。しかし、書いていくとその量が膨れたため独立したコラムです。そのため、これだけの文章の中に「富士山」の単語がない。「富士山あれこれ」のコラムにするため、松尾芭蕉と富士山の関係を記述します。


(1)松尾芭蕉の富士山の俳句

富士山が出てくる句は7句有ります。しかし、意外ですが、その中に筆者が共鳴し、感銘した句はありません。十七音で富士山を描くのは相当難しいと思いました。




番号

 松尾芭蕉の富士山の俳句

 制作年 年齢 
 ①  富士の山蚤が茶臼の覆かな 1676年  延宝4年 33歳
 ②  雲を根に富士は杉形の茂りかな 1676年  延宝4年 33歳
 ③  富士の風や扇にのせて江戸土産
1676年  延宝4年 33歳
 ④  富士の雪慮生が夢を築かせたり 1677年  延宝5年 34歳
 ⑤   霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 1684年 貞享元年 41歳 
   古池や蛙こむ水のおと 1686年 貞享3年  43歳 
    一尾根はしぐるる雲か富士の雪 1687年 貞享4年  43歳
 ⑦  目にかかる時やことさら五月富士
1694年 元禄7年 51歳 
富士山-言葉で描かれた「富士山」: 松尾芭蕉 より引用   





① 富士の山蚤が茶臼の覆かな


同じような句に「山の姿蚤が茶臼の覆かな」がある.。

また、「蚤」ではなく「蚕」で、「冨士の山蚕が茶臼の覆いかな」が正しい表記であるという記述がある。(*蚤(のみ) 蚕(かいこ))

下記のサイトを参考にしたが、「蚤」か「蚕」か定かではない。しかし、「蚤」でも「蚕」でも句の中になぜこの語句をいれたのかがわからない。


句の意味は茶臼に覆いをかけた形に似ているということになります。
下記画像に示すように、江戸からの富士だと似ているといえます。しかし、この句は江戸から郷里伊賀の上野へ帰る旅の途中、富士山麓あたりで詠んだ句であれば、駿河からの富士山は茶臼に覆いの形には似ていないと思います。かえって全く異なる形と言えます。




富士の山の形は茶臼に覆いをかけたような形である

富士の山は茶臼のような格好をしている。茶臼とは抹茶を引く石臼のことで、普通の石臼と比べて上層部(回転部)が下層部(固定部)に比べて以上に高い構造の臼。富士の形はこの茶臼のようだというのは古来言い古されてきた。また、「蚤が茶臼」というのは、分不相応なほどの夢や希望をもつことの表現として使われるが、ここではその意味は無くて定型句として茶臼を表現しているだけらしい。つまり、一句は富士の山の形は茶臼に覆いをかけたような形であるといっているのである。それでも、この富士を見る旅は、芭蕉にとって江戸で俳諧宗匠として立机しようという決意の旅でもあって心に期する「蚤が茶臼」の高揚した気分があったかもしれない

富士の山蚤が茶臼の覆かなより引用 





茶臼山はかならず富士山の形をしている。頂上が平らで円錐形に裾野が広がっている。茶臼山の親分は富士山だ。

茶臼山はかならず富士山の形をしている。頂上が平らで円錐形に裾野が広がっている。茶臼山の親分は富士山だ。

ちなみに岩波文庫『芭蕉俳句集』には蚕のところが蚤になっている。これは古い諺に、ありえないことが現実になったことのたとえに、「蚤が茶臼」蚤が茶臼を背負って富士山をチョイと越えたなんてありえないことだが、足軽からの成り上がり者が天下をとった秀吉の故事に由来する。しかし蚤が茶臼を背負ったのではとてもい「ふjい富士山のかっこうにはならない。
 別の俳句の詳しい本(『芭蕉全集』(日本名著全集刊行会, 1929)の62頁)に,「原本の「蚕}の右傍に「蚤歟」と記せり。「 芭蕉翁全傳」には原本の如く「蚕」とあり。「錢龍賦」には「不二の山蚤が茶臼の覆いかな」ー他石)とあった。初夏の早朝に新幹線から富士山を眺めたら、麓を白い雲が覆って、その上に茶臼に覆いをかけた恰好の山が見えた。もともと蚕だったところを誰か別人が蚤と朱を入れた(訂正した)のであろ


*「ふjい富士山の:原文をそのまま引用
芭蕉の石臼の頌より引用 






富士山の姿は、あの諺や謡に出て来る蚤の茶臼、それよりは、その覆いの形に似ていることよ

〇蚕が茶臼の覆「蚤が茶臼の覆ひ」。「蚕」は「蚤」の誤り。
富士山の姿は、あの諺や謡に出て来る蚤の茶臼、それよりは、その覆いの形に似ていることよ。
土芳の『全伝』に「延宝四辰ノ夏旅立出テ、途中二冨士ノ吟有」として出し、竹人の『全伝』も同じ時の作と
している。即ち延宝四年夏江戸から郷里伊賀の上野へ帰る旅の途中、富士山麓あたりでの吟であろう。

富士山の姿は、あの諺や謡に出て来る蚤の茶臼、それよりは、その覆いの形に似ていることよ
Full text of "芭蕉発句全講 " (より引用 





富士山の姿は、あの諺や謡に出て来る蚤の茶臼、それよりは、その覆いの形に似ていることよ


          

茶臼 と 覆いをかけた茶臼





   

江戸城からの富士山 と 浜石岳(駿河)からの富士山

Full text of "芭蕉発句全講 " (より引用 








 雲を根に富士は杉形の茂りかな


富士山が杉のように鋭角になっている印象はなく、この句にも共鳴できない。


しかし、「杉形」が茶碗の形を表すとしたらすそ野の広がりを隠した富士山と似ているといえます。江戸時代に「杉形の茶碗」が一般化していたかどうかが問題です.
また、富士山を茶椀の形になぞらえて表わすというのは趣に欠けると思います。

茶碗のかたちとすると、「杉の形のような茶碗の茂り」の意味は何かわからない。すそ野が雲に隠れると森林限界の上が多くなって、岩場がほとんどになり、樹木の茂りはなくなります



すぎ
富士は高い山で、雲を峰に置かずに根においている。その上に円錐形の富士がある。その姿はまるで巨大な杉が屹立しているようだ。

雲を根に富士は杉形の茂りかな より引用


麓に雲をなびかせた富士山は、杉が茂っているかたちだ、というのです。『続連珠』という本に江戸 松尾桃青の名で出ています。33歳ごろの作ですが、富士を杉の木に見立てたのは強引というか、ちょっと無理かも。富士山の姿から杉の木を思ったことがわたしなどにはついぞないのです。

桃青の日々(14) | 坪内稔典の「窓と窓」 より引用
 
      

 杉 - Google 検索
より引用
          高川山からの富士山           箱根神山からの冨士山 2014.8.8


すぎ‐なり【杉▽形/杉▽状】

杉の木のように、上がとがり、下が広がった形。米俵などを三角形に積み上げた形。










 杉形とは - コトバンク と  器と味について⑤ | .より引用 







③  富士の風や扇にのせて江戸土産


軽妙でしゃれてはいるが、富士山の美しさ、雄大さなどは出てこない。



伊賀上野到着後、市隠宅にて歌仙があった折の作
延宝4年6月、33歳。伊賀上野に帰郷の途路、富士を見た。一句は、伊賀上野到着後、市隠<しいん>宅にて歌仙があった折の作。挨拶吟だったのであろう。なお、この伊賀帰郷の際の作品は7句残っている。

市隠宅での歌仙に招かれて、土産の扇子を差し出してこの句を挨拶吟としたのであろう。土産といって何もありませんが、この扇子に富士の風が載せてあります。これを煽ると富士の風が届くことでしょう、とでも言ったのではないか。軽妙な明るい作品。
富士の風や扇にのせて江戸土産 (yamanashi-ken.ac.jp) より引用 






④ 富士の雪慮生が夢を築かせたり


富士のしまいの雪と初雪の間の一瞬の間は、あたかも「盧生が夢」

富士の雪慮生が夢を築かせたり

「慮生が夢<ろせいがゆめ>」は、別名「邯鄲の枕<かんたんのまくら>」・「黄梁一炊の夢<こうりょういっすいのゆめ>」などと呼ばれる中国の故事。黄梁は大粟のこと。邯鄲は中国河北省の都市の名。

 邯鄲という街で盧生という名の青年が、道士呂翁から思いのままの夢を見ることのできる不思議な枕を借りて夢を見る。栄耀栄華を夢に見ようと思って眠るとたちまち富貴の人となった。夢から覚めてみると未だ黄梁が煮えていなかったという。人の栄耀栄華など一瞬のものだという教え。

 ところで、富士の雪については、6月名残の雪が降って雪の季節を終えると、その晩には初雪が降るといわれている(現代では、最高気温を出した後に最初に降る雪を初雪という)。一句の意は、富士のしまいの雪と初雪の間の一瞬の間は、あたかも「盧生が夢」のようだというのである。

*「築かせたり」読みは「つかせたり」

富士の雪盧生が夢を築かせたり より引用 



「慮生が夢」は一瞬の間で、「富士の雪」も一瞬の間である。その「富士の雪」が「慮生が夢」をどのように「築かせた」のかが分からない。

その前に、江戸時代は、「6月名残の雪が降って雪の季節を終えると、その晩には初雪が降るといわれている」とあるが、江戸時代の初雪の定義がわからない。

ネットで次の一首があり、残雪が消えた日に、また雪が降ったという歌が有りました。これが富士の雪が一瞬を示すと思います。この句と芭蕉の「富士の雪・・」の関連を述べた記述は有りませんが、芭蕉の時代にこの感覚が続いていたと考えます。


富士の嶺に降り置く雪は六月(みなづき)の 十五日(もち)に消ぬればその夜降りけり

富士山と夏の雪


今年の8月15日は、たまたま満月でした。満月の夜のことを「十五夜」といいますが、これは、一ヶ月を月の満ち欠けの周期に近い29日とする太陰暦に基づいており、一日目(朔日)が新月に、十五日目が満月に常に対応していたためです。「五月雨(さみだれ)」〈梅雨〉のように、旧暦に関する言葉は日本の自然現象と季節感をよく反映しているのですが*、明治維新後に一年を365日とする今の太陽暦にとって代 わられました。


さて、月の暦が用いられていた古代(8世紀頃)の和歌集『万葉集』には富士山を詠んだ歌が十余首採録されており、高橋虫麻呂という人による次のような一首があります:


 富士の嶺に降り置く雪は六月(みなづき)の 十五日(もち)に消ぬればその夜降りけり


旧暦では第六の月を「みなづき(水無月)」と呼び、「十五日」の読みは、もちろん満月の和語である望月(もちづき)のことです。太陰暦の六月十五日が太陽暦のいつに当たるかは年によりますが、2019年では7月17日のようです。

したがって、今日風に歌意を言い替えると、「富士山頂付近にあった残雪は7月中旬の満月の日に融けきったのに、同じ日の夜にまた雪が降り積もったよ」となります。夏の盛りと冬の到りが同時に訪れたような、奇妙な感覚でしょうか。標高の高い富士山上部では理論上海水面高度より気温が22度前後低くなるとはいえ、こんな時季に麓から視認できる位の降雪があったという描写は、なかなか興味深いものです。

富士山日記第81号(執筆者 環境省 富士箱根伊豆国立公園管理事務所 三浦克己より引用 


「富士の雪」が一瞬の間であることに「慮生が夢」を結びつけたのはしゃれていますが、富士山の美しさ、雄大さなどは出てこない。





 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き


41歳の芭蕉が箱根の関を超えるとき、霧しぐれのため眼前に見えるはずの富士山は見えないが、見えないことがまた面白いと詠む。この「面白き」について読者は下記のようにいろいろ考察します。殆ど好意的に述べています。


・心にその姿を思い描きながら旅をしていると、これもまた富士の眺望を楽しむ一つの方法

・想像の余地があるぶんだけ、富士見はいっそう面白く、富士山の姿も一段と美しく思われるよ。

・ここに世間の常識にはくみしない、俳諧・俳句独特の美意識、思想が示されている。

ちょっとひねくれた読者もいる。

この旅は、定型から脱し、芭蕉芸術を確立していく過程。定型にならざるを得ない富士の景色は敬して遠ざけたいところだが、幸い今日の富士は霧しぐれの中に隠れている

筆者は、山歩きの目的は富士山を見ることが半分以上なので、富士山が見えないときの落胆は大きい。雲の間から見えそうなときは、相棒さんに叱られながら2時間ほど頂上の一部が見えるのを待っている。そのため、70歳を過ぎても「富士をみぬ日ぞ面白き」とはなれない。




眼前に見えるはずの富士山は見えない時の、読者の感想


厚い雲の中の富士
 貞享元(1684)年秋、芭蕉は江戸深川の庵を発ち、東海道を西に進み、故郷伊賀へと向かう。芭蕉四十一歳。『野ざらし紀行』の旅であった。
 掲出句は『野ざらし紀行』所載。「関こゆる日は、雨降ふりて、山皆雲にかくれたり」(箱根の関を越える日は、雨が降って、富士山をはじめ山はみな雲の中に隠れてしまった)という一文に続いて掲載されている。「霧しぐれ」は霧と時雨の中間的な現象、時雨が降っているとまでに感じられる濃厚な霧である。句意は「濃い霧のために眼前に見えるはずの富士山を見ない日となった。それもまた、面白い」。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き|芭蕉の風景|ほんのひととき|noteより引用 



箱根の関を越える日、霧雨が降り、遠くの景色も深い霧に包まれて、富士山も隠れているが、たとえ富士が見えなくても、心にその姿を思い描きながら旅をしていると、これもまた富士の眺望を楽しむ一つの方法だと思われて、面白いことだ。

「雰しぐれ 富士をみぬ日ぞ 面白き」芭蕉 | 29年ぶりに本帰国した浦島太郎の草双紙 (ameblo.jp)



霧が小雨のように立ち込める日、
霧がかかって見えない富士山を、
霧の向こうはどんなであろうか、やはり美しい富士であろうな、と、
思い描きながら、あえて富士山を見ない日こそ、
想像の余地があるぶんだけ、富士見はいっそう面白く、
富士山の姿も一段と美しく思われるよ。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き品詞分解と現代語訳を教えて頂きたいです!ご... - Yahoo!知恵袋より引用 



世間では、晴れると「よい天気」と言い、幸福感を覚える人が多い。逆に雨が降ると「わるい天気」と呼び、うっとうしさを覚える人が多いだろう。
 ところが、掲出句の場合には、富士を隠してしまうため、常識では嫌うべき「霧しぐれ」を、「面白き」と詠んでいる。ここに世間の常識にはくみしない、俳諧・俳句独特の美意識、思想が示されている。
「すべてのもののすべての状態に美を見いだす」、それこそが、俳句の根本にある考え方なのではないだろうか。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き|芭蕉の風景|ほんのひととき|noteより引用 



 この旅は、定型から脱し、芭蕉芸術を確立していく過程。定型にならざるを得ない富士の景色は敬して遠ざけたいところだが、幸い今日の富士は霧しぐれの中に隠れている。それにしても芭蕉ほど富士を読まない歌人も少ないのではないか。それでいて、目には見えない富士が芭蕉の心にははっきりと見えてもいる。

野ざらし紀行箱根 (yamanashi-ken.ac.jp)より引用 



しかし、1996.12.12の48歳の筆者はまた異なった感想を持っていた。

40歳ころから再び風景スケッチを始めて、48歳の時十国峠にスケッチに出かけた。山登りはまだ行っていないため、ケーブルカーで登った。そこで箱根の駒ヶ岳をスケッチした。
重なり合う山並みの上に箱根の駒ヶ岳が悠然と構えている。それなりに描けたと満足していた。

この十国峠行きの目的は、富士山のスケッチでしたが、霧しぐれで富士山は霧の中、そのため「霧しぐれ冨士を見ぬ日ぞ駒ヶ岳スケッチ」となりました。
しかし、この駒ヶ岳スケッチに関しては富士山が見えなかったのが良かったと思っています。



佐藤正昭 1996.12.12制作 十国峠からの箱根駒ヶ岳







十国峠からの富士山と駒ヶ岳は次の様に見えます。
この構図で、富士山と十国峠を描くとすると


富士山と駒ヶ岳 、両山並び立つように描くのは難しい





一見、両山並び立つように見えますが、画面に富士山がいる場合、何故か視線は必ず初めに富士山にいきます。それから周りの風景を眺めます。その時、このような立派な駒ヶ岳を描くと絵を見る人はどちらを見たらよいのか戸惑います。風景作品としては失敗作になります。
1996年は富士山が見えなかったために駒ヶ岳を描くことができたと思っています。







「⑦目にかかる時やことさら五月冨士」に載せた北斎の富嶽三十六景「箱根湖水」で駒ヶ岳と富士山が出てきますが、主役は駒ヶ岳より小さいく描かれた富士山です。駒ヶ岳などの周囲の山湖は富士山に視点が行くような構成になっています。

富士山を主役にして絵画を描くのは相当な力量が必要となるため、私はいまだ描いたことはありません。

芭蕉が江戸で常に富士山を眺めていたのに、江戸で読んだと思われる富士山の句がない。旅先の句はあるが、富士山が主役となる句がとても少ない。これぞ芭種の富士の句と言われるのがない。芭蕉も富士山には苦労したように思います。





 一尾根はしぐるる雲か富士の雪


この句を鑑賞するには「尾根」が何かを理解しなければならない。

「尾根とは、山の峰と峰とを結んで高く連なる所。 また、隣り合う谷と谷とを隔てて連なる突出部。 脊梁 せきりょう 。 稜線 りょうせん 。」と理解していたので、
、富士山そのものには尾根はないと思っていた。しかし、ウィキペディアに怪しげではあるが、富士山にも尾根があるように書いてある。それでは芭蕉の時代に富士山に尾根があったか否か、芭蕉が富士山の尾根を読んだか否かが問題となるが、今のところ不明です。



尾根とは

尾根(おね)は、谷と谷に挟まれた山地の一番高い部分の連なりのことである。山稜(さんりょう)、稜線(りょうせん)とも言う。地図上では等高線の突出として示される。

概要
尾根は山頂から始まり谷間へと続く。
富士山のような円錐形の山では尾根は明確には存在しない。しかし、降雨と流水によって浸食が進むと谷ができるから、谷と谷の間の盛り上がりとして尾根が生まれる。
孤立峰(こりつほう)では尾根は山頂から麓へと伸びるが、多くの山は複数が並んでおり、その場合には尾根は山脈の間をつないで伸びる。ある程度直線的に尾根のつながった山が並ぶのを連峰(れんぽう)という。そのような尾根筋を通り抜ける山行を往々に縦走という。また、そのような尾根筋は分水嶺ともなる。

*この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

尾根 - Wikipedia


「はしぐるる」ではなく「しぐるる」=「時雨るる」 「時雨」とは、晩秋から初冬にかけて、ぱらぱらと降ってはやむ、一時的な通り雨。





富士山を眺めて句を詠んだところは冨士市富士町の柚木の茶屋か、箱根付近かと言われている。その二つの地点からの富士山を示します。


冨士市富士町の柚木の茶屋からの富士山で検討。


冨士市富士町柚木駅から眺めた富士山  「一尾根」は富士山の尾根か

冨士市富士町に平垣公園という小さな公園がある。平垣公園の入口に芭蕉の句碑があった。
ひと尾根はしぐるる雲か不二の雪    松尾芭蕉句碑
 この句は貞享4年(1687年)、俳人芭蕉が東海道を旅した時、柚木の茶屋でよんだものと伝え、文化14年(1817年)に丹波の俳人野楊が碑とした。裏には「しぐるるや失もせず山の月」の野楊の句が刻まれている。
富士市教育委員会  出典は『泊船集』。

ひと尾根はしぐるる雲か不二の雪芭蕉の句碑




冨士市富士町柚木駅から眺めた富士山です

この富士山では、周りの様の尾根にしぐれ雲が有ったとしても、富士山の風景に殆ど関与しないようです。


  宝永山はまだできていません。


   


そのため、芭蕉が柚木の茶屋から「一尾根はしぐるる雲か富士の雪」を詠んだとすると富士山の尾根にしぐれ雲がかかっている風景となります。

   





全山真白に雪をまとってそびえ立つ巨峰富士。その山肌を走る幾つもの稜線の一つが黒雲に覆われている。あれは時雨を降らせている雲か。
芭蕉321~330 (mydns.jp)




筆者感想:しぐれ雲がでているので富士の雪の白さが際って見えるという句か。それなら快晴の中での白い雄大な富士山を見たいと思う。








箱根関所付近からの富士山  「一尾根」は富士山の周りの山の尾根か

貞亨4年11月、『笈の小文』旅中。周囲に連山を眺望しながら富士が屹立している風景であろうから、箱根付近での嘱目吟かと思われる。
一尾根はしぐるる雲か富士の雪 (yamanashi-ken.ac.jp)



   


   



この風景の富士山だと、「尾根」は周りの山並みの「尾根」が妥当と思われます。富士山が最も大きく見える箱根関所付近からの富士山です。
芦ノ湖外輪山で最も高い三国山の右側にしぐれ雲を付けてみました。山並みにしぐれ雲が有れば風景全体が霞んだようになると思う

   


沢山の冬の山々が見える。その中には尾根が黒雲におおわれている山がある。あれはきっと時雨がやってきたのであろう。その山なみの風景の中に真っ白に雪をたたえた独峰富士が立っている。
 古来、富士山を雄大に描ききった名句として称えられてきた一句。




今や富士は、全山雪をまとい、他の嶺々を圧してそびえている。どの尾根も雪であるが、その中の一尾根に、薄暗い雲がかかっているのが望まれる。あれは時雨を降らしている雲であろうか
富士の雪 - 壺中日月 (goo.ne.jp)





冬の山々が見えるなかで、尾根が黒雲に覆われている山がある。それはきっと時雨がやってきたことを知らせているのではないか。その風景の中に雪化粧をした富士山がそびえたっている。この句の印象として、時雨の黒雲と富士の雪という色の対比が美しく、富士山の雄大さがより一層引き出されているように感じた。(白崎)

冬の秀句(41) - 常磐俳句 (fc2.com)


筆者感想:しぐれ雲がでているので全体的にすっきりした風景ではない。それなら快晴の中での白い富士山を見たいと思う。また、箱根からの富士はそれほど雄大さは感じない。柚木の茶屋からは雄大な富士山です。




以上のように、筆者としては、しぐれ雲がでることで富士山が一層美しく見えるようになるとは思えないので、「一尾根はしぐるる雲か富士の雪」を富士山の名句とは思わない。




少し強引ですが、北斎の富嶽三十六景「山下白雨」が「一尾根・・・」の句のイメージに合う。富士山の周りの山の一つに雲がかかり、その下は雨が降っている雲の上は晴れて白い峰の富士が聳えている。実に雄大な景色です。

しかし、この「山下白雨」は夏の富士山で、北斎が天上に駆け上り、富士山と同じ高さから眺めた景色です。また、北斎の富士山は芭蕉没後に描かれたので、芭蕉はこの絵を見ていない。


筆者も富士山を眺める山から、この山下白雨のような景色にはまだ出会っていないため、「一尾根・・・」の句に共鳴しません。



北斎の富嶽三十六景の「山下白雨」



「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」とともに、冨嶽三十六景のシリーズの三役のひとつに数えられる。白雨とは夕立のこと。快晴の山頂に対し、山麓に下ると漆黒の闇に包まれ強烈に走る一瞬の稲妻が描かれ、そこに激しい雨が降っていることがイメージできる。自然に超越して、静と動をあわせ持つ、富士の雄大さ見事に表現された一枚である。『富嶽百景』「夕立の不二」には、その裾野の村に視点が移動した光景が描かれている。今日のように飛行機が無い時代にあって、富士を様々な視点からイメージできた北斎の力量に驚くばかりである。

冨嶽三十六景《山下白雨》 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)より引用 





⑦ 目にかかる時やことさら五月富士



「目にかかる時やことさら五月富士 」の鑑賞

典は『芭蕉翁行状記』(路通編)。
 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸を発って上方へ最後の旅する。

五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく
   麥の穂を便につかむわかれかな   翁
箱根の關越て
   目にかゝる時やことさら五月富士


 『芭蕉翁發句集』には「五月三十日の富士の思ひ出らるゝに」と前書きがある。
箱根宿は東海道五十三次10番目の宿場。




最後の上方帰郷の際、箱根を越えた辺り、ちょうど富士山の全貌が見えてきた。俳聖の最期を気遣ったか、富士は五月晴れとなって、その姿を「ことさら」に美しく 現してくれたのである。
 曾良宛書簡では、箱根は雨、三島への下りも難儀したことが報告されているので、この「五月富士」は心象風景としての富士か、または雨の合間の瞬間の眺望だった のかもしれない。


目にかかる時やことさら五月富士 より引用 


 くもり空で、とても富士など見えないと思っていた所、山を越える頃ふとその雲が切れて、実に目にもおざやかに富士の姿が現れた。
 その山容の美しさ、このように予期もしない時にふと目に入った時こそ、殊更に美しく感じられるよ富士の峰は、という句である。
(芭蕉俳句大成)

目にかゝる時やことさら五月富士 (urawa0328.babymilk.jp)

 
芭蕉が見た最後の富士は五月富士でした。この句からは五月富士がその雄大な姿を晒しているように感じられます。「ことさらに」とありますからさらに強調されている感じがしますね。天気は快晴で、雪も解けた富士山が堂々とたっている、そんな情景が浮かぶようです。

芭蕉が曾良にあてた書簡によれば、この日、箱根は雨で三島へくだるのも苦労した、というようなことが書かれているのです。この句は雨で富士山が見えない中、芭蕉が心の中に思い描いた風景なのでしょうか。それとも、雨の合間に見れた風景なのでしょうか。そこは謎です。
こちらの句は元禄6年(1693年)5月に詠まれているようです。芭蕉が亡くなったのは1694年ですから最晩年ですね。


五月富士の意味や季語は?芭蕉が詠んだ五月富士の句の紹介や解説も | 贈り物・マナーの情報サイト | しきたり.net



上記の記載から、5月11日に江戸を立ち、5月30日に箱根の関を越えところでみた富士山を詠んだ句です。芭蕉が曾良にあてた書簡では、箱根は雨で見れたとしても雨の合間のようです。

旧暦の5月、元禄六年(1693年)の5/30日は、日本の暦はグレゴリオ暦ですので、7/2になり、梅雨の真ん中あたりです。
雨が降っていなくても、富士山はもっともおぼろげに見える季節です・

現在の五月晴れとは異なり、芭蕉の五月冨士はおぼろげに見える富士山を表していると思います。山頂の雪はほとんど消えて沢の残雪が一筋か二筋有るかどうかです。


元禄六年(1693年)5/30日の富士山の見え方

旧暦の5月は和暦の年の初めから5番目の月となり、夏至を含む月、となるため、大体現代の暦の6月のはじめから7月のはじめくらいまでをさします










20150530釈迦が岳
 

20170610三窪高原
 




20180708金時山


箱根の関所を越えたところで見た富士山。


箱根の関を越えところでみた富士山

富士山の山頂部で、宝永山の凹みの上部が少し見えます。裾広がりの雄大な富士山ではありません。
*注:芭蕉の時代はまだ宝永山はありません






江戸から箱根の関所を越えた所から
富士山を眺める
 


江戸から関所を越えたところからの富士山
「目にかかるときやことさら五月富士」の富士山の形。これは1/4の鮮明な富士山

 


江戸から関所を越える前からの富士山

街道より高いところにある箱根成川美術館から



「目にかかるときやことさら五月富士」の筆者の見解。


現代の五月の感覚でこの句を詠むと、五月晴れの日に箱根の関を越えた時、目の前に突然現れた富士山のとりわけすばらしいいことよ。
と、北斎の富嶽三十六景「箱根湖水」のような、富士山を想像してしまいますが。実際は違っていたと思います。





北斎の富嶽三十六景「箱根湖水」

The lake of Hakone in the Segami province - 富嶽三十六景 - Wikipediaより引用











梅雨の中、見えないと思っていた富士山が箱根の関を越えたところで現れた、ことさらにおぼろげに見える五月の富士山が素晴らしい、と思うのはかなり難しい。今日は残念だと思うのが普通です。また、快晴であったとしても、箱根の旧暦五月の富士山は雄大で真白き峰の鮮明な富士山ではありません。おぼろげな富士山は特に好みではなく、この句には共鳴できません。

上掲の北斎の「箱根湖水」は富士山としてはすばらしい。冠雪が山体を多い、富士が鮮明の見える現在の1-3月頃か。北斎としては箱根の景色をまともに描いているためか、評価は何故か低い。




 


      その5






芭蕉は富士山を描きました。



芭蕉は富士山を描いていました。それなら、「蛇足の補足」のその1に書いても良いのですが、それがわかったのが、「蛇足の補足」のその4の 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白きが描かれている「野ざらし紀行」を調べた時です。次の記事「松尾芭蕉 直筆の「野ざらし紀行」挿絵付きの1冊見つかる。が有りました。2022年5月24日」
が有りました。その挿絵付きの「野ざらし紀行」に富士山の絵が有りました。




松尾芭蕉 直筆の「野ざらし紀行」挿絵付きの1冊見つかる  2022年5月24日

松尾芭蕉 直筆の「野ざらし紀行」挿絵付きの1冊見つかる 京都
2022年5月24日 14時42分

江戸時代の俳人、松尾芭蕉が記した紀行文「野ざらし紀行」で、2冊あるとされてきた直筆のもののうちの、挿絵付きの1冊が見つかり、専門家の鑑定で本物と確認されたと、京都の美術館が発表しました。












 松尾芭蕉 直筆の「野ざらし紀行」挿絵付きの1冊見つかる 京都 | NHKより引用
 直筆文


富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝、ちゝに憎まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝハ汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。




現代語訳


富士川のほとりを行く時、三歳くらいの捨て子が哀れげに泣いていた。きっと親は自分たちで育てていくことができず、かといってこの急流に赤子を投げ込んで、自分たちだけ浮世をわたっていくことも耐えかねて、露ほどのはかない命が失われてしまう間、捨て置いたのだろう。小萩が秋風に吹き散らされるように、今宵散るだろうか、明日しおれるだろうかと袂から食物を投げてやるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに

猿の声に哀れを感じる人々よ、秋風の中に響くこの赤子の声を、どう感じますか。

いったいお前はどうしたのか。お前は父に憎まれたのか、母に疎まれたのか。いや、父はお前を憎んだのでは無い、母はお前を疎むのではない。ただ天がお前に下した運命の非情を泣け。

野ざらし紀行 全篇詳細解読 音声つき | 富士川 (kaisetsuvoice.com)より引用



宝永大噴火は芭蕉没後の江戸時代中期1707年ですので、富士川のほろりからの富士山は宝永山の凸部はありません。冨士山頂部は丸い三峰構造です。

富士山が描かれた平安時代から室町時代には、頂上を三つの峰に描く「三峰型」が富士山を描く一つの型となっていました。江戸時代でも芭蕉の「野ざらし紀行」1684年の頃までが三峰構造が殆どどでしたb。





富士山の三峰構造は室町時代から

室町時代の作とされる
『絹本著色富士曼荼羅図』













富士山 - Wikipedia
 

伝雪舟筆「富士三保清見寺図」






永青文庫美術館 (eiseibunko.com)


富士山図屏風 狩野探幽 江戸初期


 




富士山図屏風 狩野探幽 江戸初期|板橋区立美術館


富士山の山頂部を三峰に描くのは芭蕉の時代伝統的な描き方でしたが、東海道で富士川の周辺からの富士山山頂部は実際に三峰構造になっていました。最も、三峰構造に見えるのは富士川の北側にある白鳥山付近です。この富士山の形状は駿河の富士山の代表的な形状で、 貞享元(1684)年秋なので冠雪はほとんどないと思いますが、優雅で、雄大な富士山です。


このような富士山を眺めて描いたなら、捨て子の句と共に、富士山の句を二句ほど詠んでほしかったと思います。残念です。



富士川付近の白鳥山からの三峰構造の富士山

 


宝永噴火前の宝永山の凸部がない白鳥山からの富士山。貞享元(1684)年秋ですので冠雪は殆ど無しか。



1967年秋【平凡社】発行【別冊 太陽 / 俳句】の芭蕉の画


「旅された当時の 五つの情景」の記載だけで、何処の景色等の記載がない。三峰の富士山のように見えるが原本を見ていないため不明。

  







【おもしろやことしのはるも旅の空】【100q甚く感じ入り候記(14)】 - 百休庵便り (goo.ne.jp)より引用 





芭蕉の奥の細道や肖像画などを多く描いている蕪村は画家としても一流です。富士山の画も多く、富士山の画を集めた画集にも掲載されています。その中の一枚を示します。

富嶽列松図  与謝蕪村 (1716-1784年) 江戸時代/安永7-天明3年 紙本,墨画淡彩  愛知県美術館所蔵 

冨士山の山頂は平坦で4峰になっています。

  




重要文化財 富嶽列松図 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)より引用