芭蕉肖像画

(1)芭蕉の肖像画では、殆どが宗匠頭巾をかぶっている。宗匠頭巾とは、ふちがなく、円筒形で頂が平らな頭巾で、連歌俳諧、俳諧、茶道などの宗匠が好んでかぶったところから、そのようにに呼ばれました。下図の芭蕉の宗匠頭巾をみると、似ているがそれぞれ異なっています。芭蕉は沢山の宗匠頭巾をもっており、うちでも外でも、宗匠宇頭巾をかぶっていたようです。

そのため、宗匠頭巾の中が気になった。ちょんまげをしているのか、丸禿げか、一部毛髪があるのか。






(2)芭蕉の毛髪はないのか

肖像画を十数点のせている萩原蘿月 著「芭蕉の全貌」(昭和10年刊)に、風貌・性格の記述があるが、毛髪に関する記述はない。
それらの肖像画に宗匠頭巾をかぶっていない芭蕉像があり、其二枚には毛が一本もない。しかし、肖像画解説には毛髪の記述がない。
毛髪に関する記述はほかでもみられず、芭蕉関連の評論家は句の表記と同様、芭蕉の毛髪にも興味を示さない。



 

 







「祖荷」の生年月日、詳細不明。
   

芭蕉の全貌 - 国立国会図書館デジタルコレクション  より引用 




また、荻原井泉水 編「奥の細道古註」(1936年刊)にある「鼇頭奥之細道」の挿画をみると、芭蕉に毛髪はない。。






森素檗筆 芭蕉・曽良図画賛の芭蕉も丸禿げです。
これら4枚を見て、芭蕉は丸禿げであったと思った


  森素檗筆 芭蕉・曽良図画賛(部分)

 藤森素檗が芭蕉と曽良を描き、それに合わせて2人の句を添えています。
 芭蕉の句は「風流のはじめやおくの田植うた」、曽良の句は「松しまや鶴に身をかれほととぎす」で、どちらも『奥の細道』に所収の句です。
 画中の芭蕉と曽良は、笠と笈(荷物を入れて背負う箱)を身につけています 



藤森素檗 ふじもり-そばく ... 1758-1821 江戸時代中期-後期の俳人。


芭蕉は丸禿げのように描いています。

しかし、芭蕉没後の作品です。実際に眺めていません。
奥の細道むすびの地記念館の所蔵品を紹介します【芭蕉・俳諧関係資料】 | 大垣市公式ホームページより引用



しかし、ここで「芭蕉に毛髪は一本もなかった」、とするのは早計と考えた。


まず、「鼇頭奥之細道」の挿画は蕪村の画を摸写したものである。原作を見なければいけない。蕪村の「奥の細道図」は十数点制作され、4点現存されている。「鼇頭奥之細道」が摸写したと思われる、奥の細道図の挿画を下に載せる。

芭蕉の頭頂部には毛髪がないが、側頭部と後頭部には毛髪があります。町人髷のちょんまげがないような形です。毛髪の長さは不明です。
「鼇頭奥之細道」画としては蕪村よりスッキリした感じですが、毛髪がなくなっています。「古池や」の表記と同じように、時代とともに画のほうも表現は変わっていきます。

他の蕪村の「奥之細道」では、ちょんまげかも知れないという描き方です。

また、蕪村筆「俳仙群会図、」では、側頭部には毛髪があります

蕪村が描いた芭蕉にはすべて毛髪が有りました。
しかし、芭蕉が死んだのは1694年蕪村が生まれたのは1716年で、蕪村は芭蕉を実際に眺めていません。実際に芭蕉を眺めた人の肖像画を探します。


 
与謝野蕪村 奥之細道. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
与謝蕪村(1716-1783年)は、安永から天明期、50代後半~60代にかけて10数点の《奥の細道図》を制作したと考えられている。この時期を同じくして芭蕉回帰を理想とする「蕉風復興運動」が盛行し、蕪村がこの《奥の細道図》を制作したきっかけは、尊敬する芭蕉への想いからだったといわれている。
猪瀬あゆみ著「与謝蕪村筆《奥の細道図》とその制作背景について」228738552.pdf (core.ac.uk)より引用
 
 
 与謝蕪村筆奥の細道図屏風の解釈HK00005123805.pdfより引用
   
このお記事を書いているときに。5作目の奥の細道が発見されたという報道があった。江戸時代から100年以上たった時点でも新たな発見があることに驚く。旅たちは宗匠頭巾を被っているが、途中にある馬に乗っているのが芭蕉としたら側頭部には毛髪が描かれている。
蕪村が書き写した「奥の細道」発見 5作品目、芭蕉を敬愛 - YouTubeから引用

 

芭蕉の拡大 (蕪村筆)「俳仙群会図」 (柿衛文庫蔵)

 
蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十五) :俳諧と美術:SSブログより引用



「芭蕉の全貌」に載った丸禿げの肖像画二枚も、3番の一枚は作者不明で、11番の作者「祖荷」も芭蕉と同じ時代のものか不明です。森素檗筆 芭蕉・曽良図画賛は芭蕉没後の作品です。芭蕉の後の時代の作者の場合、毛髪などいい加減に伝わっていることが多いと思います。

芭蕉の毛髪の有無を調べるには、芭蕉を身近に眺めていた人の肖像画が見たい。しかし、芭蕉の肖像画を多く描いた芭蕉十哲の杉山杉風、芭蕉を直接眺めた森川許六、小川破笠などの芭蕉像はすべて宗匠帽をかぶっている。芭蕉の記念碑的な石像、銅像も多くあるがすべて宗匠帽をかぶっています。




芭蕉十哲の野坡の宗匠帽無しの芭蕉像が有りました

側頭部に毛髪があります。はっきりしませんが不精髭のような口髭,、顎鬚もあるようです。
作品の詳細は不明ですが「軽み」の俳風では随一といわれた野坡としては、かなりやつれた芭蕉を描いています。




  


芭蕉像(野坡筆)
楠元六男著「芭蕉、その後」 より引用
志太 野坡(しだ やば、寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の1人とされ、「軽み」の俳風では随一ともいわれた。志太野坡 - Wikipedia 

    


芭蕉と交友があった画家の英一蝶が宗匠帽をかぶらない芭蕉を描いています。側頭部に毛髪があります、顎鬚もあるようです。深い想いに浸る達磨さんみたいな芭蕉です。




 
前期企画展 「江東地域の人物と文芸」【芭蕉記念館】 より引用
英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。俳号は「暁雲ぎょううん」「狂雲堂きょううんだう」「夕寥せきりょう」。多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人の宝井其角や松尾芭蕉と交友を持つようになる。英一蝶 - Wikipedia 



冒頭に出した小川破笠の宗匠帽をかぶった芭蕉像でも、よく見ると帽子の下の側頭部から毛髪が少し見えます。





      


小川破笠作 芭蕉像  帽子の下側に毛髪が見える



参考に、芭蕉没後に描かれた作品ではしっかりした文献で描かれた芭蕉像を示します。風貌は全く参考の価値無しとされていますが、側頭部に毛髪があります。






以上の芭蕉の毛に関する検討から、頭頂部には毛髪がないが、側頭部、後頭部には毛髪が有り、不精髭のような口髭と顎鬚が有ったと考えます。

またこのようなちょんまげを切り落としたような髪形は江戸時代には無く、頭頂部から禿げていった結果の髪形と推察します。










       その2



「ふるいけや・・・」には、類似した三種の句があります。






「ふるいけや・・・」には、類似した三種の句があります。昭和7年刊行の岩波文庫の「芭蕉俳句集」に記載されています。


(1)古池や蛙飛こむ水のをと   1686年貞享3年丙寅歳閏三月日 「蛙合」、「春の日」

(2)古池や蛙飛ンだる水の音   1686年貞享3年丙寅のとし三月下旬 「庵櫻」」

(3)山吹や蛙飛込水の音     1700年(元禄13年)の『暁山集』




芭蕉俳句集 :岩波文庫 岩波書店 昭和7年刊行 




「蜆子の画賛」とあるが蜆子和尚(けんすおしょう)の画賛という意味か
その画は不明。蜆子和尚は唐末の禅僧。


芭蕉俳句集 :17/164 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用



1)古池や蛙飛こむ水のおと   1686年貞享3年丙寅歳閏三月日 「蛙合」

「春の日」では「古池や蛙飛こむ水のをと」に変わっています。



(1)古池や蛙飛こむ水のおと   1686年貞享3年丙寅歳閏三月日 「蛙合」




杉風画「松尾芭蕉肖像」と「蛙合」初版の芭蕉の句「古池や」

仙化編【蛙合】(かわずあわせ)、別書名(かわず)1686年(貞享3年) 3/21-国文学研究資料館より引用

仙化 :江戸時代前期の俳人。松尾芭蕉の門人。貞3年(1686)「蛙合(かわずあわせ)」を編む。




(2)古池や蛙飛ンだる水の音   1686年貞享3年「庵櫻」


句中にカタカナが入ります。他の句でも入っているので談林派の表記の特徴でしょうか。


(2)古池や蛙飛ンだる水の音   1686年貞享3年「庵櫻」

     

日本俳書大系. 第7巻(芭蕉以前第2) (談林俳諧集) 183、189、195/344- 国立国会図書館<より引用
談林(派)(だんりん(は))

 俳諧の一派。西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673-1681)に隆盛しました。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としますが、蕉風(しょうふう) の発生とともに衰退しました。談林(派)より引用




(3)山吹や蛙飛込水の音     1700年(元禄13年)の『暁山集』

発行が元禄13年はわかりましたが、「山吹や」の句がどこに記載されているか、古文読解力なしの為わかりませんでした。



(3)山吹や蛙飛込水の音     1700年(元禄13年)の『暁山集』

  

発行が元禄13年はわかりましたが、「山吹や」の句がどこに記載されているか、古文読解力なしの為わかりませんでした。
新日本古典籍総合データベース より引用 





この三種類の「ふるいけや」の句の成立について、次のようなような説明があります。


三種類の「ふるいけや」の句の成立について
初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は貞享3年と見るのが定説である。

なお同年正3月下旬に、井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われる。「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である。

1700年(元禄13年)の『暁山集』(芳山編)のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。芭蕉は和歌的な伝統をもつ「山吹という五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」(9)とした。「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである。

なお、和歌や連歌の歴史においてはそれまで蛙を詠んだものは極めて少なく、詠まれる場合にもその鳴き声に着目するのが常であった。俳諧においては飛ぶことに着目した例はあるが、飛び込んだ蛙、ならびに飛び込む音に着目したのはそれ以前に例のない芭蕉の発明である
古池や蛙飛びこむ水の音 - Wikipediaより引用 



(2)『庵桜』の句が初案とされている。暦でも刊行された貞享3年正三月下旬は、(1)「蛙合」の閏三月より早い。


貞享三年(丙寅) 閏三月


閏月【うるうづき】

太陰太陽暦において,季節と日付を合わせるためつけ加える特別の月。同じ月を2度繰り返し,後者を閏何月と呼ぶ。3年に1回,8年に3回,11年に4回,19年に7回おく方法などがある。旧暦では中気(節気)を含まない月を閏月とする。
閏月とは - コトバンク (kotobank.jp)





※は小の月を示す。
貞享 - Wikipediaより引用 






しかし、志田氏は「ふるいけや」の句が詠まれたのは5,6年前の天和二年、元年と言っています。
そして、その頃は『当初「古池や蛙飛ンだる水の音」の如き談林調の句形』で、その後『純蕉風の「飛こむ」の如く改めた句形』になったと記述しています。





「ふるいけやかわづとびこむみずのおと」の成立

 
志田義秀著芭蕉俳句の解釋と鑑賞 昭和10年刊- Google Books より引用
志田氏は日本で初めて俳文学によって文学博士号を受けた。

 





(3)山吹や蛙飛込水の音  1700年(元禄13年)の『暁山集』については、1692年(元禄5年)に刊行された支考の「葛の松原」に記載されたように、「山吹や」と置いたのは門人の其角であり。芭蕉が「古池や」と定めたとされています。

『暁山集』刊行の8年前に芭蕉は「山吹」ではなく「古池」としたのに、芭蕉の句として「山吹や蛙飛込水の音」を記載したのは何故か。
芭蕉(1644-1694年)は死んでいますが、其角(1661-1707年)はまだ生きています。其角から文句はでなかったのか。
これに関する、はっきりした説明は見かけません。


この「古池や」で「飛びこむ」で従来の貞門派や談林派とは異なる蕉風を確立したとされています。



「ふるいけやかわづとびこむみずのおと」の成立




晋子=其角   「葛の松原」 元禄5年(1692)刊行
俳葛の松原-俳論作法集 337/369- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用 




「古池や」の句の成立、評価に関しては数えきれないほどの、記述があります。3で掲載し次に示した奥田喜八郎著「異文化コミュニケーション」に関する 講義準備ノートの一部」にそれらの説明があります。

そのⅠ− 1 :詩人松尾芭蕉作「古池や蛙飛びこむ水の音」
そのⅠ− 2 :詩人松尾芭蕉作「古池や蛙飛びこむ水の音」


また、正岡子規は「獺祭書屋俳句」で、各人がいろいろ評価しているが「古池や」の句」は、「善悪巧拙を離れたる句」であるといっています。俳句に全く無知の筆者も賛同します。