8 トウガラシの名称 白芥、唐菘、番椒
トウガラシの名称一覧表から、新たに付けられた「トウガラシ」の名称を抜粋し、その名称表記の由来を調べた。ここでは下表の(5)から(9)の検討を記載します。
表 トウガラシの新規名称と、その漢字、振り仮名の変移
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西暦 |
著者史料名 |
出版元 |
漢字 |
振り仮名 |
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1 |
1631年 |
林羅山著「多識編」 |
京都 |
白芥 |
多宇可羅志 |
初版から4版(1612・30・31・70)
『本草綱目』が底本 |
2 |
1645年 |
松江 重頼著「毛吹草」 |
京都 |
唐菘 |
タウカラシ |
諸国名産ノ部 山城 畿内 |
3 |
1666年 |
中村惕斎 編「訓蒙図彙 」 |
京都 |
番椒 |
ばんせう |
俗云 たうがらし |
4 |
1683年 |
新井玄圭著「食物摘要 |
京都 |
番椒 |
タウカラシ |
「番椒」に初めて「タウガラシ」の振り仮名 |
5 |
1686年 |
黒川道祐著「雍州府志」 |
京都 |
唐芥子 |
無し |
城国(現京都府南部)の地誌
唐芥子は、中華にいはゆる番椒これなり |
6 |
1692年 |
井原西鶴著「世間胸算用」 |
江・京 |
唐がらし |
とうがらし |
一般庶民向けの書物では「唐がらし」か |
7 |
1693年 |
酒堂編「俳諧深川集」 芭蕉の俳句 |
京都 |
唐辛子 |
無し |
現在最も多く使われている表記である
「唐辛子」が最初に記載された史料です |
8 |
1783年 |
醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」 |
大阪 |
唐辛 |
たうがらし
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明治-昭和終戦まで各種辞書で採用 |
9 |
1804年 |
曾槃,白尾国柱著「成形図説」 |
薩摩 |
唐芥
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タウカラシ
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本文の正式名称
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(5)1686年の黒川道祐著「雍州府志」で「唐芥子」
山城国(現京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌『雍州府志』の「雑薬ノ部」で「唐芥子 所々に之れ有り 稲荷辺所ろ佳なりとす」と記されている。江戸時代初期には、トウガラシが京都伏見稲荷近郊の特産品であったことがうかがえる。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮となっています。
「唐芥子は、中華にいはゆる番椒これなり」とあるので、「唐芥子」は「トウガラシ」と読み、「番椒」は「トウガラシ」ではなく「ばんしょう」と読むと思います。
「タウガラシ」と呼ばれてから、それに最も適した漢字が、40年後に出てきました。
他の史料には殆ど出てきませんが、1712年刊の 寺島良安編纂『和漢三才図会』」日本の類書(百科事典)に 「番椒(たうがらし、 俗に南蛮胡椴 という。今は唐芥子という。」と有るので、庶民の間では「唐芥子」が通常使われていたようです。1686年以前、以後でも庶民向けの書物で探せば出てきそうです
雍州府志 黒川道祐著(1686年刊) 山城国(現京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌 |
雑薬ノ部 唐芥子

「唐芥子所々有之稲荷渡所種貸唐芥子中華所翻番板是也」
唐芥子所々にこれあり。稲荷辺に種ゆるところ、佳なりとす。唐芥子は、中華にいはゆる番椒これなり
*「唐芥子」に振り仮名がついていません。246/457で「芥子」に「カラシ」の振り仮名があるので「唐芥子」は「トウガラシ」と思います。
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黒川道祐は安芸国出身の医者であるが、京都で儒学者林羅山に学んで歴史家となった。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。山城国を中国の雍州になぞらえ、地理、沿革、風俗行事、神社、寺院、特産物、古蹟、陵墓などの章に分けて、山城国に所在する8郡それぞれを漢文で記述している。
【雍州府志】 (nijl.ac.jp)国文学研究資料館 250/457よりi引用
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唐芥子と唐芥
下に示すように「芥」は「植物名」であり「芥子(カラシノミ又はカラシノコ)」はその実又は種を表していました。
しかし、名称は簡略化に向かう宿命を持っています。
すでに1626年寛永3年梅寿著『諸疾禁好集』と1633年曲直瀬玄朔著諸疾宜禁集」で「芥子」は、「カラシ」の振り仮名が付いています。また両書とも芥(カラシ)の表記もあります。
そのため、本来は「唐芥」の方が正しいと思いますが、『雍州府志』では子(ミ)の方を食べる伏見の特産品として、「唐芥子」にしたと推察します。
しかし、「唐芥子」は香辛料であり菜、薬の名前でもあります。
本来、正しい表記と思われる「唐芥」は後で述べますが、1686年「唐芥子」の100年後に、1804年の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」に出てきます。
(6)1692年の井原西鶴著「世間胸算用」で「唐がらし」
庶民用読み物では漢字はできるだけ使わないようにしたと思います。そのため、唐芥子は唐がらしへ。
料理版は1801年醐山人著「料理早指南」1801年(享和元年)では「とうがらし」
1857年の曲亭 馬琴(著作堂)著 「近世流行商人狂哥絵図」では「七色唐からし売」
井原西鶴「世間胸算用」692年(元禄5年 ) 刊 |
唐(とう)がらし
「唐辛子」の表記は初めてです庶民用に読みやすく使いやすい表記です。
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井原西鶴は、天和2年(1682)に『好色一代男』を刊行してから小説を量産し、町人物の『世間胸算用』、武家物の『武家義理物語』などをはじめ、当代社会の色欲や金銭、武士や庶民の精神を、即物的に話術巧みに描き出しました。
井原西鶴世間胸算用 国文学研究資料館 115/120-ARC古典籍ポータルデータベースより引用
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(7)1693年年の酒堂編「俳諧深川集」 で芭蕉が「唐辛子」
■1693年刊の酒堂編「俳諧深川集」の芭蕉の俳句
「青くても有べきものを唐辛子 芭蕉」
現在最も多く使われている表記である「唐辛子」が最初に記載された史料です。
意外と早い時期に登場しました。1683年「番椒(タウカラシ)」、1686年「唐芥子」とほぼ同じです。
酒堂編「俳諧深川集」の芭蕉の俳句1693年(元禄6年)刊 |
唐辛子
青くても有べきものを唐辛子 芭蕉
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松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) -元禄7年10月12日(1694年11月28日))
江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖[7]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
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濱田 洒堂(はまだ しゃどう、生年不詳)
江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。近江国膳所藩の医師。
1691年11月芭蕉が江戸に下った際は、洒堂も1692年江戸に向かい深川芭蕉庵に出入りし、翌年2月に帰郷した。その間芭蕉・松倉嵐蘭・岱水・杉山杉風・曾良・森川許六の連句・俳句を集めて「深川集」を作った。
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酒堂編「俳諧深川集」は三種の版があり、一つは刊行年の記載がなく、初版がどれかわかりませんでした。
やみくもに検索した1927年刊の日本俳書大系. 篇外 (蕉門俳諧続集)の記述から刊行年の記載がない「俳諧深川集」が、出版元の記載から1693年(元禄6年)刊行の初版であることがわかりました。3種の俳諧深川集の芭蕉の俳句の表記は次の様になります。
①1693年(元禄6年)刊の俳諧深川集。出版:井筒や/庄兵衛〈京〉。
青くても有へきものを唐辛子 芭蕉
②1736年(元文元年)刊の俳諧深川集。東都の西村養魚奥書。
青くても有へきものを唐からし はせを
③1790年(寛政2年)刊の俳諧深川集。書林 塩屋兵衛。
青くても有へきものを唐からし はせを
これより、「唐辛子」の表記があるのは1693年(元禄6年)刊の俳諧深川集であり、刊行が芭蕉の逝去する1694年の一年前であることから、芭蕉が「唐辛子」の表記を確認していたと思います。また、現時点では、「唐辛子」を初めて表記したのは松尾芭蕉と考えます。
また、改定版で「唐辛子」が「唐からし」に変わっています。また、「芭蕉」は「はせを」に変っています。改定版の版元で変えたと思いますが、とても意外でした。
俳句十七音なので、その使用する文字はとても重要で、その俳句の印象を決めるものと思っていました。しかし、改版の時にその意識は全くありません。かえって、改版の時には自分好みの文字を使っていいという約束事があると思ってしまいます。そもそも短歌の始まりである万葉集などの時代においては、短歌(和歌)は文字に書いて見せるものではなく、声に出して詠み、音で相手に伝えていたようです。俳句でも句会で、短歌とおなじく、詠むこと、声を出して相手に伝えることを重視したのかと思います。
三種の「俳諧/深川集」について 日本俳書大系. 篇外 (蕉門俳諧続集)
①1693年(元禄6年)刊の俳諧深川集。出版:井筒や/庄兵衛〈京〉。
②1736年(元文元年)刊の俳諧深川集。東都の西村養魚奥書。
③1790年(寛政2年)刊の俳諧深川集。書林 塩屋兵衛。
「俳諧深川」、三種の俳句の表記検討
「俳諧深川」、三種の俳句の表記検討 |
版の異なる三種の俳句を次の様に表記しました。②と③は同じ表記です。
①の「唐辛子」が、②③では「唐からし」になっています

崩し字でわかりにくいのは中七です。三種とも「有へきものを」であると判断しました。
「ある」

は「有」= か、 = にすると少し不自然になります。
①初版では「芭蕉」 ですが、②1736年版、③1790年版では「はせを」
を使っています。「は」 「せ」 「を」
「芭蕉」の正しい旧仮名は「ばせう」ですが、「はせお」と書いていました。
崩し字
「有」 
「あ」 「る」 「へ」 
「べ」 「き」 「も」 「の」 「を」
「あ」(U+3042) | 日本古典籍くずし字データセット 参照
江戸時代には濁音表記があったが、俳句では濁音表記をしないのが通常か。
「有へき」= 「有べき」
また、筆書きの場合は濁音表記無しが通常か。
❻明治26年では、「あるべき」と濁音表記をしています。
「俳句では、基本的に送りがなを付けないで表記します。名詞には送り仮名を付けず動詞には送り仮名を付けて、両者を見分けています」との記述があります。❼では送り仮名を付けています。
ここでは、上記二点に関わらず、すべて異なる表記として分類します。
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江戸時代の「あおくてもあるへきものをとうがらし」の表記を調べました。
④1795年(寛政7年)俳諧続七部集俳諧深川集 「青くても有へきものを唐辛子」
①初版と同じ表記です。
⑤写本刊行年不明俳諧七部集内俳諧深川集 「青くてもあるへきものをたうからし」
「たうがらし」」になっています。編者の好きな表記を使ってよいようです。
明治から現在までの「あおくてもあるへきものをとうがらし」の表記も調べました。表と文献を示します。
❻1893年(明治26年)正岡子規著獺祭書屋俳話で「青くてもあるべきものを唐辛子」と表記しています。この表記はこれ以前にはないと思います。正岡子規も俳句の表記に関して、初版の表記を使うなどの基準を持っていなかったようです。
❼1897年(明治30年)芭蕉全集「青くても有きものを唐からし」 。ここで芭蕉の句のトウガラシを「唐からし」、「蕃椒」、「唐蕃椒」と表記していますが、その根拠は不明です。「唐蕃椒」は初めて見る表記です。他の書物、ネットでもこの表記「唐蕃椒」は見ていません。
❽1903年(明治36年)大塚甲山編芭蕉俳句全集「青くても有べきものを唐辛」。ここで芭蕉の句のトウガラシを全て「唐辛」にしています。
⓮2021年(令和3年)芭蕉俳句全集「青くてもあるべきものを唐辛子」。ここでは芭蕉の句のトウガラシを全て「唐辛子」にしています。
❾1916年(大正5年)芭蕉翁全集俳諧深川集「青くても有るべきものを唐辛子」
これ以降殆どが「唐辛子」の表記です。
「有」に送り仮名「る」をつけて、「へ」を濁音「べ」にした「有るべきものを」の表記が多くなっています。現代語表記でしょうか。
❿1927年(昭和2年)日本俳書大系「青くても有べきものを唐辛子」
「有」に送り仮名「る」をつけず、「へ」を濁音「べ」にした「有べきものを」の表記も多くなっています。
⓱2021年(令和3年)俳諧深川集』(洒堂編)「青くても有へきものを唐辛子」。大まかな当ネット検索ですが、初版と同じ表記が初めて出てきました。
「あおくてもあるへきものをとうがらし」の表記のまとめ
(1)1693年(元禄6年)の「俳諧深川集」初版は「青くても有へきものを唐辛子]ですが、改訂版などで「唐辛子」はあまり使われず、「唐からし」、「たうからし」「唐辛」等が使われた。
(2)1916年(大正5年)芭蕉翁全集俳諧深川集「青くても有るべきものを唐辛子」以降、殆どが「唐辛子」の表記になってきた。
また「有」に送り仮名「る」をつける表記、「へ」を濁音「べ」にした「有るべきものを」の表記が多くなっています。
(3)現在では次の二つが代表的表記です。
「青くても有るべきものを唐辛子」
「青くても有べきものを唐辛子」
(4)俳句十七音なので、その使用する文字はとても重要で、その俳句の印象を決めるものと思っていました。しかし、改版の時にその意識は全くありません。かえって、改版の時には自分好みの文字を使っていいという約束事があると思ってしまいます。そもそも短歌の始まりである万葉集などの時代においては、短歌(和歌)は文字に書いて見せるものではなく、声に出して詠み、音で相手に伝えていたようです。俳句(俳諧)でも、短歌とおなじく、詠むこと、声を出して相手に伝えることを重視したのかと思います。今回の調査では、「あおくてもあるへきものをとうがらし」は10種類の表記がありました。
No |
西暦(和暦) |
掲載史料・HP |
表記 |
備考 |
① |
1693年(元禄6年) |
俳諧深川集 |
青くても 有へきものを 唐辛子 |
初版 |
② |
1736年(元文元年) |
俳諧深川集 |
青くても 有へきものを 唐からし |
改版1 |
③ |
1790年(寛政2年 |
俳諧深川集 |
青くても 有へきものを 唐からし |
改版12 |
④ |
1795年(寛政7年) |
俳諧続七部集
俳諧深川集 |
青くても 有へきものを 唐辛子 |
①と同 |
⑤ |
写本
刊行年不明 |
俳諧七部集内
俳諧深川集 |
青くても あるへきものを たうからし |
何故か、七部集にある俳諧深川集 |
❻ |
1893年(明治26年)
|
正岡子規著
獺祭書屋俳話 |
青くても あるべきものを 唐辛子 |
子規が創った表記か |
❼ |
1897年(明治30年) |
芭蕉全集 187p- Google Books |
青くても 有へきものを 唐からし |
②と同じ |
❽ |
1903年(明治36年) |
芭蕉俳句全集 |
青くても 有るべきものを 唐辛 |
他の句もすべて「唐辛」 |
❾ |
1916年(大正5年) |
芭蕉翁全集
俳諧深川集 |
青くても 有るべきものを 唐辛子 |
ここから「唐辛子」多
現代語表記の代表 |
❿ |
1927年(昭和2年) |
日本俳書大系 |
青くても 有べきものを 唐辛子 |
「有へき」→「有るべき」 |
⓫ |
1948年(昭和23年) |
芭蕉全集: 上卷 62p |
青くても 有べきものを 唐辛子 |
|
⓬ |
1974年(昭和49年) |
俳句歳時記植物(秋) - 52p
|
青くても 有べきものを 唐辛子 |
|
⓭ |
2016年(平成28年) |
にほんご歳時記 - Google Books |
青くても あるべきものを 唐がらし |
「あるべきものを」も結構あります |
⓮ |
2021年(令和3年)
ネット検索 以下同 |
芭蕉俳句全集 |
青くても あるべきものを 唐辛子 |
|
⓯ |
|
江戸とうがらし文化の歴史(4) |
青くても 有るべきものを 唐辛子 |
|
⓰ |
|
名歌鑑賞・2023
|
青くとも 有るべきものを 唐辛子 |
|
⓱ |
|
俳諧深川集』(洒堂編) |
青くても 有へきものを 唐辛子 |
①と同。④の俳諧続七部集が底本か |
⓲ |
|
「青くても」の巻解説 |
青くても 有べきものを 唐辛子 |
|
⓳ |
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諸注評釈新芭蕉俳句大成/2014.10. |
青くても あるべき物を 唐辛子 |
「あるべき物を」はこれだけ |
⓴ |
|
芭蕉の年譜と句 |
青くても 有べきものを 唐辛子 |
|
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食べ物歳時記 |
青くても 有るべきものを 唐辛子 |
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10種類の表記 |
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⓬1974年(昭和49年)俳句歳時記植物(秋)
「青くても有べきものを唐辛子」 |
⓮2021年(令和3年)ネット検索 芭蕉俳句全集
「青くてもあるべきものを唐辛子」 |

俳句歳時記植物(秋) - 52 ページ
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芭蕉のトウガラシの俳句
すべてが「唐辛子」
青くてもあるべきものを唐辛子 (俳諧深川)
この種と思ひこなさじ唐辛子 (岨の古畑)
唐辛子思ひこなさじ物の種 (真蹟草稿)
隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子 (猫の耳)
貞亨5年秋、『笈の小文』の旅中。 吉田(豊橋)の医師加藤鳥巣<うそう>宅を訪ねて
草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
芭蕉俳句全集(季題別順)-山梨県立大学
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1693年刊の酒堂編「俳諧深川集」の芭蕉の俳句
「青くても有べきものを唐辛子 芭蕉」
この俳句の表記が10種類ありました。
俳句十七音なので、その使用する文字はとても重要で、その俳句の印象を決めるものと思っていました。
しかし、改版の時にその意識は全くありません。
かえって、改版の時には自分好みの文字を使っていいという約束事があると思ってしまいます。
そのため、芭蕉の代表作「ふるきけや かわずとびこむ みずのおと」ではどうなっているかを調べました。
蛙もびっくりする結果が得られました。
芭蕉の「トウガラシ」の俳句の表記を調べる。
芭蕉の「トウガラシ」がある俳句の表記を調べました。上表の❽1903年(明治36年)大塚甲山編芭蕉俳句全集では全て「唐辛」、⓮2021年(令和3年)芭蕉俳句全集-山梨県立大学での俳句が全て「唐辛子」になっていますが、江戸時代とは違っていると思います。
上記芭蕉の「トウガラシ」のある俳句のうち江戸時代の出版物で見ることができるのは下記の二句で、どちらも「唐がらし」の表記です。
「唐辛子」と表示した俳句があるか不明です。
芭蕉は何故1693年の「青くても有るべきものを唐辛子」で「唐辛子」の表記を用いたか。根拠乏しき推察。
江戸時代に「トウガラシ」は、「タウガラシ」と呼ばれ1693年までに「白芥(多宇可羅志)」、「唐菘(タウカラシ)」、「番椒(ばんせい)」、「番椒(タウカラシ)」、「唐芥子」、「唐がらし」と表記されています。
芭蕉はこう思いました。日本古来の文芸である俳諧の発句に、草本学の学名のような白芥、唐菘、番椒は使いたくない。唐芥子は素直な表記でよいが「トウガラシの辛みは「芥」の辛味とは異なるでこの発句には向かない。「唐がらし」は、西鶴の真似をしているようでこれも使いたくない、。
新しい「タウガラシ」の表記を作ろう、それで洒堂主催の俳諧の席を盛り立てよう。
1623年「倭名類聚鈔」の薑蒜類に「芥(加良之)」があり、園菜類に「辛菜(賀良之)」がある。「辛」は「辛し」のように使うものと思っていたが、菜の名前に使われている。「辛菜(賀良之)」の子(ミ)を香辛料として用いるときは「芥(加良之)」と書かれている。そのため「俗用芥子」と書いてあるのか。漢文が読めないため、この二つの「からし」の関係がよくわからない。
しかし、「芥」の他「辛菜」も「からし」と読むことはわかった。「辛菜(賀良之)」は中国の『崔禹錫食経』に載っているとあるが、現代に伝わることなく失われてしまった書物です。『崔禹錫食経』は寛平年間(875-91) までには 日本に伝来していたようです。
この「倭名類聚鈔」のおかげで1678年「本草薬名備考」、1680年「合類節用集 」、1684年 「庖厨備用倭名本草」で「芥」とともに「辛菜がともに
{カラシ}として使われている。
他の書物では、「からし」は「芥」、「芥子」、「辣芥子」と表記されている。また、「芥茎葉(カラシナ)」、「芥 子(ミ)」、「芥菜子」の表記もある。
庖廚備用倭名本草に「芥辣(カラシ)」があり、その説明文に「辛菜(カラシ)」があった。
芭蕉はこれらの書を検討し、「青くても有るべきものをトウガラシ」に「辛菜」を使おうと思いました。この句の場合トウガラシの実の色を詠んでいる句なので、「辛菜」ではなく「辛子」にしました。
「青くても有るべきものを唐辛子」が登場しました。
芭蕉の後でも「からし」には違った表記が出てきます。1712年寺島良安編纂「和漢三才図会」では「芥菜(からし)」とありまます。「からし=辛菜=芥菜」となり、{辛=芥}、「唐辛子=唐芥子}」と現在まで定着しています。
1712年「和漢三才図会」に載るということはその前から「芥菜(からし)」が世の中で使われており、芭蕉がそれを見て「からし=辛菜=芥菜」と連想し、「唐辛子」と表記したかもしれません。
1693年(元禄6年)刊 酒堂編「俳諧深川集」 青くても有るべきものを唐辛子 芭蕉 |
以上、誰が、どうして「唐辛子」と書いたかを検討しました。ここでは、以下のように推察しました。
1963年に芭蕉が「「青くても有るべきものを唐辛子」と、初めて「唐辛子」と書いた。1623年刊「倭名類聚鈔」の中にある中国の『崔禹錫食経』に載っている「辛菜(賀良之)」から「辛子」を連想し「唐辛子」と表記した。
この検討は、下記サイトで、このようなことに情熱をもって挑む人がいることに共鳴したためです。
しかし、本推察は根拠乏しき推察ですので、専門の真柳研究室の本格的な検討を期待します。
芥子(カラシ)が辛子になった訳:私考 : 雑草をめぐる物語
「とうがらし」を「唐辛子」と書いたのは誰だ?/その1/日本編 : 雑草をめぐる物語
芭蕉の後の「唐辛子]を文芸作品を主として追跡。
「唐辛子」表記のまとめ」
松尾芭蕉が「青くてもあるべきものを唐辛子」の後、100年ほど唐辛子は出てきませんが、1800年に狂歌狂文集の畑 道雲著「燭夜文庫」で「唐辛子」が出てきます。俳句と狂歌の関連から再登場したかもしれませんが、詳細は不明です。
1804年には本草書の曾槃,白尾国柱著「成形図説」に「唐辛子」が出ましたが、本草書では殆どが「番椒」で、「唐辛子」はそれ以前、以後でも出てこないようです。
明治になると1879年(明治12年)の雑誌「歌舞伎新報」、1882年(明治15年)の 岡本経朝編「面白奇聞話のたね」の一般雑誌にも「唐辛子」は登場し、その後も多くの書物で「唐辛子が使われています。
「唐辛子」が一般的に使われる要因としては、文芸作品に多く使われたことが大きいと推察します。1889年(明治22年)の幸田露伴著「風流仏」からはじまり、正岡子規の俳句、夏目漱石「三四郎」などの小説に使われ、中里介山著「大菩薩峠 」、島崎藤村著「夜明け前」、斎藤茂吉著「妻」、吉川英治、宮本武蔵のベストセラーにも使われました。これにより、「唐辛子」が、現在最も多く使われる「トウガラシ」の表記になったと思います。
この後、曾槃,白尾国柱著「成形図説」と、明治の大文豪幸田露伴-正岡子規-夏目漱石に関して記述します。
西暦 |
和暦 |
著者史料名 |
唐辛子
の振り仮名 |
|
1693年 |
元禄6年 |
酒堂編「俳諧深川集
松尾芭蕉が「青くてもあるべきものを唐辛子」 |
無し |
当調査で「唐辛子」が最初に記載された史料 |
1800年 |
寛政12年 |
畑 道雲著「燭夜文庫」 |
無し |
狂歌狂文集 |
1804年 |
文化元年 |
曾槃,白尾国柱著「成形図説」 |
タウカラシ |
「トウガラシ」をいろいろな表記で記述。 |
1879年 |
明治12年 |
雑誌「歌舞伎新報」 |
とうがらし |
|
1882年 |
明治15年 |
岡本経朝編「面白奇聞話のたね: 11至15號」
|
とうがらし |
|
1889年 |
明治22年 |
幸田露伴著「風流仏」 |
とうがらし |
『芭蕉七部集評釈』を出すほど芭蕉の俳句に精通 |
1892年 |
明治25年 |
正岡子規の俳句
「頓入や納屋をあくれば唐辛子」 |
無し |
自筆俳句集「寒山落木」で唐辛子の句を24句。芭蕉を称賛。幸田露伴著「風流仏」に感動。 |
1900年 |
明治33年 |
婦人衞生雑誌 - 第 131~140 号 |
無し |
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1908年 |
明治41年 |
夏目漱石「三四郎」 |
とうがらし |
1909年「満韓ところどころ」、1912年「彼岸過迄」1815年「道草」で唐辛子(とうがらし) |
~
1945年 |
明治から
昭和戦前 |
中里介山著「大菩薩峠 」、島崎藤村著「夜明け前」、斎藤茂吉著「妻」、吉川英治、宮本武蔵など |
とうがらし |
純文学、ベストセラ-と多彩な作品 |
~
1945年 |
明治から
昭和戦前 |
泉鏡花著「木菟俗見」、野村胡堂著「銭形平次捕物控」、太宰治著 「お伽草紙」 、 北原白秋著「桐の花」
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たうがらし |
純文学、ベストセラ-と多彩な作品 |
~
1945年 |
明治から
昭和戦前 |
多くの雑誌、書物で「唐辛子」が使われています |
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唐辛子・書物・1867-1945 - Google 検索 |
1983年 |
昭和58年 |
三省堂編集所編「広辞林」(第6版)
「とうがらし」の項に「唐辛子」戦前は「唐辛」 |
とうがらし
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自分所有の辞書で年号記述
もっと早く「唐辛子」になったと思います
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2021年 |
令和3年 |
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「唐辛子」が現在最も使われている表記と推察
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■1804年の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」で「唐辛子」と「唐芥」
ここでは「トウガラシ」のいろいろな表記が出てきます。その中で次の四点が重要です。
①1693年芭蕉の俳句「青くてもあるべきものを唐辛子」以来100年後に本草書に「唐辛子」が出てくる。世間では使われていたか。
②「唐芥」が初めて登場。芥の子(ミ)ではなく、植物名として表記したか。
③タウガラシの表記が4種出てくるが、その使い分けが不明
④図の番椒のみが「タウガラシ」、他は「タウカラシ」その意味が不明。
曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」 薩摩府学出版1804年(文化元年) |
「唐芥(トウカラシ) 即番椒也、芥菜に依て命ぜし名なり、里言にマズモノコナシなども呼べり、南蛮胡椒(ナンバンコセウ)・或説に原(モト)その種を蕃国より漢國に傳ける故にかくいえり、我東北圀にてはただ南蕃とのみいひ、九州にて胡椒とのみいふ、胡椒は即蕃地よりいづる蔓艸の実して味辛し、故に此者の辛よりその名を借用るなり、高麗胡椒(コウライコセウ)・或日豊太閤朝鮮を征れし時に、此種を携しより、この名ありといえり」
甘唐辛子(アマタウカラシ) 黄唐辛子(キタウカラシ) 金柑唐辛子(タウカラシ) タウカラシ
図には番椒(タウガラシ)、外国名称は「蕃名 ブラジリーン ペープル又レスシース」
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薩摩藩主島津重豪(しげひで)(1745―1833)が数多くの書物編纂事業の一環としてつくらせたもの
成形図説巻之二十五-早稲田大学 20、24、25/29 唐芥(トウカラシ) よりi引用
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文芸関係の「唐辛子」
■1889年(明治22年)の幸田露伴著「風流仏」で「唐辛子」
明治の文学作品に「唐辛子」が初めて登場したのが、幸田露伴著「風流仏」です。693年芭蕉の「青くてもあるべきものを唐辛子」からほぼ200年ぶりに唐辛子が出てきました。
後年『芭蕉七部集評釈』を出すほど芭蕉の俳句に精通しており、「蝸牛庵聯話」1943年で「深川夜遊、唐辛子の巻ニノ表第四句」についての随筆を書いていますから、芭蕉の「青くても有へきものを唐辛子」から、「風流仏」で「唐辛子」と表記したと推察します。
蝸牛庵聯話 - 国立国会図書館デジタルコレクション
幸田露伴著「風流仏」1889年(明治22年) |
足袋二枚はきて藁沓の爪先に唐辛子(とうがらし)三四本足を焼ぬ為押し入れ、毛皮の手甲して若もの時の助けに足橇まで脊中に用意、充分してさえ此大吹雪、容易の事にあらず、吼立る天津風
*明治の文学作品で「唐辛子」が初めて登場
幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年(慶応3年) - 1947年(昭和22年)。『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。旧来「露伴、漱石、鷗外」と並び称され、日本の近代文学を代表する作家の一人である。
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唐辛子
とうがらし
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唐辛子(とうがらし)”の例文|ふりがな文庫より引用 |
■1891-1902年(明治24-35年)正岡子規の俳句で「唐辛子」
「寒山落木 」で、「唐辛子」がある俳句24句作成。
<
正岡子規の俳句1891-11902年(明治24-35年)
寒山落木 1-5. 正岡子規 著 出版者[正岡子規自筆] 出版年月日1885-1896年 |
1891年-1902年の俳句で使われた「トウガラシ」の表記
唐辛子 :24
蕃椒 :18
唐からし: 2
自筆の画像で確認。
正岡 子規(正岡 常規)(まさおか しき(まさおか つねのり)、1867年〈慶応3年〉 - 1902年〈明治35年は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。
やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。
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・明治24年 何の思ひ内にあればや蕃椒
・明治25年 頓入や納屋をあくれば唐辛子
頓入 原文ママ→衝突入(つといり)
・明治25年 あき家に一畝赤し唐からし

明治25年 全てトウガラシの頁

正岡子規のとうがらしの俳句 唐辛子 :24 蕃椒 :18 唐からし: 2
西暦 |
明治 |
蕃椒 |
唐辛子 |
唐からし |
合計 |
1891年 |
明治24年 |
1 |
|
|
1 |
1892年 |
明治25年 |
11 |
13 |
2 |
26 |
1893年 |
明治26年 |
|
2 |
|
2 |
1894年 |
明治27年 |
|
|
|
0 |
1895年 |
明治28年 |
3 |
2 |
|
5 |
1896年 |
明治29年 |
1 |
1 |
|
2 |
1897年 |
明治30年 |
|
2 |
|
2 |
1898年 |
明治31年 |
|
2 |
|
2 |
1899年 |
明治32年 |
1 |
|
|
1 |
1900年 |
明治33年 |
|
|
|
0 |
1901年 |
明治34年 |
|
1 |
|
1 |
1902年 |
明治35年 |
1 |
1 |
|
2 |
1891-1902年 |
18 |
24 |
2 |
44 |
正岡子規のとうがらしの俳句 Webm旅 2009年11月号 正岡子規 俳句季語 季題 検索 唐辛 とうがらしより |
寒山落木 1-5. [1] - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
bunko14_b0005.pdf 中村不折画(waseda.ac.jp)より引用
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正岡子規は松尾芭蕉を批判したと言われていますが、批判するだけではなく、「芭蕉の文学は古を模倣せしにあらずして自ら発明せしなり」と書き、芭風確立後、十年の短い間に200首の好句を作ったことを称賛しています。
「発句作法指南」の中で「青くてもあるべきものを唐辛子」を評しています。当然、「俳諧深川集」初版も見て、そこに使われている。「唐辛子」の表記を自分の作品に用いたと思います。
また、子規は幸田露伴著「風流仏」に感動して露伴宅を訪ねたということで、そこで使われた「唐辛子」の表記の影響を大いに受けたと思います。
獺祭書屋俳話・芭蕉雑談 明治26年11月 |
「芭蕉の造った俳句1000首のうち800首は悪句、駄句である」とその当時俳句の始祖として崇められていた芭蕉を論じます。
しかしその後「芭蕉の文学は古を模倣せしにあらずして自ら発明せしなり」と書き、芭風確立後、十年の短い間に200首の好句を作ったことを称賛しています。
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獺祭書屋俳話・芭蕉雑談 明治26年11月 48/233- 国立国会図書館デジタルコレクション
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獺祭書屋俳話・発句作法指南の評
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明治26年頃の俳句の権威である其角堂機一の「発句作法指南」を論じます。上記と同じく、権威への挑戦の書です。
その中で「青くてもあるべきものを唐辛子」を評しています。
其角堂機一と全く反対の評をしています。
なお「青くてもあるべきものを唐辛子」に関連する子規の句があります。
唐辛子一ツ二ツは青くあれ 子規
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獺祭書屋俳話・発句作法指南の評 明治26年11月 41/233- 国立国会図書館デジタルコレクション
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「青くてもあるべきものを唐辛子」の句の解釈についてネット上で検索。
◆草庵の庭に、秋のこの時期ともなると青かった南蛮が赤く色づいて生えている。その実は、青いままでもよいようなものだが、秋になれば自然と赤くなるのである。
青くてもあるべきものを唐辛子 (yamanashi-ken.ac.jp)
◆「秋になってきたこの時期、草庵の庭には、青かった唐辛子が赤く色づいて生えている。唐辛子は青いままでも良いものだし、自然と赤くなっていくものなのだ」(校註:今栄蔵
芭蕉句集 株式会社 新潮社)。酒堂の若さ故の青さを、赤くなる唐辛子に例え、酒堂の焦りを巧みに諭した一句である。何事にも探究心 と好奇心の旺盛であった芭蕉は、赤唐辛子とは趣きを異にする、青唐辛子の辛さと風味を十分に認識しており、この発想が生まれたという逸話を耳にすると、妙に納得してしまうのである。
「青くても 有るべきものを 唐辛子」。芭蕉の俳句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(4) - 〓〓〓 内藤トウガラ史 〓〓〓 (goo.ne.jp)
◆名歌鑑賞・2023
2012/11/15 00:11
青くとも 有るべきものを 唐辛子 発句・芭蕉
提げておもたき 秋の新ら鍬 脇 ・洒堂
(あおくとも あるべきものを とうがらし
さげておもたき あきのあらくわ)
意味・・発句。
唐辛子は辛ければ青いままでよいものを、時が来ればやはり真っ赤に色づかないでおれないらしい。
(唐辛子は青くても辛いがまだ未完成品、赤くなってこそ完成品である)
脇。
秋に新調したばかりの鍬は、手にさげて持てば重たく感じられる。
(心機一転で鍬を新調しました、この鍬が重たいように、これからたどる道も責任重たく受け止めています)
深川の芭蕉庵に洒堂が訪れ滞在した時に歌仙を開いた時の、発句と脇の句です。
芭蕉の発句は、徘諧師として世に立つ決意を持って訪れた洒堂を励ました句となっています。
洒堂の脇の句は、新しい仕事への決意を言い込めて、芭蕉への挨拶となっています。
注・・新ら鍬(あらくわ)=新調の鍬。 *長連歌の最初の句を発句(ほっく)、その次の句を脇句(わきく)、
名歌鑑賞・2023 - 名歌鑑賞 (fc2.com)
◆唐辛子一ツ二ツは青くあれ 子規
青くてもあるべきものを唐がらし 芭蕉
子規の句からすぐに思い浮かべられる。
「青くてもそれはそれでよいものであるが、唐辛子は時が来れば赤く色づいてしまうのだなあ」
と、芭蕉はいう。
「秋になっても、全部が全部赤くなることはない、一つ二つでいいから青いままでいてくれよ」
と子規は云う。
唐辛子一ツ二ツは青くあれ 子規 : 蛙声雑記 ・一句一楽の巻 (exblog.jp)
◆「青くてもあるべきものを唐がらし」青い未熟なままでも十分に見ごたえがある唐辛子なのに、どうしてより美しく赤くなろうとするのか、という意味である。
にほんご歳時記 - Google Books
◆そして芭蕉の「青くても有るべきものを唐辛子」(元禄五年)において、唐辛子は文学的な地位を確立する。芭蕉晩年の「かるみ」の作風をよく表すものとして知られてこの句文は後に『本朝文選』に「番椒序」の題で収められている。(*芭蕉の句は載っていない)
國文學 - Google Books
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小説携え、露伴宅へ 正岡子規(9) 抜粋 2009年3月19日 |
俳句に本腰を入れたのと同じころ、小説にも着手している。明治二十五年二月、子規が根岸に引っ越したばかりのころだが、幸田露伴の『風流仏』に感動した子規は、その趣向を取り入れた自作小説「月の都」を携え、天王寺畔の露伴宅を訪ねた。河東碧悟桐(へきごとう)への手紙で、次のような内容を述べている。
露伴の批評を請うために訪ねたものの来客があり詳しく話す時間がなかった。そうしたところ簡単な手紙を添え「月の都」が返却されてきたので、三月一日に再度訪問。露伴に小説の話を聞いて感極まった。露伴は日本第一等の小説家だ、といった内容。
この時の訪問について、のちの碧悟桐と露伴との会見録(昭和九年十一月六日)によると、子規は発表の紹介を願ったという。春陽堂へ紹介したものの上手く運ばす、露伴は弱ったと述べている。
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小説携え、露伴宅へ 正岡子規(9) | 千葉日報オンラインより引用
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■1908年(明治41年)刊の夏目漱石著「三四郎」で「唐辛子」
夏目漱石(1867~ 1916)は、「三四郎」の他1909年「満韓ところどころ」、1912年「彼岸過迄」1815年「道草」で唐辛子(とうがらし)を使っています。他の表記は使っていません。
唐辛子(とうがらし)は昭和の戦前までに27作品に使われています。唐辛子(たうがらし)は10作品です。
大菩薩峠:鈴慕の巻/ 中里介山、夜明け前・第二部下/ 島崎藤村、妻/ 斎藤茂吉、宮本武蔵:水の巻/ 吉川英治等ベストセラーに使われたので、現在の一般で最も使われる表記になったと推察します。
夏目漱石著「三四郎」1908年(明治41年) |
向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子(とうがらし)を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。
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唐辛子
とうがらし
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“唐辛子(とうがらし)”の例文|ふりがな文庫より引用
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夏目漱石(1867~ 1916)は、1909年「満韓ところどころ」、1912年「彼岸過迄」1815年「道草」で唐辛子(とうがらし)を使っています。他の表記を使っていません。
その他、27作品が唐辛子(とうがらし)と表記しています。
大菩薩峠:鈴慕の巻/ 中里介山、夜明け前・第二部下/ 島崎藤村、妻/ 斎藤茂吉、宮本武蔵:水の巻/ 吉川英治、物売りの声/ 寺田寅彦、合町山川記
/ 林芙美子、年中行事覚書 / 柳田国男、塩昆布の茶漬け/ 北大路魯山人など
“
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夏目漱石が「唐辛子」の表記を用いたのは友人正岡子規の影響と考えます。
夏目漱石は東大予備門で正岡子規と同窓です。(他に・南方熊楠・山田美妙も同窓。)
子規は日清戦争への記者としての従軍し、1895年(明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養したあと松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた夏目漱石の下宿で静養しました。
夏目漱石著「正岡子規」抜粋 初出:「ホトトギス」 1908(明治41)年9月1日号 |
正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣やって来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処ここに居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極きめて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻しきりに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣やる門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎角自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子は当地に於いて正に遣果し候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。
・・・・・・
それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。
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夏目漱石 正岡子規・青空文庫より引用
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「漱石」の号は子規のペンネームから譲り受けた。
子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。(夏目漱石 - Wikipedia)
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は漱石の句が関連
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(かきくえばかねがなるなりほうりゅうじ)は、正岡子規の俳句。生涯に20万を超える句を詠んだ子規の作品のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並んで俳句の代名詞として知られている。初出は『海南新聞』1895年11月8日号。
また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という、形のよく似た句が掲載されていた。坪内稔典は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している。(柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 - Wikipedia)
漱石の処女作「吾輩は猫である」も子規が関係している。俳句雑誌「ホトトギス」に掲載。
幸田露伴、正岡子規-夏目漱石の三人の生まれた年は同じで1867年(慶応3年) 。
幸田露伴と夏目漱石は同じ東京府第一中学校に入っています。これに森鴎外を入れて明治の3文豪と呼ばれています。しかし、幸田露伴と夏目漱石との付合いに関しては知りません。
夏目漱石著「処女作追懐談」抜粋 初出:「文章世界」 1908(明治41)年9月15日
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私の処女作――と言えば先ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。
・・・・・・・
さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可せんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎角尤もだと思って書き直した。
今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了った。
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夏目漱石 処女作追懐談・青空文庫より引用 |
(8)1783年刊の醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」で「唐辛」、明治-昭和終戦では辞書で採用。
1693年に松尾芭蕉が「唐辛子」と書いてから、「唐辛子と書いた史料は現れず、1783年に「唐辛(タウガラシ)」と書いた史料が初めて出てきました。豆腐料理の本ですが作者は文人とのことですので、松尾芭蕉の「唐辛子」から「唐辛」と書いたと思います。 上掲した1696年「日用食性指南」48/173で示したように「芥子」は「カラシのミ」と振り仮名が付いており、「芥」は「カラシ」です。同じように「辛子」はは「カラシのミ」で「辛」は「カラシ」となり、「唐辛」は「タウカラシ」となります。菜の名前としては「唐辛子」より「唐辛」が妥当と思います。
そのため、1852年刊の 「黙斎先生道學標的講義(外題) 」等にも使われて、1889年(明治22年)には、日本初の近代的国語辞典である大槻文彦
編「言海 」に「たうがらし-唐辛」で採用されました。
1907年明治40年の金沢庄三郎 著「辞林」三省堂出版でも、「たうがらし-唐辛」、1940年(昭和15年)刊の新村出 編『辞苑』では「とうがらし-唐辛・蕃椒」と辞書類では昭和の終戦まで「唐辛」です。
■1783年刊の醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」
醒狂道人何必醇 輯「豆腐百珍、続編」1783年(天明3)年 |
「唐辛(タウカラシ)」
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豆腐百珍』(とうふひゃくちん)は、天明2年(1782年)5月に出版された料理本。100種の豆腐料理の調理方法を解説している。
この本が好評を博したため、翌年には『豆腐百珍続篇』、明治に入って『豆腐百珍餘録』などの続編が出版された[1]。またこの本がきっかけとなって江戸や大坂では大根・鯛・甘藷・卵など「百珍物」と呼ばれる追随書が次々と出版され流行を巻き起こした。
醒狂道人何必醇(せいきょうどうじん かひつじゅん)の号で著されているが、料理人の著作ではなく文人が趣味で記したものとされている。その正体は大坂で活躍した篆刻家の曽谷学川だと考える説もある。版元は大坂の春星堂藤原善七郎。豆腐百珍 - Wikipedia

豆腐百珍. 続編 64/67- 国立国会図書館デジタルコレクションより引用
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■1889-1891年(明治22-24年)刊の大槻文彦 編「言海 」: 日本初の近代的国語辞典
(8)1804年の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」で「唐芥」
■1804年の曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」で「唐芥」
ここでは「トウガラシ」のいろいろな表記が出てきます。その中で初めて出てくる「唐芥」が筆頭にきます。
芥(カラシ)の子(ミ)ではなく、植物名として表記したか。
曾槃,白尾国柱著「成形図説巻之二十五」 薩摩府学出版1804年(文化元年) |
「唐芥(トウカラシ)」 即番椒也、芥菜(カラシ)に依て命ぜし名なり。
里言にマズモノコナシなども呼べり、南蛮胡椒(ナンバンコセウ)・或説に原(モト)その種を蕃国より漢國に傳ける故にかくいえり、我東北圀にてはただ南蕃とのみいひ、九州にて胡椒とのみいふ、胡椒は即蕃地よりいづる蔓艸の実して味辛し、故に此者の辛よりその名を借用るなり、高麗胡椒(コウライコセウ)・或日豊太閤朝鮮を征れし時に、此種を携しより、この名ありといえり」
甘唐辛子(アマタウカラシ) 黄唐辛子(キタウカラシ) 金柑唐辛子(タウカラシ) タウカラシ
図には番椒(タウガラシ)、外国名称は「蕃名 ブラジリーン ペープル又レスシース」
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薩摩藩主島津重豪(しげひで)(1745―1833)が数多くの書物編纂事業の一環としてつくらせたもの
成形図説巻之二十五-早稲田大学 20、24、25/29 唐芥(トウカラシ) よりi引用 |
「唐芥子」、「唐芥」とも明治から現在までの使用率は低いです。
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